自由に動くこと

2016.03.02 Wednesday


(64式武当太極拳)

以前、太極拳の套路(型)について、書いたことがあります。
型があるものは何でも、はじめたばかりの人にはわからない先人の智慧が詰まっていて、
型を尊重して繰り返し練習することで、最初はわからない智慧や技を習得していくことができる、
と思っています。

未経験だから何だかわからないけれど、何か惹かれるものを感じる、というのが
太極拳のように長く伝えられてきた”型”にはあると思います。

先日のお稽古中、生徒さんが「套路が難しすぎて覚えられる気がしない」とおっしゃるのですが、
最後には、「不思議なのは、こんなにできないのに、楽しいと思うこと」と、おっしゃっていました。
先輩の生徒さんが「それが太極拳の楽しいところなの。」

わたしもそうだったな、と思います。

それとは逆に、世の中には”型のない自由な動き”もあります。
太極拳をはじめとするカンフー(中国武術)には、わたしが知る限り、套路(型)があるため、
自由な動きを練習することは、わたしの専門外です。
それでも、自分のお稽古には取り入れることも多いので、
その意味について感じることを書きたいと思います。

ひとことでいうと、型があってもなくても、目指すところは同じだと思うのです。
入口とたどる道が違うだけです。

型がない自由な動きの場合、わたしは自分の体に意識を向けて、動きが出てくるまで待ちます。
腕や脚、体が動きたい方向に動くのに任せます。

わたしのように型を練習している人の場合、慣れた動きが出やすくなりますが、
知っている動きをすることは、極力避けます。そうすると、自分がヘンな動きをしていたり、
「こんな動きもありなんだ」という新鮮な驚きに出会ったりします。

自由に動くメリットは、いくつかあると思っています。
ひとつは、体のバランスを取ってくれることです。
型は、本来はバランスをとってくれるものなのですが、新しい型を覚えるときなどは特に
体が緊張して、バランスが崩れたりします。
すごく練習しているのに、体のバランスが崩れてくることがあるのは、このためでもあります。
それでも体は本来、バランスが取れた方向に向かうと思っているので、動きたい方向い任せるだけで、
崩れたバランスが整ってくることもあります。

無意識に持っている「制限」を外してくれることもあります。
「この動きは負担がかかる」とか、「やりすぎ」とか、知らない間に動きに制限をかけていることは、
よくあるのです。知らないで制限しているので、外すことも困難です。
でも、自由に動く練習をすることで、ウェストがびっくりするくらいひねられていたり、
足がヘンは方向を向いていたり、それでも全身がちゃんとつながってエネルギーが通って動いている
のを感じることで、「体はもっと、ここまで動きたい」と感じることができます。
これはその後、型の練習にも反映できます。感覚は、すごく変わります。

逆に言えば、気づかずに制限の中だけで動いてしまうこともありますが、
それはそれで、良しだと思います。毎回、大きな発見を目指すのではなく、どうなのかな、
と探求していくことの方が大事だと思います。

型はあっても、動きにとらわれずに自由なエネルギーを感じて動くことは、
最初に型が出きたときの成りたちに近いような気がします。

型の練習をするときは、真剣に、型を尊重してその通りに動きます。
ただし、何をやっているのかと、呼吸と、イメージを持って、
動きだけを追わないように気をつけます。

自由に動くときは、知っている動きから離れて、真剣にゆだねてみます。

どちらも真剣。両方真剣にできれば、うまく合わせていくこともできるような気がします。

そして太極拳には型があることで、自分の感覚の違いを感じやすいような気がします。
同じ動きでも、全然違ってきます。
型にとらわれず、でも型を大事に、これからもやっていきたいと思っています。


(中国、武当山の朝)

才能:人は、自分ができることしかやりたいと思わない

2016.02.26 Friday



「人は、自分ができることしかやりたいと思わない」と聞いたことがあります。

良い言葉ですね。つまり、やりたいと願ったことは、必ずかなう、ということです。
夢は必ずかなう、とも言えます。

ただし、ここにはちょっと落とし穴があります。
「やりたい」ことが、純粋に自分の本能からやりたいことなのか、
それとも人との競争や見栄、「ねばならない」という強迫観念からきているのか、
それは大きな違いになります。

自分ができることしかやりたいと思わない、という場合の、「やりたい」ことは、
純粋な本能からの渇望だと思います。
何に対してそう思うかは、人それぞれ違います。
それが個性であり、才能とも呼ぶ、と思っています。

人がそれぞれ違うとあらためて思うと、すごくいいな、と思うのです。
同じだったら、競争して優劣で違いを出すしかないかもしれないところを、
得意なことが違っていれば、競争する必要はないからです。

太極拳の教室には、いろんな生徒さんがいらっしゃいます。
「何かを始めたいと思いました」という方、
「運動したいと思った」という方、
太極拳を習っていて、ちょっぴり行き詰っているか、新しいことを習いたい方、など。

頻度もそれぞれです。
ほぼ毎週の方、月1回くらいの方、数か月に1回くらいの方。

それぞれ、自分のペースを大切にしてほしいと思っています。

太極拳は、習得していく技であり、磨いていく匠のような業でもあります。
そのため、優劣があります。それは、体や心の成熟度、そしてやり方も
関わってくるため、必ずしも練習時間に比例して上達するものとは言えないと思っていますが、
それでも、時間をかけずに上達することはありません。
つまりざっくり言えば、お稽古時間が長い人は、うまくなります。

それでも、技や業の優劣は、人の優劣とは全く関係ないのです。
お稽古にかける時間や情熱が大きくても小さくても、それが自分の本能に沿ったものであれば、
それで十分だと思うのです。
誰にとっても太極拳が人生のすべてであることはないから、当たり前です。

ここで、情熱が小さいのに、大きい人と比較してしまうと、
大変なことになりかねません。

そこを間違わなければ、必ず自分がやりたいと思ったことはできる、と思っています。

本能でやりたいと思っているのか、そうでないのかを判別するのは、簡単ではないかもしれません。
わたしの経験でいうと、それは「理屈ではなく、やりたい」と思うことが、本能のような気がします。

やりたいときは、理由を考える間もなくやっていたりします。
逆に、やりたいくないときには、たくさん理由を並べたりします。

あとは、楽しいかどうか、です。
大変だったり、つらいと思うことがあったとしても、楽しいと思えるかどうか、です。

太極拳をはじめたとき、わたしには大きな目標も目的もなく、
「これは合っているような気がする」というカンがあるだけでした。
その頃は、今よりも競争の中に身を置く割合も大きく、自分の平和度も今よりも低く、
いわゆる「流れに乗って生きる」という観点から見れば、遠い人生だったような気がしますが、
それでも直感は働くのだと思います。

自覚があったわけではなく、潜在意識で「これがもっと楽で幸せな道につながっていく」と
察知したのだろうと思っています。

そこには、太極拳の套路(型)の果たす役割が、すごく大きいように思います。
套路は、長く引き継がれてきており、先人の智慧が詰まっています。
それをひたすらそのまま練習することで、自分が行きたいところ、本来行くべきところに
到達できるということを、最初からずっと信じていたと思います。(無自覚なうちから、です)。
そして、わたしより先にそれを信じて続けてきた方々の在り方にも、
”これ(何がこれかは、わかっていないとしても)”を見てきたと思いますし、
背景にある哲学など(わたしの場合は、老子の教えや道教のものの考え方)などにも、
”これ”を見ていたと思います。

わたしにとっては、太極拳が人生のすべてです。
そんな人もいて、違う人もいて、
みんな、自分の”これ”を、育てていけたらよいですよね。


(中国、武当山。三つ子のような、三つの峰)
 

【講座のお知らせ】3−4月のみんみんの青空太極拳教室

2016.02.23 Tuesday



代々木公園にも梅が咲き、桜が待ちどおしい頃となりました。
若々しい緑あふれる代々木公園で、青空太極拳教室を開催します。

青空の下、足で大地を踏みしめて、風を感じながらの太極拳は、また格別です。
はじめての方も、経験者の方も、どちらも大歓迎です。

☆日時: (注:雨天の場合、お天気に準じて静かにお休みです)
3月5日(土)10時〜12時
3月6日(日)10時〜12時
3月12日(土)10時〜12時
3月20日(日)10時〜12時
4月17日(日)10時〜12時
※4月下旬〜5月下旬まで、お稽古のため中国、武当山に行くため、
青空太極拳教室はお休みになります。5月下旬から再開します。

☆場所:
代々木公園 
※待ち合わせ場所は、南門です。
代々木公園駅(地下鉄千代田線)、代々木八幡駅(小田急線)よりですが、
原宿(JR)からいらっしゃる場合は、バラ園を通り過ぎて噴水を右手に見て進むと、
南門に着きます。

☆参加費:2500円(1回)

☆内容:
基本功、気功、呼吸、武当太極拳(はじめての武当太極拳)など
(「はじめての武当太極拳」画像はこちらからhttp://youtu.be/DLACoQ-bLHs 

☆服装:
動きやすい服(ストレッチのきいたトレーニングパンツなど。寒い場合のために上着もお持ちください。)
靴(上履きのような、底の浅い靴がおすすめです)
※お着替えは、トイレなどで各自お願いします。

☆持ち物:
タオル、飲み物

☆お申し込み方法
メールでご連絡(minminkungfu☆gmail.com (☆を@に変えてください))いただくか、
facebookのイベントページで参加ボタンを押してください。
※お申込みいただいた方には、緊急連絡先をお知らせします。

みなさまのお越しをお待ちしています。

☆☆☆自由が丘の民家で開催している「はじめての武当太極拳」のご案内はこちらから☆☆☆


 

歯をくいしばって生きなくても、よい

2016.02.13 Saturday



最近、歯医者さんの治療に通っていました。
歯石取りも終わったころに、先生から
「歯ぎしりしますか?」と聞かれました。

言われたことないし...と思ってそう答えると、
「奥歯が、ちょっと削れているんですよ。歯ぎしりでなければ、相当強い力で
噛まないと、こんなふうには削れないんですよね。」

えっ???と思って、それから気にしてみたら...
寝ているときではありません。
昼間、ちょっとしたときに、奥歯をギュッとかみしめているのです。

涙が出るのをこらえるときに噛むのは、理解できなくはありません。
でも何も関係ないときに、ぐっと噛みしめるときがあるのです。驚きです。

「なぜこんなに歯をくいしばって生きているかしら。そんな状況ではないのに。
逆に、自分で自分の人生を苦しくしているのじゃないのかしら。」

そう思って、わたしの人生の師匠に会ったときに、話してみました。

そうしたら、
「そうそう。前は、歩くお稽古をするとき、すごく奥歯をかみしめてた。
今は、ほとんどなくなったけどね。」という答えが返ってきました。

自分では、まったく気づいていませんでした。

「あなたの場合は、口角は下がらないのよね。その代りに、我慢するときに
奥歯をかみしめたり、眉間にしわを寄せたりしてたの。」

奥歯が削れるほど、歯をくいしばっていたとは...わたしったらなんてことを。

「舌をうわあごにつけて口を閉じるとき、奥歯は隙間が開くくらい、ゆるゆるにしておくの。
そうでないと、体に変な力が入ってしまうから。」

プールに体を浮かせて奥歯をかみしめると、体が曲がっていくそうなのです。

そんな、本当に無駄な意味のないことをしていたとは。しかも自ら、です。

この重要な課題に気づいたときから、噛みしめたら緩める、を繰り返してみたら、
1−2日後には、ほぼ、噛みしめなくなりました。

師匠の話からすると、1年半前には、もっと歯をくいしばっていたことになります。
当時は全く気づいていませんでした。
しなくてもよい我慢をしていた、ということなのだと思いますが、
そのときはそのクセに気づきたくなかったのだと思います。
気づいてしまったら、その我慢を吸収する手段を失ってしまうからです。

しなくてもよい我慢をしなくなってきたら、噛みしめるクセも自然に治ってくる、
というのは、おもしろいです。
さらに、その我慢を吸収する手段が不要になったころに、”噛みしめている”事実に
気づくのも、おもしろいと思うのです。
これはわたしのパターンなので、逆に、形から直す、つまり、噛みしめていることから直して
根本の問題を解決していく、という方法も、もちろんあると思います。

さて、奥歯をゆるゆるにして生活してみたらの感想ですが、
これが、とても気持ち良いのです。頭の中がゆるゆるしています。
頭の中には蝶形骨とう蝶の形をした骨があるのですが、緊張して硬くなっていると、
これが窮屈に押しこめられてしまいます。
すると、蝶形骨は内臓を包む筋膜にもつながっているので、胃なども緊張してしまうのです。

奥歯をゆるゆるにしておくと、蝶形骨もふわふわ、頭の中にスペースができる感じです。
ふわーんとして気持ち良いのです。

もう、歯をくいしばって生きていかなくてもよいですものね。
(自分で勝手にくいしばっていただけですが。今となっては笑い話です)












(中国、武当山の南岩。2か月後には、またここでお稽古です)

 

国境を超える:みんな、おーんなじ

2016.02.10 Wednesday















2月8日は春節でした。旧暦の1月1日、中国の新年です。
そして今年は、新月でした。

特別に大切な日、わたしの”立つこと”の師匠が新月に合わせて開催されている
お祈りの舞を観に行きました。

新月、春節、さらには先月亡くなったデヴィット・ボウイへのオマージュをこめ、
先生が「心のままに」とおっしゃって選んだ曲も、日本、中国、デヴィット・ボウイと、
なかなか型破りでした。

国が違うものがどんどん出てくるのを、空っぽになってぼーーーっと見ていたら。。。
国という枠がするっと外れて、「みんなおんなじ」という思いが出てきました。

わたしはずっと、日本人であることを意識して生きてきたように思います。

大学を卒業して進学するとき、場所はイギリスを選びました。
専攻が英文学だったため、「英語で生活して自分の言葉にして、それで学びたい」という理由も
ありましたが、もうひとつは日本で生きていくことに息苦しさを感じていたこともあります。

イギリスでの生活は、思うままに正直に生きられた時間で、文学からも、
生きていくことについて、たくさんのことを学びました。
それでも最後に気付いたのは、「ここにはわたしのルーツがない」ことでした。

海外に出て、はじめて日本と向き合い始めることになります。
自分の国だと、愛着も感じるようになりました。

ただこのところ、もしかしたら「日本」の枠にとらわれすぎているのでは?と思うようになりました。

海外の人と交流していると、「日本(人)は。。。」という表現に出会うことも少なくありません。
否定的なものもあります。
普段は仲の良い友人の言葉だったりすると特に、心がチクッとするのを感じていました。

最近、中国の先生のひとりが、微信(中国でよく使われているSNS)に、秦の皇帝が日本人について
言った言葉を載せているのを読みました。ほめた言葉ではなく、なぜこれを載せたんだろうと思いながら、
?という顔のマークだけをコメントしてみました。

先生はすぐに「君のことじゃないよ!」と返信してきて、投稿はすぐに削除されました。
「ごめんね」と。

先生は、わたしが日本人であることは知っています。
でも、こういうとき、日本とわたしとは結びついていないのだろうな、と思ったのです。
逆に、わたしが自分を「日本」の枠に入れ込みすぎているのかしら、と、
疑問に感じるようになりました。

それから約1か月たって迎えた春節、新月の日に、そのモヤモヤが、すっと引いたような気がしました。
わたしの国籍は日本だし、日本語が一番得意ではありますが、それだけのことで、
本当は、みんな同じなんだと思ったのです。

終わった後の感想として、このことを先生に伝えたら、
「それはデヴィット・ボウイのメッセージでもあるんだよ。」と。


(武当山、太子洞。左の門の中は洞窟です。)

もうひとつ、思い出したことがあります。
武当山に行くと会いに行く、太子洞という洞窟に住む仙人と呼ばれるおじいちゃんがいます。
昨年5月に訪ねたとき、先客がわたしを見て「韓国人?」と聞いてきました。
おじいちゃんは「日本人だよ」と。
「似てるよね」という先客に、わたしが「似てるけど違うよ。」と言うと、
おじいちゃんがわたしの手を取って「指が1本、2本、3本、4本、5本、みーんな、おーんなじ」。
その場にいた人みんなが笑顔で、「その通り」。

(贾(Jia)おじいちゃん)

そうそう、みーんな、おーんなじ、なのです。

物理的にある国境や国籍を超えて、本当は、みんな、おんなじ。

英文学に「自分のルーツがない」と思ったときは、浅く見ていただけで、
本当は、みんな同じルーツ(源)なのだと思うのです。

浅く見ていたときも、枠に自分をはめ込んでいたときのわたしも、それでよし。
でも、重いお荷物をひとつ下ろして、新しい年が始まります。

(武当山の朝)


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