お稽古は、決めたことをやり遂げる時間

2018.10.09 Tuesday

(2018年の夏、武当山にて)

 

自宅でひとりでお稽古しているとき、「ピンポン」と呼び出しがかかったり、電話がかかってきたりすることがあります。

 

そんなとき、どうするでしょうか?やっていることを途中でやめて、対応するでしょうか?

 

お稽古をしているときは、「いきなりやめてはいけない。まずは収功(そのお稽古を終えて、日常に戻るための動作)してから対応すること」と、教わりました。

 

中途半端にやめてしまうのは、よくないのです。

 

もうひとつ、例えば站椿功(立禅)で腕を上げて立っているとき、腕が痛くなったり、苦しくなったら、どうするのでしょうか?

 

「やめて、仕切り直ししてもいい。ただし、なぜ途中でやめたか聞かれたときに、ちゃんと答えられるようにすること」と、教わりました。

 

理由をはっきりさせずにやめてしまうと、失敗体験になります。理由があれば、それは経験という蓄積になります。

 

お稽古の時間というのは、周りに流されず、人の都合に合わせるのではなく、自分を尊重して、決めたことをやり遂げる時間でもあります。

 

社会の中で生きていると、なかなか自分に集中するのは、難しいですよね。声をかけられたら、ちゃんと顔を見て答えたいとは思いますが、呼ばれるたびにそうしていると、気づかずに、自分が後回しになってしまうこともあります。

 

他人の期待を優先させているうちに、自分が何をしたいのか、わからなくなってしまうこともあります。

 

過去のわたしにも、そんなときがありました。

 

2009年の夏、初めてひとりで中国の武当山に行くことになったとき、友人から「今回はどんな時間にしたいの?」と聞かれました。考える前に口から出てきた答えは、「わがままに過ごすこと」でした。周りに合わせるのではなく、社交性を優先させることなく、とにかくそのときに自分が一番したいこと(お稽古)に集中しようと、思いました。

 

その頃は、自分が何がしたいのか、迷子になっていた時期だったと思います。

 

周りからも、「あなたは、自分を大切にしてない」と言われていた頃でした。

 

「わがままに過ごす」と決めて過ごした2週間は、自分ともじっくり向き合い、お稽古にも集中できました。そして結果的には、周りの人たちとも仲良く、楽しく、過ごせました。「自分がしたいことを優先させても、こんな風に過ごせるんだ。友達は、作ろうとしなくてもできるんだ」と、わかる、いい経験になりました。

 

太極拳の教室でも、自分で練習するときも、決めたことをやり通すことは大切です。30分、1時間、1時間半、自分で決めた時間は、それに集中します。

 

電話がかかってきても、後でかけ直せばいいことです。すごく大事な電話だったら、何度もかけてくるでしょう。(ただし、本当に急を要する電話があるとわかっているときは、もちろん出てください。)

 

以前、会社員だったとき、海外での研修に参加したときのことです。同僚たちと、「未読メールが溜まっていくよね」という話になったとき、そのうちのひとりが「研修中は見ないし、この期間に来たものは、みんなまとめて削除しちゃう。」と言うのです。「だって、後からなんて、読みきれないもの。本当に大事だったら、また連絡してくるでしょ。」と。

 

そのときは、度胆を抜かれましたが、あっぱれですよね。

 

決めたことをやり遂げることは、周りに流されることなく、そのときの自分に大切なことを見極めて、それを実現していく力をつけることでもあります。

 

自分の人生に迷子にならないために、自分の願いを実現していくためにも、大切なことですよね。

 

お稽古は、何ができて、何ができないかよりも、その時間をどう過ごすかが大事だと思っています。よい過ごし方をすれば、結果はちゃんとやってきます。

 

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

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    武当山日記:そぎ落とす

    2018.10.04 Thursday

     

    何かを習うことは、「得ていく」イメージかもしれません。これを覚える、これができるようになる、とかです。

     

    でもカンフーのお稽古は、その逆で、そぎ落としていくプロセスだと感じています。余計なことに気づいて、やめていくのです。

     

    新しいものを習うときは、力が入りがちです。力みも緊張もありますし、習うのだ!という意気込みも、あるかもしれません。

     

    最初は、動き方、位置、そして何をしているのかという用法(剣であれば、突き刺すとか、上から切り下すとか)を教わり、真似します。

     

    すると、いろんなことが起きます。

     

    たとえば何度も同じところでダメ出しされる場合は、自分で何ができていないのか、わかっていません。余計なことをやっていたり、意図したことをやっていないのですが、どちらも無意識ですので、なかなか気づかないわけです。

     

    頭でわかっていても、体がその通りに動かないときも、あります。頭(意志)と体がつながっていない状態です。

     

    動きも、なぞっているうちは、不自然です。表面的な形だけ真似しても意味はない、とわかっていても、視覚からの情報に影響されるようです。五感のうち視覚は9割近くを占めるため、当然なのかもしれません。

     

    今回、武当丹剣を習っているとき、こんなことがありました。剣を正面で突き刺す場面を練習していたら、隣で見ていたお稽古友達が「やりすぎ」と、ひとこと。先生は、つっと強く突き刺すので、それを真似していたのですが、「先生はパワーがあるから、ああなるだけ。きみは、自分にあったパワーでいいんだよ。」と言うのです。

     

    なるほど、ですよね。やりすぎないように注意して、自分の内側から出る力のままにしてみたら、「そうそう!いい感じ」。分相応って、大事です。

     

    やりすぎは、エネルギーを消耗します。太極拳にしても、八卦掌や形意拳にしても、「やってもくたびれない」のが良く、生きるためのエネルギーを満タンにしてくためのものなのですが、それを消耗していたら、本末転倒です。

     

    お稽古の時間は、こんな風に無意識にやっている「いらない」ことに気づき、やめていく繰り返しです。何度も、何年も繰り返すのは、このためでもあります。

     

    そぎ落としていくプロセスだと、思っています。やりすぎず、偏らず、陰と陽のバランスを保ち続けて進んでいくこと、です。

     

    「無為自然」という言葉があります。老子の思想を表すもので、「無為」とは、何も為さないこと、「自然」とは、自ずと然り、他からの影響を受けることなく、あるがままの姿、という意味です。

     

    「何も為さなかったら、行動しなかったら、何も結果がでないのでは?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんよね。

     

    以前のわたしが、そうでした。そんなわたしに「あなたは待つことを知らない」とか、「行動しないと、何も手に入らないと思っているでしょ。そんなことないよ。」と言ってくださる方々が、何人も現れました。世の中とは、ありがたく、上手くできています。

     

    老子の「道徳経」には、「道は常に無為にして、而(しか)も為さざるなし(原文:道常無為、而無不為)」(道はいつでも何事もなさないで、しかもすべてのことを為している)(第37章より)と、あります。

     

    天や地は、意志で動いているわけではなく、無為と言えます。それでも朝になると日が昇り、夜は日が落ちて、季節は移り変わります。その中で植物は育ち、動物も、人間も、育っていきます。意志がなくても、天地はすべてを為していますよね。

     

    無為自然とは、そいういう意味です。

     

    人は生まれると、誰に教わらなくても、空気を吸い、おっぱいを吸いはじめます。赤ちゃんが立って歩くようになるためには、立ち方教室に行くからではありません。生きる力、育つ力は、もともと備わっています。

     

    「でも、50歳を超えたら、そうはいかないよね」と思った方も、いらっしゃるかもしれません。

     

    それが、そうでもないのですよ。2000年以上前に誕生した中国最古の医学書「黄帝内径」には、「昔の人は100歳をこえても衰えることはないと聞いたが、なぜ今どきの人は、50歳くらいで皆衰えてしまうのだろうか?」と書いてあります。

     

    2000年前から、人は早死にだったのですね。季節にあった過ごし方、必要なだけ食べること、日が昇ったら起きて、沈んだら寝る、という自然に合ったリズムが崩れると、生きるエネルギーを損ないます。

     

    話は飛びますが、ここしばらく、太極拳の最初で脚を横に開くとき、左足が右足よりも後ろにずれていました。こんなときに「ふつうに出すと1センチ下がるから、ちょっと前気味に出す」と、作為的に考えて行動しては、ダメです。

     

    「何もしない。無駄なことしない」とだけ思ってやってみたら、揃いました。脚が揃わないのは、骨がずれているのかとも思ったのですが、そうではなさそうです。

     

    無駄なことをしないためにも、鍛錬が必要です。何も為さなければ、本来の力が生きてきます。「生きているだけでいい」というのは、こんな意味じゃないのかしらね。

     

     

    ☀「陽だまり」とは

    「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

     

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      体に痛みが出たときは

      2018.10.02 Tuesday

      (武当山の山頂(金頂)から)

       

      あるとき、「体の痛みが出たときに、どうするか?」という話になりました。

       

      ご一緒していたのは、ボディワークをいろいろと探求されて、実践されている方たちです。おひとりが「原因として、痛みのある部位とは違うところを探って、ケアしていく」とおっしゃいました。

       

      なるほど。東洋医学でも、ツボ押しは、そういうところ、ありますものね。その他にも、肩に力が入りすぎているとき、肩を緩めようとするのではなく、膝から緩める、なんてこともあります。

       

      「みんみんも、そうなの?」と聞かれたとき、「はて?」と考えてしまいました。やっていないとも言えないけれども、今、聞いたようなことは、していません(整体師ではありませんし。)

       

      その後、ゆっくり考えてみました。

       

      痛みが出たとき、まず考えるのは、その前に「何をやったか」を、体と心の両面で振り返ります。何かの動作が関係しているか、とか、心がきゅっと硬くなっていたか、イライラしていたか、などです。

       

      痛みのほかに、疲労も同じです。寝たり休んだりすれば回復するくらいの疲労は問題ありませんが、たとえば、いびきが出るような場合、やりすぎたに違いない、と思っています。自分では、命を削るタイプの疲労、と呼んでいます。

       

      たいていは、何か思い当たります。絶対ではありませんが、続けていると、それなりに精度は上がっている気がします。「これからは気をつけよう」と、心に誓います。

       

      動作の場合も、よかれと思ってやっていることが、微妙にやりすぎていることもあります。その蓄積が、3か月くらいすると、痛みとなって現れることもあります。

       

      実際、どのくらいがちょうどよいのかは、微妙なのです。ですから実践しながら探るものだと、思っています。ただし、それなりに体との対話を続けていると、「おかしいな」と感じる感度は上がるためか、痛みとは言っても、大きな問題にはなりません。

       

      そういうこともあるせいか、ここ5年くらい、大きな痛みは出ません。

       

      人の体は、簡単に歪みます。体に意識をむけるほど、「体というものは、ずれるのだ」とわかってきます。重いスーツケースを持って飛行機で移動したりすると、コリは出ます。最初の頃は、それにがっかりしていましたが、だんだん諦めてきて、「ずれたら戻せばいいのだ」と思うようになりました。

       

      痛みが出た場合も、あまりピンポイントでなんとかすることはなく、全身のめぐりをよくしようとします。つまり、することは普段と同じです。そもそも、太極拳は、縮こまった体にスペースを空け、全身のめぐりをよくするものです。コリで縮こまった体も、自ずと緩んでいきます。滞りが強いと思う場合、スワイショウ(腕ふり)のように、単純で小さい動作で、めぐる感覚が強く感じられるものを、多めにすることもあります。

       

      めぐりやすい体にしておけば、不調は自然と取り除かれます。

       

      流れる水は腐らない、と言いますよね。自然を大宇宙、人を小宇宙として対応させるとき、地球に川が流れるように、人の体にも血が流れる、と考えます。

       

      太極拳や気功をすると、血が巡ります。体温も上がります。血が巡れば気が巡るのを応援します。気とは、ざっくりいうなら生命力です。人間を車に例えるなら、ガソリンと、車自体のメンテナンスをしてくれます。

       

      無為自然という言葉があります。何も為さなければ、自ずと然り、あるがままの姿(川が滞りなく流れる)になります。本来、人間いは生命力が溢れているはずです。太極拳にしても、気功にしても、「する」という言葉を使いますが、実際は「無駄にしていることをやめる」ために「する」とも言えます。無駄に力んでいるところを緩めたり、緊張しているところを緩めたり、です。ただ脱力したり、リラックスするだけでは、流れをよくするまではいかず、そこにはコツがあります。

       

      それでも「これはダメだ」と感じるものは、早めに専門家の手を借ります。どんなに鍛錬していても、自分だけでなんとかするのは無理です。人はひとりで生きていませんし、他人の助けは借りるもの、です。

       

      そして太極拳は、対処療法ではなく、未病のためのものですしね。それでも、つね日頃から、めぐりのよい体であると、いろいろと変わってくるのですよ。やりはじめて11年、そんなことを、実感しています。

       

       

      ☀「陽だまり」とは

      「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

       

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        武当山日記:站椿功がもらたす「喜悦」

        2018.09.26 Wednesday

        (武当丹剣のはじまりの部分)

         

        站椿功(日本語で言うなら、立禅)は基本で、ここから始まり、ここに行きつく、と感じています。

         

        ひたすら、立ちます。

         

        立ち方には、いくつかコツがあります。今回も滞在中、先生が説明してくださる時間がありました。

         

        このとき、わたしは別の場所で別の練習をしていたのですが、ふと気になって他の人の様子をちらりと見ると、みんな集まって、何やら話を聞いています。初めての人たちに站椿功の説明をしている様子でした。

         

        こういう話は、何度聞いてもいいものです。我ながら、いいタイミングでちらりと見たな、と思います。こういうの、「奇跡」と言いますよね。

         

        站椿功は、まず体を整え、次に心、そしてこの2つが自然にできれば、最後の呼吸は、自然になります。「寝るときに、どうやって呼吸しようかなんて、思わないでしょう?それは自然にできるものだから。」段階は、3ですね。

         

        体の整え方も、ポイントは3つです。

         

        1.脚蹬(Jiǎo dèng):脚で大地をしっかり踏む・押す

         

        2.收腹(Shōu fù):お腹を収める

         

        3.头顶(Tóudǐng):頭を上に

         

        3には、意味があります。老子のことばに、「1は2を生み、2は3を生み、3は万物を生む」(老子「道徳経」第41章)とあるとおり、3は、すべてとか、発展を意味します。

         

        ひとつめの「脚蹬」は、体重を乗せるのではなく、押すのです。積極的に立ち、しっかり根を下に伸ばすイメージです。これで下に向かう力が大きくなり、逆に向かう力も大きくなります。

         

        このときに注意したいのは、膝です。曲げず、のばさず、です。站椿功いは、腰を落とすやり方も多いのですが、この学校のやり方は、腰を落としません。なぜなら「膝に重さのかかるやり方ですると、膝を壊すから」です。

         

        これは、膝に負担をかけない体の使い方を学ぶ方法でもあります。「この体の使い方が身についたら、いくら腰を落としても大丈夫」のですが、站椿功自体で腰を落とさなくてもいいのです。

         

        膝の扱いは、難しいところです。過去、わたしも長い間、迷い続けました。

         

        曲げず、は自分から曲げないこと。伸ばさず、は、わたしの場合はふくらはぎがピンっとはったら、やりすぎというイメージです。膝には衝撃を吸収するためのバネの役割をするため、曲がるようになっています。これをわざと曲げたり、伸ばしきったりすると、バネが効かなくなります。

         

        ふたつめの「收腹」をすると、腰(ウェストラインの後ろ側)の反りがなくなります。背中側、おへその裏にある命門(めいもん)というツボが、開くイメージです。腰が反っていると、1で脚で大地を押しても、腰で引っかかって、上に伸びる力が止められてしまいます。

         

        このとき、胸を張りすぎていると、腰が反りがちになりますので、要注意です。

         

        3つめの「头顶(頭頂)」は、1と2ができていれば、頭は天に向かって伸びて行きます。下から突き上げられて、どんどん背が高くなるイメージです。背骨の関節の隙間も空いて、背中が伸び、体の中には「空(Kōng)」、スペースが生まれます。

         

        このとき、あごが上がっていると、首の後ろが反って、下からの力がせき止められてしまいます。あごは、少し引きぎみ、でもきゅっと力まないように。あごを引き続けると、頭がどんどん天に向かって伸びるイメージです。

         

        舌は、上あごにつけます。経絡の任脈(にんみゃく:体の前側の真ん中を通っている)と督脈(くみゃく:後ろ側の真ん中を通っている)はつながっていないのですが、舌を上あごにつけることで、このふたつを橋のようにつなぐ、とも言います。

         

        余談ですが、歯医者さんが書かれていた本で、赤ちゃんがおっぱいを吸うとき、舌をこの位置において、しごくことで吸うのだ、とありました。この動作は、赤ちゃんの発育にはとっても大切なのだとか。(出典:「舌は下ではなく上に」宗廣素徳 文芸社)

         

        成長のシンボルとされる赤ちゃんと同じ動作をするのも、さらなる発展、発育を意図しているようですよね。

         

         

        体が整ったら、次は心です。心を整えるには、耳を使います。

         

        耳は、外に向かって大きく開きます。聞きに行くのではなく、音が入ってきます。以前、先生は、「心の音も聞く」と話されていました。これがとても好きで、自分の内と外の境界線が、曖昧になっていくような感じがします。個の自分が、すべてのひとつの源、太極に、合わさっていくような感覚です。

         

         

        体と心の次は、呼吸です。これは、もう何もしなくても自然にできます。

         

         

        腕を前にあげる姿勢を続けていると、肩や腕が痛くなることがあります。「それは、どうすればいいの?」という質問に、先生は、「肩をどうにかするのではなく、3つのポイント、脚、お腹、頭のどこかが整っていない」と話していました。

         

        さらに「動いてはいけないと思うから、辛くなる。別に動いてもいい。」とも。○○でなければならない、という考えは、自分を縛りつけて硬くするのですよね。

         

        そして、「天と地は友達だ。そこと繋がっていくと、日常のいざこざ、気になっていることなど、どうでもよくなるよ」と言うのです。

         

        その感覚を、「喜悦(Xǐyuè)」と、表現していました。外部の要因による嬉しさ(中国語だと、「高兴(Gāoxìng)」とは違い、内から沸き起こる喜びのような感じです。絶対的な喜び、とも言えるかしらね。

         

        先生の方の大らかさ、心の広さは、もともとの気質もあるかもしれませんが、やはりずっと站椿功を続けてきたことも、大きいのだろうと、感じます。

         

        「毎日10分、やり続けていると、変ってくるよ。」と。

         

        腕を上げるのが大変だったら、腕は下げていてもいいのです。とにかく「立つ」こと。立つ力をつけることが、大切です。

         

        そうすると、やる前には考えもしなかったことが、いろいろ現れてきます。それが、站椿功だと思っています。

         

        言葉では、上手く説明できません。言葉での表現をはるかに超えることって、実際にはたくさんあるのです。

         

         

        (站椿功には、いろいろなやり方、いろいろな説明方法があります。わたしはこのやり方が好きですが、これも、そのひとつとして読んでいただくと良いと思います。)

         

         

         

        ☀「陽だまり」とは

        「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

         

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          武当山日記:変化は、そのうち、やってくる

          2018.09.25 Tuesday

          (逍遥谷。わたしたちが歩いた後に、野生の猿が出現)

           

          武当山での滞在中、先生から「午後のお稽古は遠出するから、1時間早めに集合。」と声がかかりました。

           

          普段は、午前中のお稽古は逍遥谷、午後は学校の敷地内で、と決まっているのですが、ときどきこんなイレギュラーがあります。

           

          逍遥谷は、手前の方が観光名所になっていますが、その奥もずっと歩けます。その道は、金頂と呼ばれる山頂まで続いていると、聞いたこともあります。

           

          (逍遥谷。ここは観光客も、来るところ)

           

          今回は、その奥をずっと歩いて、玉虚岩まで行き、そのあたりや途中でお稽古しよう、という話でした。

           

          先生は、よい景色の中でお稽古することも、大切にしているようです。より自然の中に行くと、より自然に還っていくようです。

           

          この地方では、ときどき大雨が降ります。わたしは幸い、遭遇したことはありませんが、道に水が溢れて、川のように流れている映像も見たことがあります。

           

          逍遥谷も、2年くらい前の大雨で橋が壊れてしまいました。観光地としては、しばらく閉鎖です。1年たっても修理しておらず、今年はようやく元通りになっていました。

           

          しかし、修理したのは手前の、観光客がたくさん来る辺りだけ。

           

          その奥は、少し歩くと、先頭の人が「橋、壊れている〜!」とか、「道がない〜!」とか、叫ぶよなありさまでした。そのたびに、別の道から行けるか、壊れているけれども歩けるかなど、確認しながら進みます。

           

          そんなこんなで、ようやく玉虚岩へ到着です。さあ、ここでお稽古を、と思いきや、残暑も厳しい中、日陰の場所もなく、お稽古は無理だということに。

           

          (玉虚岩)

           

          (玉虚岩で動物に遭遇。キツネの一種らしいです。突然たくさんの人に見られたのが怖かったのか、怯えていました)

           

          帰り道、ちょっと広場のような場所に通りかかったときには、先生が「前は、ここはとっても気持ちよく練習できるところだったんだ」と。でも、大雨の名残なのか、木材が散乱していたり、どうにも落ち着きません。

           

          結局、歩いて行って、帰るだけ、となりました。合計3時間です。ただでさえ山道で、気が遠くなるようなながーい階段があったり、岩の上を歩いたりする行程に加え、壊れた橋や道を注意しながら進むという、体力的にも、気持ち的にもエネルギーを必要とする道のりでした。暑さによる疲労も、ありますしね。

           

          お稽古はしませんでしたが、別の意味では、十分にお稽古したとも言えます。

           

          (途中、気持ちよさそうに坐りはじめた先生。隣の小さな子は、娘さんです)

           

          こういう道を歩くとき、どんな心づもりをして、どんな体の使い方をするかで、自分の心身への影響は、全然違ってきます。

           

          高さのある細いところを歩くとき、緊張すると、体が硬くなります。そうならないように、できるだけ平常心をこころがけます。平常心が保てていれば、呼吸は自然にあるべき状態で行われます。(逆に、呼吸が早くなっていたら、緊張しているのだと、気づくきっかけにもなりますけどね。)

           

          高低差のあるところや、岩場などを歩くとき、膝に負担がかからないように、常に”頭は上”と、縦に伸びる力を意識して歩きます。

           

          その結果、膝も、体も、今回はどこも痛くなりませんでした。もちろん疲労はありますが、休めば(寝れば)回復するレベルです。

           

          一緒に行った人たちの中には、「全身筋肉痛」という人や、「膝にきた」という人もいます。武当山に来るのが初めての人たちも、いましたからね。

           

          こういうときに、太極拳を続けてきた変化を、感じます。「心身ともに、強くなったなあ」と思うのです。

           

          2008年の末、はじめて武当山に来たときは、南岩から山頂まで歩いて登っただけで、ひねっていないのに足首が腫れてしまうくらい、体は弱かったのです。

           

          その後も「足首を怪我しないように」と、マメにケアしたり、筋肉痛のときにはスポーツ用タイツを履いたりと、そんなことが、5年前くらいまで続いたかもしれません。

           

          その後は、運動量が多くても、山頂まで歩いても、休めば回復する以上の疲労をかかえなくなりました。

           

          太極拳を続けるとどうなるのかは、いろいろありますが、山を健やかに歩けるようになるというのも、そのひとつです。

           

          それは、続けてきたことへの裏付けにもなり、自信を持っておすすめできる理由にもなります。

           

          何よりも、そういう自分であることが、とってもうれしいです。年はとりましたが、10年前よりも、心身ともに元気です。

           

          太極拳は、これをやったら、こうなる!というような、即効性を求めるものとは違うと思っています。日々の様子にこだわることなく、とにかく続けます。もちろん「こんな点を気をつけてやってみよう」と、自分なりに設定することはありますが、正解を当てるのではなく、よりよい方向を探り続ける感じです。

           

          だから、こんな山歩きのときに、疲労しない心身ができているのを感じると、とっても嬉しいのですよ。

           

          続けていれば、変化は、そのうち、やってきます。さりげなく、でも確実に、です。

           

           

           

          ☀「陽だまり」とは

          「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

           

          ........................

          いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

          太極道家

          体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

          講座のご案内は、こちらからどうぞ
           


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