たいしたことのない、わたし

2018.11.22 Thursday

 

以前にも書いたことがありますが、ホームページを立ち上げるまで、すごく時間がかかりました。

 

作ると決めてデザイナーさんに相談してから、半年以上、10か月くらいかかったと思います。

 

あのときにあったのは、「わたしなどが、公開していいのだろうか。」という躊躇と恐れです。

 

ある日、近い人に、そんな相談をしたら、「わたしなどが、と言っているけれども、実際にはすごく傲慢なんだよ。『たいしたわたしだから、たいしたものを公開しなければならない』と、思っているでしょ。」と、笑いながら言われてしまいました。

 

えーっ.....衝撃のひとことです。

 

続けて、「『たいしたわたしではないけれど、これが好きで、こんなことをやっています』と思えたら、すぐに公開できるよ。」実際に、そのことばどおりになりました。

 

「たいしたことない」というのは、卑下ではなく、永遠の真実なのだと思います。広い世の中で、知っていること、わかっていることなど、ほんの一握りなのですから。

 

 

何かに取り組み続けていれば、それなりに専門家になってきます。その話題に詳しい人になり、人からも意見を求められるようになります。

 

そんなとき、自分がよいと思っていることを追求するあまり、他のものを否定してしまうことがあります。

 

以前のわたしには、ときどきそんな気持ちがわいてきました。悔しい思いをしたときなどに、「あんなのでいいんだ」とか、「あれは違う」という否定的な気持ちが芽生えます。

 

これは、自分でも苦しいです。近い人にそれを打ち明けると、「そんなので、いいのよ。」という答えが返ってきました。「そういう需要もあるのだから、いいの。」

 

人のことを気にしすぎですよね。あの頃は、自分がどう見られているか気になりましたし、人のことも気になりました。

 

そもそも、その「よい」は、自分が思っている「よい」で、人とは違うかもしれません。そのことにも気づいていませんでした。

 

そして今、振り返ってみれば、「あれは違う」と思っているわたしは、嫌なエネルギーを出していたなぁ、と思います。

 

 

昔、就職活動をしていたときのことです。かなり年上の方に、英文科出身だと話すと、「じゃあ、なんでもできるね」とおっしゃるのです。意外なことを言うものだなあ、と思っていると、続けて「だって何もできないものね。」と、ニコニコ笑いながら、おっしゃいました。

 

どなただったかは、忘れてしまいましたが、その雰囲気は覚えています。素敵な方でした。

 

 

今でも、いやいや、大学出たての頃よりは、今はもうちょっとやってきたし.....とか、つい思ってしまいますが、そんなこと、ありません。

 

やってきたことは、今の自分の中に、ぜんぶあります。

 

それをわざわざ、取りだして並べてみたり、人に見せてみたりしなくても、いいのだと思うのです。そんなことしたら、それに足がもつれて転んでしまいそうです。

 

 

余談になりますが、これと一見、対極するような言い方で、「わたしは欠けることなく完全な存在だ」と言うこともありますよね。

 

でも、「たいしたことない」も、「完全なわたし」も、同じだと思うのです。どちらも、何かができなくても、何もできないわたしでも、この世に存在してよくて、世界に歓迎されているのだと思うからです。

 

同じことでも、視点によって、選ぶ言葉が違います。どちらがいまの自分に、力をくれる(もしくは無駄な力が抜ける)もので、より自由になれるのかによって、好きな方を選べばいいのではないかしらね。

 

ことばは不完全で、難しくて、便利です(笑)。

 

≪特別クラスのご案内≫

☀「やさしい站椿功」は、11月24日(土)15:00〜16:30、九品仏・自由が丘で開催します。詳しくは、こちらから。

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

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    朝の站椿功

    2018.11.16 Friday

    (中国、武当山の南岩宮)

     

    站椿功をする時間は、決めているわけではなく、今は一日のうちで時間がとれるときにしています。

     

    その中でも特に、朝が好きです。

     

    じっと立つだけですので、音はたくさん入ってきます。

     

    朝は、鳥の鳴き声が、いろいろ、たくさん聞こえます。それがなんとも心地よいのです。

     

    夏の間は、虫の声も主張していましたが、今の季節はひっそりです。

     

    その他に、生活音もたくさん聞こえます。車の音や、窓を開ける音、何かしらの音。

     

    何の音か、わからないものもあります。ほのかに聞こえてくる音を、わからないままにしておくのも、いいものです。

     

     

    じっと立っていると、いろいろなことが頭に浮かびます。

     

    今朝は、ちょっと反発を感じたことがあって、悶々としていたせいか、それが頭に浮かんで、ぐるぐる、モンモンしていました。

     

    ちっともピシッと集中して、立てていませんよね。

     

    「嫌だと思うことの裏には、自分が本当に大切にした願いがある」と言いますよね。

     

    そちらに目を向けていく方法もあるのかもしれませんが、それはちょっと違う気がして、そのまま「ああ、これが嫌なんだ」と、しておきました。肯定も否定も、しません。

     

    その間も、鳥の声は聞こえます。いろんな音も、聞こえます。今日はいいお天気で、肌に感じる空気も、さらっとしていました。

     

    わたしは站椿功をしているとき、ふわりと浮くような感じがあります。例えて言うなら、飛行機に乗っていて、ちょっと高度が下がるとき、ふわんと浮くような、あれです。

     

    いろいろめぐるものも、感じます。体の中も、外も。ぐるぐると。

     

    そんな感じで続けていると、いつの間にかモンモンとしていたあのことも、どうでもよくなっていました。

     

    中国にいらっしゃるわたしの先生が、「站椿功で、天と地とつながると、日常の気になっていることが、ささいなことに思えて、どうでもよくなるよ」と、おっしゃっているのですが、まさに、そのとおりです。

     

    ひとことで表すなら、「ま、いいや」です。

     

    気になっていたことが、気にもとまらないほどの小ささに変る、と言えるかもしれません。

     

    昨日のブログで、「あるがまま、存在の本質とは、『静』であり、なにごともそこに帰るのだ」というお話を、スノードームにたとえて書きました。

     

    站椿功をするのは、この「静」に帰ることでもあります。

    それは中国語でいう「喜悦」、内側から満たされている感覚でもあります。外からの刺激への反応としての喜びではなく、内側からあふれてくるものです。

     

    「静」に帰ると、そのあとの一日が、ゆったりと、穏やかになるのです。しずーかに過ごすわけではなく、わりと活動的だったりします。

     

    站椿功は、これまでわたしにいろいろなものを感じさせてくれて、もたらしてくれましたが、今でもこれをすると、どんなことがあるのか、ことばで説明しつくせるほどには、わかっていません。

     

    わかっていることは、まだ先がある気がすること、です。

     

    1回だいたい30分、これを聞くと閉口する方もいらっしゃいますし、実際にやったことある方は、「足が痛い」「腕がいたい」「苦痛だ」などなど、顔をゆがめてしまうかもしれません。

     

    でも、苦行ではなくて、本当は楽しいのです。それは、これまで体験していない楽しさなのかもしれません。

     

    知らないことは、自分がそれを「知らない」ことも、わかっていないこと、ありますしね。これは、ちょうどそんな感じです。

     

     

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      スノードームのように

      2018.11.15 Thursday

       

      月に2回、「タオを生きることば」のクラスで、老子の「道徳経」を、ゆっくり読んでいっています。

       

      読むだけではなく、みんなで感じたことを話したり、体で感じるワークの時間もあります。太極拳は、老子の思想を心身で表現するようなものなので、こんな読み方もできるのです。

       

      ことばだけだと「なんのことやら」と思ってしまうことも、あれこれやってみることで、何かしら腑に落ちてきます。「これ」とことばで表現できなかったりしますが、そもそも世の中のものは、ことばで表現できることを超えているのだから、「これでいいのだ」と思います。

       

      みなさんと読んでいくことで、わたし自身、ひとりで読むときより、ぐっと深いものを感じます。ありがたい時間です。

       

      ちょっと前に、16章を読みました。現代語訳は、こんな出だしです。

       

      心をできるかぎり空虚にし、しっかりと静かな気持ちを守っていく。

      すると、万物はあまねく生成しているが、わたしにはそれらが道に復帰するさまが見てとれる。

      そもそも、万物はさかんに生成の活動をしながら、それぞれの根元に復帰するのだ。

      根元に復帰することを静といい、それを命、つまり万物を活動させている根元の道に帰るという。

      命に帰ることを恒常的なあり方といい、恒常的なあり方を知ることを明知という。

      恒常的なあり方を知らなければ、みだりに行動して災禍をひきおこす(後略)。

      (参考:「老子」蜂屋邦夫訳注 岩波文庫)

       

      「道(タオ)」というのは、あるがまま、存在の本質です。道を体得している人、それに従って生きている人を、「徳のある人」と呼びます。

       

      あるがまま、存在の本質、と言われても、「どういうことなの?」となりますよね。老子の「道徳経」は、それをあれこれ比喩を交えて解説した文書です。

       

      そうは言っても、「これが道(タオ)だと説明できるような道は、恒常不変の/本物の道ではない。(第1章)」と言うように、ことばでは説明しきれないのですが、それでもことばを尽くして説明しています。文書ですからね。

       

      読む人は、そのことばを頼りに、自分の体験や感覚も足して、その奥に広がる世界を感じていきます。だから人によって、読むタイミングによって、感じることが変わってきます。

       

      ひとつ扉を開けると、今まで「知らない」ことも知らなかったことがみえてくること、ありますよね。そんな感じです。

       

      さて、16章に戻ります。今回、読んだときに思い浮かんだのは、「スノードーム」でした。

       

      スノードームは、手で振ると雪が降りますが、そのままにしておけば、雪はすべて下に落ちます。

       

      もともとの恒常的なあり方が、雪が舞っていない状態です。

       

      落ち着かせようと、何かをしようとすると、雪が舞ってしまいます。下手すると、何も見えなくなってしまいますよね。静かにしておくのが、いちばんです。

       

      老子の超訳本を書かれている黒澤一樹さんは、次のように書いています。

       

      静寂は作りだせない。静寂という基盤に、喧噪があるだけだ。

      平和は作りだせない。平和という基盤に、争いがあるだけだ。

      至福は作りだせない。至福という基盤に、不幸があるだけだ。

      静寂も、平和も、至福も、全部、「元からある存在の本質」なんだ。

      ただ、絶え間なく続く喧噪や争いや不幸に、覆い隠されているだけ。

      (出典:「ラブ、安堵、ピース 東洋哲学の原点 超訳『老子道徳経』」黒澤一樹 著アウルズ・エージェンシー)

       

      日常では、「あの人は、わたしのことが嫌いなんだ」とか、「意地悪された」とか、いろんなことが起きますよね。でもこれらは、自分の勝手な解釈だったりします。

       

      困ったことに、この解釈、そしてそれに伴う感情は、未来に進むと、膨れ上がったり、ゆがんだりします。

       

      たとえばトラブルがあって、誰かと仲たがいすると、傷つきますよね。その傷は、後々に10倍くらいに膨れ上がってしまうこともあります。自分に刃をむけているのは、自分の解釈の仕業です。

       

      もしくは「なぜ、あんなことをしてしまったのだろう」と後悔することもあります。実際には、いろんな事情があって「あのときは、できなかった」だけなのに、後々になると、解釈の中でいろんな事情は「なかった」ことにされ、「できなかった」ことだけを取り出してしまいます。

       

      こんなこと、わたしも、思いっきり経験しています。ちょっと昔を振り返ると、想像や解釈ばかりで、ちっとも「今」にいませんでした。

       

      感情は、将来には持って行けません。過去を思い出すと辛いというのは、今の時点から過去を見て、辛いと感じているだけです。

       

      こんなことも、「みだりに行動すれば、災禍をひきおこす」に入りますよね。

       

      「スノードーム」というイメージは、日常で勝手な解釈をしたくなったときに、「もともとは静寂で、そこに帰るのだ」と思い出すためには、役に立ちそうです。

       

      話は変りますが、後半の方に「恒常的なあり方を知ることを明知という」と出てきますよね。恒常的なあり方とは、「静」です。

       

      わたしの道号(道教の修行者の名前)は、「静慧」と言い、「静かであれば、智慧が出てくる」という意味があります。中国の武当山の田理陽師父(武当玄武派第十五代伝人)に、「あなたにはこの2つの要素があるから」と、つけていただいた名前です。

       

      本文に、智慧ということばは出てきませんが、何か通じるものを感じました(これも勝手な解釈かもしれませんが。)

       

      この田師父は、「老子の道徳経を、みんなに読んであげたらいいよ」とアドバイスしてくださった方です。それだけに、感慨深いものもありますが、くぅーっと解釈の海におぼれそうになる前に、さらっと留めておこうと思います。

       

      感激しすぎるときも、なにか”盛っている”かもしれませんよね。(それが悪い、と言いたいわけではありませんよ。)

       

      (下の写真は、思い切り、手で雪を舞い上がらせています。つい、やってしまいますね、苦笑。)

       

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        手を合わせる

        2018.11.09 Friday

         

        神社で手を合わせる時間が好きです。

         

        毎週のように行くわけではありませんが、ふと「行こうかな」と感じたときに、お参りに行きます。

         

        手を合わせるというのは、宗教が違っても、わりと共通ですよね。神社でも、お寺でも、教会でも、そして道観(道教のお寺)でも、形式は違いますが、手は合わせます。

         

        小さい頃、わたしはお寺の幼稚園に通っていました。かすかな記憶ですが、ときどきお寺の本堂で、白い小さなお数珠を手に持って、「なむなむ」とお祈りしていたことを覚えています。

         

        何もわかっていなかったかもしれませんが、手を合わせること、その形をすること自体が、大切な気がします。

         

        両手を合わせることに、何か意味があるのかは、よく知りません。

         

        唯一ちょっと知っているのは、神社の参拝方法に関するものです。二礼、二拍手、一礼、と言いますよね。二拍手のとき、右手を左手よりも少し下にする、と言います。

         

        「左手は神さま、右手は人。だから最初は人がちょっと下で、二拍手のあと、両手をぴったり合わせることで、神さまと人がひとつになる。」

         

        大学生のとき、民俗学の講義の中で教えていただきました。単位稼ぎのために(ごめんなさい)取ったつもりの課目ですが、日本の習慣や風習など、面白いお話も多くて、とってもためになりました。この参拝方法のときも、「へええ」と感激したことを覚えています。

         

        わたしのカンフーは武当功夫(カンフー)で、道教の修行者(道士)がするものです。そのため、ご挨拶の手は、道士のお祈りと同じ形です。

         

        両手を組んで、親指側、小指側、両方から見たときに、陰陽太極図のような模様ができます。「武器を持っていませんよ」と伝える意図もある、と聞いたことがあります。

         

         

        いちおう、女性は右手が上、男性は左手が上、と、男女で違うのですが、中国の先生いわく「そうだけれども、あまり気にすることはない。」そうです。

         

        手を合わせることは、それがどんな意味を持つのか、もっと調べることは、できるかもしれません。でも、この動作には、そういう意味以上のものがあるような気がします。

         

        たとえば、神道の大祓詞は、ちゃんとストーリーになっています。神主さんにその意味を解説していただいたこともあるのですが、最後におっしゃったことばが、とても印象に残っています。

         

        「意味など考えながら、唱えなくてもよろしい」と。

         

        人間はとかく、理屈をこねたがる。でも、神様の世界のことなど、人間にはとうていわかるわけがない。神様のことばには、力がある。ああだ、こうだと難しいことを考えるのではなく、とにかくそのまま唱えればよい、というようなお話でした。

         

        これ、とってもいいなあ、と思うのです。

         

        このくらいの感じでいくほうが、生きやすいのじゃないかしらね。

         

        昔から続いている形には、きっと何かがあります。自分の想像をはるかに超えるものなのじゃないかしらね。

         

         

         

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          自己責任と、おかげさま

          2018.10.31 Wednesday

           

          自己責任ということば、よく聞きますよね。

           

          このことばが広辞苑に掲載されたのは、10年前に発行された第六版なのだそうです。日本人には、比較的あたらしいことばなのですね。

           

          他人任せにせず、自分のことは自分でというのは、大筋では、その通りだと思います。

           

          わたしの感覚では、自分のことを他人ごととしてとらえない、という方が、ぴったりくる気がします。

           

          たとえば、過去に痒疹(ようしん)という皮膚疾患を患っていたとき、最初はブツブツができる皮膚が嫌でした。痒くて眠れないし、何よりも、見た目が美しくないからです。いろいろ、嫌なわけです。

           

          今から振り返れば、あの頃は、自分のことを他人として見ていた気がします。”わたし”という他人に向かって、「あなた嫌い。醜いから」みたいな感じです。ひどいですよね。とほほほ。

           

          他人だと思っているから、体が「辛い」と訴えても、無視できます。後回しにも、できるわけです。

           

          そんな風に”他人ごと”にしてきたと気づいたとき、本気で自分に謝りました。「ごめんなさい。これからは絶対、あなた(わたし)は、わたしが守るから。何があっても優先させるから。」と約束しました。

           

          気づきは大きな転機になりましたが、それだけで回復できたわけではありません。お医者さんのアドバイス、お薬、食事、生活環境、などなど、いろいろなものが力になりました。わかりやすいところで食事を例にすると、それを作った農家の方々、そしてその恵みを可能にしてくれた自然まで思うと、ものすごい助けを受けてきたわけです。

           

          ありがたいとは、有難いと書きますよね。本当に、その通りだと思います。自分だけでできることなんて、ありません。

           

           

          自己責任は、ボディワークを習っているときにも、出てくることがあります。やりすぎないように注意すること、無理しすぎないこと、でしょうか。

           

          でも、わたしはこのような場合に、この言葉を使うことが、好きではありません。自分のことは自分で、という方向性を否定したいわけではなく、なんとなく乱暴に使われがちなところが、気になるだけです。

           

          なぜなら、未経験の新しい領域に入っていく場合、どんなことが起きるかなんて、わからないからです。わからない人に、自分で責任を取るようにというのは、ちょっぴり乱暴に聞こえます。ちょっぴり、ですよ。でも、結構キツイです。

           

          もちろん、指導する側にはわかるのかといえば、他人の体に起きることを全部わかるわけはありません。それでも、自分の体を大切にするのと同じように、他人が自身の体を大切に扱えるように、自分ができることはするという意識は、あります。自分がいる場所で起きたことに、「それは自己責任だから」というのは、ちょと寂しいような気がします。

           

           

          自己責任は、英語で言うと、self responsibilityです。responsibilityという言葉は、response=反応する、という言葉からきていますよね。

           

          つまり、自分自身で起きることに反応する、対応する、というような感じだと思います。

           

          それは責任を持つ、ということになるのかもしれませんが、”責任”というと、ちょっと「あなたの責任でしょ」と他人を責めているような場面を思い浮かべてしまうのは、わたしだけでしょうか。

           

          そもそも、誰にも迷惑をかけないで生きている人など、いないはずです。「迷惑かけてないもーん」という方がいらっしゃるとしても、誰のお世話にもなっていない人はいないでしょうし、「お世話になってないもーん」という方がいらっしゃるなら、誰とも関わりなく生きていくことは、人間社会では難しいと思います。

           

          人との関わりを持つことは、人を成長させてくれます。自律神経システムの中の腹側迷走神経は、社会的つながりのシステムの神経と言われています。この腹側迷走神経が働くことで、誰かといても、戦ったり逃げたりすることなく、つながることができるのだそうです。そしてこれは、生まれた後、両親や周囲の人との関係の中で、育っていきます。

          (参考:「『今ここ』神経系エクササイズ」浅井咲子著 梨の木舎 2017年)

           

           

          日本語には、おかげさま、という言葉もありますよね。

           

          「おかげさまで、助かりました。」という、わりあい直接的に関係している場合にも使いますが、「おかげさまで、元気にしております」など、聞いてくださってありがとう、ということ以外、それほど直接的な関係はないときにも使います。

           

          それでも、おかげさま、なのですよ。

           

          「おかげさまで」と、卑下することなく、偉ぶることなく、生きていきたいと、思います。

           

           

           

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