パンダには天敵がいない

2015.11.12 Thursday



世事に対して超然としている性格のパンダ。

高いところからぽてっと落ちても、何事もなかったように立ち上がります。
人間のようなしぐさは、赤ちゃんのようでもあり、中年(笑)のようでもあります。
そのときの欲望に素直に、でものんびりと生きているように、わたしには見えます。
(実際に聞いてみたわけではないので、本当のところはわかりませんが。)

昨日、「パンダみたいに生きていたい」という話をしたら、
「パンダにはね、天敵がいないんだよ。」と。

現在、自然界にはパンダの天敵はいないそうです。
それにはパンダのごはん、竹、笹も関係してきます。

パンダは本来、肉食性の強い雑食動物の消化機能を持っており、繊維質の多い竹や笹を
充分に消化して栄養にすることも難しく、生きているために必要なエネルギーを得るためには大量の
笹を食べる必要があるのだそうです。

ある意味、効率的ではない食べ物を選んでいるのですが、それにも理由があります。
天敵や餌の競争を避けて中国山岳地帯の奥地を生息の場としたため、そこで冬でも枯れずに
一年中豊富にある食物が竹や笹だったそうです。

天敵を避けて安全な環境で暮らすことを選んだ結果、食べるものについては無理するようになったとか。
(上記は、上野動物公園のHPを参考にさせていただきました。)

人間にも、天敵はいません。
でも成長過程で、自分の妄想で敵を作っていくことがあります。
「あの人が嫌」とか、「こんな理不尽なことをされた、許せない」と思ったり、
人との競争もあります。
わたしにも、すごく覚えがあります。

でも、起きていることを相手のせいにしたり、
誰かとの比較で競争を続けていたら、いつまでたっても休まるときは来ません。
さんざんやった後に、「こんなのは、もう本当に嫌だ」と、わたしは思ったのです。

起きていることには自分で責任を負う(これは自分が悪いと非難するのとは違います)、
他人との競争ゲームからは降りる、と決めました。
ときどき道を外れておかしなことになることもありますが、気づいたら戻る、の繰り返しです。

パンダの生き方は、武術にも通じるところがあると思います。
武術の武は、戈(ほこ)を止める、という意味で、戦いをするためのものではなく、
戦いを終わらせるためのものです。
パンダのように争いを避けて生息地を変えるのではなく、起きてしまった争いを止めて
調和を保つ、という方法を選んだと言えます。野生動物と人間のように生きる世界が違う存在も
いるため、仲良くするというよりは、お互を尊重して脅かすことなく共存する、というイメージです。

もっとも良いのは、戦いを起こさないことです。
そのためには、自分がやわらかく穏やかでいることが大切です。
妄想で天敵を作っている場合、身を守るために自分は鎧を着たり武器を持ったりするため、
相手から見たら怖がられて、逆に攻撃されたりするからです。

太極拳は、心と体の無駄な緊張をとって、調和への道を歩むものだと思っています。
その套路(とうろ=型)には、体の無駄な緊張をとっていくコツがたくさん含まれています。
わたしが太極拳をするとき、自分の実感としても、体の専門家の整体の先生に見ていただいた時も
共通していたのが「太極拳をやりながら一番楽な状態をだんだんと探っていっている」ということでした。
実際、最初と最後には同じフォームがあるのですが、最後の方がラクで軽く動けます。
そして動く前の前提として、心が落ち着いて穏やかであることが、とても需要です。
イライラしたまま動いても、太極拳をする良さを生かすことはできません。

余談ですが、「パンダ体操」と勝手に呼んでいるものがあります。
両方の足の裏をつけて座り、体を左右にゆらゆら揺らしてから、
どちらか一方に倒れてくるりん、と一回転するものです。
右に倒れたら、足が上がって背中が床について、左足・腕から床に降りてきます。
これ、リラックスした状態でないと、スムーズにできないのです。
力んでいると、背中が床についた後に起き上がれなかったり、すごく力を必要としたり。
自分の状態を確認できるので、面白いですよ。
初めての場合は、畳がおすすめです。そして結構移動するので、広めの場所にしてくださいね。


(64式武当太極拳より)

 

「瞑想」をする意味

2015.11.07 Saturday



最近のお稽古では、太極拳の前に瞑想の時間をいれることがあります。
足を組んで座り、体をリラックスさせ、ゆっくり呼吸します。
普段、自分の外側に行きがちな意識を内側に向け、心を落ち着けていきます。

この瞑想の意味について、今のわたしが理解していることを書いてみようと思います。

中国武術(カンフー)には、動かない「静功」と、動く「動功」があります。
気功や太極拳は、「動功」です。
動功は、陽気、つまり生きていくためのエネルギーを育てる、と言われています。

陽気とは、後天の気、とも呼ばれます。
人は、生まれたときに「先天の気」を持ってきます。
わかりやすくするために、ランプでたとえると、ランプの燃料が「気」で、
それを使って命という炎を燃やし続けるのが人の一生です。
「先天の気」だけをエネルギーにすると、わずかな時間しか持たず、火は燃え尽きてしまいます。
そのため赤ちゃんは生まれると、口を動かして酸素を取り込み、母乳を飲んで、栄養を取り、
「後天の気」を育て始めます。そして「後天の気」を補充しながら、「先天の気」をなくさないように
ランプを燃やし続けます。

気功や太極拳は、体の無駄な緊張をとって血液の流れを助け、体を温めることができますし、
さらに内臓機能がきちんと働くように育てていきます。このため外から取り込んだ酸素や栄養分を、
自分のエネルギーに転化してランプの燃料にするとができます。

この陽気、陰気のないところには育たないと言われています。
その陰気を育てるのが、瞑想や站椿功(站功)などの静功だと教わりました。
太極図で、異なる質のものがお互いに補完しあいながらぐるぐるとまわるように、
陽には陰が必要で、陰には陽が必要です。それと同じことだと思います。


(太極図。パンダは、おまけ)

わたしの感覚としては、静功は土台というか、ベースを作る、というイメージです。
体と心を整えていく、と言ってもよいと思います。

站椿功(站功)、つまり立禅のように立ってやる場合は、無駄な力を抜いて
リラックスした体の状態を探っていくため、体の準備という要素も強くなる気がします。
このベースがあると、太極拳などの動功は全然違ってきます。
時間でいえば、体を起こしたい朝に向いています。

瞑想、つまり坐禅のように座る場合は、心を整えるという要素も強くなる気がします。
こちらは夜にも向いています。

道教では、6時、12時、18時に30分間ずつ静功をすると聞いたことがあります。
お坊さんでない人たちにこのペースは難しいので、回数、長さとも、やりたいだけで良いと
わたしは思っています。

瞑想の方法にはいろいろありますが、どれをする場合でも、最初は必ず体のチェックをします。
足、腕、背骨など、部位をひとつずつ見ていき、ゆるめて体の準備をしてから始めます。

眠くなってきて、本当に寝てしまう人もいます。
そして「寝てしまうと瞑想の効果がない」と言われます。
深い瞑想に入るとシータ波(Θ波、8−4Hzの周波数)が出て、潜在意識の状態
になると言われています。寝る直前、まどろんでいる状態のとき、いいアイディアや奇抜な
方法が突然浮かんだりするのは、この状態のときだそうです。

わたしが知っているセラピストさんは、ボディトリートメントをしているときの自分の
脳波を測ったら、ずっとシータ波だった、とおっしゃっていたことがあります。そして
「良いセラピストは、お客様も寝かせずに、寝る直前のまどろむ状態に保つのが、一番効果がある」と
おっしゃっていました。つまり、どちらもシータ波です。寝てしまうと、すべてがお休みになり、
癒すスイッチも入りにくくなるのかな、と思います。

では、瞑想もボディトリートメントも、寝てしまっては本当にだめなのでしょうか。
わたしは、「眠ってしまった場合は、どうぞ気持ち良く寝てください」と言っています。
セラピストさんも、「気持ち良く寝られたなら、それはそれで良いですよね」とおっしゃっていました。
なぜかというと、寝てしまう場合は、シータ波の効果以前の問題で、
体が疲労していることが多いからです。そんなときは、まず、欲求のままに寝るのが一番です。

瞑想の効果については、書かれているものも多く、ネットを調べて簡単に出てきます。
それを理解してやるのも良いのかもしれませんが、わたしは静かに立ち、静かに座り、
静かに呼吸を続けて自分と向き合いながら、自分で発見していくのが良いと思っています。
修行というものがあるのであれば、それは苦行ではなく、自分でやると決めて、やってみて
その体験から発見したことだと、思っているからです。他人と同じである必要はありませんし、
自分が感じたことについて、他人からとやかく言われることでもないのです。

「陰気のないところには陽気は育たない」という言葉の意味を理解するには、わたしもまだまだ
時間も経験も足りませんが、陰陽の調和を図ること、お互いが補完し合いながら発展していくことを思うと、
瞑想をする意味は、言葉ではないところで、少しずつ理解しているような気がします。

まだまだひよっこです。わたしも続けながら見つけていく「道」の途中なのですよ。


(中国、武当山の朝)


武術太極拳と健康太極拳

2015.11.03 Tuesday


(ご挨拶の形。陰陽マークをつくり、武器を持ってないことも表現しています)

太極拳をしています、とお話すると、「武術太極拳ですか?健康太極拳ですか?」
と聞かれることがあります。この区分について詳しくは知らないというお断りをしたうえでの
わたしの答えは、「太極拳は武術であり、だから健康によい」です。

武術の「武」は、戈(ほこ)を止める、という文字です。
もし戦いが起きてしまった場合、止めるための手段が武術です。

わたしがお稽古している武当拳(内家拳)は、道教の聖地でもある湖北省の武当山で
生まれました。
山には動物もいて、熊に遭遇することもあります。
人に会うと熊がびっくりして攻撃してきます。
何もしなければ命が危なく、そうかと言って熊を殺すわけにもいきません。
人間より熊が偉いことはなく、それぞれ価値ある存在だからです。
そのために相手の軸を崩して気をそらして、「こんなことはやめましょう」という
手段として、武術を使ったと言われています。

想像してみてください。命がかかっているため、
心を落ち着けて、最新の注意を払って自分の体を丁寧に扱い、
できるだけ自分の労力を使わずに効果を出さないといけません。
力任せにやれば動きは遅くなりますし、使いすぎると自滅します。
早く効率的に動くためには、中国語で放松と言われる状態にして無駄な緊張を除きます。
たとえば腕を使う場合も、腕だけ振るのではなく、
体の中心から力を伝えるようにします。どこかが緊張していたら、動きを止めてしまいます。
(放松について詳しくは→http://blog.minminkung-fu.com/?eid=84

これが結果的に健康にも良いのです。
無駄な緊張を取ることで、全身の血流が良くなります。
血が回れば、体は温かくなります。万病の元と言われる冷えも解消できます。
さらに自然に呼吸することで横隔膜がやわらかく上下に動き、
内臓を刺激し、本来の機能をきちんと果たす環境を整えてくれます。

そして心を落ち着けることで、自分で病を作り出すことも避けられます。
「病は気から」です。
(詳しくは→http://blog.minminkung-fu.com/?eid=18

現代では、危機回避の必要はあまりないと思われるため、
実質的には太極拳は健康のため、と言えると思います。
ただし、その由来は武術であり、わたしはそれを大切にしてお稽古をしています。

そして、一番良いのは戦いを起こさないことです。
それには相手に恐怖心を与えないことです。
自分から攻撃しないのはもちろん、自分が平和でいることが大切です。
自分が怖がっていると、鎧を着て防御したくなり、そんな姿は外から見ると怖く、攻撃されやすくなります。
体の緊張が強い人も、外から見ると怖く見えるかもしれません。
逆に、無防備な赤ちゃんは攻撃の対象にはなりにくいと思うのです。

田理阳師父(武当玄武派第十五代継承者)は中国武術の意味として、
「1は健康のため、2に自分を守るため、3に人を守るため」とおっしゃっていました。
自分が心身ともに穏やかにどっしり構えていれば、相手から攻撃もされませんし(2. 自分を守る)、
相手の攻撃心を刺激しない(3. 人を守る)にもつながると思います。
それを育てていくのが太極拳で、健康のため、そして平和な世界を広げるためだと思っています。


 

中国の文化:天地人

2015.10.28 Wednesday



武当山(中国、湖北省)にお稽古に行っている間、お茶の作法を習いました。

そのときに蓋碗(gài wǎn、がいわん)という茶器を指して、「これは天地人をあらわす」と
教えてもらいました。

蓋碗とは、蓋(ふた)付きの茶碗で、茶托(受け皿)を含めた3点セットです。
上の写真の、手前にある青い茶器が、そうです。
この蓋を天、托を地、碗を人として、天地人に見立てるそうです。
この小さい茶器に、宇宙の調和が表現されています。

「中国の文化はみんな、天地人だよ。」

古琴もそうです。世界無形文化遺産にも登録されているこの楽器には、
天の音、地の音、人の音があります。
(詳しくはこちらから→http://blog.minminkung-fu.com/?eid=68


太極拳も、同じです。
64式武当太極拳の最初には、宇宙の調和という段階が入っています。
1は、まず心を落ち着けること(身收心 Jìng shēn shōu xīn
2で、呼吸をしながら自分のバランスを取り、それから自分と天地を調和させます(吐故新 Tǔgùnàxīn
ここまでは動かない動作で、次の3から動く動作になります。

日本人のわたしが中国の文化について話すのもおこがましいのですが、
わたしは日本と同様に、この中国の文化にも育てられてきました。

ひとつ面白いな、と思うころがあります。

お茶の作法を教えてくれた人が、蓋碗の碗を指して、
「いつも人が一番大きい(笑)。」と言うのです。

古琴も、同じです。人の音は、左手を左右に動かしたりして、
右往左往、上へ下へと大きく動きます。

太極拳はどうでしょうか。
64式武当太極拳の3は、立っている姿勢から足を横に開く動きで、
混沌から2極に分けることを表現します(混沌初分 Hùndùn chū fēn)。

下記の写真にもある太極図が示す陰陽のように、すべては2極で成り立っています。
天地、男女など、質が違うものが対になって存在します。
どちらかが欠けると成り立ちません。
人が生まれるときもそうです。混
沌の状態から精子と卵子がくっつくことによって、命が生まれます。
生まれたら吸う、吐く、がある呼吸を始めます。心臓の動きも2極です。
太極図は静止図ではなく、実はぐるぐる回っています。ひとつ(黒)が大きくなると、
もうひとつ(白)が力を増してきて、白が大きくなりすぎる前に
黒が大きくなり始める、を繰り返します。



同じことの繰り返しですが、生まれた命が育っていくように、そこには発展があります。
このため3という数字は、「発展」を示すと言われています。

太極拳でも、天地との調和をもったまま、ずっと動いていくのは人です。
そう思うと、やっぱりここでも一番大きいのは人なのかな、と思います。

大きいことが、いいとか、悪いとか、そういう話ではなく、
いろいろあるよ、ということなのかな、と理解しています。

いろいろある”人”としての命を生きることは、なかなか味わい深いです。
あんなことも、こんなこともありますが、すべてよし、です。

心をやわらかく開く

2015.10.27 Tuesday















太極拳のクラスに続けて通ってくださっている方には、最初にお会いしたときに比べて
表情がやわらかくなる方が多いです。

太極拳の効果というより、単純に「慣れ」の問題だと思います。
誰でも初めての場所、初めての人に会うときは、緊張しますものね。

この緊張、必要だから存在するのだとは思いますが、
”緊張の鎧”で必要以上に自分をガードしてしまうこともあります。

人は成長期のいつのころからか、自分と他人、自然を”別もの”と思い始めるようです。
未知のもの、不思議なものは、怖いと思うのは当然です。
怖いから防具で補強するのですが、鎧だらけの人を見ると怖いので、逆に攻撃の
対象になってしまうこともあります。

太極拳を学ぶことは、こんな風に硬くなった心を開くプロセスでもあります。

わたしも”緊張の塊”でした。心も体も、きゅっと閉じていました。

「やりたいことがあったら自分で動かないといけない。人に頼ってはいけない」とか、
「結果を出さないと意味がない、自分の存在価値がない」とか、
自分ひとりで頑張って立たなければならないと思っていました。

でも太極拳を続けるうちに、物理的に”立つ”という意識が変わりました。
いらない緊張を外して立つと、大地と天から力をもらって「立たされている」と
いう感覚を覚えるようになったのです。
それまで自分ひとりで頑張って立っていたことが、すごく愚かに思えました。
(愚かでも良いのですけど。それはプロセスのひとつですので。)

こんなに助けてもらえるのに、
心と体を閉じていたら、それを自分から拒絶していることになります。

それまでは、ゆだねたら自分がなくなってしまうと思って、必死に鎧を着て守っていたのだと
思います。でも実際には、ゆだねたら楽で、でも自分がなくなるわけでもないのです。

緊張の塊だった頃のわたしに、こんな言葉を言ってくれた人々がいます。
「なんでも自分でやらないとできないと思っているでしょ。待っていてもいいんだよ。」
その言葉が腑に落ちるまでには、何年もかかりました。
でも今、自分の太極拳のクラスひとつをとってみても、誰かの協力なしには成り立っていません。
友人の紹介や主催で始めたクラス、お借りしている場所のオーナーさまのご配慮、
そして通ってくださる生徒さん、みなさんがいなければ、クラスはできていません。

緊張をとるためのプロセスは、わたしの場合、体の緊張に気づいて取っていく、の繰り返しです。
心が閉じているときには体の緊張として現れるため、体から気づいて心をほぐすこともあります。
心をやわらかく保つことも、意識するようになりました。

クラスで生徒さんを見ていると、たいていの場合は自分が緊張していることに気づいていません。
”放松(ファンソン)”というワークでは、ペアになって、ひとりが相手の体をもみほぐしながら、
押したり引いたりして緊張をとっていきます。
でもまず、相手の体に触ることに緊張する人も多いのです。
”別もの”という認識があると、当然です。
(放松について、詳しくはこちら→http://blog.minminkung-fu.com/?eid=84

この”別もの”という意識を変えてみます。
触っている人は、相手の体が自分の延長だと思うと(思えると)、わかることが増えます。
触れている人も、別ものだと思っている間は触られた場所に意識が集中して緊張し、自立という
安定性を失って、押されると軽く倒れてしまいがちですが、自分の体の延長だという意識を持つことで、
安定性を保ちやすくなります。
自立とは言っても、ひとりで頑張って立っていることとは違うのです
相手も認識しています。そこから力をもらって自分のものにすることもできます。
それは、お互いさまです。

関わることによってエネルギーが循環して、みんなで元気になるというイメージです。
自分も楽ですし、相手を怖がらせることもなく、平和な世界が広がっていくと思います。

以前からの太極拳友達に、「顔が優しくなったよね」と言われます。
鎧を着て、競争の中で生きていたわたしの顔は、険しかったのだろうなあ、と。

生徒さんの柔かくなった表情を見ていると、「これだよなあ」と思うのです。
今でもきゅっと硬くなることはあって、気づいたらほぐす、の繰り返しです。
鎧を脱いで武器を捨てて、自分と戦わない、そして人とも戦わない、ですね。


(武当山で、放松のワーク中)
 


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