今の私の修業

2015.02.04 Wednesday



「毎年、中国の武当山にお稽古に行く」と話すと、たいてい「修業ですね」と言われます。
そのたびに、そんな大げさなと、ちょっぴり居心地の悪さを感じていました。
実は”修業”という言葉にひっかかるのは、わたしに変なこだわりがあったからです。

最初のわたしの思い込みは、修業=苦行。お稽古は好きだからやっているだけで、苦行ではない!という、
強固な思い込みです(笑)。お稽古は常に限界を超えていく連続なので、
時にしょげつつ、でも淡々と続けるのですが、わたしにとっては「やりたいからやっているだけだ」なのです。
「修業、ということを特別だと思っている人もいる」と言いながら、今思えば、自分こそが
特別に思っていたのかもしれません。

修業に対してこんなひっかかりをずっと持っていましたが、昨年、ひとつきっかけがありました。
出羽三山に山伏体験に行ったときのことです。
自分の足で山を歩き、自分で読経して、最後にお守りの御札をいただきました。
その時に言われたことは、「ふつう、お守りは祈祷されたものを買う。
でも、この御札は違う。自分の足で歩いて、読経して、全部自分でやったこと。」
「自分の体験で得たものは、自分だけのもの。誰にとやかく言われるものではない。それが修業だ。」

修業という言葉がはじめて、しっくりきた気がしました。

さらにそのときに「日常生活にいたら、同じことを繰り返すだけ。だから非日常に身を置くことで
修業になる」とも言われました。

中国に行くことは、わたしにとっては非日常です。
普段のしがらみや習慣、ストレスにとらわれにくいと思います。
新しいチャレンジもしやすいし、自分の幅を広げるチャンスにもなりやすい環境です。

ただしそれが長くなって、非日常が日常になってくると、新たな壁にぶつかることもあります。
わたしの場合、一番長いときで2か月間、武当山にお稽古に行ったことがあります。
最初の1か月は、毎日がとても穏やかで、適度に自分を尊重し、周りを尊重し、というペースで過ごせました。
「東京に帰ってもきっとこんな風に過ごせるはず」と思っていました。
でも2か月目に入ったとき、問題が山積みになり、イライラ、号泣、極度の疲労、大ゲンカ、と
とんでもない日々がやってきました。
「どこにいても日常は変わらない」とげんなりしてすっかり嫌になった後、
日常の中で穏やかに生きることを模索し始めました。少しずつ、です。

日常のままでも、修業はできます。
というより、日々やるものだと思うのです。
修業とは、自分の体験を通して自分が得たものであるのであるならば、
それは毎日、あるものなのだと思います。

今のわたしの課題は、ちゃんと立って、歩くこと。
とてもシンプルです。
3年前、中国で「あなたの動きはきれいだけど、中が悪い」と指摘され、
横歩き、前歩き、後ろ歩きを、ひたすらやったことがあります。
あのときは先生から指摘されてですが、今回は、自分から「それがちゃんとできるようになりたい」と
太極拳とは畑違いの先生にお願いしました。
やっていると、意識が散ったり、体の左右のバランスが悪いとか、改善点ばかりに意識がいきます。
できたことに思いがいかないのです。
それを指摘されたときに、「評価・判断はせずに、事実を言っているだけ」と言ったのですが、
「2か月前に比べたらできることようになったことがたくさんあるのに、
だめなところばかりに意識が行くことは、良い、悪いの評価・判断をしていることだよ」と。
さらに「改善点ばかり気づくのは、自分で自分をいじめていることだよ」とも。

苦行をしていない、と言いつつ、実は自ら苦行を選んでいたとは。。。
先生は、「苦しいことの方がやりやすいから、ついやっっちゃうんだよね」とおっしゃいました。

自分の自己評価が低いのも、わたしの昔からの癖です
何かと比較して、足りないところを埋めていくことを続けても、きりがないと気づいてはいます
でも、ついやってしまうのです。
何か、とは、他人だったり理想の自分だったり、とにかく”自分ではない、別者”です。

がっくりです。でも、気づいたことでよしとして、ここからまた始めてみます。

太極拳の良いところは、自分の体ひとつでできることだと思っています。
地面があって、自分がいれば、それだけでできます。
地面がないとできない(笑)ので、地球に立って歩くというシンプルなことから、
すごくたくさんの感覚を得てきました。
立っているだけで心が震えたこともあります。
これは、自分がやった、自分だけのものです。
それをもっと、ほめて認めてあげようと思います。

日常を過ごすことは、とても穏やかで、ドラマチックなのかもしれません。
毎日、修業中です。


 

始めたのは偶然。今は「太極拳とは私の人生を生きること」

2015.01.31 Saturday


「太極拳をやることは、生きることと同じこと」

3年ほど前、当時同じクラブに通っていた友人から
「まゆみさんにとって太極拳ってどんなもの?」と聞かれたときの答えです。
これは今でも変わっていません。

始めたのは、知り合いがやっていたから。偶然です。
それはでやってみたいと思ったことは一度もありませんでした。
初めてお稽古を見学したとき、先生の動きをみて「すごい!」。
それまで見たことがない、人の体の動き。感覚。
「この人には私にわからないことがわかるし、できる」というのが、始めた動機です。

その後、今から6年くらい前に武当太極拳に出会いました。
体の中心からのシンプルな動きがしっくりきて、初めて「太極拳って、いいな」
と思いました。

大きな転機はそれから半年後です。
「先生は東京にいるし、ここで習えばよい」と思っていたのですが、
当時の先生から「ひとりで中国に稽古に行けない臆病者」と、一喝されました。
負けず嫌いのわたしは、「そんなことないもんね」と、その日のうちにスケジュールをあけ、
飛行機のチケットを予約し、翌日先生に「行くから学校に連絡してください」と伝えました。


ひとりで2週間、武当山の上で過ごす、初めての時間でした。
自分に集中しようと決めました。
人に遠慮したり気を使いすぎたりするのではなく、自分のしたいことを尊重しようと思いました。

当時通っていた学校の周りには街灯もなく、夜は真っ暗です。
でも、不思議に怖いとは思いませんでした。(出歩かないから、でもありますが)。
昼間には瞑想の時間もあります。
やり方もあいまいなまま、ひたすら静かに座る。1時間くらいあったような気がします。
足はしびれてきます。
部屋の窓の先には山。鳥の声、風、入ってくる光、その中での静かな感覚は、
今でも自分の中に残っています。

このときの不思議な体験が、涙です。
毎朝ひとりで山を走っていると、なぜかすごく涙が出るのです。
悲しいわけではないのに、ぽろぽろと。
そのときになぜか、「この先、絶望することがあったとしても、ここに戻ればまた始められる」
と強く感じたのです。

お稽古の仕方にはいろいろあると思います。
「これは何のため」と理解しながらやるのも、ひとつの方法です。
でも私がやってきた中には、わけもわからずやっていく中で、最初に何かの感覚や体感がきて、
後からだんだんわかっていく、ということも多くあります。
場合によっては、何年も後から、わかることもあります。
つまり、まだわかっていないことも、きっとたくさんあるのだと思います。

そして師父(先生)たちには、いつでもすごくちゃんと教えていただいたな、と思うのです。
お稽古は、できないことを超えていくものなので、最初にならうときはちんぷんかんぷんですし、
当然できません。時には「無理っ」と絶望的な中、これでやれと言われ、わけもわからずやってみます。
それをひたすら続ける、その繰り返しです。
私にはわけがわからなくても、師父からみれば、わかっているようです。
だから、できないことを超えていくことができます。少しずつ、ゆっくり、です。

このときの日記には、「わたしは山を愛しているし、愛されている」と書いています。
そして、気を使って社交したりせず、自分のすべきことに集中すると決めたにも関わらず、
結局はほかの生徒さんともよい関係を築くことができました。
無理に気を使う必要はなく、わたしはわたしでいればよい、と学ぶ経験にもなりました。


良いことばかりではありません。
このときの虫刺されが原因で、痒疹という皮膚疾患を長いこと患うことになります。
でもそれも、必要な経験だったと、今は思います。
人の期待に応えることを優先させるのではなく、自分の体は自分で守る、と学んだからです。


このときから「太極拳とは、わたしの人生を生きること」になりました。
技を習うだけでなく、心のありかた、人との関係、人生への向き合い方、
たくさんのことを太極拳を通じて学んでいます。
始めたのは偶然ですが、今は、生きることと重なっています。
形は変わっていくかもしれませんが、これからもずっと私は太極拳とともに生きると思っています。

功夫(カンフー)とは、時間をかける人、という意味ですしね。

 
お稽古していた紫霄宮(ししょうきゅう)。道教のお寺です。世界遺産。












お稽古に向かう姿勢は、この頃も今も、同じ。


学校で飼われていた犬、BeBe。すごく賢い犬でした。
わたしが帰る日、荷物をまとめてドアを開けたら、こうして座って待っていました。
お部屋に入ってきて、一回りまわってから出て行きました。
わたしには寄ってこず。帰るって、わかったのかしら。
 


中国茶のススメ

2015.01.28 Wednesday



中国茶が好きです。

日本人は、中国人と同じように、昔からお茶を飲む文化があるため、
お茶は遺伝子的にもとても合っているそうです。

自由が丘で開催しているクラスの後にも、お茶をお出ししています。
クラスの感想や希望を伺ったり、質問にお答えしたり、お互いのお話を聞きあったり、
と、お茶を囲んでほっこりした時間を過ごしています。

実は、季節によって飲むお茶の種類が違うのです。
中国茶は大きく分けると6種類、緑、白、黄、青、黒、紅茶に分かれます。
そのほかに花茶があります。
秋冬におすすめなのは、体を温めるウーロン茶(青茶)などの半発酵茶か、
プーアール茶(黒茶)や紅茶などの発酵茶です。
緑茶は体を冷やす作用があるため、立冬から啓蟄までは避けます。

日本の玉露のようにうまみや甘味を重視するのではなく、香りをたたせたいため、熱湯で入れます。
そして一口サイズの茶杯でいただきます。
大きな茶碗ではなく小さい茶碗でいただく良さを、中国茶専門店の方に伺ってみたら、
「小さい方が香りに意識が行きやすく、香りを楽しみやすいようです」
とおっしゃっていました。なるほど、です。
中国茶は、何度もお湯をつぎ足して何煎もいただくため、
杯が変わるごとに香りの変化も楽しめます。

お茶菓子も添えます。
左からアーモンド、柚子ピール、サンザシ。どれも今の季節におすすめです。


ナッツ類は血管をやわらかくしてくれます。
冬が旬の柑橘系の皮は、咳止め、タン切りにもなるそうです。
赤い実のサンザシは、胃腸の調子を整え、血管をやわらかくしてくれます。

面白いお茶道具?のご紹介も。
中国、武当山の師父(先生)のオフィスにいます。




















私は勝手に、ピーピー小僧と呼んでいます(笑)。
まず最初に、かわいそうだけれども水攻めにされます(水の中に入れられます)。
この子の体の中に水が入ったところで、上から熱湯をかけられます。
すると、水が勢いよく放物線を描いて飛び出します!
かなり飛ぶので、いきなりひっかかってびっくりさせられます。


(中国の師父、お茶のお支度中。ピーピー小僧も右手前で待機中です)。

お茶を飲むときには、水(お湯)も同量、飲むように心がけています。
お茶には利尿作用があり、それが良いところでもあるのですが、お茶だけだと
血が濃くなってしまうこともあると聞いたからです。
「みずみずしい人とはいうけど、お茶お茶しい人とは言わないでしょ。
だから水のまま飲むのも大事なの」と言われたこともあります。

のどが渇く前に少しずつが、おすすめですよ。



☆☆☆自由が丘でのクラスのお知らせ☆☆☆
↓こちらをご覧ください↓
http://blog.minminkung-fu.com/?eid=12

「病は気から」。心のあり方

2015.01.24 Saturday



「病は気から」と言います。

実は、病気の7〜8割はウィルス性ではなく、心身によるものだと言われています。
運動は体力向上に役立ちますし、必要な筋力があることも大事ですが、
心のあり方も、健康を保つためには大切です。

2000年以上前に中国で誕生した最古の医学書と言われている「黄帝内経(こうていだいけい)」は、
「昔の人は、100歳を超えても衰えなかった」という書き出しで始まります。
先人の智慧がつまったこの書には、七情(7つの感情)が穏やかであることが大事だと書かれています。

七情とは、怒る、喜ぶ、思う(=悩む+悲しむ)、悲しむ、驚く、恐い、憂う(=悲しむ+思う)のことです。
.................................................................................................................
<怒則気上> 怒ると気が上がる。肝臓にさわる

<喜則気緩> 喜ぶと気が緩む。心臓にさわる。失神、不眠などを引き起こす

<思則気結> 思う(失恋とか仕事の悩み)と気が固まる。胃にさわり、胃潰瘍などを起こす

<悲則気消>   悲しいと気が消える。肺にさわる。疲れやすかったり、声がかすれる

<恐則気下> 恐いと気が下がる。腎臓にさわる。失禁などを引き起こす

<驚則気乱> 驚くと気が乱れる。不眠、精神の錯乱などにつながる
.................................................................................................................

感情があるのは当然のことですが、問題は、これらの感情が突然、激しく、長期に持続した場合、
その刺激は人間が受け入れられる範囲を超えてストレスになっていくそうです。
ストレスが許容範囲を超えると、病気につながることもあると言われています。

わたし自身は、感情は大切にしたいと思うのです。
自分がうれしいのか、悲しいのかを正直に感じて、
それらをだめとするのではなく、自覚して受け止めたいのです。

たとえば怒っている場合です。
その奥には、自分が大切にしたいものが隠れている場合があります。
怒りに震えるのは一瞬にして(これをしないのが理想なのかもしれませんが)、
大切にしたものは何か、見にいってみます。
それが見つかると、怒りの感情に取り込まれてしまう事態から脱却できたりします。
怒りが長く続くと後でぐったり疲れるので、「もうこんなことはやめよう。
自分が疲労するから」と決心!?することもあります。

太極拳をやっていても、よく「心が穏やかで落ち着いていることが大切」と言うのは、
こんな理由もあるのです。

いつもまぁるい穏やかな心で、大地に根をしっかり張って「自分を生きる」ことを大切にしようと思います。
そんな人が近くにいたら、寄っていきたくなりませんか?

まずは自分のために、穏やかになることを大切にしようと思います。
そして穏やかな人は、周りも穏やかにするような気がします。
穏やかな人が1人いると10万人が救われる、という話を聞いたことがありますが、
なんとなくそうだろうな、という気がします。
ひとりの力で、世界はもっとずっと平和になる、かもしれません。
わたしはそうだと、信じています。




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武術と才能

2015.01.20 Tuesday



ストレングスファインダーという才能発見テストの結果をもとに、
それぞれの人の活かし方をコンサルティングしている友人の新関裕二さんから
「武術と才能の関係ってどうなの?」と聞かれたことがあります。

ここでいう才能とは、強く出ている資質のようなものです。
長所にもなれば、短所にもなりやすいところです。

私の答えは「習い方や教え方には関係していると思うけど、本当にすごい人には
個性を感じない」というものでした。

そんな体験が1回だけあります。

2011年に2か月間、中国 武当山のカンフー学校に滞在して練習していたことがあります。
そのときの学校の館長である師父(先生)が、田理陽師父(上の写真)。武当玄武派第十五代継承者です。
この師父の太極拳を見たとき、すごく不思議な気持ちになりました。
「知っている人なのに、わからない。」

そのときまで1か月以上、毎日教えていただいて、普段の様子や人柄も含めて、それなりに
知っているつもりでした。でも太極拳をやっている姿は、全然知らない別人のようだったのです。

武当拳の道着は、上の師父の写真で見てもわかるように、そで上着の裾も長くなっています。
一番長い場合は、上着が裾まであります。
これは、相手に動きを悟られないようにするために隠していると、言われています。
個性もたぶん、同じなのかもしれません。
長所でもあり、短所でもあるなら、見えない方が良いのかもしれません。

この師父の動きを見るまでは、太極拳には個性が出る、と思っていました。
生き急いでいる人、細かいところが気になる人、おおざっぱな人。。。
その人らしさが浮き彫りになるのが太極拳だ、と思っていました。

だから、この田師父の動きを見たときは、衝撃でした。
「本当にすごい人は、その人がどんな人なのかわからない。」

この話を聞いて新関さんは「面白いね。才能の場合も、自分の強い資質を
活かしていくと、ほかの資質も使えるようになる気がする」と言っていました。

武術に限らず、なんでもそうなのかもしれないと思っています
まずは自分の特性を理解して、受け入れて、活用していくところから始めます。
理解や受け入れが足りないと、強い資質に振り回されて大きな弱点になりかねません。

たとえば、わたしの場合は一番強い資質が「最上志向」なのですが、これは
得意なことをもっと伸ばしたい性質です。平均よりできないことを人並みにもっていく
ことには、まったく興味がない資質なのです。
だから、不得意なことをもうちょっとなんとか。。。とアドバイスされたりすると、
すごく苦しいのです。得意なことは、もっともっとやりたいので、それを制限されると、
これもすごく苦しいのです。この資質を自分で理解して受け入れてないと、ときに組織・環境
不適合となり、悩み苦しむことになったりします。

受け入れたら、次のステップは、のびのびと活かしていくことだと思います。
その次にくる段階が、全部の資質がうまく使えるようになる、というのは
面白いと思っていますが、私はまだ、とてもとてもこの域には達していません。

(才能から見た私の推薦文「私の存在が太極拳を通じて伝えるもの」は↓
http://blog.minminkung-fu.com/?eid=7

師父の話に戻ると、あの日の体験と感覚は、あのときからずっとわたしの中に深く残っています。
もちろんすぐにできるわけではありませんが、その感覚をずっと追ってお稽古を続けています。

本物を見ること、本物に触れる体験。
これは何ものにも代えがたい、貴重な体験です。

ちなみに、上の写真は、「白鶴亮翅」といって白い鶴が両方の羽を広げているポーズです。
恐れ多くて前から撮れないので、こっそり後ろから。。。(こっそり、のつもり)。

最後の写真は、2か月滞在したときの最終日です。
中央、白い道着の方が、田師父。向かって左隣が私です。


☆ ☆ ☆ 講座のお知らせ ☆ ☆ ☆

シェア奥沢(自由が丘)での1−3月の予定は、こちらから↓
http://blog.minminkung-fu.com/?cid=5
 


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