武当山日記: これからの人生で大切にしたいもの

2015.05.19 Tuesday


(早朝練習のために、宿舎を出たところ)

今回、武当山(中国、湖北省)に行って一番感じたことは、これからの人生、こうやって
生きていければ十分満足だ、ということです。

お日様が上がったら起きて、体を動かして、ごはんをおいしく食べて、
山をお散歩して、音楽を楽しんで、会話して笑って、夜が来たら寝る、という生活です。

同じことの繰り返しの毎日で、服装も食べ物も贅沢とは無縁ですが、
実際には毎日、違って、すごく豊かなのです。

武当山での生活は、すべてが丁寧です。自分の体、周りの人、動物、植物、すべてを大切にします。
穏やかな心を持ち、調和を大切にします。
年齢を重ねていっても、元気です。

人は、上半身が重く、下半身が軽いと言われます。
物理的にも、体重の3分の2は上半身にあります。
そして「考える」という人間らしい特徴も、
行き過ぎると頭でっかちになり、上半身の重さにつながると思っています。
年齢を重ねると歩けなくなるのは、弱っていく下半身が重い上半身を支えられなくなるからです。

だから、武術をやる人は、足を育てます。
大地に根をはって、地面とつながって強い足を育てます。
大地と天は対になっているため、人が大地とつながれば、天ともつながることができます。
そこで初めて、人は大地と天と、つまり地球というか、宇宙と共に生きることになります。
それがなければ人は大地と天の間で、独立して生きるだけです。

大地と天とつながって生きることは、わたしにとっては絶対的な安心感をもたらします。
一人で生きていないこと、周りの人に助けられて生きていること、
そして地球とも同じリズムで、助け合って生きていること、
そんなことを感じて毎日を過ごすようになりました。

今、人は環境の破壊要因を作っており、人がいるから地球が滅亡に向かう速度は早まっている、
とも言われます。それなら人は望まれない存在なのか、と思ってしまいますが、
そうではないと思うのです。
地球に望まれたから、必要だったから、生まれたはずです。
そう思うと、人が大地の上、天の下に立って、歩いて、生きること自体、
望まれていることですし、すばらしいことだと思うのです。

武当山は、毎日違う姿を見せてくれます。雲が動く姿は美しいし、
朝日も、夕日も毎日違います。自然は生きていること、毎日変わっていくことを見せてくれます。

人も同じです。同じ体でも、本当は毎日違います。
だから、昨日ストレッチをしてやわらかくしても、今日はまた新たな気持ちでストレッチします。
太極拳も、同じ。同じ動きでも、毎日、違うのです。
だから、同じ動きを何十年もやることができます。飽きないのです。

シンプルな、基本的なことが、一番奥が深いです。
そして、それだけで一生、十分楽しめるのです。

普段の生活では煩悩だらけのわたしですが、
本当に大切にしたいものは、すごくシンプルだと、
今回の旅で気づきました。

現実には、東京での生活はそれほどシンプルではありません。
そのギャップに戸惑いもありますが、焦って何かを変えようとするよりも、
無理せず、ゆっくりやっていこうと思います。


(午前中のおけいこ場所からの風景。武当山の頂上、金頂が見えます)
 

武当山日記: 貧乏性にならない

2015.05.14 Thursday
















わたしには今、東京で、基本的な体の使い方を教えていただいている先生がいらっしゃいます。
約2週間の武当山滞在の後、帰国してはじめてのお稽古で「筋肉と体幹がしっかりした分、
それを使おう、使おうとしている。貧乏性なのね(笑)。」

あるものを全部使おう、としているそうです。

筋肉には2種類あって、立つという基本的な動作に必要なのは赤筋です。
下半身に多く、鍛えても金繊維が太くならずやわらかい筋肉です。
立つためには緊張していることが普通のため、「緊張している」という感覚がなく
(あったら、いちいち立つことが大変です)、緊張筋とも呼ばれます。
中国武術で鍛えるのは、この赤筋です。

もうひとつは白筋で、鍛えると太く固くなります。上半身に多く、力こぶは、これです。
相性筋とも呼ばれます。

歩く、という日常動作には、”使っている”感覚がある筋肉は、本当は必要ありません。
それをわたしは、使わなくても良い筋肉を緊張させて使っていたことになります。
あるものを使いたい、貧乏性。無駄な行為、ともいえます。

こんなことは繰り返し起きます。

わたしの場合、「これができたらあれもできるはず」という思いが働いた途端、
面白いくらい失敗します。とにかくやってみよう、という方がうまくいきます。

人は、”やっている感”や”頑張っている感”で、生きている実感を得ようとする、
という話があります。無理したり、頑張りすぎたりしてしまうのも、このためです。
やっている感があることで、満足を得ようとします。
今回のわたしの貧乏性も、同じです。

でも、そんなに負担をかける必要はないのです。
少なくとも、歩くという動作には、必要ありません。
もっと楽に生きて良いのです、と、今のわたしは思うのです。
実際「できるだけ筋肉を使わないように、心がけて歩いてみて」と言われて
やったほうが、ずっと良かったのです。

自分が得たものは、体が記憶しています。
わざわざ言語で意識しなくても、それをベースに今日を生きています。
「あれができたから」「あれをやったから」という余計な考えを外側にまとうことで、
自然な動き方が損なわれます。

ちょうど、中国に行く前に「自分というリソースを、ちゃんと使い切っているんだろうか?
もっと使い切らないともったいない」という話をしていたのですが、このときも貧乏性だったのかも
しれません。使い切っている感がありありだったら、それは負荷をかけすぎ、やりすぎではないのかしらね。

ついつい貧乏性が顔を出してしまい、そのたびに愕然としますが、
わたしはまだ、もっともっと楽に生きられる気がします。



 

武当山日記: 丁寧に生きる

2015.05.11 Monday




5月初旬までお稽古に訪れていた中国、湖北省の武当山の滞在から感じたことを、
引き続き書いてみます。

毎回、何を習うかとは別に目標を設定しているのですが、今回のテーマは
「今よりずっと、自分を大切に、丁寧に生きる」でした。ブログにも書いています。
http://blog.minminkung-fu.com/?eid=45

振り返ってみると、見方や感じ方が前とは違ったものがあったり、
まだまだ自分が雑であることがわかったり、でした。

まず、見方や感じ方が変わったことは、食事の仕方です。
わたしは、食べるときに音をたてることが苦手です。
でも学校では、みんな音をたてて食べます。
そして立ったまま、歩きながら食べたりと、お行儀がよろしいとは言えません。

今回も、状況は同じです。でも、表面のマナーはよろしくないものの、
「食べる」ことについては、丁寧なのだと気づきました。
武当山に到着して翌日の朝、「お腹すいていないからごはんいらない」というわたしに、
お迎えに来てくれた人が一喝。「食べないのは体に悪い」。
そして山の上の学校では、3食、ほぼ時間通りにきちんと食べます。
大皿から自分の分を取り、残さずしっかり食べます。

今日のごはんが明日からの体を作る、と思っているため、わたしは食べることを大切にしています。
そんな視点から見ると、マナーは全く気にならず、
「ここの人たちは、自分の体を大切に扱っている」と感じたのです。
見えているものとは別のことを、感じるようになりました。

自分がまだまだ雑なことを、感じた場面もあります。
夜の自由時間に、古琴を習ったときのこと。
弦をぴんっとはじいてしまうわたしに、教えてくれた人が
「人をそんな風にしてはじいたら痛いでしょ。乱暴にしない。
鳥が水にちょんっと触るように、やわらかく。最初は小さい音でいいんだから。
これも太極拳と同じだよ。」と。















太極拳は、足も手も、指先まで使います。
無駄な力を入れずに緩んだ状態にしておくことで、丹田からの力がうまく指先まで伝わります。
緩めることができれば、丹田から力を伝えて、結果的に強い力を出すこともできます。
逆に緊張していて硬いと、丹田からの力は手前で止まってしまいます。
たいていの人は、そんな部分まで意識していませんが、指先が緊張しています。
先生や達人は、指先が緩んでいて、見ていて気持ち悪くなるくらい(笑)指がふにゃふにゃと動きます。
実はもっともっと、指先まで使える可能性がある、ということです。

古琴の弾き方も同じです。
はじいてしまうと、音は固くなります。
指を緩めてやわらかく鳴らすと、やわらかい奥行のある音になります。
自分の体を緊張した手でたたくときと、緩めて腕の重さで落としてたたくときの違いと、
同じだなあ、と思いました。前者は表面だけに刺激があり、音も乾いた軽い音になります。
後者は水の波紋が広がるようにじわじわと刺激が奥の骨まで浸透し、音も深みが出ます。

こんなところでまだまだ、と感じるなんて、ですが、
わたしにはまだ、目標に向かって力をこめてやろうとしてしまうクセがあるようです。
これって、自分を丁寧に扱っていることではありません。無理をかけているから。

武当山でカンフーをしている人たちは、とても丁寧に生きています。
カンフー自体がすごく自分を丁寧に扱いますし、
規則正しくごはんを食べ、イライラしたりせず、よく笑い、穏やかに過ごします。
自分の体と心の声をきちんと聞いていますし、それは自分の体と心に責任を持っている、とも
言えると思うのです。
それには、大自然の中で生きていることも、大きいです。
水が高い方から低い方に流れますし、岩があれば文句を言うこともなく、よけて流れます。
水が流れるように、自然に生きる。「上善如水」。流れる水は腐らない、とも言います。
結果としてそれは、岩も砕く強い力も持っています。

丁寧に生きる生き方が、好きです。
武当山の自然の中で、おおらかに丁寧に生きる人たちと過ごす毎日から学んだことは、
大きかったと思います。

丁寧に生きる生き方が、好きです。
だから、カンフーが好きです。
丁寧に、自分を大切に扱うことで、他人も環境も大切にできる、と思っています。
そして自分を丁寧に扱う姿勢は、音の振動のように、波紋のように、
まわりに広がって平和な世界を作ると信じています。

わたしもまだまだです。今よりもっと丁寧に、これからも毎日を過ごそうと思います。




 

武当山日記: 引き継いでいくこと

2015.05.08 Friday



5月の連休の頃、武当山にお稽古に行っていました。
そこで感じた大切なことを、少しずつ書いていこうと思います。

太子洞というお寺の裏の洞窟に住む、道士のおじいちゃんを訪ねたときのことです。
(おじいちゃんは、以前ブログでもご紹介しました。http://blog.minminkung-fu.com/?eid=26
今回は学校の人たちと一緒でした。

わたしが日本人であることを、おじいちゃんはご存知なのですが、その話から生徒のひとりが
「韓国人と日本人は似ているよね。」

わたしが「でもやっぱり違うよ」と言うと、おじいちゃんがわたしの手をとって、
「指が1、2、3、4.5本。みーんな、おんなじ(笑)。」

その通りです。どの国の人も、みんな同じです。

国が違うと文化も違うし、理解しあえないことや、壁もあったりします。
カンフーでも、中国人の先生は外国人には本当のことを教えない、という話もよく聞きます。

でもわたしは、中国人の先生たちから、良く教えていただいた記憶しかありません。
教えていただいていないとしたら、それはわたしがまだそのレベルに到達していないからだと思うのです。

中国人は教える価値のない人には教えない、と聞いたことがあります。
それは時々感じることがあります。
意地悪をしているのではなく、意味がないからというだけのことです。
たとえ伝統がそこで途絶えるとしても、
引き継ぐだけの度量がない人には教えない、ということのようです。

だからこそ、一生懸命な人、真剣に取り組む人には喜んで教えてくださいます。
自分が引き継いだように、次の世代に引き継いでもらいたいという思いはあるようです。

わたしも、これからも焦らずにゆっくり学んでいこうと思います。
どう習ったらよいのか迷ったこともありましたが、
今はこのままやっていけばよい、と思うようになりました。
カンフー(功夫)とは、もともと時間をかける人、という意味でもあるのです。
今回も、はじめて習った形意八卦掌の歩き方に苦戦するわたしに、
先生は「心配することないよ。これはみんな、ずっと長く練習していくものだから。
『慢慢習(ゆっくり学ぶ)』でいいんだよ。」
とおっしゃっていただきました。

カンフーは、特別な人のものではなく、誰にでもできます。それぞれのところから始めればよいし、
自分のペースで進めればよいのです。カンフーを学ぶことは、生きる豊かさを教えてくれると、
思います。

ただし自分のペースとは言っても、ちょっと引っ張って可能性をストレッチしてくれる
先生という存在は大切です。「それは違う」と指摘してくださったり、すごく厳しかったり、
まだ見えないものを見せてくださったり、
先生は優しいだけの存在ではなく、強い存在でもあります。

わたしは先生にはすごく恵まれてきました。何度やってもできなくても、
先生があきらめたり、嫌な顔をされたことはありません。
「わからない」と言うと「とにかくやれ」と厳しい顔をされたことは何度もありますが、
後から振り返るとそうするのが良かったのだろうと思うのです。
どの先生にも、感謝と恩しかありません。

わたしの先生たちがそうだったように、わたしも生徒さんたちにとって、
そんな先生でありたいと思います。
引き継ぐのは、伝統の技だけではなく、心や生き方もだ、と思っています。

豊かさとは、心や生き方を引き継いでいくことからも溢れてくると思うのです。

最後の写真は、今回一番教えてもらった杨阳(ヤンヤン)と、最後のお稽古の後に撮りました。
太極剣も、形意八卦掌も教えてもらっただけでなく、一緒にひたすら八卦掌の歩き方を練習をしたり、
站椿功をやったりもしました。この人の姿勢や心のあり方からも、たくさんのことを学んだ気がします。

たくさんの感謝をこめて。


 

武当山に行く理由:今よりもっと、自分を大切に。

2015.04.25 Saturday



今日から2週間、中国 湖北省の武当山にお稽古にいきます。
長いときで2か月、あとは短期ですが、通算で半年ほど滞在しているため、
わたしにとっては帰るところ、ホームです。原点でもあり、わたしがわたしに還る場所です。

毎回、そのときの自分により、目的を持っていきます。
今回は、今よりもっと、自分を丁寧に、大切に、大事に扱う、です。
(もちろん、〇〇太極拳を習う、など、技術的な目的は別にあります。)

産まれてから育っていく中で、いろんな価値観、考え方、社会生活を守るためのルールに触れ、
もまれながら自分らしさを探してきたと思います。最初は何が自分らしいのかわからないため、
なんとなく前にきたものを全部やってみて、その中で自分らしくないもの(=苦しいもの)を
手離し、自分らしいもの(=楽なこと)を残して大事に育てています。

太極拳は、自分らしいものとして残して育てているものです。体力的にきついこと、精神的にも
忍耐が必要なことはあるため、傍目には苦行のように見えることもあるかもしれませんが、
自分を苦しめるものではありません。それは自分らしさを探していくプロセスです。
そこで自分が得た感覚こそ、自分らしさで、それを探していくことが修業と言う、と思っています。

太極拳を選ぶのは、わたしが体にこだわっているからです。
人の魂は輪廻転生すると言いますが、今の命は体の機能が停止したらおしまいです。
だからこそ、体を通して学ぶのだと思うのです。

人の心と体はバラバラだとも言われています。肩こりなのに気づかなかったり、
心とは裏腹なことを言ってしまったり、自分の本当の気持ちに気づかなかったり、
ちぐはぐなことがたくさん起きます。わたしが太極拳を始めたときも、そうでした。
好きでやっていたはずの仕事にも違和感を覚えるようになり(決して仕事が悪かったわけでは
ないのです)、無理をかけた体は目に見える湿疹として外に現れました。
その頃はよくわかっていなかったのですが、外の評価で自分の価値を決めていたと思います。
評価されない自分は、価値がない、など。他人軸で生きていました。

太極拳を始めて、体に意識を向け、心に意識を向けていくことで、少しずつ体と心が
一致してきたと思います。

体の反応を良くみることで、好きか嫌いかがわかります。
好きなことは体が楽、嫌いなことは体が硬くなります。体の反応で自分の心を見ながら、
いつも「わたしを生きる」ことを大事にしてきました。

普段のわたしは煩悩だらけですが、太極拳をやっているときはエゴや欲がなく、ただ心を静かに
することだけを心がけています。穏やかで平和な状態です。
人と比較することはありません。人と争うこともありません。
自分が穏やかな状態だと、それは波動として伝わり、周りの人や環境も穏やかにしていくと思っています。
穏やかな人のそばにはいたいですが、イライラしている人から逃げたいのは、その波動を感じているからです。

武当山で集中してお稽古するのは、もっともっと穏やかな心を育てたいからです。
調和を大切にする文化の中で、戦わない心、戦いを終わらせることを、
もっと学びたいからです。
そして、普段の生活にも、もっと生かせるようになりたいからです。

慣れた場所でも、海外に行くことは緊張も伴います。
毎回、自分の身は自分で守る、そうでなければ危険だと、肝に銘じています。
危険と隣り合わせだからこそ、自分を丁寧に扱います。
ごまかしたりも、できません。
これはわたしが武術を選んでいる理由と同じです。

今よりもっと、自分を丁寧に、大事に、大切に扱う毎日を送ることが、
今回の大きな目的です。

何度行っても、海外に行くのは緊張します。
緊張や恐れはありますが、嫌な感じではなく、静かに出発の準備をしている気がします。

帰国は立夏の翌日です。
季節も変わってきます。
わたしはどんな風に変わるのか、変わらないのか、楽しみです。



 


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