タオの生き方:不老不死

2018.06.20 Wednesday

(中国、武当山の逍遥谷。老子の像)

 

タオイスト(道士)とは、狭い意味では、道教の修行者(修行僧)のことで、広い意味では、それに準じた生き方を選ぶ人だと思っています。

 

道教とは、中国古来の宗教的な諸観念をもとにして形成された中国土着の宗教で、不老不死を得て「道」と合一することを究極の理想としています。

 

道教の「道」は、道家思想の「道」。道家思想とは、老子、荘子の思想です。

 

道教は、道家思想、神仙思想、陰陽五行思想、民間信仰など、長い時間をかけて多くの要素を吸収して成立しています。老子を神格化し、その著書である「道徳経」は、聖典として扱われています。

 

道教の特徴をあげるならば、以前、気功を教えていただいていた中医師の先生から、「一生をかけて、青春を追い求める」と教えてもらったことがあります。「世界中に、こんな宗教はない。」と。

 

この言葉が、とっても好きです。

 

太極拳をすることを、「20年たっても同じ体」と表現されることがあります。

 

実際に、それは「関節の隙間を開けていくもの」と、中国の先生に教わりました。放っておけば、縮こまってカタくなり、曲がってくる体を、毎日、自分の意識と体の使い方で、関節に隙間を空けていくのです。

 

ゆとりがあれば、血が流れ、血が流れれば、体温は上がります。体温があるということは、若々しさ、生命力があることの証拠でもあります。冷え症の赤ちゃんは、いませんものね。

 

そして、体のゆとりは、心のゆとりともつながっています。

 

さて、この青春を追い求めることですが、道教関連の文献にはよく、「不老不死をめざす」と書いてあります。人間としての肉体は死ぬため、わたしはこれまで、これを「不老長寿」と読み替えてきました。

 

でも最近、そうではなくて、やはり「不老不死」なのだと思うようになりました。

 

老子の「道徳経」は、世界中でいろいろな方が翻訳したり、解釈したり(中国国内も含む)している難解な書です。そのひとつ、黒澤一樹さんの「ラブ、安堵、ピース」に、こんな文章があります。

 

人間の視点から世界を見れば、この世は「死生」という残酷なスクラップ・アンド・ビルドが延々と繰り返される世界のように見える。

でもね、そう見える「解釈の世界」の向こうにある、「あるがままの世界」では、命は一度も絶えることなく、脈々と生き続けているんだ。

 

「解釈の世界」に生きる人は、物事を分離してとらえているからこそ、「人の内に命がある」と言う。人に限らず、生物の個体それぞれに、個別の命が宿っていると思っている。

 

「あるがままの世界」に生きる人は、存在すべてのつながりをとらえているからこそ、「命のうちに人がある」ことを知っている。

個別の命があるのではなく、無限に広がるたったひとつの「命」という空間の中に、すべての存在の躍動があるんだ。だから、そこに見えるのは、「個々の死生の繰り返し」ではなく、「絶え間ない宇宙の呼吸(全体における躍動)」。そこには、奪われる命も、与えられる命もない。

 

ね、常軌を逸した話だろう?

 

だからもし、「あるがままの世界」に気づいたとしても、あまりしゃべらないほうがいいかもね。

 

「解釈の世界」には、「解釈の世界」なりの真実や秩序がある。それはそれとして認めながら、「あるがまま」については、そっと胸の中に留めておくのがいいと思うよ。

 

(「ラブ、安堵、ピース」第5章より。黒澤一樹、アウルズ・エージェンシー、2016年)

 

これを読んだとき、「命の内に人がある」から、不老不死なのだと、ようやく腑に落ちました。ここで言う「あるがままの世界」は道の世界。「解釈の世界」は、現実に生きている世界で、人は、いろんなものに名前をつけて、解釈をつけて生きています。

 

太極拳の套路のひとつ、十三式武当太極拳の第一式は「開太極」、最後の第十三式は「合太極」という名前がついています。「太極」と「道」は、ほぼ同じと理解してよいと思います。太極を開くと、陰と陽が出現し、動き始めます。陰陽の転換で動きが続き、その動作は攻防をなぞっています。最後は、太極に合一して終わります。

 

太極拳の套路は、陰陽のあるこの世に生まれてから死ぬまでの、一生を表しています。人の一生でもあり、宇宙の一生でもあるかもしれません。

 

生きている間には、いろいろな攻防があり、その中でバランスを取ること、和を作りだすことを学びます。最後は、生まれてくる前にいたところに還ります。この世から体は消えても、なくなるわけではありません。

 

書いていると、確かに「常軌を逸した話」のように思えますが、これを胸の中に留めて生きるかどうかで、世の中の見え方が変わってくる気がするのです。

 

それを知った人は、肉体ありきの「不老長寿」ではなく、「不老不死」を目指すのではないでしょうか。

 

話は変りますが、糸井重里さんが、こんな文章を書いていました。

 

じぶんが生まれてくる前にも、世界はあったし、

じぶんが死んでしまった後にも、世界はある。

そのことが、なんだかさみしくてしょうがない。

(「思えば、孤独は美しい。」糸井重里 ほぼ日、2017年)

 

このさみしさについて、糸井さんは、「そのさみしさというやつのことを、ぼくは嫌がっているのではなくて、おそらく、そこに浸ってじわぁっと快感を感じているのだ。」「この「さみしさ」というのが、すべての生きものの生きる動機であるような気さえする。それを「あはれ」と言ってもいいんだけど。」と書いています。

 

これ、似たようなことを言っている気がするのです。全く同じではなくても、どこかで交差している、と言ったらいいでしょうか。

 

タオイストの目指す「不老不死」というと、ちょっと精悍で、優等生的な感じがしますが、「あはれ」とか「さみしさをじわぁっと味わう」というと、ちょっと身近になってきませんか?「あはれ」は日本の言葉だからかしらね。

 

 

【特別クラスのお知らせ】

6月20日(水)19:00-20:30は「タオを生きることば」です。詳しくはこちらの講座案内からご覧ください。

7月8日(日)14:30-16:30は「太極扇を体験しよう(第9回)」です。詳細とご応募方法はこちらから。

7月15日(日)14:00-16:30は「みんなが知らない太極拳のひみつ」(4)です。詳細とご応募方法は、こちらから。

 

(美しい装丁は、ヒグチユウコさん。「思えば、孤独は美しい。」)

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ

 

 


下手で、いい

2018.06.15 Friday

 

映画「モリのいる場所」を観ました。

 

画家の熊谷守一(くまがいもりかず)さん(=モリ)の、晩年の1日を描いたものです。モリは30年間、自宅の庭から出なかったそうです。

 

「庭は広すぎる」から。

 

ゆたかな生態系の庭には、さまざまな植物、虫、鳥たちが集います。それらをひたすら”みる”、モリ。映像では、小さな虫たちの日常の活動が映し出されていて、それらがなんともユニークで可愛らしく、思わず笑ってしまいます。モリは、こんな目で見ていたのかもしれません。

 

そんなモリに、「こどもの絵を見てください。才能があるんじゃないか、と思って。それなら教育を考え直そうかと。」と頼む人が出てきます。モリはじっと見てから、「下手だ。」

 

そして、下手でいい、上手には限界があるから、というような話をしていました。

 

いいことばだな、と思います。

 

自分をふりかえってみると、とかく、体を使うことに関しては、始めたときは「下手だなあ」と、よく思いました。例えばバレエも、水泳も、テニスも、太極拳も、です。でも下手だけど好きで、上手くなりたくて、練習します。練習することが楽しいから、苦にならずに続きます。人から見て大変そうに見えたとしても、自分にとっては、どうってことなかったりします。

 

下手+好き=続ける力、なのかもしれません。

 

では、やったらうまくなるのでしょうか?始めたころの自分と比べたら、そうかもしれませんが、たとえば太極拳にしても、今でも「上手い」という表現はピンときません。

 

ただ、続けてきた積み重ねがあるだけです。

 

続けてくるとわかることが、いくつかあります。

 

ひとつは、いつでも今のベストでやることです。教えるときは、今わかっている全てで、教えます。

もうひとつは、今のベストは将来のベストではないことです。3か月前、半年前とは、今のベストは違います。

 

今のベストを尽くすため、今に不満はありません。でも一方で、まだまだ知らないことだらけなことも、わかっています。だから楽しみがあります。

 

「下手の横好き」ということばがありますよね。音の響きに、ふっと頬がゆるんでしまいませんか?そんな自分でいられたらいいな、と思います。

 

これまで、「上手くなきゃ!」「これだけやってきたから、これも出来て当然」と思ったことが、ないわけではありません。でも、そう思ったときは、必ず失敗するのです。人生、上手くできています(笑)。

 

やったことは、なくなりません。頭では忘れても、体の経験としては残っています。それを「これだけやったから、上手くなきゃ!」と頭で考えてしまうと、逆に自分にプレッシャーをかけることになり、体を緊張させます。緩んでいなければ、上手くいくわけがありません。

 

頭で考えた自信は、重荷になるだけです。

 

「できるかどうかはわからないけど、やってみよう、やってみたい」というくらいが、わたしには、ちょうどよいみたいです。

 

映画のモリは、晩年で、すでにとっても有名な画家であり、書家でした。でも名誉には興味がなく、「大先生」という気張りもなく、どこかユーモラスです。そんなモリに、周りの人が魅かれて巻き込まれていく様子は、とっても見ごたえがあります。

 

モリ役は山崎勉さん、奥様には樹木希林さん。ポスターに書かれたコピーは、「文句はあるけど、いつまでもふたりで」。そのことばどおりの、結婚52年目のふたりの間の、ほんわかとした関係にも、ぐっときます。

 

熊谷守一さんは名のある芸術家ですが、そうでなくても、人はみんな、自分を表現して生きたい、と思っているような気がします。表現方法は、作品である必要はなく、いろいろです。

 

それぞれが、こんな風に「好き」な姿を表現していったら、映画のように、優しく暖かく、平和な世界が広がるような気がします。それぞれの「好き」に、みんなの頬が緩むような世界です。

 

「モリのいる場所」は、映像も音も美しく、温かくて優しい映画です。お勧めです。特に、樹木希林さんの美しさは、格別です。

 

 

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痛みが伝えてくれること

2018.06.11 Monday

(あじさいの季節にぴったりの、しなやかな麻のショールと、やわらかいウサギ)

 

昨年から、MSIというボディワークを受けています。

 

MSIとは、筋膜を緩めて、しなやかな体を取り戻していくものです。目安は1か月に1回、パーツごとにケアする10回+2回で、12回完結です。

 

わたしはのんびりペースで、「そろそろ行こうかな」で、続けています。1年たっても、7番目の口・鼻が終わったところです。

 

口、鼻の回は、なんと!両方とも、口の中、鼻の中に指を入れるのですよ(施術者さんは、ゴム手袋をしています)。あちこちから「痛くて泣いた」という声も聞こえてくる、ある意味クライマックス(というものは、ないのですが)です。痛さの盛り上がりの頂点、という意味のクライマックスですね(しつこいですが、ただの勝手な妄想です)。

 

そして実際、受けてみたところ、口の右下あたりは、かなりの痛さでした。あとで聞いたら、とても硬かったそうです。でも、涙が出るようなものではありませんでした。

 

痛みに強いのでしょうか?

 

そうではなく、「この痛みは、キケンではない」と、わかったからだ、という気がするのです。

 

痛みを感じつつ、冷静に「あらー、ここがこんなに硬いのね」と観察している感じです。キケンではないから、抵抗することなく、じーっと一緒にいることができます。すると、だんだん緩んできて、痛みは消えていきます。

 

口は、右下でほぐれたおかげか、左下、右上、左上は、楽勝でした(笑)。

 

この場合の痛みは、普段の生活で、その部分を不必要に緊張させているからです。痛みにより「”いらない緊張”に気づき、自分で緩めていくものだ」、と説明されました。

 

そして「みんみん(わたしのこと)は、緩めるのが上手だよね。」と。

 

自分のことは、自分で面倒をみるものだと思っています。自分で責任をもつとも言えますが、それはスーツを着てビシッと「責任を!」というものではなく、優しく愛でるような感じです。

 

自分で面倒をみるためには、他人の助けを借りることも、必要です。なぜなら、自分の体というのは、どんな状態であっても、「これなのだ!」というベストを尽くしている、と思っているからです。いらないコリも、「これがないとダメなのだ!」と頑張って緊張させているため、他人から「あのー、ここ、こんなに緊張していますけど、緩めていいんですよ」と言ってもらわないと、気づかないのです。

 

太極拳のクラスでも、「体が硬くて」と悲しそうに、恥ずかしそうに、話す方も多いのですが、その硬さは、自分を守るための結果であることが多いと思っています。どこかをかばって、バランスを取るために、自分を守るために、硬くしているのです。

 

ですから、そういうときは、「コリや硬さは、自分を守ってくれた結果だから、まずは”ありがとう”ですよ」とお話します。

 

体のコリは、心の硬さともリンクしています。

 

痛みに涙が出る人がいるのは、「こんなにがんばってきたんだ」と気づいたり、「もう、こんなにがんばらなくてもいいんだ」と気づくからなのかもしれない、とも思います。

 

人の体は7割が水です。地球の海の割合と同じです。人の体は、水の質をすごく持っているのだと思います。

 

水の質とは、環境に応じて変化できる”やわらかさ”です。川を流れる水は、停滞することなく、流れ続けます。岩という障害があっても、スムーズに避けて進んでいきます。硬いところは、ありません。(寒いと雪や氷に変化しますけどね。氷は砕けても、また溶ければ元の水になるだけで、失われてはいません。)

 

そう思うと、人も、本質は、しなやかで、やわらかいのだ、と思うのです。そして、変化にも柔軟なのだ、と。

 

わたしは、なにかあったとき、「なんですって!?」となるときに、体が硬くなることで、心が硬くなっていることに気づきます。気づいて緩める、を繰り返しています。しなやかで、やわらかく、水のように生きるほうが、わたしにとっては、ここちよいからです。

 

この「なんですって?」も、何かが侵害されると思って、自分を守ろうとして硬くなっているのかもしれませんよね。守らないといけない場合もあるかもしれませんが、そんなもの、ない場合もあります。自分の思い込みかもしれないのですよ。

 

水のように、環境に応じて変化することは、進化の過程にも見られます。進化は、強いものが生き残ってきたのではなく、変化に対応できたものが生き残ってきたのだ、と言いますものね。恐竜は、絶滅しちゃったものね。

 

痛みが伝えてくれること。がんばってきた自分、でも、もうそんなに頑張らなくてもいいのだ、ということ。感謝と希望をもちながら、しなやかさと、やわらかさと取り戻すとき、ということかしらね。

 

 

※MSIの施術をしてくれているNoriko Gendaさんのインタビュー記事は、こちらから。

 

 

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シェイクスピアの音楽会

2018.05.31 Thursday

 

”シェイクスピアの音楽会”に、行ってきました。

 

「シェイクスピアは、どんな音楽を聞いていたのか?」として、プロの演奏と歌唱はもちろん、この日のために集まった40人の素人さんたちによるリコーダー演奏、そして!観客みんなで歌うところもあるという、なにやら楽しい企画です。楽器が、リュート、ヴィオラ・ダ・ガンバ、リコーダーというところも、楽しみでした。

 

シェイクスピアは、かつて英文学を専攻していたわたし(もうふるーい記憶ですが)にとって、特別な存在です。

 

何が特別かというと、まずその言葉の美しさです。シェイクスピアが生きたルネサンス期、すでに散文は存在していたのですが、シェイクスピアの作品には、劇であっても、詩の形式が多くみられます。(注:それよりの中世では、文学は口承だったため、詩の形式しかありませんでした。)

 

韻を踏む、リズムのよい音の響き。これ自体が音楽です。

 

会場では、シェイクスピア研究者の河合祥一郎先生が、いろいろと解説をしてくださいました。

 

パンフレットから抜粋すると、

 

「天体の音楽(music of the sphere)という言葉があるのですが、シェイクスピアもいろんな作品でこれを語っています。当時の宇宙観は、地球が中心にあって、太陽や月がそのまわりを動く天動説です。この動く天体が音楽を奏でているけれど、ふつうは人の耳には聞こえないと信じられていた。(中略)この音を聞くことができるのは、心の清らかな人だけなのです。(中略)天体とは神々のことで、天体の音楽とは神々が奏でる音楽です。日常の生活を超えて天体とつながる感動。大宇宙と結びつく喜び。これがシェイクスピアの世界観であり、音楽観であると、ぼくは思うんです。」

 

地球を取り囲む惑星が、ぐるぐる回ってハーモニー(和音、調和)を奏でていること、これが天体の音楽です。でもそれは、人には聞こえません。それを楽器を使って聞こえるようにした、というお話もありました。

 

だから音楽を奏でるとき、歌うときは、私(我)を出すのではなく、天体をそのまま降ろすのだとか。

 

太極拳みたい、と思いました。

 

わたしにとっての太極拳は、我を出すのではなく、透明なパイプのような存在として、天と地をつないで循環させるものです。いきなり「我をなくせ」と言われると、ますます煩悩だらけになるばかりですから(人は、やってはいけない、と思えば思うほど、それをやってしまうものです)、それなりの段階を踏んでいきます。一気には行けませんし、ずっとそうでなくてもいいと思っています。なんといってもそこは、神様の領域ですからね。

 

狂言の野村萬斎さんも、舞台に立つときは、天とつながるような感じなのだとか。

 

太極拳なり、音楽なり、その他の表現方法を通して、宇宙のハーモニー、調和に触れること、それと自分を同期させることは、河合先生の言葉を借りるなら「天体と結びつく感動。大宇宙と結びつく喜び。」です。

 

わたしはこの言葉以上に、上手い表現が思いつきません。とにかく、震えるような感動なのです。

 

「それがあったら何になるの?」と思う人もいるかもしれませんよね。

 

大学生の頃、指導教官に「英文学は実学じゃない。社会に役に立たない学問だ。それを学ぶ意味を考えなさい」と言われたことがあります。

 

実生活に役立つかと言われれば、直接的には役立ちません。合理的な目で見れば、無駄とも言えます。でもそれが、ゆとりをもたらし、人生を奥深く、豊かにし、人の心の幅を広げてくれると感じています。

 

さてさて、でも実際には、地球に生きる人間は、神様ではありません。いろいろと失敗もします。河合先生は、天体をそのまま降ろすんだよ、と、美しいことを言いつつも、「人間は、ばかだ。それを知っているほうが、しあわせでいられる」ともおっしゃいます。だからなのか、シェイクスピアの作品には、道化(英語でfool=ばか)が登場しますし、foolという言葉で人間のおろかしさを伝える場面も、あります。

 

そこでみんなで歌ったのが、「この野郎(Thou Knave)」です。

 

「だーまれー♪、この野郎だまれー♪、ば、か。」ですよ。続いて「だまれ、ば、か。」さらに「ば、か。」

 

なんとも失礼な歌詞に、美しいハーモニー。この可笑しさは、残念ながら実際に歌わないと、伝わりにくそうです。憎々しげに歌ったら、だめなのですよ。天体とつながるのですから、神々しさを持ちつつ、「ば、か」です。

 

みんなで歌うのもハーモニー、40人のリコーダー演奏もハーモニー。もちろんプロの方々の音楽も、ハーモニーです。劇場内でも何度も笑い声が起き、演奏者も、観客も、みんな楽しそう。しあわせな雰囲気に包まれていました。これも、調和ですね。

 

ちなみに、地動説を唱えたガリレオは、シェイクスピアと同い年なのだそうです。散文と詩という形式の融合といい、天動説から地動説へといい、なんとも激動の時代を生きたわけですね。

 

ああ、楽しかった(^^)。

 

 

【特別クラスのお知らせ】

6月6日(水)、20日(水)は、「タオを生きることば」です。詳しくはこちらの講座案内からご覧ください。

6月10日(日)14:00-16:30は「みんなが知らない太極拳のひみつ」(3)です。詳細とご応募方法は、こちらから。

6月17日(日)14:30-16:30は「太極扇を体験しよう(第8回)」です。詳細とご応募方法はこちらから。

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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タオの生き方と、太極拳

2018.05.25 Friday

(中国、武当山で。站椿功のお稽古)

 

タオの生き方とは、「無為自然」、自分から意識的に生み出そうとしないことを言います。

 

無為とは、何も為さないこと、自然とは、自ら然り=あるがまま、です。

 

老子は「道徳経」の第7章で、次のように言っています。

 

天地が永遠に続いていくのは、自分から命をのばそうとしないからだ。
そういうわけで聖人は、わが身を後まわしにしながら、かえって先になり、わが身を度外視しながら、かえってその身を保全する。
わが身をどうにかしようという意識がないからであろうか。
だから自己を実現できるのだ。

(「老子」蜂屋邦夫訳注 岩波文庫より、抜粋)

 

ここで言う「聖人」とは、タオ(道)を知って、道に従う賢者のことです。

 

”私(我)”がない、無為自然な状態は、自分を捨てることで、状態に応じて適応し、変化できます。わが身を後まわしにするとは、人に従う=人を受けいれること。それが闘争から調和を導く第一歩です。

 

うつくしい姿ですよね。

 

......でも、ちょっと現実離れしているような気がしませんか?

 

いま、老子の「道徳経」を読むクラスを開催しているのですが、この前、生徒さんが「老子の思想に触れて、癒されて、また争いのある現実に戻る」という話をされていました。

 

「これは理想で、日常とは違う」というご意見も。わかる気がします。

 

でも、老子は日常に活かせないことを、つらつらと語っているわけはないと思うのです。

 

人に従い、あるがまま、というのは、何にもしないこととは違うと思います。それは、”老子の教えを体で表現するもの”とも言える太極拳で、体験することができます。

 

太極拳は、武術ですが、自分から攻撃することはありません。武術の”武”は、”戈を止める”と書くとおり、起きてしまった争いを終わらせるためのものです。相手から攻撃されたときに、反応します。

 

そのとき、相手から向かってきた力に対して、反発するわけではなく、受容します。別の言葉でいうと、吸収、です。

 

相手から打たれるがままの状態は、受容とは言い難いですよね。痛いですし、怪我したり、場合によっては命を落とすかもしれません。ここに相手と自分の”共存”はなく、調和もありません。

 

ではどうするか。

 

”天地とつながる立ち方”を守り続けることです。

 

太極拳の立ち方は、ただ力を抜いて、ぼんやり立つわけではありません。一般的に思われているリラックスとは異なります。

 

足で大地を柔かく押して立ちます。体重に、下に押す力がプラスされることで、下に向かう力が大きくなります。人が立つときには、下に向かう力と均等の力が上に向かっているため、上に伸びる力も大きくなります。これで、縮こまっていく背骨の関節に隙間を空けていくのです。

 

站椿功(立禅)を歌で表現している中国語があるのですが、その冒頭は「头顶脚踩身空灵」です。”頭は上に伸び、足は大地をしっかりつかむと、体は空(くう)になる”です。「頂」という中国語のもともとの意味は、英語でいうとto equal、つまり均衡することです。大地を足で押して、下に向かう力に均衡するように、頭が上に伸びる、という意味に捉えています。

 

これを縦に伸びる力、「竖劲 Shù jìn」と言っています。自分の中心に、しなやかな細い軸がある感覚です。軸というより、個人的には、天と地を結ぶ”縁(えにし)というイメージが、好きです。

 

細くしなやかな軸(縁)が中心にあると、残りの体は、柔かいまま存在することができます。水が入ったビニール袋は、机の上にぽんと放置するとぐだぐだですが、細いしなやかな串を真ん中に通すと、やわらかいまま、しっかりしますよね。そんなイメージです。

 

柔かいから、押されれば、形は変ります。でも、天地とのつながりである縁(軸)は、しっかりあります。人に従い、あるがまま、ではありますが、人に振り回されたりはしません。

 

天地につながるとは、地球とともに、宇宙とともに動く、という意味です。太極拳とは、自ら動かず、地球や宇宙と共に動くことです。それが「あるがまま」「自然=自ずと、然り」です。

 

太極拳のクラスでも、老子のことばを読むクラスでも、これを体感するようなお稽古をします。「老子のことばは理想で、現実とは違う」とおっしゃっる方も、こんな体感から日常に結びついていくことがあり、そんなときは、とっても嬉しいです。

 

体感してなんぼ、とはこのことです。もちろん、読んで理解することも大事ですけどね。

 

さて、この縦に伸びる力が、より大きな力を外に向かって出すことにもつながると思っているのですが、長くなってしまったので、それはまた次回、書きますね。

 

「老子のことば」クラスは、6月から「タオを生きることば」に変えて、引き続き開催します。6月は6日、20日の夜です。詳しいことは、こちらの講座案内からご覧ください。

 

 

【特別クラスのお知らせ】

5月27日(日)13:00-15:00は「おためし体験〜みんなが知らない太極拳のひみつ」です(千葉県香取市)。詳細とご応募は、こちらから。

6月10日(日)14:00-16:30は「みんなが知らない太極拳のひみつ」(3)です。詳細とご応募方法は、こちらから。

6月17日(日)14:30-16:30は「太極扇を体験しよう(第8回)」です。詳細とご応募方法はこちらから。

 

 

(武当山の雷神洞にて。朝の站椿功)

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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