「太極十年不出門、形意一年打死人」

2017.10.04 Wednesday

(形意拳)

 

中国には、「太極十年不出門、形意一年打死人」ということわざがあります。

 

太極拳は使えるようになるまで10年はかかるが、形意拳は1年で人を打ち倒せるようになる、という意味です。

 

太極拳と形意拳は、よく対照的に語られます。

 

太極拳は、原則、ゆっくり動きます(例外的に早く動くこともあります)。直線ではなく、丸く円を描くような動きが特徴的です。直線でカタイものは実は弱く、やわらかく丸いものが強いことを体現しており、「柔を持って剛を制す」と表現されます。

 

硬い棒は、力をかければ折れますが、柳の枝は、しなるだけで折れにくいですよね。同じように人の腕も、まっすぐにぴんと伸ばすと弱く、少し湾曲させる方が折れにくくなります(コツは、必要です)。

 

コマがくるくると回るとき、とんでくるものをはじき返すことをイメージしても、わかりやすいかもしれません。

 

表向きにはやわらかく、優雅にも見える太極拳は、内面では何よりも強い力を蓄えています。

 

形意拳は、動きが早く、打撃も続くため、直線的で、力強い印象を受けます。見た目の印象としては、ゆっくり丸く動く柔かい太極拳と、早く直線的で硬い形意拳と、対照的に映ります。でも実際に形意拳をするときには、内面がとてもリラックスしていること、やわらかいことが大切です。動作は小さく、シンプルで、体力を使わずに強い打撃力を得ることができます。

 

習い始めは、ついつい見た目のハードさに目を奪われて、力強くやろうと(力を使ってやろうと)することも多いと思います。でも、そんなことをしたら、体が持ちません。体に負担をかけてしまい、ヘンな筋肉痛や痛み、凝りが出てきます。

 

そういう経験は、わたしにもあります。これは悪いことばかりではなく、「そのやり方は違っているよ」というお知らせでもあります。自分で内面を硬くしてしまっているところに気づいて、それをなくしていくと、だんだん楽に動けるようになります。

 

”柔”と”剛”は、陰陽で見ると、柔が陰、剛が陽です。陰と陽はお互いに助け合いながらバランスが成り立っています。そして陰の中には陽の要素があり、陽の中には陰の要素があるように、ばっさり二つに分けられるものでもありません。これはわたしの理解ですが、同時に存在すると考えると、外側が柔かく見える太極拳の内側は剛で、外側が剛に見える形意拳の内側が柔かいことには、納得できます。

 

形意拳の見た目のハードさに目を奪われて、力づくでやろうとする場合、その”剛”は、”柔”を含んだ”剛”ではありません。だから弱いし、自分もくたびれます。

 

太極拳の見た目のソフトさに目を奪われている場合、その”柔”は、”剛”を含んだ”柔”ではありません。だから押されるとすぐに倒れます。(ただし、たとえ倒れやすかったとしても、ゆっくり動くことで副交感神経の働きが上がり、自律神経のバランスが整っていくことはある、と思います。せかせかした毎日を送りがちな場合、心のゆとりにもつながると思います。)

 

冒頭の「太極十年不出門、形意一年打死人」という言葉から見ると、柳のような強さを持って太極拳ができるようになるよりも、力づくで形意拳をやらないようにする方が、わかりやすいような気がします。

 

さらに、形意拳は直線に動くように見えますが、その力を出しているのは、やはり丸い動きです。太極拳が陰陽バランスで力を出していくのと、同じ原理です。そう見ていくと、表面的、平面的には真逆に見えるものでも、立体的に見て、その構成を見ていくと、同じものが見えてきます。

 

”一撃必殺”と表現されるような形意拳ですが、先生の形意拳を見ていると、とても平和で穏やかな気持ちになります。いろいろあっても丸く円満におさまり、平和で穏やかに生きていける道に続いていくこと、教えてくれるような気がします。それは、太極拳が見せてくれるものと、同じです。

 

ここからも、すべてのものは、もともとひとつなのだと、感じます。

 

攻撃性が高い形意拳をお稽古することは、しなやかで強い柳のような体を作ることにも役立つと思っています。さらに、争いがある中で攻防を経験し、そこを超えて”ひとつ”に行くという道を、わかりやすく体験することでもあるような気がします。それは、太極拳の体感覚と理解をも、深めてくれると感じます。

 

さて、最初の「太極十年不出門」にかえると、わたしはちょうど今、10年くらいです。まだまだな部分はありますが、ちょうど10年になるくらいの去年あたりから、迷うことが少なくなりました。できているわけではありませんが、自分なりに「ここはこうだろう」という理解ができるようになり、体でも表現しやすくなったと感じます。

 

十年という表現は、焦らず気長にね、という意味でしかないと思いますが、石の上にも十年という表現もあるように、人の体感としては、一区切りなのかもしれません。

 

そしてその10年という期間は、一足飛びに10年目に到達するのとは違い、そのプロセスを歩むこと自体が豊かさをもたらしてくれたと感じます。だからこそ「10年かぁ」と気が遠くなるのではなく、そのときそのとき、今の自分にできることを淡々としていくことで十分なのだと思います。

 

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(薄く雲海が出た武当山の朝)

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

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アニマル進化体操:卵からワニ、そしてマサイのジャンプまで

2017.10.02 Monday

(ワークショップ後、田中ちさこ先生と)

 

先日、”アニマル進化体操”を体験しました。

 

”進化は背骨に現れる”というもので、1.卵→ 2.さかな→ 3.へび→ 4.ワニ→ 5.チータ→ 6.ゴリラ→ 7.人間(マサイのジャンプ)までを、順を追って体験していきます。

 

教えてくださるのは、田中ちさこ先生。アレクサンダーテクニークの先生でもあり、視力回復のベイツ・メソッドの先生でもあります。きっかけは、1年くらい前、友人からアレクサンダーテクニークを受講したときです。「背骨の進化を追っていくワークがあって、それをやったら面白いと思うよ!」とお勧めされました。(アレクサンダーテクニーク体験については、こちらからどうぞ:「からだのつながりと、人のつながり」)

 

タイミング良く、すぐに受講できるチャンスがやってきました。そのときは卵から魚までの体験で、背骨にフォーカスしたワークは、体感としてもとっても新鮮で興味深かったです。魚から先の進化チャンスを狙っていたら......ようやく1年後に実現しました。

 

「全部やると1〜2日かかるので、どこかを中心にやっていきましょう。どこがいい?ワニの上陸作戦は、難しいけど面白いですよ」というので、すかさず「ワニやりたいです!」

 

希望がかなって、今回は卵からワニの上陸作戦までと、二足歩行の人間としてマサイのジャンプを体験しました。

 

まず、手足のない卵のころんとした状態から、魚になります。あおむけに寝た状態から、うつ伏せにひっくり返るワークがあり、これが最初の難関です。卵ですから、まだ腰はありません。でも、いつもの人間としての習慣から、腰を動かしてひっくり返ろうとするのです。「視線を動かして、背骨の上の方からそっていってひっくり返る」という先生のガイドに従って、ころん。それっぽくできると、背骨がグルンとまわって、気持ち良いです。先生はアスリートにも指導されているそうなのですが、「これ、みんななかなかできないのよ」とおっしゃっていました。ということは、誰にでもそれだけ進化の余地がある、ということでもありますね。

 

できないと焦りがちになりますが、先生は「進化はものすごい年月をかけているのだから、ゆっくりやりますよ。」

 

魚になると、直線の背骨ができます。この段階では腰や首のカーブは、ありません。うつぶせに寝て、目は頭の両サイドあたりにあります。頭のてっぺんからユラユラと揺れて動くことで、泳ぐ体験をします。ここで「ウェストはないから、腰でふらないように」と先生。魚の動きをするときに、今の人間の機能を使おうとするのです。それでは進化の過程はたどれません。こういう方法で、余分な動きをなくしていくのは、面白いですよね。

 

続いて魚から蛇に。蛇は、頭の真ん中よりも上のあたり、目のあたりというか、蝶形骨のあたりというのか、そのあたりを左右に移動させてゆらゆらします。左右、どちらかの脇が収縮します。このとき、「収縮する方の脇で支えてみて」という言葉どおりにすると、あら、結構遠くまで安定していけます。「ためしに、伸ばしている方の脇で支えてみて」と言われてやってみたとたん、倒れそうになりました。支える場所を意識するだけで、全然違ってくるのですよ。

 

(蛇)

 

そして念願のワニの上陸作戦。「獲物を見るためには視線が上にならないと」ということで、首が上を向き、背骨にカーブができます(首のカーブ)。この時点ではまだ骨盤はなく、お尻の筋肉もありません。腿の部分を内転、外転させることだけで、前に進む力を作ります。「お尻を使わなーい」「腕で前に進もうとしなーい(腕はサポートとして使います)」「膝から下で押さなーい」と、いろんなアドバイスがやってきます。うまく使えば、腿の内転と外転だけでぐっと前に進めるのですよ。

 

(ワニの上陸。この曲げた脚をぐっと回転させることが、前に進む力になります)

 

(ワニになっている生徒さんに「獲物(プーさん)はここよ」。首のカーブがないと、見えません。)

 

この後、四つ足の哺乳類(チーター)に進化するときに、下にくる内臓を背骨で保つために胸が湾曲して腰のカーブができ、ゴリラを経て、人間になっていきます。今回は時間の関係で、残念ながら四つ足体験はできませんでした。

 

でも、もうひとつの念願の、マサイのジャンプは体験できたのです。体軸をしっかりさせることで、ラクに楽しくジャンプできるようになります。自分が跳ぶのも楽しかったですが、他の方がぴょんぴょん跳ぶ姿や、その変化を見るのも、楽しかったです。ほかの人がやっているときに、ワクワクしながら待っていると、先生が「次、やるからね」と声をかけてくださったりして、ワクワクはさらに膨らみます。先生の笑顔や声掛けで、最初は知らない人同志のグループも、あっという間にニコニコでした。

 

進化の過程をなぞりながら背骨を使っていくことで、背骨を感じる感覚が、ぐっと上がります。柔かさも増した気がします。魚が動く起点(頭のてっぺん)は、立つときに上に向かう点に応用できます。それを体が理解することで、体軸もしっかりしてきます。

 

先生は、この進化過程に「ロマンを感じる」とおっしゃっていました。ぴったりな表現ですよね。はるか昔、人間が生まれる前からの進化過程を経た自分が、その恩恵を受けて今ここにいること、そしてその時々の能力を自分が持っていること、そんな風に感じると、一気に可能性が開いていくような気がしませんか?

 

このワーク、医師で人類学者のレーモンド・ダート博士(1893年〜1988年)の研究成果であるダート・プロシージャーをもとにしています。息子さんが脊椎側弯症で、その治療方法をもとめてアレクサンダーテクニークに出会い、そこからのご縁でこのワークにつながっていったようです。

 

実はわたしも13歳のときに、脊椎側弯症と診断されています。西洋医学のお医者さん曰く、「曲がっていること自体は問題ではない」レベルですが、「その影響で周りの筋肉が凝り固まることで問題が起きやすいので注意すること」と、言われてきました。

 

骨が曲がっている方の筋肉が凝りやすく、実際3年くらい前までのわたしのウェストは、左のくびれが少なかったのです。

 

西洋医学的にも、カイロプラクチックなどでも「治らない」とされた湾曲ですが、その後「あなたの心がまっすぐになれば、背骨はまっすぐになる」とおっしゃるボディ・ワークの先生(注:治療師やセラピストではありません)に出会い、「まっすぐになる」という可能性を自分の中に持って、いろいろやってみたところ、湾曲は改善し、ウェストの左のくびれも存在するようになってきました。

 

以前は、太極拳をやっていながら、背骨が曲がっていることは、コンプレックスでもありました。その反面、こういう場合の凝りの痛みも知っています(体が硬いのとは違うのです)し、それをあきらめずに少しずつほぐしていった体験、心とのつながりの気づき、コンプレックスとの付き合い方の変化などなど、ある意味ではとても豊かなプロセスをもたらしてくれました。このワークに出会えたことも、そのひとつなのかもしません。

 

ものすごく長い歴史の中で育まれてきた、背骨の進化の智慧を思い出すことで、わたしも、誰でも、発展していく可能性が開けると思うのです。

 

次は、まだ未体験のチータ―とゴリラを、ぜひ。チーターの優美な歩き方はとっても憧れているので、とても楽しみです。いつになるのかわかりませんが、のんびり、いこうと思います。 

 

 

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武当山で感じたこと:学ぶこと

2017.09.28 Thursday

(夕焼けの武当山)

 

武当山でお稽古していると、習うときにポイントを掴むのが早い人と、そうでない人がいます。

 

もちろん、武当拳をはじめて習う人、長くやっている人、という差もあります。ほかの流派を習っている人の場合、最初は戸惑うことも多いですが、それは時間が解決してくれます。実際「難しい」を連発していた人も、3日、5日と続けていくうちに、本人の感想とは別に、とっても良くなってきたなと感じることもあります。

 

一方、なかなかポイントを掴めない人もいます。

 

ここで言うポイントとは、「ここに注意して練習する」という意味です。すぐに体がそのように動けば素晴らしいですが、わたしの場合はそんなことはないので、そのポイントを確認しながら、何度も繰り返し練習します。

 

そういうポイントは、先生いわく、「外から見たときには、見えないことも多い」ところです。でも、そこを大切にするかどうかで、実際の自分の感覚は、全然違います。

 

習うのが早いな、と思う人に共通していることがあります。

 

まず行動としては、自分のお稽古に集中しつつ、人が習っているときにすっと近く来て、自分も一緒に習うのです。いつもというわけではなく、「ここ」というタイミングでやってきます。先生はちゃんと見ていて、そうやって近くに来た人に、必要であればアドバイスをします。

 

自分に集中しつつ、周りにも意識をむけている、というような状態です。これは、太極拳などの套路(型)をするときの意識の持ち方と、同じです。「木を見て、森も見る」というような感じです。

 

周りに気を取られすぎると、自分が今しなければならない練習がおろそかになります。それは本末転倒です。逆に、自分に集中し過ぎて、周りが見えていないと、あるはずのチャンスを失います。こちらは「ちゃんと教えてもらっていない」という愚痴につながることもあるような気がします。

 

「習う」ことは、目の前に先生がいて、「はい、これだよ」と、手取り足取り教えてもらうことではないと思っています。同じ状況で、何を吸収するかは、その人次第です。

 

逆に言えば、そのときのその人に合ったことだけを学べる、ということでもあるかもしれません。

 

なかなかポイントを掴めない人を見ているとき、「本当にやりたいことと違うのではないか」と思うときがあります。本人の希望と違えば、一生懸命やっても、身になることが少ないのは当然です。本人がそれに気づいていない場合もあるでしょうし、もしくは、本当にやりたいことの前に、何か越えないといけないことがある場合もあるのかもしれません。

 

それも含めて、その人に合ったことを学べるような気がします。

 

だから、覚えの良し悪しは、良ければ良い、悪ければダメというような単純な話でもなく、どっちでもいいのです。ただし、その自分の状況を把握できない場合は、苦しいかもしれません。なんで上手くいかないのだろうと悩んだり、不満や愚痴ばかりが出てくるとき、それも自分の希望とは違うことをしているサインかもしれませんよね。

 

わたしの印象ですが、習うのが早い人に、マイナス思考の人はいません。そもそも、できること、できないことを、気にしません。

 

そして習うのが早いとはいっても、「でーきた」で終わるのではなく、ひとりでしっかり練習します。同じことを、繰り返し繰り返し練習します。それをそれを苦に感じてそうな人は、いません。それでは続きませんよね。

 

こういうものに、もともとの才能や素養が関係しているのかないのか、わかりません。あるのかもしれませんし、上を目指す場合はやっぱり関係するのかもしれません。でも、わたしが知る限り、ひとりでしっかり練習しない人の中に、進歩していく人はいません。

 

何かを学ぶとき、できる、できないに目が行きがちです。でも、そんなことはどうでもよいと思うのです。すべての人がパーフェクトに何でもできることが良いわけではなく、人それぞれ、自分に合ったものがあるはずです。それを見つけてやっていけば、「あなたのそれは、いいね、素敵だね」とか、お互いを尊重する、ほんわかした社会になるような気がします。

 

何かを学ぶことは、自分がどうしたいのかを知る、良い機会です。何かおかしいな、とか、ちょっとマイナス思考になるときには、そこに無理や”ずれ”があるのかもしれないということを、覚えておきたいと思っています。

 

 

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(形意拳を練習するわたし(左奥)と、棍という武器を使った練習をしている人たち......ですが、何か別の話題で盛り上がっている???)

 

 

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ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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武当山で感じたこと:お腹を壊した体験

2017.09.25 Monday

(長年のお稽古友達と一緒に、形意拳の五行拳のお稽古)

 

武当山にお稽古に行ってから1週間目、お腹を壊して半日寝込みました。

 

実は2011年の春にも、同じような経験をしています。このときは、”人生最大の腹痛”で、3日間寝込みました。

 

そのときも、今回も、形意拳を習っていました。

 

形意拳は、動きも早く、力強い打撃もあるもので、武当山に伝わる武当拳(内家拳)では、太極拳、八卦掌と並び、伝えられています。

 

ゆっくり丸くやわらかく動く太極拳と、動きが早く直線に動く形意拳は、対照的に語られることもあります。ただし実際には、見た目が柔かい太極拳は内側がしっかりしており、見た目がカタく見える形意拳は内側が柔かい、と言われます。

 

打撃の連続だからこそ、力任せではなく、リラックスした状態でやることが大切なのです。

 

太極拳にいろいろな門派があるように、形意拳も、門派によって套路(型)は異なります。それでも、陰陽五行説の五行説(木火土金水)にちなんだ五行拳(5つ種類があります)と、それを組み合わせた12の動物の套路があることは、共通のようです。

 

五行説とは、古代中国で生まれ、宇宙に存在する万物は木火土金水という5つの要素からできており、それぞれお互いに影響を与え合うことによって天地万物が変化し、循環すると言われています。五行は次のように内臓にも対応しています。

 

木=肝

火=心

土=脾(脾臓ではなく、消化器系。わかりやすくとらえると、胃)

金=肺

水=腎

 

五行に対応していることから、内臓機能の促進作用もあると言われています。動きとしても、お腹をきゅっ、きゅっと、左右にひねり続けるため、内臓もそのたびにきゅっ、きゅっ、とひねられることになります。

 

今回の兆候は、「ずいぶんお通じが良いなあ」から始まりました。もともと、このあたりの悩みはない方なのですが、それにしてもずいぶん良い様子。そしてそのまま、止まらない状態に突入しました。

 

そして、前回と同じような兆候もありました。まず、ごはんが食べたくなくなります。食べ始めても、気持ち悪くて、受けつけないような状態になってきます。

 

そして、お稽古を続けることが辛くなります。ちょっとやっては休み、またちょっとやっては休み、そのたびに強い疲労を感じるのです。これ、わたしには珍しいことなのです。

 

お昼寝をしても疲労は取れず、お腹の具合も悪いままで、これではダメだと「お腹の調子が悪いから、午後はお休みします」と先生に伝えました。

 

これが形意拳と関係しているかどうかはわかりませんが、なんとなく、自分の中では関係ありそうな気がするのです。前回は3日間ダウンし、その間ほとんど何も食べませんでしたが、4日目にはものすごく元気になり、丸一日元気にお稽古できたのです。そのこともあって、今回も薬は飲みましたが、「休めばきっと元気になる」と思っていました。

 

その通り、今回は短い時間で回復し、翌日にはお稽古に復帰できました。

 

前回と今回では、症状の重さのほかに、大きく違ったことがありました。自分の受け止め方です。

 

前回は「とにかくお稽古をしっかりやるんだ」と思っていた時期で、お腹を壊してお稽古できなくなった自分を、とっても責めたのです。当時、日本で習っていた先生にも「報告したら、きっと怒られる」とビクビクしていました。当然そんなことはなく、「それは大変だね。刺激が強く、変化に体が耐えられなくなったんだろう。ゆっくり休むように」という言葉に、ほっとしたことを覚えています。

 

今になってみると、そんなに自分を責めたり、怒られると思うなんて、不思議です。その頃は、それだけ自分に厳しくて、”こうあらねばならない”が強く、できない自分を許せなかったのだと思います。

 

きつかっただろうな、と思います。自分がきついだけではなく、周りにも同じようなプレッシャーを与えていたのだろうと、思うのです。

 

それに比べると今回、「このお腹の調子では、練習するような状態ではない」と、躊躇なく休めたことは、わたしにとっては大きな変化でした。

 

人として、まっとうな選択ができるようになっただけのことですが、同じように、病気なのに「やらねばならない」と行動しているケースは、過去のわたしだけではないような気がします。

 

老子は、「道徳経」の第35章で、次のように書いています。

 

”(前略)音楽とおいしい食べ物には旅人も足を止めるものである。だが、もとより道が語りかける言葉は、淡々として味がない。目を凝らしても見ることができず、耳を澄ましても聞くことができないが、しかしその働きは尽き果てることがない”

(「老子」蜂谷邦夫訳注、岩波文庫)

 

人は、”過ぎる”ことをもって良しとする傾向があり、その欲望が普通であると思っているため、本来の在り方では物足りず、味気ないように感じる、ということです。

 

過去のわたしは、すごくこの傾向が強かったと思います。何か成果を出す自分でなければ価値がない、ぼーっとしていることに、役立たずのような罪悪感を感じていました。”やり過ぎる”ことを、充実感だと勘違いしていました。

 

本当は、存在していることだけで十分なのに、です。

 

武当拳を習う過程で、体を通して何度も繰りかえし学んできたことが、この”過ぎない”ことです。

 

その過程は、今の自分への信頼、生きる幸せ、人との関係性など、たくさんのものをもたらしてくれていると感じています。

 

そしてその”過ぎない”生き方が、わたしが太極拳を始めとする武当拳を通じて、伝えていきたいことでもあります。

もっと楽に生きてよいのですよ、存在するだけで十分なのだから。

 

冒頭で、形意拳と太極拳は対照的に言われる、と書きましたが、大切な部分は共通だと感じます。陰陽の理論を活かして動くこと、そして直線で力強く見える動きは、実は丸い動きから生まれていて、無駄な力みはないのだ、ということです。

 

表面的に強い動きに見えるからこそ、やりすぎていれば、体ではっきりわかります(つまり、どこか痛くなるのです)。くりかえし練習する過程で、そのやりすぎをなくしていくのです。

 

”一撃必殺”とも表現されたり、攻撃的に見える形意拳ですが、先生の動きはとても美しく、見ていると穏やかな気もちになります。

 

攻防という型を超えて調和に向かうという点は、太極拳、八卦掌、形意拳、どれも同じだと感じます。その過程も、わたしにとっては大事なところですが、この話はまた別に書きますね。

 

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(形意拳の套路を習っているところ。これは”馬”の部分)

 

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武当山で感じたこと:のんびりいこう

2017.09.24 Sunday

 

 

中国の武当山に、お稽古に行っていました。1年ぶりです。

 

2008年末に初めて行ってから9年、今の学校に行くようになってからは、5年になります。

 

その間、大きく変わったと感じることのひとつは、「のんびり学ぼう」と思えるようになったことです。

 

最初は、団体で行ったこともあるためか、なんだかとっても忙しかったのです。練習、ごはん、と、シンプルなスケジュールなのですが、学校の館内移動も、階段をせかせかと早足で移動した記憶があります。真冬で、お湯はタンクに貯めたものがなくなると終了なので、シャワ―や髪の毛を洗うのも、高速作業です(笑)。初めての武当山生活で非日常感も大きく、こんな経験も楽しかったですけれどもね。

 

2回目から、生活自体は、ゆったりになりました。他人を気にせず、自分がしたいことを大切にしよう、と思い始めたことも関係あるかもしれません。でもお稽古は、何よりも最優先で、「遊ぶより練習」という時期が、何年か続きました。強制されたわけではなく、自分がそうしたかったのです。

 

例えば、全部で2週間弱、行くとします。学校は、週に1.5日〜2日、お休みです。短い滞在のわたしは、お願いしてお休みの日にもお稽古してもらっていました。ほぼ個人稽古になるため、当時は、たくさん教えてもらえる、と感じていました。

 

2009年の7月、2回目に行ったときのことです。お休みの日にもお稽古を入れていたある日、向こうで知り合った友人たちが「午後、逍遥谷に遊びに行きましょ」と誘ってきました。お稽古が......と思ったものの、結局、一緒に行くことにしたのです。そしてその半日が、とっても、とっても楽しかったのです。

 

誘ってくれて、一緒に過ごしてくれて、本当に感謝しています。

 

さてさて、そんなことがあっても、それからも”お稽古最優先”の日々は、続きます。その間、学校は3つ変わりましたが、どこでもお稽古中心、周りがやらなくてもやる、先生が不在でもやる、というのは変わりませんでした。

 

変ってきたのは、今の先生に習うようになってからです。突然ではなく、いろんな体験を経て、だんだん変わってきたのです。

 

ひとつは「大切なのは、習う時間の長さではない」と感じるようになったことです。2014年の春に行ったとき、学校は経営問題でもめていて、先生はいつも不在、弟子も育っておらず、ほぼ自主練が続きました。そんな中、ほんの短い時間、10分とか15分くらいだと思うのですが、ようやく先生が現れて、「次の段階に進むときだから」と太極拳の大切なポイントを教えてくださいました。そのとき「これだけで、今回は充分だ」と思えたのです。

 

ポイントが分かっても、それを体で表現できるようになるには、時間がかかります。この頃から、「形を習う」よりも、「習ったものを自分で熟成させる」ようになったのかもしれません。

 

そしてこのとき、困難に向かう先生の姿勢や、自分の過ごし方や感情など、お稽古以外にもすごく貴重な経験ができた時間でもありました。カンフーとは、生きていくことなのだと、より深く実感し始めたときでもあります。

 

お稽古時間の過ごし方から、わかったこともあります。時々、鬼ごっこしたり、サッカーしたり、という時間があるのです。楽しいのですが、「お稽古しないんだ」と、最初は思っていたのです。でもある日、大笑いしながら、さんざん遊んだ後に、站椿功(立禅)を始めたとき、「あれっ?」。とっても気持ち良く、とっても楽なのです。いつまでも続けていたいほどです。そんなわたしを見て先生が、「とっても気もち良いでしょ」と、一言。

 

目標にむけて、一目散にやり続けることで、視野も狭くなり、体も硬くなることもあります。モーレツ社員も、ずっと走り続けることはできません。笑って楽しく過ごせば、体も心もほぐれます。先生はきっと、そういうこともわかっているんだなあと、改めてお思いました。

 

そして2016年、去年からは「休みの日は、休むのだ」という、当たり前の生活をしようと思うようになりました。そのためもあって、いつもより長めの1か月という期間にしました。「いつもより長いね」と言う先生のお弟子さん達に、「のんびり習いたいと思ったから」と答えると、「ああ、それは良いね。」

 

自分が何を大切にしていきたいのかも、はっきりしてきました。

 

お稽古の時間、きちんと練習することは大切です。でも、度が過ぎて執着になると、その周りにある豊かな経験を、自ら無視してしまうことになりかねません。

 

焦らず、のんびり学ぼう。わたしの目指すことは、幸せに生きることなのだから。

 

今回、新しい校舎へのお引越しもあり、平日でもお休みになることがありました。そんなとき先生は「良いお天気だね。椅子を外に出してみんなで座ろう。」そして「気持ちよいねー。」と、ニコニコ。

 

武当山での生活の中で、何かを強制されたことは、一度もありません。ひたすらお稽古を優先したときも、自分の選択です。やりたいことをやるという経験は、あの時は良かったと思いますが、今は、心も体も、ぽかぽかと暖かく、ゆるくなるような、陽だまりの時間を存分に味わえる自分になれたことが、とてもうれしいです。

 

修行とは、強制されるものでも、辛いものでもなく、自らやりたくてやるもので、その過程でたくさんの発見があり、豊かさを与えてくれるものだと思っています。

 

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ

 

武当山での日々をお話した自由が丘FMTV「みんみんの陽だまり太極道」は、こちらからどうぞ↓

 

 



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