自分の内の光を磨く

2017.02.20 Monday

 

たくさんの、いろんな形の夜光貝。先日参加した「屋久島の木+αを磨くワークショップ」で、展示されていたものです。まだ磨く前の素材で、ここから人の手が加わることで、ピカピカに輝きだします。夜光貝のほかにも、屋久島の木、赤道付近から集められた木、鹿の角、クジラの牙など、たくさんの素材がありました。

 

指導してくださったのは、屋久島でネイチャーガイドをされている高田健太さんと奈央さん。おふたりが準備してくださった中から自分で素材を選び、やすりを使って、丁寧に磨き上げていきます。

(写真右から、奈央さん、健太さん、真剣に磨くわたし)

 

最初のゴツゴツした姿から、だんだん丸く、まろやかに、輝いていく姿を思い返していたら、人の生きる姿に似ているような気がしてきました。

 

自分に対しても、丁寧に手をかけてあげることは大切だと思うのです。

 

ありのままが良い、自然が一番、無駄なことをしない、とは良く言いますし、そうだと思います。でも、人の細胞はどんどん生まれ変わっているように、本来、人は生きながら進化していくものだと思うのです。ありのままというのは、新陳代謝を妨げないこと、進化を妨げないことだと感じます。そしてここで言う進化とは、自分の意思で何かをしていくことだと思うのです。

 

磨いているときのことです。「こんな感じで良いですか?」と、健太さんに確認していただくと、「......ここに筋がまだありますよね。ここもなめらかではない。これでよいですか?」と、厳しいチェックがはいります。確かに良く見ると、薄い筋が。印をつけてもらってやっとわかるくらいのものもあります。「......もうちょっと、磨きます。」

 

やすりは1〜9まで、番号が大きくなるにつれて目が細かくなっていきます。このときは5まで進んでいたのですが、いったん3まで戻りました。

 

健太さんは、「どこまでやるかは自分の選択ですから、どんなでも良いのです。でもわたしは、ここでやめてしまうとまだ先があることを知っているから、それは伝えないと」と、おっしゃっていました。まだ先があるというのは、もっとなめらかに、ピカピカになる可能性を秘めている、ということです。

 

(健太さんに、"愛の"(?)ダメだしをされているであろう場面)

 

新しい経験するとき、自分の従来の常識や感覚のままだと先に行けないことがあります。太極拳のお稽古で生徒さんを見ていると、本人が「気持ち良い」と思っていても、それは、今までのその人の範囲での気持ち良さに留まっていることがあります。お稽古とは、自分を磨くことでもあり、それは今までの自分の範囲から飛び出すことで、可能性を開いていくことでもあります。ちょっと大変だったり、違和感を感じることもあり、それだけに「もっと先があるよ」と伝えることは、先生としての大切な役割だと思っています。

 

磨いていく作業も、なにしろ初めてなので、それなりにピカピカしてくると満足してきます。集中力も必要ですので、「そろそろいいかな」と思いたいのかもしれません。最後の仕上げの段階にきたとき、健太さんは「見本、触ってみましたか?」とおっしゃっいました。「まだまだ行けますよ。」それを触れば、目指すところもわかりやすくなります。

 

それでも、どこでやめるのかを決めるのも自分です。今回の主催の田辺美緒さんは、途中で終わらせてマットなままのクジラの牙をお持ちで、それはそれでとてもステキなのです。健太さんも、「自分で終わり、と決めているから、それでいいんですよ」と。自分の”これまで”の範囲を超えた可能性を見た上で、どこまでやるかを決めるのは自分です。納得できていればそれでよし、です。

 

そして「磨く作業をしているとき、ケンカしないでしょ。」とも。自分のことに集中していると、ケンカする余裕などなく、そのときその地域は、とっても平和なのですよ。

 

健太さんと奈央さんは、このワークショップによせて、こんな言葉を伝えてくださっています。

 

「現代人は、自分達の内側に、まだまだ発見されていない才能を秘めています。それぞれの素材を磨くということは、おその中にあるエネルギーを見いだし、輝かせるということ。。人は、自分の内に眠っている『アート』という光を、自分自身で輝かせることができます。人のエネルギーが高まれば、その周囲も素晴らしい波動で包まれます。そして、いずれは、この地球自身のエネルギーを高め、その波動は全宇宙へと広がっていく・・・私達は、この肉体をもって、それを体験するために地球へ集まった存在なのだと思うのです」(ワークショップのご案内文から抜粋)

 

素材を磨いてきれいな作品ができると、見る人にも心地よさを与えてくれます。同じように、自分という素材を自分で磨いて輝かせていくことで、周囲の人にも光を分けていくことができます。幸せな心地よい波動が、広がっていく気がします。

 

わたしが太極拳を通して伝えていきたいこと、実現していきたい世界と同じです。今、学んでいる内家拳は、英語ではInternal Martial Artsと言い、アートなのです。日本語だと、感覚的には”職人”が近い気がします。

 

いろんなことを感じたワークショップでした。主催の美緒さんとお誕生日が同じだったこと、そして今、出会って参加したことも、シンクロのような気がします。

 

何よりも、とっても楽しかったです。ありがとうございます。

 

指導してくださった森の旅人、高田健太さんと奈央さんのホームページは、http://www.moritabi.com

おふたりとの縁をつないで主催してくださったコホ・ガーデンの田辺美緒さんのコホ ナチュラルガーデンデザインは、

http://koho-natural.garden/

(みなさんの作品)

(わたしの作品。クジラの牙です)

 

...☆...☆...☆...☆...☆...☆...☆...☆...☆...

いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

太極道家

心と体が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ


言葉を交わすとき、相手の顔を見る

2017.02.16 Thursday

(Photo by Xie Okajima)

 

言葉を交わすとき、相手の顔を見ていますか?

 

意識してみると、見ていないことが結構あります。

 

わたしの体験でいうと、たとえばグループレッスンの部屋の後ろから「こんにちは」と言いながら入っていくとき、声のお返事はあっても顔は前を向いたままだったり。会社員だったときは、みんなPCに向かって仕事をしているところ、背後から「今、お話しても大丈夫ですか?」と声をかけると「今は忙しいから」とPCに向かったまま返事が返ってくることもありました。お買いものや外食してお支払するとき、「○○円になります(店員さん)」「ごちそうさまでした(わたし)」「ありがとうございました(店員さん)」など言葉は交わしますが、顔は見ていないこともあります。

 

言葉を交わすときに顔を見ること、実はとっても大事だと思うのですよ。

 

それに気づくきっかけは、何度かありました。

 

昔の上司はとても忙しい人で、ひっきりなしに人が訪れるような状態でしたが、「よほどのことがない限り、必ず顔を上げて話を聞くことにしている」と話していました。よほどのこととは、たとえば、あと5分でプレゼン資料を完成させなければならないというような、せっぱつまった状態です。ただしその場で聞けない場合でも、ちゃんと顔を見て「今は急ぎの仕事があるからもう少し後でね」と伝えていました。

 

もうひとつは4年ほど前、ワークショップに参加していたときのことです。人前で話し終わって、聞いていた人たちが拍手をしてくれているのに、さっさと席に戻ろうとする参加者を見て、リーダーが「拍手は称賛だから、立ち去らずにその場に残って、全身で受け取りなさい」と言ったのです。

 

拍手を受け取るというのは、芸能人は慣れているのかもしれませんが、やってみると当時のわたしには気恥ずかしいものでした。でも、言いたいことだけ言って立ち去るのは、よく考えると「自分がしたいことだけすればよい」というように、一方通行な気がします。聞いてもらったのに、聴衆からの拍手は受け取らない、しかも拍手なのに、です。

 

近所のコンビニに、いつも顔を見ながら、元気にあいさつしてくれるお姉さんがいます。こちらもすぐに顔を覚えますし、立ち寄ったときにお姉さんがいると、ちょっとうれしくなります。買い物せずに通りかかっただけのときも、お姉さんがちょっと外に出たりすると、「こんにちは」と自然に声が出ます。これ、気持ち良いのですよ。(ただし、店員さんに顔を覚えられると、買わなければというプレッシャーを感じて嫌だ、という方もいらっしゃるので、一概には言えませんが。)

 

4年前に「拍手を受け取る」ことを教わったとき、やってみたことがあります。言葉を交わすとき、とにかく相手の顔を見ると決めたのです。スーパーでも、コンビニでも、ちょっとでも声を交わすときは全部やってみました。こちらが見ても、あちらからは振られることも多かったのですが、それでもやり続けました。何かを変えたいなら、自分から、です。

 

そんなことを続けていたある日、驚くことが起きました。渋谷の雑踏を歩いていたときのことです。スクランブル交差点の近くといえば、行きかう人の数は、結構多いです。それまでは、東京の中心では、みんな無表情で歩いている、というイメージを持っていました。でもその日、一人ひとりの顔が、ちゃんと見えたのです。「うれしそうだな」「急いでいるのかな」「探し物しているのかな」「くたびれちゃったよね」「何かいいこと、あったのかな」とか、真意のほどはもちろんわかりませんが、一人ひとりの生活の一瞬を見ているような感じでした。しかも、押し寄せてくる人の渦にのまれるようなこともなく、一人ひとりの違いを、楽しんで見ているような感じだったのです。

 

それまでは、他人、特に道ですれ違う人は、たいして気に留めていなかったと思います。”自分”対”その他の人々”、という意識だったかもしれません。でもその日は、「みんな、それぞれの人生を生きているのだ」みたいなことをしみじみ感じ、知り合いではない通りすがりの人たちの存在が、とても愛おしく思えました。

 

なぜそうなったのか、振り返れば解説することもできそうですが、分析するのはやめておきます。理由なんてどうでもよく、自分でやって感じることが一番だと思うからです。そしてこれはわたしの体験で、誰にでも同じ体験が起きるわけではないと思うのです。

 

ただ言えることは、結局人は、自分からしか変えられませんし、これはやってみたらよかった、ということだけです。そしてわたしも、こんな体験をしていながらも、今日は「あれ?今わたし、顔を見ていなかった」と思うことがあり、思い出したのです。もしかしたらコミュニケーションも、だいぶ一方通行だったかもしれません。実際、最近ちょっとおかしいな、と自分でも思っていたところ、友人から「どうしたの?なんだかいつものみんみん(わたしのこと)ではない感じ」言われました。”いつものわたし”を勝手に決めてくれるなと、最初はちょっぴり反抗的な感情も芽生えましたが、ごめんなさい、きっとおっしゃるとおりです。正直に伝えてくれた友人に感謝して、言葉を交わすときに顔を見ること、またしばらく意識してやってみようと思います。

 

(中国、武当山の朝)

...☆...☆...☆...☆...☆...☆...☆...☆...☆...

いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

太極道家

心と体が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ


直感で生きるために、五感を満たす

2017.02.11 Saturday

 

昨年末、占星術をしている友人に会いました。ちょうど悩んでいたときに「枠が空きました」という話が目に入り、相談してみようと思ったのです。

 

実は、会うときにはすでに解決していたのですけれども、それでも人の話を聞いてみようと思い、予定通りお会いしました。単純に、久々に会いたかったこともあります。

 

どんな年だったか、今はどうか、どうしていきたいか、など、よくある友人同士の会話のように話を進めながら、そこはさすがにプロ、「星で見ると、こうなんだよね」と解説が入ってきます。「これからは人と協力していくと良いよ」という話になったときに、そういえばそんなことすでにあったなあ、と。冒頭の悩み事に道を見い出せたのは、友人との会話の中での気づきからなのです。

 

いろいろ話しているうちに、星から読むと、これから起きることの予兆が起きていたり、すでに自分から行動を起こしているということが、結構ありました。「みんみん(わたしのことです)は、直感で生きているよね。」

 

直感が冴えてくると、星占いは”答え合わせ”のようになります。当たっているなら不要か、というと、そうではないのです。自分が感じたことを「あれでよかったんだ」と腑に落とす時間になったり、やり始めたことを「進んでいいんだ」と後押ししてもらったりは、大事なプロセスです。ひとりだと自分に都合の良い”色眼鏡”をかけてしまうこともあるため、それを排除するためにも役立ちます。人と話すことで整理できたり、膨らませたりもできます。宣言することで、チャレンジもしやすくなることもあります。人の助けは借りるもの、ですね。

 

「直感で生きているね」という話に戻ると、自分では直感を使っている実感はないのです。なんとなくやってみよう、行ってみよう、話してみよう、という行動が、こんな機会に振り返ってみると、直感で動いたとなるのですが、そのときは意識していません。

 

でも、こうやったら直感が効くようになる、と思っていることはあります。それは五感をフルに使うこと、満たすことです。直感は第六感と言われます。五感が満たされていなければ、第六感には行きつけないという単純な話です。

 

前にも書いたことがあるのですが、今のようにインターネットで何でも情報が取れる時代は便利ですが、自分で五感を使わずに「知った気になっている」ことも多々あります。リンゴがある場合、見て、たたいて音を聞いて、触って、匂いを嗅いで、かじって、はじめて「このリンゴを知った」脳が安定するそうです。そして、同じリンゴは存在しないため、別のリンゴには、また同じプロセスを繰り返さない限り、”知る”ことはできません。でも今は、ネットで何かモノを見ただけで、”知っている”と思いがちです。これを繰り返していくと、脳はストレスを抱え、不安定になると聞いたことがあります。

 

昔の人にはなかった悩みですよね。

 

ネットがあるから、こうやってブログを書いて伝えることもできます。ブログを読んで来てくださる生徒さんがいらしたり、遠くに住んでいる方ともつながることができるのは、ネットのおかげです。便利さの恩恵を受けている一方、失われていっているものにも気をとめておきたいと思うのです。

 

太極拳を学ぶ過程で育てるものはたくさんありますが、そのひとつは”感覚”です。自分の体を感じることからはじまって、そこからいろいろ広がっていきますが、中心となる自分から意識を外すことはありません。

 

太極拳を学ぶことは、五感がフルに満たされて、物理的にも、精神的にも、自分の中心軸を築いていく道でもあります。五感が満たされた安定した状態で、自分軸がある中での選択は、違う面から見たら”直感が冴えている”というのだと思います。

 

ただし、直感で選ぶぞ!とか、直感を効かせるぞ!と思ったとたんに、ヘンなところに力が入り、カンが効かなくなる気がしますけどね。無為自然、流れに沿って生きるとは、余計なことは、考えるものではありませんね。

(中国、武当山。南岩にある南天門。ちょっと長い階段を登った先にある、お散歩コースです)

 

...☆...☆...☆...☆...☆...☆...☆...☆...☆...

いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

太極道家

心と体が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ

 

 

 


太極拳の秘密が、秘密でなくなる日が来るまで

2017.01.23 Monday

(Photo by Xie Okajima)

 

とっても幸せだと感じるときが、あります。「はじめてなのですけれども、やってみたいです!」とお問い合わせをいただくとき、長年お稽古していらっしゃる方が新しい発見をされるとき、お稽古を続けて気づきや変化を体験されていく生徒さんを見ているとき、「太極拳ってこんなものなの」とお話したり、プチ体験していただいたとき、びっくりしたり、じーんとされる方々にお会いするとき、などなど、です。太極拳という言葉は、みんなが知っているけれども、実際どんなものなのか、ほとんど知られていないと感じます。隠しておきたいわけではないのに、みんなが知らない”秘密”のようになっています。

 

近い将来、その秘密が、秘密ではなくなる日が来たらいいな、と思っています。

 

太極拳は武術なのですが、攻撃するためのものではなく、戦いを止めるためのものです。一番良いのは、戦いが起きないことです。そのためには心の持ち様も大切です。心も柔かくして自分をオープンにして、自分を鎧で囲わないことです。鎧を着た人は怖いので、相手は逃げるか、攻撃するか、争いの種になるからです。

 

立ち方、歩き方も、通常とはだいぶ違います。自分の軸を常に保ち、どこから押されても倒れにくい体になります。

 

動くときは陰陽の法則、”てこの原理”を働かせます。”てこ”で重いものを持ち上げるとき、一方を下げれば、持ち上がりやすくなります。水が上から下に流れるように、自然に逆らわないのが下向きの力、陰です。太極拳も自然の法則に則り、陰を働かせて、陽(上向き)は自然に発生させていきます。

 

立ち方も、歩き方も、陰陽の法則の動き方も、普段経験しない体の使い方です。それを習う過程では、じっくりと自分の体を観察してます。そこで”感覚”が育ちます。

 

便利になった時代、恩恵はもちろんありますが、退化している部分もあると思います。その一つは、感覚です。たとえばりんごを”知る”ためには、見て、触って、音を聞いて、香りを嗅いで、食べて、という五感をフル活用させることが必要ですが、今のようにインターネットの時代だと、見るだけで”知った”つもりになりがちです。知ったつもりが積み重なることで、脳は不安定になってくるそうです。本当に知っているわけではないからです。

 

また、「〇〇はこんな風に体に良い」など、いろいろと分析して証明することも可能な時代になっています。それも参考にはなりますが、人の体は複雑で、それぞれです。本当に自分に合ったものは、自分の体しかわかりません。もし自分の感覚がうまく使えたら、あふれる情報に踊らされることなく、選択しやすくなり、その結果からまた自分なりに学んでいくこともできます。おばあちゃんの智慧などは、こんな体験と感覚の積み重ねで、今でも変わらず役に立っています。

 

そもそも、なぜ太極拳という名前なのかも、ほとんど知られていません。名前の由来は「太極拳経」という中国で見つかった文書からきています。冒頭には「太極とは、何もないところから生じて、動きだし、もしくは要素が発生するきっかけを与えるもので、陰陽の母である」と書かれています。

 

わたしは太極を、ひとつの大きな源、と理解しています。この世はすべて陰陽の2極で成り立っていますが、もともと生まれる前は、ひとつの大きな源だったと思うのです。そして陰の中に陽があり、陽の中に陰があるように、あなたの中にはわたしがいて、わたしの中にはあなたがいて、お互いにどこかでつながっているように思うのです。

 

”他人は自分の鏡”という言葉もあるように、わたしの経験でも、他人を見て嫌だなと思うときは、自分の中にあるコンプレックスを見ていることも多いのです。誰かの幸せを願うと、本人が知らなくても想いは届く、という話があったり、最近気づいたことを言ってみたら、周りでも「そうそう、最近そう思った!」という声があがるときなども、人はどこかでつながっていると感じるのです。

 

分断しているから、争いが起きるのであって、本当はひとつなのだと気づけば、争う必要はなくなります。逆に言うと、他人と争っているつもりが、自分と争っているだけなのかもしれません。

 

太極拳の套路(型)の、最初を”開太極”、最後を”合太極”と呼ぶこともあります。太極の状態から2極にわかれ、くるくる回転して動いていろんな経験をして、最後は太極の状態に戻ります。これって人生の縮図のような気がするのです。

 

生きているこの世では、2極があって、人もモノも分断されて見えています。太極拳の套路があるように、人は陰陽をくるくる回転させながら生きています。呼吸して、心臓の鼓動をたて、動脈と静脈で血液を循環させることも、陰陽の移り変わりのひとつです。白黒の陰陽図(太極図)には、白の中に黒、黒の中に白があるように、まっぷたつに分けることはできず、片方だけでは成り立たず、早く回せばグレーに見えます。分かれているからこそ、いろんな感情が生まれたり、いろんな経験をしたり、対立や融合、いろんな関係が生まれます。それを経験していきながら、最後は、本当はひとつの大きな源なのだと気づいていく道のような気がします。

 

(武当山でいただいた、太極図のスープ。味は......体によさそうでした)

 

そんなこんな、ここには書ききれないほどのことが、太極拳には詰まっています。それを自分で体験することで、心身が元気になったり、新しい発見があったり、今まで悩んできたことがなくなったり、自分への尽きない興味が高まったり、他人との関係が改善したり、何が起きるかは人それぞれですが、生徒さんを見ていると、今のその人に一番必要なことに気づいていっていると思います。

 

お稽古に来るとき、特に初めて参加される場合は、ちょっぴり緊張して硬さもある方も多いのですが、お稽古中や終わったあとは、子供のようにかわいらしい顔になる方が多いのです。それはたとえば、鎧を着なくてもいいと、気づくからなのかもしれません。いつもそんな状態でいられたら、優しいままでいられるのにと、思うのです。本当は人は誰でも、優しい存在なのだから。

 

そう遠くない日に、電車に乗ったら隣の人が、「太極拳って、こんなものなんだよ」と楽しそうに語る場面に、できれば熱く語る場面に遭遇することがあったらいいな、と思います。もちろん太極拳が全てではないのだけれども、世の中にはこんなのもあるよね、と、今よりもっと市民権が得られて、もっと当たり前のように知っている日が来たらと思うと、ワクワクします。どんな世の中になるのかわかりませんが、優しく明るい未来しか思い浮かばないのです 。

 

そんなわたしの願いを聞いてくれた、友人でカメラマンのXie Okajimaさんは、「この椅子に、今はみんみんしか座っていないけど、たくさん人が座るんだよ」と言いながら、撮影してくれました。「並んでいるの、かわいいなあ」と言いながら。

 

(Photo by Xie Okajima)

 

長いブログを、ここまで読んでくださった方にも、本当にありがとうございます。体で表現するだけではなく、書いて表現することも、わたしにとって、やらずにはいられないことです。読んでくださる方がいらっしゃることに、感謝です。

 

...☆...☆...☆...☆...☆...☆...☆...☆...☆...

いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

太極道家

心と体が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ


中庸であること

2017.01.04 Wednesday

(Photo by Xie Okajima)

 

太極拳とは、単なる運動ではなく、生き方にも通じると思っています。先日、ブログを読んで初めてお稽古にいらしてくださった方が、「中庸の生き方」のような話をされていました。「だんだんと振れ幅が少なくなっていくのでは、と思うのです。」

 

辞書によると中庸とは、「かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。また、そのさま」です。(出典:デジタル大辞泉)

 

過不足を左右の幅とすると、文字通り左右の”振れ”が少ないことが、”振り回されない生き方”と言えると思います。過去の自分を振り返ると、あちこちゴツゴツと左右に振れまくり、笑って怒って泣いて悲しんで、と、喜怒哀楽のジェットコースターに乗っているようなときがありました(ジェットコースターは嫌いなのに、です)。こんな生き方では消耗が激しすぎる、もっと穏やかに生きたい、と思い始めたときは、わたしも振れ幅が少なくなっていく、というイメージを持ちました。

 

でも今の答えは、「どちらかというと、逆に振れ幅を広げていくような気がします」です。左右の振れ幅が広い中で、真ん中を歩く、というイメージです。

 

太極拳の話をすると、流派がいくつもあり、大きく分けると各地で伝えられてきた伝統太極拳と、中国政府が太極拳を広めるために作らせた制定拳があります。制定拳の代表は、一般に広く知られている簡化二十四式で、太極拳をやっている方も、これが一番多いと思います。伝統拳は、原型と言われる陳式、そこから分かれた楊式、呉式、武式、孫式を合わせて五大門派と言い、わたしがお稽古している武当太極拳も、道教の聖地である武当山に伝えられてきた伝統太極拳のひとつです。

 

武当太極拳を見てみると、わたしが経験しただけでも二流派あります。2008年末に三豊派を習い始め、2011年春から玄武派を習い始めて今に至ります。このふたつ、結構違います。もっと言えば、玄武派の同じ套路でも、それを演武する人によってだいぶ違うのです。人によっては「ここは省略」と一部の套路をなくしてしまうこともあります。型はありますが、人の数だけ太極拳があるような印象です。

 

以前、東京で気功を教えてくださっていた先生が、「習うときはしっかり習う。でも、自分の中で理解して、熟成させて出てくるものは、違っていることもある。それはそれで良い」という話をされていました。これが、人の数だけ太極拳がある、という印象になる理由だと思います。

 

自分の太極拳をみても、師匠(武当玄武派第16代伝承人 明月師父)にはしっかり習って、一言一句逃さず理解しようと努めますが、教えるときにまるっきり同じかといえば、そうでもありません。大切にしたいことを伝えるために、自分なりに理解したことを、足したり引いたりしています。

 

ただし、なんでも良いわけではなく、「それもありだね」「これもありだね」というところなのですが、太極拳を知らない人が見ると、「型があると言うのに、これはどういうことか?」と、頭をかかえてしまうに違いありません。

 

太極拳とひとことで言っても、これだけバリエーションがあります。そのせいか、「あれは違う」とか「これが正しい」という話が聞こえてくることもあったり、「違う流派を学んでいる人はお断り」と言われることがあったり、その狭間で息苦しくなってしまう人も出てきます。わたしにも、そんな経験がありました。

 

「他の流派を学んでいる人はお断り」と言うと、どれだけ閉鎖的なのかと思われるかもしれませんが、単に理不尽なだけではなかったりします。例えば、弓歩という基本姿勢は、前足7割、後ろ足3割なのですが、武当太極拳の場合は後ろ足を伸ばします。そして腰が窮屈にならないように、上半身を少し前傾させたり、体を少し開いたりします。簡化二十四式を習ったときには、腰が窮屈にならないように後ろ足の膝をゆるめる、と教わりました。どちらも腰を緊張させない方法ですが、方法が違います。この最終目的の部分を理解して動けば良いのですが、その手前の後ろ足を伸ばす、伸ばさない、という違いで見てしまうと、生徒は混乱するでしょうし、先生からするとちょっと面倒かもしれません。

 

(弓歩の例。Photo by Xie Okajima)

 

さらに「あれは違う」と言うのは、自分が大切にしたいものがあって、それが守られていないから、ということもあります。自分にもありましたし、今でもまだ思うこともあります。自分の大切にしたいものを守りたいために排他的になってしまうのです。こだわりを持って「良いものを届けたい」とやっている人に、時々みられる傾向だと思います。

 

「あの人がいると和が乱れるから」という理由でやめてもらうことがある、という話も聞いたことがあります。最初に聞いたときは、それはひどい、と思いました。でもそれも、大切にしたいものを守るためだったり、何をするのも個人の自由だと思えば、他人がどうこう言うことではありません。

 

つまり、誰も悪くないのです。きっと。精一杯なのだと思うのです。

 

今、わたしは人を排除することはしませんが、教えるときには、違うことは違う、と言います。生徒さんとのやり取りや様子を見て、今の自分の信じていることを豊かにしていくことはありますが、「なんでもありです」とは言いません。簡単な例で言えば、武当太極拳の弓歩の場合、後ろ足はまっすぐです。ただし、膝を緩めると習ってきた人には、「同じ目的なのだけど、この流派ではこっちの方法なのです」など、わかる範囲で納得しやすいように伝えようと心がけています。

 

やり方に普遍的な正解はなく、今の自分が「これだ」と信じるものをしていくしかありません。その「これだ」も、時間がたつと変わっていきます。中庸を生きるとき、左右の振れ幅を広げて真ん中を歩きたい、と思うのは、「これだ」を大切にしすぎると視野が狭くなり、幅が狭くなってしまう危険があるからです。自分の信じる道は守りながら、幅を広げて、なんでもありだと認めながら、でも、それに振り回されない生き方をしたい、と思っています。

 

何と言っても、「あれは違う」「これは正しい」という狭間で苦しくなって、太極拳が好きで、もっとやりたいという気持ちがつぶされてしまうことは、つらいのですよ。わたしも、他の誰かにとっても。

 

(陰極まって陽に転じる、冬至の日に見た伊豆の空)

 

...☆...☆...☆...☆...☆...☆...☆...☆...☆...

いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

太極道家

心と体が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ

 



calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< October 2017 >>

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM