武当山日記:そぎ落とす

2018.10.04 Thursday

 

何かを習うことは、「得ていく」イメージかもしれません。これを覚える、これができるようになる、とかです。

 

でもカンフーのお稽古は、その逆で、そぎ落としていくプロセスだと感じています。余計なことに気づいて、やめていくのです。

 

新しいものを習うときは、力が入りがちです。力みも緊張もありますし、習うのだ!という意気込みも、あるかもしれません。

 

最初は、動き方、位置、そして何をしているのかという用法(剣であれば、突き刺すとか、上から切り下すとか)を教わり、真似します。

 

すると、いろんなことが起きます。

 

たとえば何度も同じところでダメ出しされる場合は、自分で何ができていないのか、わかっていません。余計なことをやっていたり、意図したことをやっていないのですが、どちらも無意識ですので、なかなか気づかないわけです。

 

頭でわかっていても、体がその通りに動かないときも、あります。頭(意志)と体がつながっていない状態です。

 

動きも、なぞっているうちは、不自然です。表面的な形だけ真似しても意味はない、とわかっていても、視覚からの情報に影響されるようです。五感のうち視覚は9割近くを占めるため、当然なのかもしれません。

 

今回、武当丹剣を習っているとき、こんなことがありました。剣を正面で突き刺す場面を練習していたら、隣で見ていたお稽古友達が「やりすぎ」と、ひとこと。先生は、つっと強く突き刺すので、それを真似していたのですが、「先生はパワーがあるから、ああなるだけ。きみは、自分にあったパワーでいいんだよ。」と言うのです。

 

なるほど、ですよね。やりすぎないように注意して、自分の内側から出る力のままにしてみたら、「そうそう!いい感じ」。分相応って、大事です。

 

やりすぎは、エネルギーを消耗します。太極拳にしても、八卦掌や形意拳にしても、「やってもくたびれない」のが良く、生きるためのエネルギーを満タンにしてくためのものなのですが、それを消耗していたら、本末転倒です。

 

お稽古の時間は、こんな風に無意識にやっている「いらない」ことに気づき、やめていく繰り返しです。何度も、何年も繰り返すのは、このためでもあります。

 

そぎ落としていくプロセスだと、思っています。やりすぎず、偏らず、陰と陽のバランスを保ち続けて進んでいくこと、です。

 

「無為自然」という言葉があります。老子の思想を表すもので、「無為」とは、何も為さないこと、「自然」とは、自ずと然り、他からの影響を受けることなく、あるがままの姿、という意味です。

 

「何も為さなかったら、行動しなかったら、何も結果がでないのでは?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんよね。

 

以前のわたしが、そうでした。そんなわたしに「あなたは待つことを知らない」とか、「行動しないと、何も手に入らないと思っているでしょ。そんなことないよ。」と言ってくださる方々が、何人も現れました。世の中とは、ありがたく、上手くできています。

 

老子の「道徳経」には、「道は常に無為にして、而(しか)も為さざるなし(原文:道常無為、而無不為)」(道はいつでも何事もなさないで、しかもすべてのことを為している)(第37章より)と、あります。

 

天や地は、意志で動いているわけではなく、無為と言えます。それでも朝になると日が昇り、夜は日が落ちて、季節は移り変わります。その中で植物は育ち、動物も、人間も、育っていきます。意志がなくても、天地はすべてを為していますよね。

 

無為自然とは、そいういう意味です。

 

人は生まれると、誰に教わらなくても、空気を吸い、おっぱいを吸いはじめます。赤ちゃんが立って歩くようになるためには、立ち方教室に行くからではありません。生きる力、育つ力は、もともと備わっています。

 

「でも、50歳を超えたら、そうはいかないよね」と思った方も、いらっしゃるかもしれません。

 

それが、そうでもないのですよ。2000年以上前に誕生した中国最古の医学書「黄帝内径」には、「昔の人は100歳をこえても衰えることはないと聞いたが、なぜ今どきの人は、50歳くらいで皆衰えてしまうのだろうか?」と書いてあります。

 

2000年前から、人は早死にだったのですね。季節にあった過ごし方、必要なだけ食べること、日が昇ったら起きて、沈んだら寝る、という自然に合ったリズムが崩れると、生きるエネルギーを損ないます。

 

話は飛びますが、ここしばらく、太極拳の最初で脚を横に開くとき、左足が右足よりも後ろにずれていました。こんなときに「ふつうに出すと1センチ下がるから、ちょっと前気味に出す」と、作為的に考えて行動しては、ダメです。

 

「何もしない。無駄なことしない」とだけ思ってやってみたら、揃いました。脚が揃わないのは、骨がずれているのかとも思ったのですが、そうではなさそうです。

 

無駄なことをしないためにも、鍛錬が必要です。何も為さなければ、本来の力が生きてきます。「生きているだけでいい」というのは、こんな意味じゃないのかしらね。

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

........................

いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ

 


体に痛みが出たときは

2018.10.02 Tuesday

(武当山の山頂(金頂)から)

 

あるとき、「体の痛みが出たときに、どうするか?」という話になりました。

 

ご一緒していたのは、ボディワークをいろいろと探求されて、実践されている方たちです。おひとりが「原因として、痛みのある部位とは違うところを探って、ケアしていく」とおっしゃいました。

 

なるほど。東洋医学でも、ツボ押しは、そういうところ、ありますものね。その他にも、肩に力が入りすぎているとき、肩を緩めようとするのではなく、膝から緩める、なんてこともあります。

 

「みんみんも、そうなの?」と聞かれたとき、「はて?」と考えてしまいました。やっていないとも言えないけれども、今、聞いたようなことは、していません(整体師ではありませんし。)

 

その後、ゆっくり考えてみました。

 

痛みが出たとき、まず考えるのは、その前に「何をやったか」を、体と心の両面で振り返ります。何かの動作が関係しているか、とか、心がきゅっと硬くなっていたか、イライラしていたか、などです。

 

痛みのほかに、疲労も同じです。寝たり休んだりすれば回復するくらいの疲労は問題ありませんが、たとえば、いびきが出るような場合、やりすぎたに違いない、と思っています。自分では、命を削るタイプの疲労、と呼んでいます。

 

たいていは、何か思い当たります。絶対ではありませんが、続けていると、それなりに精度は上がっている気がします。「これからは気をつけよう」と、心に誓います。

 

動作の場合も、よかれと思ってやっていることが、微妙にやりすぎていることもあります。その蓄積が、3か月くらいすると、痛みとなって現れることもあります。

 

実際、どのくらいがちょうどよいのかは、微妙なのです。ですから実践しながら探るものだと、思っています。ただし、それなりに体との対話を続けていると、「おかしいな」と感じる感度は上がるためか、痛みとは言っても、大きな問題にはなりません。

 

そういうこともあるせいか、ここ5年くらい、大きな痛みは出ません。

 

人の体は、簡単に歪みます。体に意識をむけるほど、「体というものは、ずれるのだ」とわかってきます。重いスーツケースを持って飛行機で移動したりすると、コリは出ます。最初の頃は、それにがっかりしていましたが、だんだん諦めてきて、「ずれたら戻せばいいのだ」と思うようになりました。

 

痛みが出た場合も、あまりピンポイントでなんとかすることはなく、全身のめぐりをよくしようとします。つまり、することは普段と同じです。そもそも、太極拳は、縮こまった体にスペースを空け、全身のめぐりをよくするものです。コリで縮こまった体も、自ずと緩んでいきます。滞りが強いと思う場合、スワイショウ(腕ふり)のように、単純で小さい動作で、めぐる感覚が強く感じられるものを、多めにすることもあります。

 

めぐりやすい体にしておけば、不調は自然と取り除かれます。

 

流れる水は腐らない、と言いますよね。自然を大宇宙、人を小宇宙として対応させるとき、地球に川が流れるように、人の体にも血が流れる、と考えます。

 

太極拳や気功をすると、血が巡ります。体温も上がります。血が巡れば気が巡るのを応援します。気とは、ざっくりいうなら生命力です。人間を車に例えるなら、ガソリンと、車自体のメンテナンスをしてくれます。

 

無為自然という言葉があります。何も為さなければ、自ずと然り、あるがままの姿(川が滞りなく流れる)になります。本来、人間いは生命力が溢れているはずです。太極拳にしても、気功にしても、「する」という言葉を使いますが、実際は「無駄にしていることをやめる」ために「する」とも言えます。無駄に力んでいるところを緩めたり、緊張しているところを緩めたり、です。ただ脱力したり、リラックスするだけでは、流れをよくするまではいかず、そこにはコツがあります。

 

それでも「これはダメだ」と感じるものは、早めに専門家の手を借ります。どんなに鍛錬していても、自分だけでなんとかするのは無理です。人はひとりで生きていませんし、他人の助けは借りるもの、です。

 

そして太極拳は、対処療法ではなく、未病のためのものですしね。それでも、つね日頃から、めぐりのよい体であると、いろいろと変わってくるのですよ。やりはじめて11年、そんなことを、実感しています。

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

........................

いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ

 


武当山日記:站椿功がもらたす「喜悦」

2018.09.26 Wednesday

(武当丹剣のはじまりの部分)

 

站椿功(日本語で言うなら、立禅)は基本で、ここから始まり、ここに行きつく、と感じています。

 

ひたすら、立ちます。

 

立ち方には、いくつかコツがあります。今回も滞在中、先生が説明してくださる時間がありました。

 

このとき、わたしは別の場所で別の練習をしていたのですが、ふと気になって他の人の様子をちらりと見ると、みんな集まって、何やら話を聞いています。初めての人たちに站椿功の説明をしている様子でした。

 

こういう話は、何度聞いてもいいものです。我ながら、いいタイミングでちらりと見たな、と思います。こういうの、「奇跡」と言いますよね。

 

站椿功は、まず体を整え、次に心、そしてこの2つが自然にできれば、最後の呼吸は、自然になります。「寝るときに、どうやって呼吸しようかなんて、思わないでしょう?それは自然にできるものだから。」段階は、3ですね。

 

体の整え方も、ポイントは3つです。

 

1.脚蹬(Jiǎo dèng):脚で大地をしっかり踏む・押す

 

2.收腹(Shōu fù):お腹を収める

 

3.头顶(Tóudǐng):頭を上に

 

3には、意味があります。老子のことばに、「1は2を生み、2は3を生み、3は万物を生む」(老子「道徳経」第41章)とあるとおり、3は、すべてとか、発展を意味します。

 

ひとつめの「脚蹬」は、体重を乗せるのではなく、押すのです。積極的に立ち、しっかり根を下に伸ばすイメージです。これで下に向かう力が大きくなり、逆に向かう力も大きくなります。

 

このときに注意したいのは、膝です。曲げず、のばさず、です。站椿功いは、腰を落とすやり方も多いのですが、この学校のやり方は、腰を落としません。なぜなら「膝に重さのかかるやり方ですると、膝を壊すから」です。

 

これは、膝に負担をかけない体の使い方を学ぶ方法でもあります。「この体の使い方が身についたら、いくら腰を落としても大丈夫」のですが、站椿功自体で腰を落とさなくてもいいのです。

 

膝の扱いは、難しいところです。過去、わたしも長い間、迷い続けました。

 

曲げず、は自分から曲げないこと。伸ばさず、は、わたしの場合はふくらはぎがピンっとはったら、やりすぎというイメージです。膝には衝撃を吸収するためのバネの役割をするため、曲がるようになっています。これをわざと曲げたり、伸ばしきったりすると、バネが効かなくなります。

 

ふたつめの「收腹」をすると、腰(ウェストラインの後ろ側)の反りがなくなります。背中側、おへその裏にある命門(めいもん)というツボが、開くイメージです。腰が反っていると、1で脚で大地を押しても、腰で引っかかって、上に伸びる力が止められてしまいます。

 

このとき、胸を張りすぎていると、腰が反りがちになりますので、要注意です。

 

3つめの「头顶(頭頂)」は、1と2ができていれば、頭は天に向かって伸びて行きます。下から突き上げられて、どんどん背が高くなるイメージです。背骨の関節の隙間も空いて、背中が伸び、体の中には「空(Kōng)」、スペースが生まれます。

 

このとき、あごが上がっていると、首の後ろが反って、下からの力がせき止められてしまいます。あごは、少し引きぎみ、でもきゅっと力まないように。あごを引き続けると、頭がどんどん天に向かって伸びるイメージです。

 

舌は、上あごにつけます。経絡の任脈(にんみゃく:体の前側の真ん中を通っている)と督脈(くみゃく:後ろ側の真ん中を通っている)はつながっていないのですが、舌を上あごにつけることで、このふたつを橋のようにつなぐ、とも言います。

 

余談ですが、歯医者さんが書かれていた本で、赤ちゃんがおっぱいを吸うとき、舌をこの位置において、しごくことで吸うのだ、とありました。この動作は、赤ちゃんの発育にはとっても大切なのだとか。(出典:「舌は下ではなく上に」宗廣素徳 文芸社)

 

成長のシンボルとされる赤ちゃんと同じ動作をするのも、さらなる発展、発育を意図しているようですよね。

 

 

体が整ったら、次は心です。心を整えるには、耳を使います。

 

耳は、外に向かって大きく開きます。聞きに行くのではなく、音が入ってきます。以前、先生は、「心の音も聞く」と話されていました。これがとても好きで、自分の内と外の境界線が、曖昧になっていくような感じがします。個の自分が、すべてのひとつの源、太極に、合わさっていくような感覚です。

 

 

体と心の次は、呼吸です。これは、もう何もしなくても自然にできます。

 

 

腕を前にあげる姿勢を続けていると、肩や腕が痛くなることがあります。「それは、どうすればいいの?」という質問に、先生は、「肩をどうにかするのではなく、3つのポイント、脚、お腹、頭のどこかが整っていない」と話していました。

 

さらに「動いてはいけないと思うから、辛くなる。別に動いてもいい。」とも。○○でなければならない、という考えは、自分を縛りつけて硬くするのですよね。

 

そして、「天と地は友達だ。そこと繋がっていくと、日常のいざこざ、気になっていることなど、どうでもよくなるよ」と言うのです。

 

その感覚を、「喜悦(Xǐyuè)」と、表現していました。外部の要因による嬉しさ(中国語だと、「高兴(Gāoxìng)」とは違い、内から沸き起こる喜びのような感じです。絶対的な喜び、とも言えるかしらね。

 

先生の方の大らかさ、心の広さは、もともとの気質もあるかもしれませんが、やはりずっと站椿功を続けてきたことも、大きいのだろうと、感じます。

 

「毎日10分、やり続けていると、変ってくるよ。」と。

 

腕を上げるのが大変だったら、腕は下げていてもいいのです。とにかく「立つ」こと。立つ力をつけることが、大切です。

 

そうすると、やる前には考えもしなかったことが、いろいろ現れてきます。それが、站椿功だと思っています。

 

言葉では、上手く説明できません。言葉での表現をはるかに超えることって、実際にはたくさんあるのです。

 

 

(站椿功には、いろいろなやり方、いろいろな説明方法があります。わたしはこのやり方が好きですが、これも、そのひとつとして読んでいただくと良いと思います。)

 

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

........................

いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ

 

 


武当山日記:教え方

2018.09.14 Friday

 

太極拳の教え方は、先生によって、いろいろです。

 

「先生の動きを、ひたすら真似する」もあれば、

 

「まずは形を覚えて、それから次の段階に」というものもあります。

 

わたしは、上記の両方を経験しています。先生はそれなりの意図を持ってされていると思います。ですから、どれが良くて、どれが悪い、というものではありません。どれも、意味はあると思っています。

 

今の先生(武当玄武派第十六代伝承人、明月師父)は、5年くらい前は後者のような教え方もされていたと思いますが、今は、上の二つのどちらでもなく、初心者でも、10年やっている人にでも、教えるポイント(大事にするところ)は同じような気がします。

 

太極拳は、末端を見ると、それは本当に様々で、複雑な動きをします(正確には、「するように見えます」、です。)。形を真似しようとすると大変すぎて、挫折してしまうこともあります。

 

でも、幹の部分、本質をみれば、とてもシンプルです。そこを掴んで自分の体で表現できるようにしていけば、末端に現れる形に惑わされず、でも結果的にそんな複雑な動きができるようになります。さらに新しいところを学ぶときにも、役立ちます。何よりも、心身ともに良いのは、こちらです。

 

先生は、誰に対しても、この幹の部分、本質を教えています。初心者であっても、最初から、です。

 

幹の部分は、シンプルですが、なかなかしっくり体で表現できないこともあります。そんなときも、先生は焦らず、ずっとずっと、ずーっと、同じところを繰り返します。ときには手取り足取りで、言葉での説明も、たくさんします。

 

今回の滞在期間中、わたしにも、そんなときがありました。

 

武当丹剣を習っていたのですが、ある一部、秒数にしたら、ほんの3−4秒のところが、なんとかなるまでに、2日ほどかかりました。

 

大まかな動きは、3回くらい一緒にすれば覚えられます。でも、この時点で、大事なポイントは、全然できていないわけです。

 

「違う」「違う」の繰り返し。先生の動きを見る、一緒にやる、直してもらう、ひとりでひたすら練習する、直してもらう、の連続です。

 

あまりのダメさに、泣きが入りそうな気分になったときに、先生が「ここは大事なところだから、今、細かく丁寧にやって出来るようになれば、残りの部分は簡単だよ」と言うのです。

 

その言葉が、どれほど励みになったことか。

 

先生が、わたしの落ち込みに気づいたのかどうかは、わかりませんが、絶妙なタイミングです。一緒に練習していた人が、「こういうところ、先生のすばらしいところだよね」と言うのです。本当に、その通りです。

 

ひたすら続けると、できるようになるものです。2日たつ頃には、気持ちよく、楽に、だいぶ、のびのび動けるようになってきました。

 

「小さいことだけれど、大きな違いだから。」と、先生は、おっしゃいます。2日後の今であれば、その大きな違いと言っている意味も、わかります。

 

(問題の場面の一部)

 

ふと隣を見ると、ほぼ初心者の70歳の方が、手をとって、気功を丁寧に教えてもらっています。何度も、何度も、同じところを繰り返しています。2日後、その方の動きは、驚くほどの進歩を遂げていました。その変化には、感動するほどです。

 

こんな風に、生徒がだれであっても、教え方は変わらないのです。経験があるから上の段階を教える、ということではありません。

 

それだけ、幹の本質にあたるポイントは、シンプルで、でも奥深くて、ということだと思います。

 

ここで”同じ”、と言っているのは、教えるときにこだわるポイントのことです。先生は、それぞれの生徒の特性(身体能力、体の状態、柔軟性、覚えるスピード、耐久力、などなど)を見抜いていて、それに応じて教えているため、厳密に言うと、教え方は同じではありません。

 

この場合、生徒にもそれなりの根性は必要です。簡単によし、としてもらえないからです。

 

でも、違う見方をすれば、先生が「初めてだし、このくらいできれば十分」とした場合、その人の力を、勝手に低く見ていることにならないでしょうか?生徒の力量、可能性を狭められてしまうこともあるのではないか、と思うのです。(もちろん、そんな意識でやっているわけではなく、結果としてそうなる、という意味です。)

 

教えるときには、

大切にしたいことを、大切にする。

生徒の力量を、勝手に制限しない。

 

こんな姿に、わたしはとても影響を受けています。

 

今回は、久々に、本気で泣きが入りそうになりましたが、それも良い経験でした。

 

あきらめずにやれば、いつかは必ずできる。それを信じることです。生徒としても、先生としても。その前提として、やりたいと思ってやっているかは、重要ですけれどね。

 

大切にしているポイントについては、また別の機会に書きますね。

 

(中央が先生)

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

........................

いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ

 


尾白川渓谷のトレッキングと 太極拳と 修行

2018.08.14 Tuesday

 

先日、尾白川渓谷にキャンプに行きました。南アルプス天然水の、名水の地です。

 

川にはいったり、翡翠色の滝壺にドボンと入って泳いだり、夏を満喫した翌日は、渓谷道のトレッキングです。途中、滝の絶景ポイントがあり、滝のしぶきをめいっぱいに浴びる所もありました。頂上では遠くに3段の滝が見えるという、めずらしく美しい景色に出会えるコースです。

 

しかしこの道、ところどころに「滑落注意。死亡事故あり」と、看板が立っています。鎖やロープを頼りにして歩いたり、地面に張り巡らされたような木の根っこをつかんで急な坂を登るなど、アップダウンも激しいコースです。道は整備されていますが、幅が細く、片側は渓谷にすっぱりと落ち込んでいて、それはそれは、落ちたらキケンでしょう。

 

「死亡事故あり」なんて見てしまうと、怖いですよね。これを「慎重に」というアドバイスとして受け取ればよいのですが、文言にとらわれて怖くなると、体は緊張して硬くなります。貴重な情報に感謝して、心を落ち着けます。深い呼吸を意識することも、役立ちます。

 

過信は禁物です。「普段、鍛錬しているから、できるはず」なんて思いすぎると、逆に体が硬くなることは、過去に体験済みです。

 

歩くときは、一歩ずつ。落ち込む崖など見過ぎると、怖くなってしまうため、次の一歩を大切にして歩きます。

 

こんなとき、ふだん太極拳でやってきたことが、とても役に立った気がします。心の落ちつけ方、体の使い方、目の使い方などです。

 

慎重さは大事ですが、あまりに集中しすぎると、精神的にどんどん疲労していきそうです。こんなときには、太極拳の目の使い方です。「木を見て、森もみる」という、視界は開けているけれど、細かくも見えている状態です。これだとエネルギーを使いすぎることも、ありません。

 

体も、できるだけ筋力を使わないで済むように、楽な方法を探ります。段差がある下りは、膝を痛めないように、膝に体重がかからないで行ける方法で。腕を使うときも、腕力頼みにならないように。

 

「どんなところも大丈夫!」という自信があるわけではありません。「軽んじたらあぶない」と思いながら、歩きました。でも、そんな中で良かったのは、自分の体との信頼関係があったことです。今、自分がどのくらい緊張しているか、楽な状態か、無理をしようとしているか、などが、おそらくそこそこ正確に把握できていたと思います。その上で、無理しないよう、心がけました。

 

2時間くらい歩いたでしょうか。無事に頂上までたどり着き、遠くの滝をぼんやり眺めて休憩です。下りは比較的広めの道で、のんびりと歩けました。

 

慎重に、丁寧に、でしたが、どうやって歩くかなど、その行程自体も楽しみながら、歩けました。滝はもちろんですが、途中、風穴があったり、水がちょろちょろ流れていたり、小さな発見もたくさんです。

 

おかげで筋肉痛も出ず、太極拳をやっていて良かったなあ、と思いました。

 

 

話は変りますが、「毎日、どのくらい練習するのですか?」と聞かれることがあります。

 

5年くらい前までは、「1日、2時間」と決めていました。まだ会社員だった頃の毎日は、ほぼ、仕事とお稽古しかしていなかったときもあります。あの頃は、そうしたかったのですね。

 

中国の武当山にお稽古に行くときも、1週間ほどの短い滞在を有効活用したくて、お休み日(学校によりますが、週に1.5〜2日はお休みです)にも、お願いしてお稽古してもらっていました。

 

「もっとやりたい」という向上心とか、

「誰よりも上手くなりたい」という競争心も、あったと思いますが、

「これをやり続ければ何かある」という漠然とした、理由のない理由も、あったと思います。

 

でも続けていくうちに、そんな向き合い方も、ずいぶんと変わってきました。

 

中国にお稽古に行っているとき、お稽古時間の中で、ときどき、サッカーや鬼ごっこ、馬跳びや棒とびなど、遊びの時間が入ってくることもあります。お稽古時間だからといって、いわゆる”お稽古”だけではなく、ゆるーく、アバウトなのです。

 

最初の頃は、「ずっとここにいる人たちと違って、わたしは短い期間しかいないから、この時間が貴重なのに」と思うことも、ありました。

 

でも、そんな遊ぶ時間は、いつもすごく楽しい時間です。そして、みんなで大笑いした後の、いわゆる”お稽古”は、びっくりするほど楽で、調子がいいのです。

 

そんな経験は、わたしにいちばん足りなかったものを、教えてくれました。

 

太極拳とは、カンフーとは、生きていくことです。太極拳の套路(型)を練習している時間だけではありません。日々の生活の中で、自分の体や心のあり方、動き、他人との関係などなど、すべてがお稽古であり、それが修行もあります。

 

その意味では、今回のようなトレッキングは、とってもよいお稽古でした。

 

修行とは、楽しいものなのだと思います。今回のように。

 

(川辺で朝ごはん)

 

【特別クラスのお知らせ】

8月19日(日)14:00-16:30は「みんなが知らない太極拳のひみつ」(5)です。詳細とご応募方法は、こちらから。

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

........................

いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ

 



calendar

S M T W T F S
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< July 2019 >>

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM