武当山日記: 貧乏性にならない

2015.05.14 Thursday
















わたしには今、東京で、基本的な体の使い方を教えていただいている先生がいらっしゃいます。
約2週間の武当山滞在の後、帰国してはじめてのお稽古で「筋肉と体幹がしっかりした分、
それを使おう、使おうとしている。貧乏性なのね(笑)。」

あるものを全部使おう、としているそうです。

筋肉には2種類あって、立つという基本的な動作に必要なのは赤筋です。
下半身に多く、鍛えても金繊維が太くならずやわらかい筋肉です。
立つためには緊張していることが普通のため、「緊張している」という感覚がなく
(あったら、いちいち立つことが大変です)、緊張筋とも呼ばれます。
中国武術で鍛えるのは、この赤筋です。

もうひとつは白筋で、鍛えると太く固くなります。上半身に多く、力こぶは、これです。
相性筋とも呼ばれます。

歩く、という日常動作には、”使っている”感覚がある筋肉は、本当は必要ありません。
それをわたしは、使わなくても良い筋肉を緊張させて使っていたことになります。
あるものを使いたい、貧乏性。無駄な行為、ともいえます。

こんなことは繰り返し起きます。

わたしの場合、「これができたらあれもできるはず」という思いが働いた途端、
面白いくらい失敗します。とにかくやってみよう、という方がうまくいきます。

人は、”やっている感”や”頑張っている感”で、生きている実感を得ようとする、
という話があります。無理したり、頑張りすぎたりしてしまうのも、このためです。
やっている感があることで、満足を得ようとします。
今回のわたしの貧乏性も、同じです。

でも、そんなに負担をかける必要はないのです。
少なくとも、歩くという動作には、必要ありません。
もっと楽に生きて良いのです、と、今のわたしは思うのです。
実際「できるだけ筋肉を使わないように、心がけて歩いてみて」と言われて
やったほうが、ずっと良かったのです。

自分が得たものは、体が記憶しています。
わざわざ言語で意識しなくても、それをベースに今日を生きています。
「あれができたから」「あれをやったから」という余計な考えを外側にまとうことで、
自然な動き方が損なわれます。

ちょうど、中国に行く前に「自分というリソースを、ちゃんと使い切っているんだろうか?
もっと使い切らないともったいない」という話をしていたのですが、このときも貧乏性だったのかも
しれません。使い切っている感がありありだったら、それは負荷をかけすぎ、やりすぎではないのかしらね。

ついつい貧乏性が顔を出してしまい、そのたびに愕然としますが、
わたしはまだ、もっともっと楽に生きられる気がします。



 

愛とは、大切にすること

2015.04.13 Monday



昔、フランシスコ・ザビエルが日本にやってきて、「愛」という概念を伝えようとしたとき...
困った!ちょうどよい言葉がない!

そのとき「大切にすること」という言葉をあてたそうです。

愛とは、大切にする感情と言い換えられます。

これは稲葉俊郎さんの「対話するからだとこころ」という講演会で聞いたものです。
稲葉さんは循環器内科の医師として病院勤務しながら、在宅医療や山岳医療、
代替医療やヒーリングも勉強し、既存の枠にとどまらず、好奇心のままに新しい世界を模索されている方です。

講演会で、ひとつゲームをしました。

2人一組になり、片方が声を出さずに、
,錣燭靴OK,あなたはnot OK (わたしは良いが、あなたはダメ)
△錣燭靴not OK、あなたはOK (わたしはダメで、あなたが良い)
わたしはOK、あなたもOK   (わたしもあなたもどちらも良い)
の3パターンをやってみます。もうひとりは、それを受け取るだけです。

,鉢△蓮威圧的だったり恐怖だったり、冷たい断絶感があります。
は、ほっと安心するような温かい感じがします。
非言語でこれだけ多くのメッセージを受け取っているのです。

稲葉さんは、のわたしはOK、あなたもOKは、お互いが尊敬しあって学びあう関係で、
対話はここからしか生まれない、と話してくださいました。

さらに、この「わたしもあなたも OK」は、よく誤解されるそうです。

「人は、行為と存在を混在してしまうのです。
つまり、行為を否定すると存在を否定された気分になってしまいがちです」。

「わたしもあなたも OK」という状態は、すべてに同意することとは違います。
つまり存在を認めた上で、行為は否定してもよいのです。
ただ「それは違うとわたしは思う」と伝えたときに、相手は自分の存在を否定された、
つまり「わたしは OK,あなたはnot OK」と言われた、と誤解してしまうことがよく起きます。
だから「あなたの存在はちゃんと認めているよ」と伝えたうえで、行為の話をしないといけないのです。

わたしにも思い当たることがあります。
信頼しているからこそ「わたしは違うと思うの」と伝えるのに、
相手は怒るばかりです。わたしが理解できないことを「なぜ?」と聞くと、
怒りはどんどん膨らんでいく様子です。
そして「なぜ、と聞かないでくれ。言われると自分が信頼されていないような気がする」とも言われました。
今にして思えば「信頼されていないように感じる」と言ってくれたのは、
相手なりには心を開いていたと思いますが、当時のわたしはそれを大切にできていませんでした。

稲葉さんは、「人は共鳴します。相手が『あなたはnot OK、わたしは OK』ときても、
自分は引きずられずに『わたしもあなたも OK』の状態でいることが大切です」とおっしゃいます。
「相手が自分に共鳴して『わたしもあなたも OK』になれば対話が始まるし、
そうでなければ、相手は離れていく」そうです。

対話が成立しないとき、まず自分が「わたしもあなたもOK」かどうかを見ようと思います。
それは、自分を大切にし、相手も大切にする気持ちで、これが愛することだと今は感じています。


 

「ここにいて、いいんだよ」

2015.04.07 Tuesday


(秋分の日。高尾にて)

昨年の秋分の日、裏高尾を歩いていたときのことです。
ひとつのワークをしました。
目にとまったものをじっくり見てから、それになってみる。そして
”それ”から自分を見てみる、というものです。

わたしの目をとらえたのは、ゆらゆら揺れる草でした。
しゃがんでしばらく一緒にゆらゆらしてから、”それ”になって
わたしを見てみると。。。いきなり「じゃま。」

えっ?我を疑いました。
でも確かに、わたしがそこにしゃがんだことで、草は日陰になってしまっています。
さっきまでのびのびと太陽の光をあびていたのに。スミマセン。。。
衝撃のあまり、動けません。
しばらくそのままでいると、草もその状態になじんできたような気配がします。
あくまでも、わたしの勝手な気配ですが。
「いいよ、そこにいても。」
と言ってもらえた気がしました。

このときに感じたことをその時に一緒にいた人に話したところ、
「ぎょっとするような出来事は、ホンモノだよ。それは思い込みではない。」

森に入ったら気持ちよい”はず”、癒される”はず”と、いろんな思い込みや期待を持ちがちです。
そのままだと、森そのものを感じることが難しくなります。
ただそこにあるものを、そのままに感じることができなかったり。

思い込みや期待を外すために、川の流れをおちている葉っぱの動きから見たり、
風の通り道をコケのつき方から見たり、川の音を自分の立つ向きや耳の角度を変えて聞いてみたり
(結構、変わります)、思い込みや期待が働きにくいところで、そのままを感じやすくするために
いろんな準備をしたりします。

わたしもそんな準備をした後で、聞こえてきた声が、これでした。
「じゃま」の後は、「ここにいて、いいんだよ。」
それは、この日の大事なメッセージだったような気がします。



人は、自分の存在を感じられないと、ストレスを覚えるそうです。
だから子供を抱きしめるとよい、というのはとても理にかなっています。
抱きしめることで「あなたはここにいるんだよ」と感じさせているのです。
大人も同じ。たとえば自分の片腕を丁寧にさすると、リラックスして力が抜け、
腕が重たくなります。さすっていない方の腕は、緊張しているから軽い状態。
自分がここにいるよと、存在を認識するだけで、
すごく安心してリラックスできるのです。

自分の存在を感じられないために、痛みによって存在を確認しようとすることもあります。
精神的にも、肉体的にも、です。
頑張っていないと充実感がない、とか、自分を傷つけてしまうことも、関係しているような気がします。

でも、本当は痛みは必要なくて、もっと楽で良いのだと思います。
そのために、体に意識を向けてみたり、呼吸に意識を向けてみます。
自分のリズムで呼吸できているかどうかを見てみます。
もし話し方が早かったら、それは呼吸が早くなっている合図でもあります。
体の状態はどうかしら。緊張して硬くなっていないかしら。
カンフーでも、全身をさすることがあります。顔、頭、耳、首、肩、腕、背中、お腹、腰、足。。。
丁寧にそれぞれの部分に意識を向けてさするだけで、緊張がほぐれて、リラックスできることもあります。
ひとつしかない体を、わたしたちは結構、酷使しています。小さい足の裏で全部の体重を受けたり、など。
だから、ねぎらいながら、さするようにしています。

「ここにいて、いいんだよ」。
わたしがカンフーをするのは、自分の体を感じて、これを自分に語りかけるためでもあると思います。
毎日、瞬間瞬間で言い続けることが、大事なような気がします。
ついつい忘れてないがしろにしてしまうからです(わたしは、です)。
体はひとつしかない、大切なものですからね。











 

自然崇拝!?

2015.04.03 Friday


(裏高尾にある、ツリーハウス)

山が好きで、自然の中で太極拳をすることが大好きです。
1年くらい前まで、だいぶナチュラル志向でした。
でも今思うと、ヘンな”思い込み”もたくさんありました。

パワーストーンを身に着けるようになったとき、
「装飾品として売られているのは、内包物をキレイにするために焼いているから、死んでいるんだよ」
と聞き、「生きているパワーストーンしかつけない」時期もありました。

「香水は天然のエッセンシャルオイルに限る」と思っていたときもあります。
フィトセラピストだから知識がある、というのもありますが、
ナチュラルでない香りは「だめ」と決めつけていました。

「ビルが立ち並ぶ都会は、息苦しい」と思っていたこともあります。

今から見れば、ぜんぶわたしの妄想です。

これが、あることをきっかけに変わりました。

去年の6月、裏高尾に行ったときのことです。
一緒に行った方と「自然に対する思い込みを、ひとつずつ挙げてみよう」というゲームをしました。
「抱きつくと、木のエネルギーを感じられる」とか
「山にきたら、リラックスできる」とか
「自然は、必ず人間を癒してくれる」とか、
あっている、間違っている、ではなく、思い込みかもしれないことをひとつずつあげていきます。
「ある、ある」と、ふたりでクスクス大笑いしながら、やってみました。

その後、ひとりで森の中に入っていきました。
裏高尾は人も少なく、静かでのんびりできるのです。
ぼんやり歩いたり、座ったりしていました。

そのときに、わたしがとてつもなく惹かれてしまったのは。。。なんと”電柱”です。
「えっ?これ?」という衝撃が走ります。
超ナチュラル志向のわたしとしては、自然のものではない電柱は、「だめ」な分類です。
しかし、今日はこれに心を惹かれることを否定しきれない自分がいます。

ちょっとした葛藤です。
でもね、これだって人の手で作られたものなのですよね。
世の中にあるものは、すべて自然にあるものか、人の手で作ったものです。
だったら「これが好き」も、「あり」だと思いました。













それ以来、眠っていたジュエリーたちも復活させましたし(ごめんね、と言いながら)、
パワーストーンを必ずつけることもなくなりました。
香水も、今はイチジクの香りが一番好きです。
ビルの中の床でも、大地のエネルギーを感じられます。
世の中にあるものたちへの愛しさを、感じるようになりました。

それでもやっぱり山が好きです。
でも山にいないとリラックスできない、というわけでもないのです。
山を自分の中に持っていれば、スペースがあれば、都会に暮らしていてもリラックスできます。
何より山でできたことは、都会でもできるんですよね。同じ自分だから。

ただ、都会にずっと暮らしている場合は、
一度はどっぷり山や森、海にひたって、自然を思い出す体験が必要だと思います。
わたしがそうだったように、大事なことを忘れちゃっているかもしれないから、です。
ちょっと行き過ぎたナチュラル志向も、必要な時間だったのかもしれません。













この高尾山には、”両界橋”という場所があります。
ここを境に、なんというか、本当に空気が変わるのです。
高尾駅からこの橋のあたりまでは、人が住んでいるところだよね、という印象です。
その先も、もちろん人は住んでいますが、なんかちょっと「おじゃまします」みたいな感じがします。
この名前、誰がつけたのか。。。すごい、とにかくすごい。
わたしの中では、ベストネーミング大賞、一押しです。



(大好きなイチジクの香りのキャンドル。こういうもの、やっぱり
フランス製が良いなあ、というのは思い込みでしょうか。。。)
 

締切の意義と、それを超えるもの

2015.03.28 Saturday



わたし、というと中国、と言われますが、その昔は英文学を研究していました。
専門は14世紀後半、シェイクスピアよりも前の時代。天動説が信じられ、文学も
口頭伝承の流れで「詩」だった頃です。たっぷり苔むした、中世の時代です。

研究していたチョーサーの「カンタベリー物語」では、4月に29人の巡礼者たちが
旅立ちます。その道中、ひとり2つずつお話をして、誰が面白いかを競おう、となるのですが、
この作品、未完の大作と言われています。終わっていないのです。

未完成の理由についてはいろいろ学者さんが議論しているようですが、
当時のわたしの先生はひとこと、「締切がなかったからよ。」

半ばあ然、でも、なるほど、と思いました。仕事やその他の経験を振り返っても、そうでした。
やらないといけないのに、忙しい、めんどくさいと逃避したりしています。締切は、大事です。
社会生活の推進力となり、そして改革や発展も締切にお尻を叩かれて実現できる部分もあると思います。

一方で、締切の意義を超えるものも、あると思うのです。

人は、本当にやりたいことに直面したとき、大きな恐れがきたり、逃げ出したくなったりします。
大きな変革期は、特に恐いです。そのとき、締切で「えいっ」とはずみをつけるのもひとつの方法ですが、
どうやっても気持ちがついてこれないときもあります。

わたしはホームページの作成に、半年ほどかかりました。
でも実際に作業したのは、打ち合わせやそのための準備を除けば、
写真を選ぶのに2−3時間、本文を書くのに3−4時間です。
さっさとすれば1−2か月でできたはずです。
でも、わたしは動けなかったのです。
まだまだなわたしがおこがましい、とか、遠慮とか、
いろいろ理由をつけては、
世にさらすことが、怖かったのです。

自分にGOサインを出せないままにいたとき、
そんなとき、人生の師匠が一言、わたしに言いました。「わたしなんて。。。と言っているけど、
本当は、『たいした自分だからたいしたことしないといけない』と思っているんだよ。
ぷぷっ(笑)。傲慢なの。『まだまだなわたしが、こんなことをやっているんです』
と思ったら、すぐにできるよ」

衝撃の事実です。
傲慢だったのですね。。。
それがきっかけで「わたしはこんな人で、こんなことを好きでやっているんです」という
ホームページを出そう、と決意できたのです。

締切がないからこそ、時間はかかりました。でもその期間は、
表向きには何も進まなかったかもしれませんが、
向き合うべき問題に向き合ったり、越えなければならない壁を超えたり、と、
すごく必要な時間だったと思います。

そしてもしも締切を優先していたら、ホームページの内容は全然違うものになった気がするのです。
たとえば太極拳の説明も、一般的にどんな風に言われているのかを気にして、いろいろ参考に
したような気がします。
でも今回は、何も水に、自分の中にあることをそのまま一気に書きました。
自分が練習してきたこと、勉強したこと、経験したこと、信じていることが
あるなら、今のわたしにわかることを書けばいい、と思えました。

締切がある意義と、それを超えるもの、
どちらも、それぞれ大事だと思います。

ひとそれぞれにタイミングがあると思うので、
どの場合はどんなことが良い、というのは一概には言えませんが、
ひとつだけ思うのは、あの動けなかったときに、
「動けない」という自分の感情を無視せずに、きちんと扱ってよかったということです。

もうすぐ4月です。
「カンタベリー物語」では、4月の雨が降る中、巡礼に出ます。
4月の雨。ノアの方舟のような、再生を示唆しています。
あらたな始まりです。
人生も、みんな未完の大作なのかもしれませんね。


(チョーサーは、こんな人。
これは大学院で教えていただいた先生が書いた本です)
 


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