優しさの循環

2015.02.28 Saturday



「君は、太極拳がホントに好きだねー」

中国にお稽古に行くと、先生やお稽古友達によく言われます。
みんな、笑いながら。

もうひとつ、すごく好きなことがあるのです。
みんなで一緒に太極拳をやることです。

だから教えている時間も、すごく楽しい時間なのです。

生徒さんの真剣に取り組む姿、やわらかい笑顔、
みんなが作り出す、静かで穏やかな空間、
そこには優しい”気”(と言ってよいかどうかわかりませんが)が循環している気がします。
太極マークのように、ぐるぐると、何かひとつに支配されることなく、優劣もなく、です。


(自由が丘のクラス)

クラスは、双方向のコミュニケーションです。
わたしは先生という役割で登場しますが、クラスは生徒さんと一緒につくるものだと感じます。
わたしなりに目標や方向性は定めていますが、それは芯というかベースの部分で、
そこに広がりを作っていくのは、どんな生徒さんがいらっしゃるかで変わってくると思っています。
だからこそ、”予測不能”で、楽しいのです。

わたしにとって太極拳は、自然との交流、地球との交流でもあります。
空の下、大地に立って動くことで、わたしは大地や天から気をもらい、
自分からも大地や気に気を渡します。
ぐるぐると、自分と自然、地球の間で気を循環させているイメージです。
地球と共に呼吸して、共に生きていきます。

そしてみんなと一緒にやる太極拳は、みなさんとの交流が生まれます。
生徒さん同士、わたしと生徒さんの間で、循環が起こる気がするのです。

太極拳は、頭で考えることをお休みして、”今、このとき”に集中します。
「今日は同じ動きをじっくり練習できたのが楽しい」とか、
「何も考えないで集中してできる時間があるのがいい」という感想も、よく聞かれます。
まずは自分のことに一生懸命なので、他人を気にしている暇もありません。
でも、お互いの存在を無視しているわけではなく、なんとなく繋がっているのを感じるのです。
グループで練習するとき、”そろえてやろう”と意識しなくても、なんとなくまとまっている、
ということもあります。

太極拳は、いきなり始めるのではなく、
まず自分自身のバランスを取ります。それから天地、自分の周りの空間と自分の調和をはかります。
それから始めます。
わたしはこの、”動きのない時間”が好きで、大切にしています。
”最初が肝心”とよく言われますが、それは、動く前から始まっています。

調和を大切にしながら、平和な空間を作っていきます。
ひとりでもできますが、みんなと一緒はもっと楽しいのです。


(中国、武当山にて。武当太極拳64式を習っているところ)

わたしと一緒に太極拳をやってくださるみなさん一人ひとりに、ありがとうと、
お伝えしたいです。
そしてわたしの太極拳を見てくださる方にも、
心から、感謝をこめて。


(中国、武当山にて。一緒に武当太極拳64式を習った3人。
一番下の人は、今は先生をしています。)
 

聴覚障がいの方への太極拳講座

2015.02.10 Tuesday



2月9日、東京都の聴覚障害者連盟高齢部のみなさんに、はじめての太極拳講座を実施しました。

寒い日にも関わらず、70名を超える方にお集まりいただきました。

「私にとって太極拳とは、自分らしい人生を生きること。大地に根を張る樹木のように、流れる水のように、
しなやかに力強く。体も心も緊張せずに自然なまま、穏やかに流れにのって生きていきたい。」という話から、
実際に楽に立てる立ち方、呼吸、大地に根を張るストレッチ、太極拳の体験と、盛りだくさんです。
イメージを使うことで、見た目の形は同じでも、自分の体感が全然変わってくる体験もしていただきました。

聴覚障がいがある方々のため、お話は手話通訳さんを通じてのコミュニケーションです。
でもわたしの一言一言に、そしてやってみる一つひとつの動作に、みなさんの反応がダイレクトに伝わってきます。
「聞く」という姿勢、そして「伝える」という姿勢がすごく強いのです。
それはわたしにとってすごく居心地のよいスペースでした。

前に違う場面で感じたことを思い出しました。
わたしたちが「聞く」とき、耳で聞く=頭で聞いてしまいがちになることがあるような気がします。
頭ではなくて「全身で聞く」ことで、もしかしたら聞こえてくるものが変わってくるのではないのかしら?

聞こえてくる言葉だけではなく、相手の表情、身振りや手振り、全身から伝わるものすべてを、「聞く」。
話すことは、伝えるだけではないのだと思います。
自分にとって大切なものを共有したいし、味わってほしいから。
伝えた相手自身の体験として、何かを感じてほしいから。

今回の講座では、耳で直接私の言葉を聞けない方々でしたが、
「その場を共有している感」は、すごく感じたのです。
「全身で聞く」ことを実践されているからなのかな、と思いました。
これは、わたしの言葉すべてに納得してもらうのとは違うのです。
たとえば水が高いところから低いところに流れるイメージの話もしたのですが、
「健常者とちがって、聴覚障がい者は水のイメージはわかりにくい」という反対?意見もありました。
(「わたしはわかるよー」という別の意見も出ましたが)。
お互いに全身でコミュニケーションをとっている状態だと、
違う意見が出ても、それはそれで良いのです。
わたしの話を理屈で理解するより、「これ」とか「なんか違う」という
自分の実感を大切にしてほしいと思っているからです。

この講座をする1か月前、新年会に呼んでいただいて、太極拳の話と短い演武をしたときも、
同じようなことを感じました。
そのときは100名を超える方がいらしたのですが、会場のあちこちで、わたしの動作を真似している方々が!
しかも、ニコニコ。うれしくって自然に体が反応している、という感じなのです。

右端の方に注目!











こちらも。


そして、気配りもすばらしいのです。
わたしが何か探したりしていると、すぐに誰かが気づいてくださる。
お片付けを一緒にやっていると、「いいよ、いいよ」とすぐに言ってくださる。
これも全身に意識がある、全身で聞く、という現れなのかな、と。

聴覚障がいであることには、いろいろと難しいこともあるようです。
講座後、一人の方が「聴覚障がいだとバランスを取るのが難しくて、
人によっては片足立ちができないんですよ」
と教えてくださったり。講座当日の日経新聞の夕刊にも、
聴覚障がいの方が感じるストレスについての記事が出ていると、友人が教えてくれました。
手話通訳さんは、「何かあったときに助けを求めにくいから、
みんな健康にはすごく気を付けているんですよ」とおっしゃっていました。

講座は「普段冷え症なのに、体があったまった」とか、
「また習いたい」といううれしい感想もいただき、
今後も続けて開催できるように、相談していきたいと思っています。
私もみなさんの特性を尊重しながらの手さぐり状態ですが、
穏やかな人がひとりいると、10万人が救われるという言葉を信じて、
自分もまわりにも、穏やかな人が増えることをしていきたいと思っています。

余談ですが、この講座、実は友人と太極拳をやっているときのランチタイムに、
事務局長さんとお隣になったことから
つながって開催されました。お稽古着でランチしていたら
「何をやっているんですか?」と声をかけていただいたのです。
偶然です。偶然はすごいですね。

最初の写真は、参加された方からのプレゼントです。
「太極拳とは自分の人生を生きること」という話に感動して描いた、と伝えてくださいました。
なんと、美人さんじゃないですか。うれしいです♪
 

始めたのは偶然。今は「太極拳とは私の人生を生きること」

2015.01.31 Saturday


「太極拳をやることは、生きることと同じこと」

3年ほど前、当時同じクラブに通っていた友人から
「まゆみさんにとって太極拳ってどんなもの?」と聞かれたときの答えです。
これは今でも変わっていません。

始めたのは、知り合いがやっていたから。偶然です。
それはでやってみたいと思ったことは一度もありませんでした。
初めてお稽古を見学したとき、先生の動きをみて「すごい!」。
それまで見たことがない、人の体の動き。感覚。
「この人には私にわからないことがわかるし、できる」というのが、始めた動機です。

その後、今から6年くらい前に武当太極拳に出会いました。
体の中心からのシンプルな動きがしっくりきて、初めて「太極拳って、いいな」
と思いました。

大きな転機はそれから半年後です。
「先生は東京にいるし、ここで習えばよい」と思っていたのですが、
当時の先生から「ひとりで中国に稽古に行けない臆病者」と、一喝されました。
負けず嫌いのわたしは、「そんなことないもんね」と、その日のうちにスケジュールをあけ、
飛行機のチケットを予約し、翌日先生に「行くから学校に連絡してください」と伝えました。


ひとりで2週間、武当山の上で過ごす、初めての時間でした。
自分に集中しようと決めました。
人に遠慮したり気を使いすぎたりするのではなく、自分のしたいことを尊重しようと思いました。

当時通っていた学校の周りには街灯もなく、夜は真っ暗です。
でも、不思議に怖いとは思いませんでした。(出歩かないから、でもありますが)。
昼間には瞑想の時間もあります。
やり方もあいまいなまま、ひたすら静かに座る。1時間くらいあったような気がします。
足はしびれてきます。
部屋の窓の先には山。鳥の声、風、入ってくる光、その中での静かな感覚は、
今でも自分の中に残っています。

このときの不思議な体験が、涙です。
毎朝ひとりで山を走っていると、なぜかすごく涙が出るのです。
悲しいわけではないのに、ぽろぽろと。
そのときになぜか、「この先、絶望することがあったとしても、ここに戻ればまた始められる」
と強く感じたのです。

お稽古の仕方にはいろいろあると思います。
「これは何のため」と理解しながらやるのも、ひとつの方法です。
でも私がやってきた中には、わけもわからずやっていく中で、最初に何かの感覚や体感がきて、
後からだんだんわかっていく、ということも多くあります。
場合によっては、何年も後から、わかることもあります。
つまり、まだわかっていないことも、きっとたくさんあるのだと思います。

そして師父(先生)たちには、いつでもすごくちゃんと教えていただいたな、と思うのです。
お稽古は、できないことを超えていくものなので、最初にならうときはちんぷんかんぷんですし、
当然できません。時には「無理っ」と絶望的な中、これでやれと言われ、わけもわからずやってみます。
それをひたすら続ける、その繰り返しです。
私にはわけがわからなくても、師父からみれば、わかっているようです。
だから、できないことを超えていくことができます。少しずつ、ゆっくり、です。

このときの日記には、「わたしは山を愛しているし、愛されている」と書いています。
そして、気を使って社交したりせず、自分のすべきことに集中すると決めたにも関わらず、
結局はほかの生徒さんともよい関係を築くことができました。
無理に気を使う必要はなく、わたしはわたしでいればよい、と学ぶ経験にもなりました。


良いことばかりではありません。
このときの虫刺されが原因で、痒疹という皮膚疾患を長いこと患うことになります。
でもそれも、必要な経験だったと、今は思います。
人の期待に応えることを優先させるのではなく、自分の体は自分で守る、と学んだからです。


このときから「太極拳とは、わたしの人生を生きること」になりました。
技を習うだけでなく、心のありかた、人との関係、人生への向き合い方、
たくさんのことを太極拳を通じて学んでいます。
始めたのは偶然ですが、今は、生きることと重なっています。
形は変わっていくかもしれませんが、これからもずっと私は太極拳とともに生きると思っています。

功夫(カンフー)とは、時間をかける人、という意味ですしね。

 
お稽古していた紫霄宮(ししょうきゅう)。道教のお寺です。世界遺産。












お稽古に向かう姿勢は、この頃も今も、同じ。


学校で飼われていた犬、BeBe。すごく賢い犬でした。
わたしが帰る日、荷物をまとめてドアを開けたら、こうして座って待っていました。
お部屋に入ってきて、一回りまわってから出て行きました。
わたしには寄ってこず。帰るって、わかったのかしら。
 


武術と才能

2015.01.20 Tuesday



ストレングスファインダーという才能発見テストの結果をもとに、
それぞれの人の活かし方をコンサルティングしている友人の新関裕二さんから
「武術と才能の関係ってどうなの?」と聞かれたことがあります。

ここでいう才能とは、強く出ている資質のようなものです。
長所にもなれば、短所にもなりやすいところです。

私の答えは「習い方や教え方には関係していると思うけど、本当にすごい人には
個性を感じない」というものでした。

そんな体験が1回だけあります。

2011年に2か月間、中国 武当山のカンフー学校に滞在して練習していたことがあります。
そのときの学校の館長である師父(先生)が、田理陽師父(上の写真)。武当玄武派第十五代継承者です。
この師父の太極拳を見たとき、すごく不思議な気持ちになりました。
「知っている人なのに、わからない。」

そのときまで1か月以上、毎日教えていただいて、普段の様子や人柄も含めて、それなりに
知っているつもりでした。でも太極拳をやっている姿は、全然知らない別人のようだったのです。

武当拳の道着は、上の師父の写真で見てもわかるように、そで上着の裾も長くなっています。
一番長い場合は、上着が裾まであります。
これは、相手に動きを悟られないようにするために隠していると、言われています。
個性もたぶん、同じなのかもしれません。
長所でもあり、短所でもあるなら、見えない方が良いのかもしれません。

この師父の動きを見るまでは、太極拳には個性が出る、と思っていました。
生き急いでいる人、細かいところが気になる人、おおざっぱな人。。。
その人らしさが浮き彫りになるのが太極拳だ、と思っていました。

だから、この田師父の動きを見たときは、衝撃でした。
「本当にすごい人は、その人がどんな人なのかわからない。」

この話を聞いて新関さんは「面白いね。才能の場合も、自分の強い資質を
活かしていくと、ほかの資質も使えるようになる気がする」と言っていました。

武術に限らず、なんでもそうなのかもしれないと思っています
まずは自分の特性を理解して、受け入れて、活用していくところから始めます。
理解や受け入れが足りないと、強い資質に振り回されて大きな弱点になりかねません。

たとえば、わたしの場合は一番強い資質が「最上志向」なのですが、これは
得意なことをもっと伸ばしたい性質です。平均よりできないことを人並みにもっていく
ことには、まったく興味がない資質なのです。
だから、不得意なことをもうちょっとなんとか。。。とアドバイスされたりすると、
すごく苦しいのです。得意なことは、もっともっとやりたいので、それを制限されると、
これもすごく苦しいのです。この資質を自分で理解して受け入れてないと、ときに組織・環境
不適合となり、悩み苦しむことになったりします。

受け入れたら、次のステップは、のびのびと活かしていくことだと思います。
その次にくる段階が、全部の資質がうまく使えるようになる、というのは
面白いと思っていますが、私はまだ、とてもとてもこの域には達していません。

(才能から見た私の推薦文「私の存在が太極拳を通じて伝えるもの」は↓
http://blog.minminkung-fu.com/?eid=7

師父の話に戻ると、あの日の体験と感覚は、あのときからずっとわたしの中に深く残っています。
もちろんすぐにできるわけではありませんが、その感覚をずっと追ってお稽古を続けています。

本物を見ること、本物に触れる体験。
これは何ものにも代えがたい、貴重な体験です。

ちなみに、上の写真は、「白鶴亮翅」といって白い鶴が両方の羽を広げているポーズです。
恐れ多くて前から撮れないので、こっそり後ろから。。。(こっそり、のつもり)。

最後の写真は、2か月滞在したときの最終日です。
中央、白い道着の方が、田師父。向かって左隣が私です。


☆ ☆ ☆ 講座のお知らせ ☆ ☆ ☆

シェア奥沢(自由が丘)での1−3月の予定は、こちらから↓
http://blog.minminkung-fu.com/?cid=5
 

カンフー(功夫)の意味と、太極拳

2015.01.16 Friday



カンフー(功夫)と太極拳は、何が同じでどう違うのか、あまり知られていないと感じます。

今回はカンフーの意味、太極拳との関係、いろいろな門派についてのお話です。

カンフー(功夫)は、今では中国武術と同じ意味で使われていますが、
もともとは長い修練によって培われた力、時間をかけて自分に合った修練を積んでいく人、
という意味です。単に能力のことを指すのではなく、「長い」とか「時間をかける人」
というのがポイントです。
それが欧米に広まった時に、中国武術と同じ意味で使われるようになったようです。

太極拳は中国武術のひとつです。
中国武術のひとつの分類として、内家拳(ないかけん)、外家拳(がいかけん)があります。
内家拳は、体の内側からの力を重視し、先に身体の中に気を起こして使うもので、太極拳はこれに含まれます。
力を抜いてやわらかく呼吸に合わせて動き、外見からも静かでなめらかな動作に見えます。
円を描くように動くのも特徴です。
太極拳のほか、形意拳、八卦掌も内家拳です。

外家拳は筋骨皮を鍛えるもので、力とスピードを求めて激しく動き、外見からも技の威力がはっきりわかります。
代表的なのが、少林寺の僧侶がやっている少林拳です。(日本の少林寺拳法とは違います。)
敵に対して最短距離で直接的な攻撃をする、と言われています。

内家拳が柔、外家拳が剛というイメージもありますが、実際にはどちらも柔と剛を修めます。

太極拳にもいろいろな門派があります。
私がお稽古に行く中国の武当山は、太極拳発祥の地とも言われていますが、これは伝説の域を出ていません。
現在の通説では、河南省からの陳氏太極拳が原型、と言われています。
そこから分かれた楊氏、呉氏、武氏、孫氏を合わせて五大門派と言います。
それぞれの門派は、たとえば陳式は武術の要素が強いなど特徴があります。
これらの伝統拳に対し、太極拳をもっと広めようとして中国政府が作ったのが
制定拳で、一般によく知られている簡化24式が含まれます。
楊氏太極拳をベースとして、伝統拳の套路(動き)を簡略化したり
複数の門派の套路を複合して作成しています。

私が練習している武当太極拳は、内家拳、そして伝統拳に分類されます。
太極拳発祥の地という話が伝説とされていても、この武当山という道教の聖地のひとつで
武術が育まれてきたことは、事実です。

この伝説は、太極拳は鶴と蛇の格闘を見て創始されたというものです。
武当山で修業した道士、張三豊(ちょうさんぽう)はある日、庭先で鶴と蛇が争っているのを目撃しました。
鶴は羽を広げて旋回しながら円形の動きを取り、
蛇はそのしっぽを、首の動きに合わせて攻防していました。
そのときの鶴の羽ばたく姿と、蛇のからみつくように動く形から、
柔が剛を制し、静が動を制する原理を悟り、その後、太極拳を編み出した、と言われています。

(下が、張三豊)


太極拳の始まりはどこか、伝統拳と制定拳の違いなど、太極拳をめぐってはいろいろな議論があります。
私が武当太極拳に出会ったのは、ほんの偶然なのですが、自分の感覚に合う気がして
(始めたばかりで何もわからないのに(笑)、ですが)、そのまま今日まで続けています。
それでも他の門派のものも習うこともありますし、どれにもそれぞれ特徴があると思います。
どれをやっているかは、出会いと、個人の好みのような気がします。

武当山は道教の聖地のひとつで、武当太極拳の背景には道教の教えがあります。
道教は、調和を大切にします。草木も、熊も、人間も、等しく尊い命です。
熊に出会ったとしても殺して良いわけはありません。そこで、相手の軸を崩して戦意を失わせ、
戦いを止める方法として、太極拳が発達した、とも言われています。
また、道教は「一生、青春を追い求める」ものでもあります。
20年後も同じカラダを目指して、養生に重点を置いているのも特徴です。
動きはしなやかで強く美しく、龍のようだとも思います。
そして動きだけではなく、師匠たちが見せてくれた穏やかなまぁるい心にも、
とても影響を受けてきています。

カンフー(功夫)とは、時間をかける人。私もまだまだこれからです。
おばあちゃんになっても、今よりもっと軽やかに、かつ重く動けたらいいなと思います。
今よりもっと、ニコニコと、まぁるい笑顔で。


(武当山)
 


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