武当山で感じたこと:学ぶこと

2017.09.28 Thursday

(夕焼けの武当山)

 

武当山でお稽古していると、習うときにポイントを掴むのが早い人と、そうでない人がいます。

 

もちろん、武当拳をはじめて習う人、長くやっている人、という差もあります。ほかの流派を習っている人の場合、最初は戸惑うことも多いですが、それは時間が解決してくれます。実際「難しい」を連発していた人も、3日、5日と続けていくうちに、本人の感想とは別に、とっても良くなってきたなと感じることもあります。

 

一方、なかなかポイントを掴めない人もいます。

 

ここで言うポイントとは、「ここに注意して練習する」という意味です。すぐに体がそのように動けば素晴らしいですが、わたしの場合はそんなことはないので、そのポイントを確認しながら、何度も繰り返し練習します。

 

そういうポイントは、先生いわく、「外から見たときには、見えないことも多い」ところです。でも、そこを大切にするかどうかで、実際の自分の感覚は、全然違います。

 

習うのが早いな、と思う人に共通していることがあります。

 

まず行動としては、自分のお稽古に集中しつつ、人が習っているときにすっと近く来て、自分も一緒に習うのです。いつもというわけではなく、「ここ」というタイミングでやってきます。先生はちゃんと見ていて、そうやって近くに来た人に、必要であればアドバイスをします。

 

自分に集中しつつ、周りにも意識をむけている、というような状態です。これは、太極拳などの套路(型)をするときの意識の持ち方と、同じです。「木を見て、森も見る」というような感じです。

 

周りに気を取られすぎると、自分が今しなければならない練習がおろそかになります。それは本末転倒です。逆に、自分に集中し過ぎて、周りが見えていないと、あるはずのチャンスを失います。こちらは「ちゃんと教えてもらっていない」という愚痴につながることもあるような気がします。

 

「習う」ことは、目の前に先生がいて、「はい、これだよ」と、手取り足取り教えてもらうことではないと思っています。同じ状況で、何を吸収するかは、その人次第です。

 

逆に言えば、そのときのその人に合ったことだけを学べる、ということでもあるかもしれません。

 

なかなかポイントを掴めない人を見ているとき、「本当にやりたいことと違うのではないか」と思うときがあります。本人の希望と違えば、一生懸命やっても、身になることが少ないのは当然です。本人がそれに気づいていない場合もあるでしょうし、もしくは、本当にやりたいことの前に、何か越えないといけないことがある場合もあるのかもしれません。

 

それも含めて、その人に合ったことを学べるような気がします。

 

だから、覚えの良し悪しは、良ければ良い、悪ければダメというような単純な話でもなく、どっちでもいいのです。ただし、その自分の状況を把握できない場合は、苦しいかもしれません。なんで上手くいかないのだろうと悩んだり、不満や愚痴ばかりが出てくるとき、それも自分の希望とは違うことをしているサインかもしれませんよね。

 

わたしの印象ですが、習うのが早い人に、マイナス思考の人はいません。そもそも、できること、できないことを、気にしません。

 

そして習うのが早いとはいっても、「でーきた」で終わるのではなく、ひとりでしっかり練習します。同じことを、繰り返し繰り返し練習します。それをそれを苦に感じてそうな人は、いません。それでは続きませんよね。

 

こういうものに、もともとの才能や素養が関係しているのかないのか、わかりません。あるのかもしれませんし、上を目指す場合はやっぱり関係するのかもしれません。でも、わたしが知る限り、ひとりでしっかり練習しない人の中に、進歩していく人はいません。

 

何かを学ぶとき、できる、できないに目が行きがちです。でも、そんなことはどうでもよいと思うのです。すべての人がパーフェクトに何でもできることが良いわけではなく、人それぞれ、自分に合ったものがあるはずです。それを見つけてやっていけば、「あなたのそれは、いいね、素敵だね」とか、お互いを尊重する、ほんわかした社会になるような気がします。

 

何かを学ぶことは、自分がどうしたいのかを知る、良い機会です。何かおかしいな、とか、ちょっとマイナス思考になるときには、そこに無理や”ずれ”があるのかもしれないということを、覚えておきたいと思っています。

 

 

武当山での写真は、こちらから

武当山での日々を語った自由が丘FMTVの録画は、こちらから

 

(形意拳を練習するわたし(左奥)と、棍という武器を使った練習をしている人たち......ですが、何か別の話題で盛り上がっている???)

 

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

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武当山で感じたこと:お腹を壊した体験

2017.09.25 Monday

(長年のお稽古友達と一緒に、形意拳の五行拳のお稽古)

 

武当山にお稽古に行ってから1週間目、お腹を壊して半日寝込みました。

 

実は2011年の春にも、同じような経験をしています。このときは、”人生最大の腹痛”で、3日間寝込みました。

 

そのときも、今回も、形意拳を習っていました。

 

形意拳は、動きも早く、力強い打撃もあるもので、武当山に伝わる武当拳(内家拳)では、太極拳、八卦掌と並び、伝えられています。

 

ゆっくり丸くやわらかく動く太極拳と、動きが早く直線に動く形意拳は、対照的に語られることもあります。ただし実際には、見た目が柔かい太極拳は内側がしっかりしており、見た目がカタく見える形意拳は内側が柔かい、と言われます。

 

打撃の連続だからこそ、力任せではなく、リラックスした状態でやることが大切なのです。

 

太極拳にいろいろな門派があるように、形意拳も、門派によって套路(型)は異なります。それでも、陰陽五行説の五行説(木火土金水)にちなんだ五行拳(5つ種類があります)と、それを組み合わせた12の動物の套路があることは、共通のようです。

 

五行説とは、古代中国で生まれ、宇宙に存在する万物は木火土金水という5つの要素からできており、それぞれお互いに影響を与え合うことによって天地万物が変化し、循環すると言われています。五行は次のように内臓にも対応しています。

 

木=肝

火=心

土=脾(脾臓ではなく、消化器系。わかりやすくとらえると、胃)

金=肺

水=腎

 

五行に対応していることから、内臓機能の促進作用もあると言われています。動きとしても、お腹をきゅっ、きゅっと、左右にひねり続けるため、内臓もそのたびにきゅっ、きゅっ、とひねられることになります。

 

今回の兆候は、「ずいぶんお通じが良いなあ」から始まりました。もともと、このあたりの悩みはない方なのですが、それにしてもずいぶん良い様子。そしてそのまま、止まらない状態に突入しました。

 

そして、前回と同じような兆候もありました。まず、ごはんが食べたくなくなります。食べ始めても、気持ち悪くて、受けつけないような状態になってきます。

 

そして、お稽古を続けることが辛くなります。ちょっとやっては休み、またちょっとやっては休み、そのたびに強い疲労を感じるのです。これ、わたしには珍しいことなのです。

 

お昼寝をしても疲労は取れず、お腹の具合も悪いままで、これではダメだと「お腹の調子が悪いから、午後はお休みします」と先生に伝えました。

 

これが形意拳と関係しているかどうかはわかりませんが、なんとなく、自分の中では関係ありそうな気がするのです。前回は3日間ダウンし、その間ほとんど何も食べませんでしたが、4日目にはものすごく元気になり、丸一日元気にお稽古できたのです。そのこともあって、今回も薬は飲みましたが、「休めばきっと元気になる」と思っていました。

 

その通り、今回は短い時間で回復し、翌日にはお稽古に復帰できました。

 

前回と今回では、症状の重さのほかに、大きく違ったことがありました。自分の受け止め方です。

 

前回は「とにかくお稽古をしっかりやるんだ」と思っていた時期で、お腹を壊してお稽古できなくなった自分を、とっても責めたのです。当時、日本で習っていた先生にも「報告したら、きっと怒られる」とビクビクしていました。当然そんなことはなく、「それは大変だね。刺激が強く、変化に体が耐えられなくなったんだろう。ゆっくり休むように」という言葉に、ほっとしたことを覚えています。

 

今になってみると、そんなに自分を責めたり、怒られると思うなんて、不思議です。その頃は、それだけ自分に厳しくて、”こうあらねばならない”が強く、できない自分を許せなかったのだと思います。

 

きつかっただろうな、と思います。自分がきついだけではなく、周りにも同じようなプレッシャーを与えていたのだろうと、思うのです。

 

それに比べると今回、「このお腹の調子では、練習するような状態ではない」と、躊躇なく休めたことは、わたしにとっては大きな変化でした。

 

人として、まっとうな選択ができるようになっただけのことですが、同じように、病気なのに「やらねばならない」と行動しているケースは、過去のわたしだけではないような気がします。

 

老子は、「道徳経」の第35章で、次のように書いています。

 

”(前略)音楽とおいしい食べ物には旅人も足を止めるものである。だが、もとより道が語りかける言葉は、淡々として味がない。目を凝らしても見ることができず、耳を澄ましても聞くことができないが、しかしその働きは尽き果てることがない”

(「老子」蜂谷邦夫訳注、岩波文庫)

 

人は、”過ぎる”ことをもって良しとする傾向があり、その欲望が普通であると思っているため、本来の在り方では物足りず、味気ないように感じる、ということです。

 

過去のわたしは、すごくこの傾向が強かったと思います。何か成果を出す自分でなければ価値がない、ぼーっとしていることに、役立たずのような罪悪感を感じていました。”やり過ぎる”ことを、充実感だと勘違いしていました。

 

本当は、存在していることだけで十分なのに、です。

 

武当拳を習う過程で、体を通して何度も繰りかえし学んできたことが、この”過ぎない”ことです。

 

その過程は、今の自分への信頼、生きる幸せ、人との関係性など、たくさんのものをもたらしてくれていると感じています。

 

そしてその”過ぎない”生き方が、わたしが太極拳を始めとする武当拳を通じて、伝えていきたいことでもあります。

もっと楽に生きてよいのですよ、存在するだけで十分なのだから。

 

冒頭で、形意拳と太極拳は対照的に言われる、と書きましたが、大切な部分は共通だと感じます。陰陽の理論を活かして動くこと、そして直線で力強く見える動きは、実は丸い動きから生まれていて、無駄な力みはないのだ、ということです。

 

表面的に強い動きに見えるからこそ、やりすぎていれば、体ではっきりわかります(つまり、どこか痛くなるのです)。くりかえし練習する過程で、そのやりすぎをなくしていくのです。

 

”一撃必殺”とも表現されたり、攻撃的に見える形意拳ですが、先生の動きはとても美しく、見ていると穏やかな気もちになります。

 

攻防という型を超えて調和に向かうという点は、太極拳、八卦掌、形意拳、どれも同じだと感じます。その過程も、わたしにとっては大事なところですが、この話はまた別に書きますね。

 

武当山での写真は、こちらから

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(形意拳の套路を習っているところ。これは”馬”の部分)

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

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武当山で感じたこと:のんびりいこう

2017.09.24 Sunday

 

 

中国の武当山に、お稽古に行っていました。1年ぶりです。

 

2008年末に初めて行ってから9年、今の学校に行くようになってからは、5年になります。

 

その間、大きく変わったと感じることのひとつは、「のんびり学ぼう」と思えるようになったことです。

 

最初は、団体で行ったこともあるためか、なんだかとっても忙しかったのです。練習、ごはん、と、シンプルなスケジュールなのですが、学校の館内移動も、階段をせかせかと早足で移動した記憶があります。真冬で、お湯はタンクに貯めたものがなくなると終了なので、シャワ―や髪の毛を洗うのも、高速作業です(笑)。初めての武当山生活で非日常感も大きく、こんな経験も楽しかったですけれどもね。

 

2回目から、生活自体は、ゆったりになりました。他人を気にせず、自分がしたいことを大切にしよう、と思い始めたことも関係あるかもしれません。でもお稽古は、何よりも最優先で、「遊ぶより練習」という時期が、何年か続きました。強制されたわけではなく、自分がそうしたかったのです。

 

例えば、全部で2週間弱、行くとします。学校は、週に1.5日〜2日、お休みです。短い滞在のわたしは、お願いしてお休みの日にもお稽古してもらっていました。ほぼ個人稽古になるため、当時は、たくさん教えてもらえる、と感じていました。

 

2009年の7月、2回目に行ったときのことです。お休みの日にもお稽古を入れていたある日、向こうで知り合った友人たちが「午後、逍遥谷に遊びに行きましょ」と誘ってきました。お稽古が......と思ったものの、結局、一緒に行くことにしたのです。そしてその半日が、とっても、とっても楽しかったのです。

 

誘ってくれて、一緒に過ごしてくれて、本当に感謝しています。

 

さてさて、そんなことがあっても、それからも”お稽古最優先”の日々は、続きます。その間、学校は3つ変わりましたが、どこでもお稽古中心、周りがやらなくてもやる、先生が不在でもやる、というのは変わりませんでした。

 

変ってきたのは、今の先生に習うようになってからです。突然ではなく、いろんな体験を経て、だんだん変わってきたのです。

 

ひとつは「大切なのは、習う時間の長さではない」と感じるようになったことです。2014年の春に行ったとき、学校は経営問題でもめていて、先生はいつも不在、弟子も育っておらず、ほぼ自主練が続きました。そんな中、ほんの短い時間、10分とか15分くらいだと思うのですが、ようやく先生が現れて、「次の段階に進むときだから」と太極拳の大切なポイントを教えてくださいました。そのとき「これだけで、今回は充分だ」と思えたのです。

 

ポイントが分かっても、それを体で表現できるようになるには、時間がかかります。この頃から、「形を習う」よりも、「習ったものを自分で熟成させる」ようになったのかもしれません。

 

そしてこのとき、困難に向かう先生の姿勢や、自分の過ごし方や感情など、お稽古以外にもすごく貴重な経験ができた時間でもありました。カンフーとは、生きていくことなのだと、より深く実感し始めたときでもあります。

 

お稽古時間の過ごし方から、わかったこともあります。時々、鬼ごっこしたり、サッカーしたり、という時間があるのです。楽しいのですが、「お稽古しないんだ」と、最初は思っていたのです。でもある日、大笑いしながら、さんざん遊んだ後に、站椿功(立禅)を始めたとき、「あれっ?」。とっても気持ち良く、とっても楽なのです。いつまでも続けていたいほどです。そんなわたしを見て先生が、「とっても気もち良いでしょ」と、一言。

 

目標にむけて、一目散にやり続けることで、視野も狭くなり、体も硬くなることもあります。モーレツ社員も、ずっと走り続けることはできません。笑って楽しく過ごせば、体も心もほぐれます。先生はきっと、そういうこともわかっているんだなあと、改めてお思いました。

 

そして2016年、去年からは「休みの日は、休むのだ」という、当たり前の生活をしようと思うようになりました。そのためもあって、いつもより長めの1か月という期間にしました。「いつもより長いね」と言う先生のお弟子さん達に、「のんびり習いたいと思ったから」と答えると、「ああ、それは良いね。」

 

自分が何を大切にしていきたいのかも、はっきりしてきました。

 

お稽古の時間、きちんと練習することは大切です。でも、度が過ぎて執着になると、その周りにある豊かな経験を、自ら無視してしまうことになりかねません。

 

焦らず、のんびり学ぼう。わたしの目指すことは、幸せに生きることなのだから。

 

今回、新しい校舎へのお引越しもあり、平日でもお休みになることがありました。そんなとき先生は「良いお天気だね。椅子を外に出してみんなで座ろう。」そして「気持ちよいねー。」と、ニコニコ。

 

武当山での生活の中で、何かを強制されたことは、一度もありません。ひたすらお稽古を優先したときも、自分の選択です。やりたいことをやるという経験は、あの時は良かったと思いますが、今は、心も体も、ぽかぽかと暖かく、ゆるくなるような、陽だまりの時間を存分に味わえる自分になれたことが、とてもうれしいです。

 

修行とは、強制されるものでも、辛いものでもなく、自らやりたくてやるもので、その過程でたくさんの発見があり、豊かさを与えてくれるものだと思っています。

 

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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武当山に行ってきます

2017.09.01 Friday

(旅のお供、お守り坊ちゃんキーホルダー)

 

明日から9月下旬まで、中国、湖北省にある武当山に、お稽古に行ってきます。

 

行くのは1年振りです。

 

毎年2回、春と秋に行っていたのですが、今年の春は日本でやることがあるような気がして、自然な流れで、行かない選択をしました。それがどういうことかは、わかりませんが、変っていくものもあるのだと感じます。

 

武当山は、わたしを育ててくれた場所です。心のふるさとのようなところです。

 

2009年、最初にひとりで行ったときの目標は、「わがままに過ごす」でした。他人に気を使うことなく、自分がしたいことを優先させるという目標は、お稽古中心の生活という環境の中では、やりやすかったのだと思います。

 

それからずっと、山の自然に身を置きながら、「考える」よりは「感じる」ことを大切にし、体を使いながら自分の在り方を見つめてきました。最初はつーんとしていた自分が、だんだんと心を開いてきて、信頼を積み重ねていくうちに、前よりずっと、自分と仲良くなれるようになりました。

 

「わがままに過ごす」ことは、一見、とても独りよがりに思えます。でも、自分の面倒をしっかり見ていくと、ひとりでできることなどないのだ、と気づきます。ひとりでは立つこともできないのです。地面があるから立てるのです。そう気づくと、地球と共に生きている大きな安心感を感じるようになりました。

 

そして同時に、自分は地球の一部で、運命共同体なのだとも気づきました。地球の痛みはわたしの痛みで、わたしの痛みは地球の痛みなのだと思うのです。地球に暮らす人も、自分と無関係ではないわけです。

 

この地球での使命というのか、何を表現して生きていくかは、人それぞれです。わたしの土台は「笑って幸せに生きること」です。環境破壊や争いの絶えない世界を見ていると、人間がいることで地球を痛めていることも多くあると感じます。でも、人間は邪魔な存在なのではなく、もともとは必要で、歓迎されて生まれてきたのだと思うのです。

 

だから、心身ともに緩んで、笑顔で過ごそうと思っています。そう思いながらのお稽古は、どんな感じになるのでしょうか。

 

今回、出発が近づくにつれて、「いってらっしゃい」「気をつけてね」「楽しんでくださいね」と声をかけていただくたびに、とても幸せな気持ちになりました。とってもありがたいです。

 

武当山には昨日、お稽古友達が到着して、「待っているよ」とメッセージをくれました。そういうことも、とってもうれしいのですよ。

 

ちょっとした気持ち、小さなひとことの力は、とっても大きいのです。だから、何か特別なことを成そうとしなくても、きっと、よいのです。その大きな力を自分からも出して、受け取っていけば、気づいたときには何かを成しているのかもしれません。

 

冒頭の写真は、友人が「お守りに」と作ってくれた”お守り坊ちゃんキーホルダー”です。以前このブローチを見たときに「かわいい!」と大騒ぎしたことを覚えていてくれて、旅のお供に作ってくれました。「作ったから連れて行って」というメッセージを受け取ったとき、台風情報に不安になっていたのですが、このメッセージのおかげで「大丈夫」と思えました。そもそもお天気のことで、わたしにできることなど、ありません。「無事に行かせてください」と祈り、あとは状況を受け入れよう、と思えました。すでに、守ってもらっています。

 

ひとりで行動していても、ひとりではないですよね。感謝を忘れずに、行ってきます。

 

(武当山)

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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九頭竜神社へのお参り

2017.08.31 Thursday

 

中国に行く前に、箱根の九頭竜神社にお参りしてきました。

 

箱根神社をお参りしてから、てくてく、てくてく、と歩いて、九頭竜神社まで行きました。4年ぶりです。

 

4年前に来たときは、ある事を勇気を持って断ったときでした。ずっと言えなかったことを、勇気を出して伝えたところ、相手の方は激怒。絶交状態になりました。

 

泣きながらこの話を相談したところ、「泣いているけど、数か月前に『正直に言えるわたしになりたい』と言った自分に、今、なっているよ。気づいている?」と。

 

自分のことは、ホントに自分ではわかりません。客観的に見てくれる人がいるって、ありがたいです。

 

それでも、その出来事を受け入れるには、時間がかかりました。行動は後悔してはいませんが、その行動から引き起こされたことに関して、自分を責める気持ちが止まりませんでした。それも、後悔なのかもしれません。

 

それから半年がたち、武当山にお稽古に行ったときのことです。当時、学校にはビジネスパートナーがいました。経営問題について師匠との間で話し合いが続いており、師匠はほとんど留守でした。生徒たちは、野放し状態で、困っていたり、それを通りこしてイライラしていたり、という状態でした。

 

そういう事情なら仕方ないと納得しようとしたものの、我慢が溜まりすぎたのか、ついに怒ってしまいました。それも、机をたたいてです(自分でもびっくりしました)。でもその後、怒ってしまった自分を、責めはじめたのです。「どうしてこんなところまで来て、こんなに怒ってしまったのだろう」と。

 

泣きながら攻め続けましたが、ふと、「違う」という思いがやってきました。怒ってしまったことは反省するけれども、それをした自分を責めるのは違う、と思ったのです。

 

はじめて、自分が自分の味方でいられた気がしました。

 

正直な話をしようとするとき、それに慣れていないときは、言葉が爆発するように出てしまうことがあります。少なくとも、わたしの経験では、そうでした。

 

今から振り返ると、そんな言い方しなくてもよかったのに、と思うのです。ふつうに穏やかに話せばよいことなのです。そもそも、そこまで我慢せずにさっさと言えばよいのです。(それができないから、こういう事態が起きたわけですが。)

 

そもそも、何が自分の正直な思いなのかも、よくわかっていませんでした。だから何がいらぬ我慢なのかも、わかっていませんでした。

 

「正直に思ったことを話せる自分になりたい」と願いを立て、そのための行動を起こし、こんな失敗もしましたが、少しずつわかってきたこともあります。

 

今でも失敗はあります。でも、この時ほど激怒させたり激怒したりすることは、ありません(今のところ)。反省はしますが、後悔したり、自分を責めることは、なくなりました。

 

当時と今とで大きく違うことが、ふたつある気がします。ひとつは、起きたことを受け入れるようになってきたこと。もうひとつは、”正直であること”がわかるようになってきたことです。

 

4年前は、起きたこと(起こしたこと)を、受け入れられていませんでした。こんなに頑張っているのに、どうしてこんなことが起きるんだろう、どうしてこんな思いをしなければならないのだろう、と思っていました。人のせいにもしました。

 

でも今は、起きたことは、受け入れようとしています。それは意識的にせよ、無意識にせよ、自分の選択の結果だからです。表面的に起きたことの奥深くに、自分の本当の願いが隠れていることもあるのです。願いは、どんなカタチにせよ、叶うのです。

 

”正直であること”については、「嫌いなら、それでよいのだ」と思えるようになりました。以前は、「嫌いだと思う自分は、ダメだ。」と思って、なんとかしようとしていたのです。

 

好き・嫌いは、思考ではありません。

 

嫌いなのは、相手が悪いわけでもなかったりします。今なら、嫌ならそこからすーっと離れていこうとします。ウマが合わない人と、無理に一緒にいなくても、いつかは自然に話せるときが来るかもしれません。

 

嫌なのに、どうにかしようとその場にいると、自分をその場から引き離そうと、もっと大きな事件が起きたりします。人は、どうにかして自分の願いを叶えようとするのです。だから時々、願いはショッキングな出来事によって叶ったりします。

 

以前、こんな話を聞いたことがあります。

 

「起きたことには意味がある。でも自分の思考に意味はないし、過去の感情の記憶はない。」

 

感情は記憶できないので、後から思い起こすときには、美化することも、嫌な気持ちが増幅することもあるのです。わたしが自分を責めるときには、大幅に増幅させていたと思います。

 

自分を責めて傷つけることでしか、自分の存在を感じられなかったのかもしれません。自分を大切にしていないですよね。

 

「正直に生きるようになりたい」という願いをたてたら、いろいろなことが起きましたが、その方向に進めるようになっていています。自分に正直であると、自分に嫌なことがあるように、他人にも嫌なことがあることもよくわかります。自分の思いを認めることができれば、他人の思いも尊重しゃすくなります。思いっきり”自分”を尊重した結果、個を超えた理解にもつながります。

 

今回のお願いごとは、「家族や周りの人、みんなが幸せでありますように。」そのためには、日々、自分の心身を緩めて、笑顔で過ごすことを心がけますと、お約束してきました。

 

心身がほぐれているかどうかは、わたしにとっては正直でいるかどうかのバロメーターなのですよ。

 

そんなことも思い出しながら、気持ちよくお参りできました。感謝です。

 

(九頭竜の森への入り口)

 

(九頭竜の森にある、マユミの木)

 

(九頭竜神社の龍。美しい彫り物です)

 

(湖上の鳥居)

 

(お参りが終わって眺めた芦ノ湖畔)

 

(帰りは、白龍大明神にもお参り)

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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