武当山で感じたこと:のんびりいこう

2017.09.24 Sunday

 

 

中国の武当山に、お稽古に行っていました。1年ぶりです。

 

2008年末に初めて行ってから9年、今の学校に行くようになってからは、5年になります。

 

その間、大きく変わったと感じることのひとつは、「のんびり学ぼう」と思えるようになったことです。

 

最初は、団体で行ったこともあるためか、なんだかとっても忙しかったのです。練習、ごはん、と、シンプルなスケジュールなのですが、学校の館内移動も、階段をせかせかと早足で移動した記憶があります。真冬で、お湯はタンクに貯めたものがなくなると終了なので、シャワ―や髪の毛を洗うのも、高速作業です(笑)。初めての武当山生活で非日常感も大きく、こんな経験も楽しかったですけれどもね。

 

2回目から、生活自体は、ゆったりになりました。他人を気にせず、自分がしたいことを大切にしよう、と思い始めたことも関係あるかもしれません。でもお稽古は、何よりも最優先で、「遊ぶより練習」という時期が、何年か続きました。強制されたわけではなく、自分がそうしたかったのです。

 

例えば、全部で2週間弱、行くとします。学校は、週に1.5日〜2日、お休みです。短い滞在のわたしは、お願いしてお休みの日にもお稽古してもらっていました。ほぼ個人稽古になるため、当時は、たくさん教えてもらえる、と感じていました。

 

2009年の7月、2回目に行ったときのことです。お休みの日にもお稽古を入れていたある日、向こうで知り合った友人たちが「午後、逍遥谷に遊びに行きましょ」と誘ってきました。お稽古が......と思ったものの、結局、一緒に行くことにしたのです。そしてその半日が、とっても、とっても楽しかったのです。

 

誘ってくれて、一緒に過ごしてくれて、本当に感謝しています。

 

さてさて、そんなことがあっても、それからも”お稽古最優先”の日々は、続きます。その間、学校は3つ変わりましたが、どこでもお稽古中心、周りがやらなくてもやる、先生が不在でもやる、というのは変わりませんでした。

 

変ってきたのは、今の先生に習うようになってからです。突然ではなく、いろんな体験を経て、だんだん変わってきたのです。

 

ひとつは「大切なのは、習う時間の長さではない」と感じるようになったことです。2014年の春に行ったとき、学校は経営問題でもめていて、先生はいつも不在、弟子も育っておらず、ほぼ自主練が続きました。そんな中、ほんの短い時間、10分とか15分くらいだと思うのですが、ようやく先生が現れて、「次の段階に進むときだから」と太極拳の大切なポイントを教えてくださいました。そのとき「これだけで、今回は充分だ」と思えたのです。

 

ポイントが分かっても、それを体で表現できるようになるには、時間がかかります。この頃から、「形を習う」よりも、「習ったものを自分で熟成させる」ようになったのかもしれません。

 

そしてこのとき、困難に向かう先生の姿勢や、自分の過ごし方や感情など、お稽古以外にもすごく貴重な経験ができた時間でもありました。カンフーとは、生きていくことなのだと、より深く実感し始めたときでもあります。

 

お稽古時間の過ごし方から、わかったこともあります。時々、鬼ごっこしたり、サッカーしたり、という時間があるのです。楽しいのですが、「お稽古しないんだ」と、最初は思っていたのです。でもある日、大笑いしながら、さんざん遊んだ後に、站椿功(立禅)を始めたとき、「あれっ?」。とっても気持ち良く、とっても楽なのです。いつまでも続けていたいほどです。そんなわたしを見て先生が、「とっても気もち良いでしょ」と、一言。

 

目標にむけて、一目散にやり続けることで、視野も狭くなり、体も硬くなることもあります。モーレツ社員も、ずっと走り続けることはできません。笑って楽しく過ごせば、体も心もほぐれます。先生はきっと、そういうこともわかっているんだなあと、改めてお思いました。

 

そして2016年、去年からは「休みの日は、休むのだ」という、当たり前の生活をしようと思うようになりました。そのためもあって、いつもより長めの1か月という期間にしました。「いつもより長いね」と言う先生のお弟子さん達に、「のんびり習いたいと思ったから」と答えると、「ああ、それは良いね。」

 

自分が何を大切にしていきたいのかも、はっきりしてきました。

 

お稽古の時間、きちんと練習することは大切です。でも、度が過ぎて執着になると、その周りにある豊かな経験を、自ら無視してしまうことになりかねません。

 

焦らず、のんびり学ぼう。わたしの目指すことは、幸せに生きることなのだから。

 

今回、新しい校舎へのお引越しもあり、平日でもお休みになることがありました。そんなとき先生は「良いお天気だね。椅子を外に出してみんなで座ろう。」そして「気持ちよいねー。」と、ニコニコ。

 

武当山での生活の中で、何かを強制されたことは、一度もありません。ひたすらお稽古を優先したときも、自分の選択です。やりたいことをやるという経験は、あの時は良かったと思いますが、今は、心も体も、ぽかぽかと暖かく、ゆるくなるような、陽だまりの時間を存分に味わえる自分になれたことが、とてもうれしいです。

 

修行とは、強制されるものでも、辛いものでもなく、自らやりたくてやるもので、その過程でたくさんの発見があり、豊かさを与えてくれるものだと思っています。

 

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

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武当山での日々をお話した自由が丘FMTV「みんみんの陽だまり太極道」は、こちらからどうぞ↓

 

 


武当山に行ってきます

2017.09.01 Friday

(旅のお供、お守り坊ちゃんキーホルダー)

 

明日から9月下旬まで、中国、湖北省にある武当山に、お稽古に行ってきます。

 

行くのは1年振りです。

 

毎年2回、春と秋に行っていたのですが、今年の春は日本でやることがあるような気がして、自然な流れで、行かない選択をしました。それがどういうことかは、わかりませんが、変っていくものもあるのだと感じます。

 

武当山は、わたしを育ててくれた場所です。心のふるさとのようなところです。

 

2009年、最初にひとりで行ったときの目標は、「わがままに過ごす」でした。他人に気を使うことなく、自分がしたいことを優先させるという目標は、お稽古中心の生活という環境の中では、やりやすかったのだと思います。

 

それからずっと、山の自然に身を置きながら、「考える」よりは「感じる」ことを大切にし、体を使いながら自分の在り方を見つめてきました。最初はつーんとしていた自分が、だんだんと心を開いてきて、信頼を積み重ねていくうちに、前よりずっと、自分と仲良くなれるようになりました。

 

「わがままに過ごす」ことは、一見、とても独りよがりに思えます。でも、自分の面倒をしっかり見ていくと、ひとりでできることなどないのだ、と気づきます。ひとりでは立つこともできないのです。地面があるから立てるのです。そう気づくと、地球と共に生きている大きな安心感を感じるようになりました。

 

そして同時に、自分は地球の一部で、運命共同体なのだとも気づきました。地球の痛みはわたしの痛みで、わたしの痛みは地球の痛みなのだと思うのです。地球に暮らす人も、自分と無関係ではないわけです。

 

この地球での使命というのか、何を表現して生きていくかは、人それぞれです。わたしの土台は「笑って幸せに生きること」です。環境破壊や争いの絶えない世界を見ていると、人間がいることで地球を痛めていることも多くあると感じます。でも、人間は邪魔な存在なのではなく、もともとは必要で、歓迎されて生まれてきたのだと思うのです。

 

だから、心身ともに緩んで、笑顔で過ごそうと思っています。そう思いながらのお稽古は、どんな感じになるのでしょうか。

 

今回、出発が近づくにつれて、「いってらっしゃい」「気をつけてね」「楽しんでくださいね」と声をかけていただくたびに、とても幸せな気持ちになりました。とってもありがたいです。

 

武当山には昨日、お稽古友達が到着して、「待っているよ」とメッセージをくれました。そういうことも、とってもうれしいのですよ。

 

ちょっとした気持ち、小さなひとことの力は、とっても大きいのです。だから、何か特別なことを成そうとしなくても、きっと、よいのです。その大きな力を自分からも出して、受け取っていけば、気づいたときには何かを成しているのかもしれません。

 

冒頭の写真は、友人が「お守りに」と作ってくれた”お守り坊ちゃんキーホルダー”です。以前このブローチを見たときに「かわいい!」と大騒ぎしたことを覚えていてくれて、旅のお供に作ってくれました。「作ったから連れて行って」というメッセージを受け取ったとき、台風情報に不安になっていたのですが、このメッセージのおかげで「大丈夫」と思えました。そもそもお天気のことで、わたしにできることなど、ありません。「無事に行かせてください」と祈り、あとは状況を受け入れよう、と思えました。すでに、守ってもらっています。

 

ひとりで行動していても、ひとりではないですよね。感謝を忘れずに、行ってきます。

 

(武当山)

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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九頭竜神社へのお参り

2017.08.31 Thursday

 

中国に行く前に、箱根の九頭竜神社にお参りしてきました。

 

箱根神社をお参りしてから、てくてく、てくてく、と歩いて、九頭竜神社まで行きました。4年ぶりです。

 

4年前に来たときは、ある事を勇気を持って断ったときでした。ずっと言えなかったことを、勇気を出して伝えたところ、相手の方は激怒。絶交状態になりました。

 

泣きながらこの話を相談したところ、「泣いているけど、数か月前に『正直に言えるわたしになりたい』と言った自分に、今、なっているよ。気づいている?」と。

 

自分のことは、ホントに自分ではわかりません。客観的に見てくれる人がいるって、ありがたいです。

 

それでも、その出来事を受け入れるには、時間がかかりました。行動は後悔してはいませんが、その行動から引き起こされたことに関して、自分を責める気持ちが止まりませんでした。それも、後悔なのかもしれません。

 

それから半年がたち、武当山にお稽古に行ったときのことです。当時、学校にはビジネスパートナーがいました。経営問題について師匠との間で話し合いが続いており、師匠はほとんど留守でした。生徒たちは、野放し状態で、困っていたり、それを通りこしてイライラしていたり、という状態でした。

 

そういう事情なら仕方ないと納得しようとしたものの、我慢が溜まりすぎたのか、ついに怒ってしまいました。それも、机をたたいてです(自分でもびっくりしました)。でもその後、怒ってしまった自分を、責めはじめたのです。「どうしてこんなところまで来て、こんなに怒ってしまったのだろう」と。

 

泣きながら攻め続けましたが、ふと、「違う」という思いがやってきました。怒ってしまったことは反省するけれども、それをした自分を責めるのは違う、と思ったのです。

 

はじめて、自分が自分の味方でいられた気がしました。

 

正直な話をしようとするとき、それに慣れていないときは、言葉が爆発するように出てしまうことがあります。少なくとも、わたしの経験では、そうでした。

 

今から振り返ると、そんな言い方しなくてもよかったのに、と思うのです。ふつうに穏やかに話せばよいことなのです。そもそも、そこまで我慢せずにさっさと言えばよいのです。(それができないから、こういう事態が起きたわけですが。)

 

そもそも、何が自分の正直な思いなのかも、よくわかっていませんでした。だから何がいらぬ我慢なのかも、わかっていませんでした。

 

「正直に思ったことを話せる自分になりたい」と願いを立て、そのための行動を起こし、こんな失敗もしましたが、少しずつわかってきたこともあります。

 

今でも失敗はあります。でも、この時ほど激怒させたり激怒したりすることは、ありません(今のところ)。反省はしますが、後悔したり、自分を責めることは、なくなりました。

 

当時と今とで大きく違うことが、ふたつある気がします。ひとつは、起きたことを受け入れるようになってきたこと。もうひとつは、”正直であること”がわかるようになってきたことです。

 

4年前は、起きたこと(起こしたこと)を、受け入れられていませんでした。こんなに頑張っているのに、どうしてこんなことが起きるんだろう、どうしてこんな思いをしなければならないのだろう、と思っていました。人のせいにもしました。

 

でも今は、起きたことは、受け入れようとしています。それは意識的にせよ、無意識にせよ、自分の選択の結果だからです。表面的に起きたことの奥深くに、自分の本当の願いが隠れていることもあるのです。願いは、どんなカタチにせよ、叶うのです。

 

”正直であること”については、「嫌いなら、それでよいのだ」と思えるようになりました。以前は、「嫌いだと思う自分は、ダメだ。」と思って、なんとかしようとしていたのです。

 

好き・嫌いは、思考ではありません。

 

嫌いなのは、相手が悪いわけでもなかったりします。今なら、嫌ならそこからすーっと離れていこうとします。ウマが合わない人と、無理に一緒にいなくても、いつかは自然に話せるときが来るかもしれません。

 

嫌なのに、どうにかしようとその場にいると、自分をその場から引き離そうと、もっと大きな事件が起きたりします。人は、どうにかして自分の願いを叶えようとするのです。だから時々、願いはショッキングな出来事によって叶ったりします。

 

以前、こんな話を聞いたことがあります。

 

「起きたことには意味がある。でも自分の思考に意味はないし、過去の感情の記憶はない。」

 

感情は記憶できないので、後から思い起こすときには、美化することも、嫌な気持ちが増幅することもあるのです。わたしが自分を責めるときには、大幅に増幅させていたと思います。

 

自分を責めて傷つけることでしか、自分の存在を感じられなかったのかもしれません。自分を大切にしていないですよね。

 

「正直に生きるようになりたい」という願いをたてたら、いろいろなことが起きましたが、その方向に進めるようになっていています。自分に正直であると、自分に嫌なことがあるように、他人にも嫌なことがあることもよくわかります。自分の思いを認めることができれば、他人の思いも尊重しゃすくなります。思いっきり”自分”を尊重した結果、個を超えた理解にもつながります。

 

今回のお願いごとは、「家族や周りの人、みんなが幸せでありますように。」そのためには、日々、自分の心身を緩めて、笑顔で過ごすことを心がけますと、お約束してきました。

 

心身がほぐれているかどうかは、わたしにとっては正直でいるかどうかのバロメーターなのですよ。

 

そんなことも思い出しながら、気持ちよくお参りできました。感謝です。

 

(九頭竜の森への入り口)

 

(九頭竜の森にある、マユミの木)

 

(九頭竜神社の龍。美しい彫り物です)

 

(湖上の鳥居)

 

(お参りが終わって眺めた芦ノ湖畔)

 

(帰りは、白龍大明神にもお参り)

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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武当功夫の根底にある精神:続けていけば、いつかはできる

2017.08.26 Saturday

(武当山 南岩 南天門)

 

中国の武当山に伝わる武当功夫(カンフー)の根底にあるものとして、「続けていけば、いつかはできる」という精神を感じます。

 

最初から知っていたわけではなく、自分がお稽古を続けていくにつれて、感じるようになってきたものです。

 

その精神は、武当山に伝わる伝説の中にも見られます。

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北の守護神である真武(しんぶ)大帝(玄天上帝)。この真武が武当山で修行していた頃、一時、山から下りて俗世間に戻ろうとしたことがあります。

 

「磨針井」のあたりまで下ると、一人の老婦人が太い鉄の棒を研いでいるのを見かけます。不思議に思った真武は、何をしているのかと老婦人に質問します。


すると、「縫い針を作るためだよ」と。真武はこんなに太い棒で縫い針ができるものかと不思議がっていると、老婦人は「鉄の棒を止めずに研ぎ続ければ縫い針は必ずできる」と答えます。これを聞いて悟った真武は、すぐに山に戻って修行を続け、やがて仙人になったと言われています。

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「続けていけば、いつかはできる」という精神は、道士(道教の修行者)が老子の「道徳経(日本語では「老子」)を読むときの姿勢にも表れています。

 

約5,000文字の81章からなるこの文献は、難解です。それぞれの章を読むときに、どんなことを伝えようとしているのか、その時の自分の経験や環境などにより、解釈が変わってくることもあります。道士は、これをずっと読み続けると教えてもらいました。「読み続けていけば、いつかはわかると信じているから」と。

 

ここで大切なことは、結果ではなく、プロセスです。たどり着く過程、探究の中に、豊かな体験や感覚、つながりなど、たくさん詰まっています。

 

プロセスの中では、「こうだ!」と実感しても、常に通過点です。さらに先があります。一生、終わることはありません。

 

身の丈に合った智慧がやってくる、とも言えます。そしてそれは、人が関わっていることもあり、助けられることもありますが、それを含めてすべて自分がやった体験です。それを修行と言う、と思っています。

 

現代は、どれだけ効率的に目標を達成するかに、重きが置かれてきた気がします。それは確実に、社会の発展を促したと思います。でも、行きすぎると、結果を出さなければ価値がないように感じられ、無理をかけることにもなりますし、「できる人」「できない人」という格差も生み出しかねません。人は本来、誰もが平等なはずなのに、です。

 

現代に育ったわたしは、けっこう”せっかち”です。本を読めば、すぐに先を”ちら見”したくなります。人の話も、最後までじっくり聞くより、半分くらいで自分なりに解釈しようとして、失敗することもあります。過去には、”より速くやる”ことを、ゲームのように楽しんでいた時期もありました。

 

人間だもの、そんな時期があっても良いと思います。でも、何事も”ほどほど”を過ぎるとバランスが崩れるように、あまりに効率に傾倒しすぎると、自分の体をないがしろにしたり、心を閉ざして「いやだ、辛い」と言えなくなることもあります。自分の心身のスイッチを切って、感じないようになっていくこともあります。もちろん、気づかずに、です。そして知らずに自分を痛め続けることにもなりかねません。

 

「続けていけば、いつかはできる」という精神の中には、常に今の状態を感じることが含まれます。それに良い悪いはありませんが、腐ったものを食べればお腹を壊すように、やり方が違えば体に不調が出ます。最初はうっすらとですが、たび重なると大きな不調になります。うっすらと現れた時点で、「うん?」と感じられるかどうかは、大切です。そして、腐っていると学習したら、次は避けることも、大切です。

 

(武当山 逍遥谷)

 

実際、お稽古でも、同じことを続けていても、昨日はとても気持ちよかったのに、今日はなんとも感じないこともあります。でも、気にせずに続けます。体の不調につながらないものであれば、昨日が良くて、今日はダメ、というものではない気がするのです。今日はこんな感じだと、そのまま見るだけです。

 

今の自分を見続けること、それを感じ続けることは、同じところにいるようでいて、実は常にチャレンジし続けています。昨日までの経験にとらわれず、今日は新しい気持ちで取り組むからです。

 

目標を立て、その達成だけを目指した場合、あるのは成功か失敗です。成功も、立てた目標の達成に限定されます。

 

でもプロセスを大切にする場合、得られるものの可能性は、未知で無限大です。気づいたときには、いろいろと智慧がついてきます。気が遠くなるほど長いプロセスであればあるほど、可能性は広がります。

 

「続けていけば、いつかはできる」には、絶対的な”いつか”はないかもしれません。”いつか”は、今でもあり、先でもあるという、矛盾しているようで、現実にはあり得るのです。

 

そしてこれは、ひとつのことを続ける場合だけではなく、いろいろあれこれやる場合でも、当てはまると思うのです。長くなってきたので、その話はまた別の機会にしようと思います。

 

 

(武当山 逍遥谷)

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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太極拳は、そのまま伝えられてきたのか、変化したのか?

2017.08.24 Thursday

(64式武当太極拳) Photo by Xie Okajima

 

先日のお稽古で、生徒さんから聞かれたことです。

 

「伝統的に伝えられてきた太極拳は、そのまま変わらずに伝わってきたのですか、それとも変化してきているのですか?」

 

まず、太極拳の大きな分類から見ると、伝統太極拳という、文字通り伝えられてきたものと、後から編纂された制定太極拳に分類されます。

 

制定太極拳とは、毛沢東が、人民の健康促進のため中国全土に太極拳を普及させようとして、古くからある太極拳をシンプルにまとめるように、伝統拳の五大流派に命じて作らせたもので、1956年に発表されました。一番普及している簡化24式は、この制定太極拳に入ります。制定拳は、その後に表演用の音楽も作られ、音楽に合わせることで、太極拳のリズムを感じ取るようになっているようです。

 

では、古くから伝わった伝統太極拳のすべての套路(型)は、変化せずに伝えられてきたのでしょうか?

 

変化してきていると思います。

 

なぜなら、套路が変化していることを、何度も経験しているからです。同じ先生からひとつの套路を習い、1年後にまた習うとき、小さな変化ばかりだけではなく、ある一部がごっそり抜け落ちることもあります。聞くと、「そこは必要ないから」と、ひとこと。

 

人が違っても、套路は違います。微妙な違いもありますが、かなり違うこともあります。このため、初心者が異なる先生について習うときは、混乱します。「どっちが正しいの?」と言いたくなるでしょうが、どちらも”あり”です。この先生たちが、兄弟弟子同志(同じ先生について修行した人たち)であっても、師匠と弟子という間柄であっても、同じことは起きます。

 

大枠は同じでも、細かいことまで含めると、人の数だけ套路がある、ようなイメージです。

 

どうしてこんなことが起きるのでしょうか?

 

その答えは、以前習っていた気功の先生の言葉の中にあると思っています。「習うときは、きっちり、その通りに習う。でも、たとえば一緒に習った人が3人いたとして、その3人から出てくるとき(その人たちが教えるとき)は、三人三様でよい。」と教えてくださったことがあります。

 

3人いれば、体格も、思考も、違います。筋肉質な人とそうでない人、大らかな人、神経質な人、闘争好きな人、などなどです。同じようにきちんとそのまま習ったとしても、それぞれの体格、理論の理解、何を大切に感じるのか、などによって、形は変わってくるのは自然の流れとも言えます。さらに、元の先生から習うばかりではなく、他の先生に習うなど、個々人の経験から得た内容を入れ込んでいくことで、3人の太極拳は、三人三様になってきます。

 

これらを同じ太極拳の名前で呼ぶこともありますし、自分の名前を付けて、新しい太極拳として創設する場合もあります。

 

これを話したら、「伝言ゲームみたいですね」と、生徒さんから言われました。

 

そうですよね。伝言ゲームと同じ、押さえるところは押さえておかないと、わけがわからないものになってしまいます。

 

だから、習うときは、とにかくきちんとその通りに習うことが大切です。

 

自由というのは、基本があるから、自由に動けるのだと思います。見た目は全然違う動きになっていたとしても、いくつかの型が亡くなってしまったとしても、基本から外れたわけではありません。その基本をしっかり会得するまでは、基本に忠実に習う方が、より自由に動けるようになると思います。

 

また、この変化は自然な変化で、「新しい套路にしよう」という意図が働いているものではないと思います。何度も何度も同じ套路を繰り返しているうちに、「ここはこうする方が自然にできる」と気づいて変化するような感じだと思います。

 

太極拳は、太極や陰陽理論などなどの理論や思想をベースとして、最後にカタチとして成り立ったものだと思えば、表面的なカタチが違うことは、それが単なるカタチではないことを証明しているとも言えます。

 

どれが正しく、どれが間違っているわけではないのです。

 

人が介在して伝わっていくことで、発展もあります。ひとつの太極拳が、豊かに広がっていくとも言えます。

 

そして、違う人の違うものを観たとき、自分の基本がしっかりしていれば、動揺することもありません。「ああ、そうなんですね」と、素直にそのまま認めることもできます。それは多様性の広がりにもつながります。

 

自由でいるためには、基本はしっかり、きちんと、ですね。

 

(中国、武当山の山頂にある、太和宮。道教寺院)

 

☀「陽だまり」とは

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