赤を生きる

2015.03.03 Tuesday














わたしの今のお稽古着は、赤です。ホームページも赤です。
それは、今のわたしのテーマが「赤を生きる」だからです。

最初は、中国、武当山のカンフー学校のお稽古着からでした。
男女、年齢問わず、赤を着ている人が多かったのです。
赤は中国ではおめでたい色だから、ということもあるのでしょうか?














(武当玄武派第15代伝承人 田理師父の学校。中国、武当山)

白を着なれた身には、真っ赤なお稽古着には少し抵抗がありましたが、
2か月の滞在中に慣れてしましました。
「似合うね」という声に気を良くし(笑)、
日本に戻ってからも、そのままの習慣でよく赤を着ていました。

日本では注意を受けたこともあります。
「赤は刺激色。いろんな精神状態の方もいらっしゃるからダメ」というものでした。

赤は、確かに刺激の強い色です。
でも、花や野菜など、自然界にふつうにある色のひとつ。
わたしには自然にある赤を大切にしたい、という思いもあります。

ただし、気功や瞑想などは、通常よりも感覚が敏感になります。
普段は気にならない生活音が、やたらと大きく聞こえたり、
刺激が強く感じることも、多くあります。
そんなときに赤い色を見せられたら、確かに刺激が強すぎるかも。
そのため気功や瞑想の時は、白や濃紫など落ち着いた色にしています。

この赤、わたしのバースカラーでもあります。
バースカラーとは、誕生日や出生地などのデータをもとに1440色の中から自分の色を出すものなのですが、
わたしはDIC156 という、金赤とも呼ばれている色。赤の中でも、”まさに赤”です。

そのときに「赤は、生命力に関係するような活動発信が向いている。
明確な赤は、人に勇気を与えるリーダーシップの現れ」という解説もいただきました。
ホームページを作るとき、デザイナーさんから「冒険だけど、”らしい”気がして」と、
真っ赤な背景色を提案されたときにすんなり乗れたのは、このときの言葉のおかげかもしれません。

もともとピンクが好きだったり、花束をもらうときは、ほぼ必ずピンクなのです。
ピンクはやわらかい色に見えますが、オーラソーマでは赤に光が入った
強い色という理解もあります。

チャクラでも、赤は一番下、下丹田にあたる色で、土台になる色です。

いろんな意味で、今は赤を生きるときなのかな、と思います。
赤のエネルギッシュな力を借りながら進むときなのかもしれません。

いただいたアドバイスの中には、「自分の使命を使いきるためには、
冷静さと陽気さがキーポイント。突き進むエネルギーがうまくいかないときにこそ、
柔軟さを発揮して『まぁ、いっか』と、のんきに構えることも助けになる」とか。
赤は、燃えるだけではないのです(笑)。

だんだんと、赤が自分になじんできた気がします。
最初は偶然、でも、たぶんそれは必然です。
今は、まずここからですが、そのうち、すべての色が混ざった透明になることを目指して
少しずつ進んでいこうと思います。


(武当山の学校の庭に咲いていた花)

自分で描いた夢の世界を現実に生きる

2015.02.13 Friday
















「1年前に夢みていたことが、ひとつでも現実になっているならば、
あなたは今、あの頃に描いた夢の世界を現実に生きている。」

1年くらい前に、友人のブログで紹介されていた言葉、そのままです。
(細かいところは違うような気もしますが。。。)
すごく印象深かった言葉なのです。

わたしは、誰かの意見で生きたり、誰かの生き方で生きるのではなく、
自分軸で自分らしく生きていきたいと思っています。

でも時々、自分軸が見えなくなります。
そして自分にダメだしをしたり、人と比較して落ち込んだり。
前者は「自分ではない理想の自分の人生」、後者は「人の人生」を生きようとしています。
その渦中にどっぷりはまると、自分の人生を見失っていることに気づきません。
愚かです(笑)。

こんなことが何回も繰り返されると。。。
さすがに何かがおかしい、とは気づきます。
でも、だめだめゲームの負のスパイラルから抜けられません。
今回もこの渦にはまり、ひどく動揺している自分に気づきました。

そこで目にしたメッセージは「自分が完全ではないと自己否定しているときは、
そうではないことを思い出させてくださいと、祈る」というもの。
心に刺さったので、祈ってみました。真剣に。必死に。

そうしたら、自分軸で生きる、など、わたしにとって大切ななメッセージが目に入ってきました。
いくつか、ちょっと角度を変えて、いろんな言葉で入ってくるのです。
そのうちに動揺がすっと消えていきました。

以前は神頼みをするより動くべきだと思っていました。
でも今回の経験で「祈る」という意味が、少し自分なりにわかった気がします。

「助けてください」と祈ることは、無責任に神様や人任せにしているのではなく、
「全部やれるもんね」という自分のエゴや「できないと恥ずかしい」というプライドを
捨てることじゃないのかな、と思うのです。
そして実際、すでにあることを思い出すだけなら、実は何もしなくてもよいのです。
思い出すだけですから。

思い出すきっかけは、自分ではないところ、自然や他人からきます。
今回のことから、みんなつながっているとも感じました。つながっていることに感謝です。

そして次に思い出したのが、冒頭の言葉です。

1年前、私は。。。
・自分の太極拳のクラスを持ちたいな(当時は1クラス、持ち始めたところ)
・ホームページもつくりたいな
・ブログも始めたいな
・TVや雑誌にも出たいな
・自分のビデオもほしいな

と思っていました。気づいたら全部、叶っています。
ホームページに使える写真もなかったので、撮影するところから始めました。
そして、今ではとても信頼している友人でもあるカメラマンさんも、当時は知り合っていませんでした。

何よりも、何のために太極拳をやるのかも、ずっとはっきりしています。
自分軸で、自分の人生を生きること、です。
大地に根を張る樹木のように、流れる水のように、しなやかに力強く生きていきたい。
体も心も緊張せず、自然なまま、穏やかに流れにのって生きていきたい。
自分もそうありたいし、そんな人を増やしたいと願っています。

人と比較したらきりがありませんが、わたしは確実に、あの頃描いた夢の世界を現実に生きています。
しかも、思い描いていたより大きな”おまけ”もついています。

良い人たちに巡り合い、ご縁があって、たくさんの人の親切のおかげで、今に至っています。
現実に起きたことですが、でも自分軸でみれば、ミラクルだと思うのです。

わたしにもあるように、誰にでも、きっと自分軸で生きるなら、
こんなミラクルみたいな出来事はたくさん起きるのかもしれません。

自分が自分であることが、うれしいと思えます。
またダメダメゲームに入ることもあるかもしれませんが(きっとあるでしょうが)、
このことを思い出そう、と思います。
 

今の私の修業

2015.02.04 Wednesday



「毎年、中国の武当山にお稽古に行く」と話すと、たいてい「修業ですね」と言われます。
そのたびに、そんな大げさなと、ちょっぴり居心地の悪さを感じていました。
実は”修業”という言葉にひっかかるのは、わたしに変なこだわりがあったからです。

最初のわたしの思い込みは、修業=苦行。お稽古は好きだからやっているだけで、苦行ではない!という、
強固な思い込みです(笑)。お稽古は常に限界を超えていく連続なので、
時にしょげつつ、でも淡々と続けるのですが、わたしにとっては「やりたいからやっているだけだ」なのです。
「修業、ということを特別だと思っている人もいる」と言いながら、今思えば、自分こそが
特別に思っていたのかもしれません。

修業に対してこんなひっかかりをずっと持っていましたが、昨年、ひとつきっかけがありました。
出羽三山に山伏体験に行ったときのことです。
自分の足で山を歩き、自分で読経して、最後にお守りの御札をいただきました。
その時に言われたことは、「ふつう、お守りは祈祷されたものを買う。
でも、この御札は違う。自分の足で歩いて、読経して、全部自分でやったこと。」
「自分の体験で得たものは、自分だけのもの。誰にとやかく言われるものではない。それが修業だ。」

修業という言葉がはじめて、しっくりきた気がしました。

さらにそのときに「日常生活にいたら、同じことを繰り返すだけ。だから非日常に身を置くことで
修業になる」とも言われました。

中国に行くことは、わたしにとっては非日常です。
普段のしがらみや習慣、ストレスにとらわれにくいと思います。
新しいチャレンジもしやすいし、自分の幅を広げるチャンスにもなりやすい環境です。

ただしそれが長くなって、非日常が日常になってくると、新たな壁にぶつかることもあります。
わたしの場合、一番長いときで2か月間、武当山にお稽古に行ったことがあります。
最初の1か月は、毎日がとても穏やかで、適度に自分を尊重し、周りを尊重し、というペースで過ごせました。
「東京に帰ってもきっとこんな風に過ごせるはず」と思っていました。
でも2か月目に入ったとき、問題が山積みになり、イライラ、号泣、極度の疲労、大ゲンカ、と
とんでもない日々がやってきました。
「どこにいても日常は変わらない」とげんなりしてすっかり嫌になった後、
日常の中で穏やかに生きることを模索し始めました。少しずつ、です。

日常のままでも、修業はできます。
というより、日々やるものだと思うのです。
修業とは、自分の体験を通して自分が得たものであるのであるならば、
それは毎日、あるものなのだと思います。

今のわたしの課題は、ちゃんと立って、歩くこと。
とてもシンプルです。
3年前、中国で「あなたの動きはきれいだけど、中が悪い」と指摘され、
横歩き、前歩き、後ろ歩きを、ひたすらやったことがあります。
あのときは先生から指摘されてですが、今回は、自分から「それがちゃんとできるようになりたい」と
太極拳とは畑違いの先生にお願いしました。
やっていると、意識が散ったり、体の左右のバランスが悪いとか、改善点ばかりに意識がいきます。
できたことに思いがいかないのです。
それを指摘されたときに、「評価・判断はせずに、事実を言っているだけ」と言ったのですが、
「2か月前に比べたらできることようになったことがたくさんあるのに、
だめなところばかりに意識が行くことは、良い、悪いの評価・判断をしていることだよ」と。
さらに「改善点ばかり気づくのは、自分で自分をいじめていることだよ」とも。

苦行をしていない、と言いつつ、実は自ら苦行を選んでいたとは。。。
先生は、「苦しいことの方がやりやすいから、ついやっっちゃうんだよね」とおっしゃいました。

自分の自己評価が低いのも、わたしの昔からの癖です
何かと比較して、足りないところを埋めていくことを続けても、きりがないと気づいてはいます
でも、ついやってしまうのです。
何か、とは、他人だったり理想の自分だったり、とにかく”自分ではない、別者”です。

がっくりです。でも、気づいたことでよしとして、ここからまた始めてみます。

太極拳の良いところは、自分の体ひとつでできることだと思っています。
地面があって、自分がいれば、それだけでできます。
地面がないとできない(笑)ので、地球に立って歩くというシンプルなことから、
すごくたくさんの感覚を得てきました。
立っているだけで心が震えたこともあります。
これは、自分がやった、自分だけのものです。
それをもっと、ほめて認めてあげようと思います。

日常を過ごすことは、とても穏やかで、ドラマチックなのかもしれません。
毎日、修業中です。


 

自分の中にスペースを持つ

2015.01.13 Tuesday




自然の中で太極拳をすることが好きです。
自分の足の裏に大地を感じ、自然と自分とお互いにエネルギーを
交流させて癒す感覚を、大切にしています。
(地球と共に生きる太極拳(http://blog.minminkung-fu.com/?eid=8))

太極拳を始めたころは、「自然の中ではリラックスできる。都会は窮屈」
「山でやるようにはうまくいかない」と、感じていました。

でも、あるときから「それはおかしい」と思うようになりました。

一度できたことは、体が覚えているはずです。
どこでも同じようにできるはずなのです。
鍵は、自分の意識の持ち方ではないか、と考えるようになりました。

山にいるときに比べて、都会という環境はスペースがないと思いがちです。
人も多いし、ビルもたくさんあります。日常生活は忙しく、せわしない空気感もあります。
その外側の環境に影響されてしまうと、自分のスペースがなくなる、と感じやすい気がします。
外側の見た目に影響されると、「スペースがない、苦しい」と思ってしまうかもしれません。
でも、自分の内側にいつも山を持っていれば、同じ環境でも違う感覚になるような気がします。

昨年、友人ふたりと御岳山に1泊で出かけたとき、おもしろい体験をしました。
歩いたり、太極拳をしたり、おいしいものを食べたり、いろんな話をしたり、
3人それぞれが自分のペースで過ごしながら、適度にお互いを気遣いあうという、
すごく居心地のよい時間でした。
おかげで、ひとりで山に行くよりも、ずっと感じるものが多かった気がします。

楽しい時間を過ごして都心に帰ってきたとき、「あれっ?」と思ったのです。
普段なら大嫌いな人ごみが、まったく気にならないのです。
山で過ごしたときの感覚がそのまま自分の中に残っていて、
外のせわしなさに影響されないスペースがあるようでした。
「これだ」と思ったのを覚えています。

自分の中にスペースを持つこと、です。
都会でビルの中で太極拳をやるときも、自分の中に山があるイメージを持ちます。

そして、今、わたしはスペースがあるかないかを、呼吸で見ています。
息が深くできていないときは、スペースがないように感じます。
そんなときは、呼吸に意識を持っていきます。
これが「我を失う」ことを防いでくれると思っています。
(でも、いつもできるわけではないので、今でも練習中です。)



(中国、武当山の南岩の夕日が沈むところ)

私の存在が太極拳を通じて伝えるもの

2014.12.09 Tuesday



たくさんの人に助けられて、今の私がいます。
ホームページを立ち上げる話をしたときに、友人が「推薦文を書くよ」と言ってくれました。

才能コンサルタントの新関祐二(にいにい)さん。
北海道在住ながら、東京に来たときに私の太極拳講座に参加してくれたこともあります。

誰にでもある才能(強く出ている資質)。私の才能からみた推薦文です。
もらって、とてもうれしかった。そのまま載せます。
(みんみんとは、私のニックネームです。)
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みんみんの存在が太極拳を通して伝えるもの
〜みんみんの才能から見えてくる姿

by 才能コンサルタント新関 裕二

みんみんのストレングスファインダー資質TOP5
最上志向、未来志向、責任感、共感性、着想


こんにちはにいにいです
僕は才能コンサルタントという仕事をしていて、
ストレングスファインダーという才能発見テストの結果を元に
「楽しくて喜ばれてぐんぐん伸びる自分の活かし方」を
コンサルティングしています

今日はその技術を活かしてみんみんの持つ才能から
みんみんがみなさんにどんな貢献をしていく存在か
を読み解いてみたいと思います。

みんみんがもつ資質を開花させ、
すべて統合したときの姿は、、、

「人が心からの幸福を感じていられる未来を描き、
自らしっかりと実践してみせることでそのすばらしさを伝えていく人」です。

周りの人はみんみんが、人の幸福を願って
黙々と自分の決めたことに打ち込むその姿をみて
共鳴や感動を覚え、そばに集まってくるでしょう。

人の気持ちが痛いほどリアルにわかり、
物事を突き詰めていく性質は
おそらく過去には
自分も周りも追い詰めたこともあったでしょうが、
自分の資質の陰の部分をしっかり味わい、
太極拳という道を見つけた今は、

自分の心の陰と陽を統合し、
自分と人の幸せのために、という大きな目的からぶれず、
人から見えないところでもたゆまぬ努力を続ける力として
発揮されていくことと思います。

みんみんは、太極拳を武術や健康体操としてだけでなく
その人の心と体を柔らかく統合していくための手法として
伝えられる人です。

そしてそのあり方は、
心の陰の部分を味わったからこそわかる、
人の心の奥深くに届く波動を周りに発するでしょう。
自然に集まってきた人同士にも心癒されるつながりが
できていくことと思います

みんみんと、接する人達が
平安とともにありますように。

新関 裕二
http://ameblo.jp/2121-crazy/
.......................................................................

写真、後列スカイブルーのシャツの人が、にいにいです!
後列、水色のシャツの人がにいにいです!

太極拳と才能の関係については、また別の機会に書きますね。


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