武当山日記: 子供はみんなで育てるもの

2015.05.24 Sunday



武当山に行くと、先生の子供たちがいます。2歳の女の子たちです。
学校の人たちと、ずっと一緒です。ごはんも、練習中もそばにいますし、
お散歩にも一緒に行きます。小さな子供たちの明るいエネルギーは、
周りを明るくしてくれます。

しつけはとても厳しいです。特にお母さんは手も出ますし、
ダメなことはダメと、よく叱っていました。

お散歩に行っていたときのことです。武当山は階段が多いのですが、
長い階段を前に抱っこをせがむ子供にお母さんが「自分で上がりなさい」と言って、
先に上ってしまいました。子供はぎゃん泣きです。見かねた中国人のビジター生徒
(わたしのように、短期で来る生徒)が抱っこしようとすると、
「構わないで!自分で上がらせて」と言うお母さん。
2分後、子供は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、自力で上がってきました。

子供はお母さんがいてもいなくても、みんなで面倒を見ます。ごはんも学校のお兄ちゃんたちに
食べさせてもらったり、学校が宿舎にしているホテルの従業員さんに面倒を見てもらって遊んだりもします。
この子たちだけではなく、近所の子供が危ないことをしようとすると、そばにいる大人が止めたり、叱ったり、
みんなで面倒をみます。お稽古中は子供が寄ってきても、「練習中だからね」と構ったりしませんが、
それでも目の端で、みんなが子供たちを気にかけています。

狭い社会でみんなが知り合いだからかもしれませんが、みんなで子供を育てている感じなのです。
日本も昔はこんな感じだったのかな、とか田舎は今でもこうなのかな、と思ったりしました。

この話を日本に帰ってしたら、「昔はそうだったよね。今ね、子供が死んだりするでしょ。
ダメなものはダメ、と厳しく叱らないから、
何が危ないのかわからなくて、危険な目にあいやすいんだよね」と言っていた人がいます。



(高いところに上らせてもらって、ご機嫌。
ものすごくかわいい子なのですが、本人の許可を得ていないので仮面つきで。)

2歳の子には、知らないものがたくさんあります。
あちこちで、「じゅーしー、しぇんま(これ何?)」と聞きまくります。
それを見ていて。。。あれっ?わたしと同じ。。。

わたしも武当山に行くと、わからないことだらけです。
お稽古でもみんなの真似をして、言葉もみんなの言うことを真似して、
「これ何?」と聞きまくり、「ごはんだよ」と呼んでももらったり、「お散歩に行くよ」と
連れて行ってもらったり。手に渡されたものは口に入れてみます。
一度、小さな赤い丸い実を渡されて「ぱくん」と口に入れたら、「それは食べものじゃない!」
と言われ、あわてて口から出したことも。「きれいだから渡したんだってば。」
ちょっと褒められれば小躍りし、注意されればしゅん、となり、
そのときそのときを全力で生きる、子供のような毎日だったと思います。

子供も大人も、こうして育ちます。すくすくと。


(お風呂に入れてもらっています。
浴槽がなくシャワーだけなので、こんなことに。かわいすぎます)
 

武当山日記: これからの人生で大切にしたいもの

2015.05.19 Tuesday


(早朝練習のために、宿舎を出たところ)

今回、武当山(中国、湖北省)に行って一番感じたことは、これからの人生、こうやって
生きていければ十分満足だ、ということです。

お日様が上がったら起きて、体を動かして、ごはんをおいしく食べて、
山をお散歩して、音楽を楽しんで、会話して笑って、夜が来たら寝る、という生活です。

同じことの繰り返しの毎日で、服装も食べ物も贅沢とは無縁ですが、
実際には毎日、違って、すごく豊かなのです。

武当山での生活は、すべてが丁寧です。自分の体、周りの人、動物、植物、すべてを大切にします。
穏やかな心を持ち、調和を大切にします。
年齢を重ねていっても、元気です。

人は、上半身が重く、下半身が軽いと言われます。
物理的にも、体重の3分の2は上半身にあります。
そして「考える」という人間らしい特徴も、
行き過ぎると頭でっかちになり、上半身の重さにつながると思っています。
年齢を重ねると歩けなくなるのは、弱っていく下半身が重い上半身を支えられなくなるからです。

だから、武術をやる人は、足を育てます。
大地に根をはって、地面とつながって強い足を育てます。
大地と天は対になっているため、人が大地とつながれば、天ともつながることができます。
そこで初めて、人は大地と天と、つまり地球というか、宇宙と共に生きることになります。
それがなければ人は大地と天の間で、独立して生きるだけです。

大地と天とつながって生きることは、わたしにとっては絶対的な安心感をもたらします。
一人で生きていないこと、周りの人に助けられて生きていること、
そして地球とも同じリズムで、助け合って生きていること、
そんなことを感じて毎日を過ごすようになりました。

今、人は環境の破壊要因を作っており、人がいるから地球が滅亡に向かう速度は早まっている、
とも言われます。それなら人は望まれない存在なのか、と思ってしまいますが、
そうではないと思うのです。
地球に望まれたから、必要だったから、生まれたはずです。
そう思うと、人が大地の上、天の下に立って、歩いて、生きること自体、
望まれていることですし、すばらしいことだと思うのです。

武当山は、毎日違う姿を見せてくれます。雲が動く姿は美しいし、
朝日も、夕日も毎日違います。自然は生きていること、毎日変わっていくことを見せてくれます。

人も同じです。同じ体でも、本当は毎日違います。
だから、昨日ストレッチをしてやわらかくしても、今日はまた新たな気持ちでストレッチします。
太極拳も、同じ。同じ動きでも、毎日、違うのです。
だから、同じ動きを何十年もやることができます。飽きないのです。

シンプルな、基本的なことが、一番奥が深いです。
そして、それだけで一生、十分楽しめるのです。

普段の生活では煩悩だらけのわたしですが、
本当に大切にしたいものは、すごくシンプルだと、
今回の旅で気づきました。

現実には、東京での生活はそれほどシンプルではありません。
そのギャップに戸惑いもありますが、焦って何かを変えようとするよりも、
無理せず、ゆっくりやっていこうと思います。


(午前中のおけいこ場所からの風景。武当山の頂上、金頂が見えます)
 

武当山日記: 貧乏性にならない

2015.05.14 Thursday
















わたしには今、東京で、基本的な体の使い方を教えていただいている先生がいらっしゃいます。
約2週間の武当山滞在の後、帰国してはじめてのお稽古で「筋肉と体幹がしっかりした分、
それを使おう、使おうとしている。貧乏性なのね(笑)。」

あるものを全部使おう、としているそうです。

筋肉には2種類あって、立つという基本的な動作に必要なのは赤筋です。
下半身に多く、鍛えても金繊維が太くならずやわらかい筋肉です。
立つためには緊張していることが普通のため、「緊張している」という感覚がなく
(あったら、いちいち立つことが大変です)、緊張筋とも呼ばれます。
中国武術で鍛えるのは、この赤筋です。

もうひとつは白筋で、鍛えると太く固くなります。上半身に多く、力こぶは、これです。
相性筋とも呼ばれます。

歩く、という日常動作には、”使っている”感覚がある筋肉は、本当は必要ありません。
それをわたしは、使わなくても良い筋肉を緊張させて使っていたことになります。
あるものを使いたい、貧乏性。無駄な行為、ともいえます。

こんなことは繰り返し起きます。

わたしの場合、「これができたらあれもできるはず」という思いが働いた途端、
面白いくらい失敗します。とにかくやってみよう、という方がうまくいきます。

人は、”やっている感”や”頑張っている感”で、生きている実感を得ようとする、
という話があります。無理したり、頑張りすぎたりしてしまうのも、このためです。
やっている感があることで、満足を得ようとします。
今回のわたしの貧乏性も、同じです。

でも、そんなに負担をかける必要はないのです。
少なくとも、歩くという動作には、必要ありません。
もっと楽に生きて良いのです、と、今のわたしは思うのです。
実際「できるだけ筋肉を使わないように、心がけて歩いてみて」と言われて
やったほうが、ずっと良かったのです。

自分が得たものは、体が記憶しています。
わざわざ言語で意識しなくても、それをベースに今日を生きています。
「あれができたから」「あれをやったから」という余計な考えを外側にまとうことで、
自然な動き方が損なわれます。

ちょうど、中国に行く前に「自分というリソースを、ちゃんと使い切っているんだろうか?
もっと使い切らないともったいない」という話をしていたのですが、このときも貧乏性だったのかも
しれません。使い切っている感がありありだったら、それは負荷をかけすぎ、やりすぎではないのかしらね。

ついつい貧乏性が顔を出してしまい、そのたびに愕然としますが、
わたしはまだ、もっともっと楽に生きられる気がします。



 

愛とは、大切にすること

2015.04.13 Monday



昔、フランシスコ・ザビエルが日本にやってきて、「愛」という概念を伝えようとしたとき...
困った!ちょうどよい言葉がない!

そのとき「大切にすること」という言葉をあてたそうです。

愛とは、大切にする感情と言い換えられます。

これは稲葉俊郎さんの「対話するからだとこころ」という講演会で聞いたものです。
稲葉さんは循環器内科の医師として病院勤務しながら、在宅医療や山岳医療、
代替医療やヒーリングも勉強し、既存の枠にとどまらず、好奇心のままに新しい世界を模索されている方です。

講演会で、ひとつゲームをしました。

2人一組になり、片方が声を出さずに、
,錣燭靴OK,あなたはnot OK (わたしは良いが、あなたはダメ)
△錣燭靴not OK、あなたはOK (わたしはダメで、あなたが良い)
わたしはOK、あなたもOK   (わたしもあなたもどちらも良い)
の3パターンをやってみます。もうひとりは、それを受け取るだけです。

,鉢△蓮威圧的だったり恐怖だったり、冷たい断絶感があります。
は、ほっと安心するような温かい感じがします。
非言語でこれだけ多くのメッセージを受け取っているのです。

稲葉さんは、のわたしはOK、あなたもOKは、お互いが尊敬しあって学びあう関係で、
対話はここからしか生まれない、と話してくださいました。

さらに、この「わたしもあなたも OK」は、よく誤解されるそうです。

「人は、行為と存在を混在してしまうのです。
つまり、行為を否定すると存在を否定された気分になってしまいがちです」。

「わたしもあなたも OK」という状態は、すべてに同意することとは違います。
つまり存在を認めた上で、行為は否定してもよいのです。
ただ「それは違うとわたしは思う」と伝えたときに、相手は自分の存在を否定された、
つまり「わたしは OK,あなたはnot OK」と言われた、と誤解してしまうことがよく起きます。
だから「あなたの存在はちゃんと認めているよ」と伝えたうえで、行為の話をしないといけないのです。

わたしにも思い当たることがあります。
信頼しているからこそ「わたしは違うと思うの」と伝えるのに、
相手は怒るばかりです。わたしが理解できないことを「なぜ?」と聞くと、
怒りはどんどん膨らんでいく様子です。
そして「なぜ、と聞かないでくれ。言われると自分が信頼されていないような気がする」とも言われました。
今にして思えば「信頼されていないように感じる」と言ってくれたのは、
相手なりには心を開いていたと思いますが、当時のわたしはそれを大切にできていませんでした。

稲葉さんは、「人は共鳴します。相手が『あなたはnot OK、わたしは OK』ときても、
自分は引きずられずに『わたしもあなたも OK』の状態でいることが大切です」とおっしゃいます。
「相手が自分に共鳴して『わたしもあなたも OK』になれば対話が始まるし、
そうでなければ、相手は離れていく」そうです。

対話が成立しないとき、まず自分が「わたしもあなたもOK」かどうかを見ようと思います。
それは、自分を大切にし、相手も大切にする気持ちで、これが愛することだと今は感じています。


 

「ここにいて、いいんだよ」

2015.04.07 Tuesday


(秋分の日。高尾にて)

昨年の秋分の日、裏高尾を歩いていたときのことです。
ひとつのワークをしました。
目にとまったものをじっくり見てから、それになってみる。そして
”それ”から自分を見てみる、というものです。

わたしの目をとらえたのは、ゆらゆら揺れる草でした。
しゃがんでしばらく一緒にゆらゆらしてから、”それ”になって
わたしを見てみると。。。いきなり「じゃま。」

えっ?我を疑いました。
でも確かに、わたしがそこにしゃがんだことで、草は日陰になってしまっています。
さっきまでのびのびと太陽の光をあびていたのに。スミマセン。。。
衝撃のあまり、動けません。
しばらくそのままでいると、草もその状態になじんできたような気配がします。
あくまでも、わたしの勝手な気配ですが。
「いいよ、そこにいても。」
と言ってもらえた気がしました。

このときに感じたことをその時に一緒にいた人に話したところ、
「ぎょっとするような出来事は、ホンモノだよ。それは思い込みではない。」

森に入ったら気持ちよい”はず”、癒される”はず”と、いろんな思い込みや期待を持ちがちです。
そのままだと、森そのものを感じることが難しくなります。
ただそこにあるものを、そのままに感じることができなかったり。

思い込みや期待を外すために、川の流れをおちている葉っぱの動きから見たり、
風の通り道をコケのつき方から見たり、川の音を自分の立つ向きや耳の角度を変えて聞いてみたり
(結構、変わります)、思い込みや期待が働きにくいところで、そのままを感じやすくするために
いろんな準備をしたりします。

わたしもそんな準備をした後で、聞こえてきた声が、これでした。
「じゃま」の後は、「ここにいて、いいんだよ。」
それは、この日の大事なメッセージだったような気がします。



人は、自分の存在を感じられないと、ストレスを覚えるそうです。
だから子供を抱きしめるとよい、というのはとても理にかなっています。
抱きしめることで「あなたはここにいるんだよ」と感じさせているのです。
大人も同じ。たとえば自分の片腕を丁寧にさすると、リラックスして力が抜け、
腕が重たくなります。さすっていない方の腕は、緊張しているから軽い状態。
自分がここにいるよと、存在を認識するだけで、
すごく安心してリラックスできるのです。

自分の存在を感じられないために、痛みによって存在を確認しようとすることもあります。
精神的にも、肉体的にも、です。
頑張っていないと充実感がない、とか、自分を傷つけてしまうことも、関係しているような気がします。

でも、本当は痛みは必要なくて、もっと楽で良いのだと思います。
そのために、体に意識を向けてみたり、呼吸に意識を向けてみます。
自分のリズムで呼吸できているかどうかを見てみます。
もし話し方が早かったら、それは呼吸が早くなっている合図でもあります。
体の状態はどうかしら。緊張して硬くなっていないかしら。
カンフーでも、全身をさすることがあります。顔、頭、耳、首、肩、腕、背中、お腹、腰、足。。。
丁寧にそれぞれの部分に意識を向けてさするだけで、緊張がほぐれて、リラックスできることもあります。
ひとつしかない体を、わたしたちは結構、酷使しています。小さい足の裏で全部の体重を受けたり、など。
だから、ねぎらいながら、さするようにしています。

「ここにいて、いいんだよ」。
わたしがカンフーをするのは、自分の体を感じて、これを自分に語りかけるためでもあると思います。
毎日、瞬間瞬間で言い続けることが、大事なような気がします。
ついつい忘れてないがしろにしてしまうからです(わたしは、です)。
体はひとつしかない、大切なものですからね。











 


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