想定内の枠を超える

2015.08.09 Sunday

















(中国、武当山の南岩)

先週、腰痛になりました。
ぎぐっときたわけではないのですが、これはぎっくり腰の予兆のような様子です。
右の肝臓の裏あたりが、痛いのです。

まず呆然、その後、すごく反省しました。
体のメンテナンスは毎日していたつもりだったのに、なぜこんなことに。。。
わたしは自分の体を本当に丁寧に扱ってはいないということなのでしょう。

もうひとつ、思ったことがあります。
「想定外」を生きていないのです。

これだけ動かしていれば、ケアしていれば、腰痛にはなるわけがない、と
勝手に想定して、その範囲で生きているから、想定外のことが起きるとびっくりするのです。

2年前にも、似たような経験があります。
友人と企画してワークショップをしたときのことです。
あるプログラムの課題だったため、その様子をビデオに撮ってフィードバックを
もらう機会もありました。
プログラム自体は、参加者の満足度も大きく、成功と言えたと思います。
でもフィードバックは「これは、わたしの知っているみんみん(わたしのことです)じゃない」
というものでした。自分で映像を見てみると、その場で起きたことに対して柔軟に対応しているし、
上手くさばいているようには見えますが、どこか違和感があります。

「そうか、ハプニングに対応することも含めて、わたしにとっては想定内のことしか起きていないんだ。」

人前で話すこと、ワークショップをすることは、それまでの仕事の経験もあって、
そこそこ慣れていました。
必要ならその場での変更にも躊躇なく対応しましたし、ちょっと難しい人がいるときも、
ちゃんと向き合って対応していたつもりでした。

でもそんなことも含めて、わたしの中では「想定内」だったのです。

それまで、参加者がアンケートに「大満足、満足」とつけてくれれば良いと思っていて、
そのための役回りを「演じようとしていた」ような気もします。
アンケートで満点を取る優等生を目指していました。

「わたしは、そんなことがしたいのかしら?」

複数の参加者がいると、当然、タイプはバラバラです。
そこで平均点を取ろうとすると、無難になったり、参加者に迎合しすぎることもあります。
もちろん、参加者の希望を無視してよいわけではありません。
でも、わたしがしたいと思っていることは、違うのです。
わたしが望んでいるのは、内容に違和感を感じた人が、それをそのまま声に出せる
場所であることです。
安心して違和感を話し合える場所を作りたいし、その先に「わたしはこうしたい」と
一人ひとりが主張できるような場所を作りたいのです。

それなのに、気づかずに、想定範囲内にまとめて良い点を取ろうとしていました。

ばかものです(笑)。

これは相当な衝撃でした。
でも、このおかげで、それ以降は自分が教えるときも、
演じることをやめて、とにかく常に「自分」でいようと思うようになりました。
自分の体験をベースに、自分の魂からの思いを自分のことばで話すこと、です。
魂が抜けそうになる兆候は、呼吸を見ていればわかります。
呼吸が早くなっているかどうかは、話すスピードでわかります。
常に自分のリズムでいるかどうかを、とにかく大事にするようになりました。

教えることは、ずっと楽しく豊かなものになりました。

あのときは、「教えるとき、ワークショップをするとき」という範囲の中での
「想定外」でしたが、2年たって今度は、自分の生活でも「想定外」を受け入れていくときが
きたような気がします。

2年前と同じように、衝撃はありました。でも、こんな間抜けな自分に気づくとき、
わたしは自分で笑ってしまうのです。「わかったような顔をして、小っちゃいなあ」と。

自分の体にも、もっと丁寧にすること、そして想定内の枠を超えることで、
これからどんなことになるのか、想像もつきません。。。。なんといっても想定外ですから。
ちょっと恐いです。
わたし、これからどうなっちゃうんでしょうか(笑)。


(いつもお稽古している公園での夕焼け。この樹の影が動物のようで、楽しいのです)

自然と人、大宇宙と小宇宙

2015.08.06 Thursday
















(中国、武当山)

先日、森に行ってきた友人から言われたことです。
「なぜみんみん(わたしのこと)が、よく中国の山に行くのか、わかった気がする。」

3日間、森で過ごしたうち、初日は雑念だらけだったそうです。
雨も降っており「まだ歩くのかなあ」「ろくに説明も受けてないし」「嫌だなあ」などなど。

でも、2日目からは違ったそうです。
雑念がない。逆に探しにいっても、ない。
ひたすら今、ここにいて、平和で穏やかな心でいられたそうです。
「森って、そうなんだね。」

自然や宇宙を大宇宙、人と小宇宙とし、呼応している、という考え方があります。
自然の中に身を置くのは、大宇宙の在り方を体感し、小宇宙である自分の在り方に気づく機会でもあるようです。

老子の「道徳経」にも、自然と人の在り方についての記載があります。

天はひろびろとしているし、
地は果てしなくて、
ともに
長く久しくつづくものなのだ。
それというのも、天と地は
自分のために何かしようとしないで、
あるがままでいるからだ。
だから、長く、いつまでも、ああなんだ。
(「タオ 老子」第7章 加島祥造 筑摩書房)

老子は、これを知っている人は先を争ったりせず、
競争したりせず、無理をしない、と言っています。

「我をはったりしない生き方だから、
自分というものが生きるんだ」
(前掲 「タオ 老子」)

人は、「大宇宙と小宇宙」という概念を、
本で読んで知るのではなく、みんなどこかで知っているような気がします。
普段は意識にのぼってきていませんが、
自然の中に身を置くことで、思い出すのかもしれません。

わたしの場合は、たぶんそうです。
人は、何かを思い出すと泣く、と聞いたことがあります。
自分の本質に触れると、「あっ、そうだった」と思い出して、
ちょっとびっくりして泣くのです。
6年前に武当山に一人でお稽古に行っていたときが、そうでした。
早朝、一人で山を走っているとき、なぜかいつも涙が出るのです。
悲しくないのに。なんでだろう、とずっと思っていました。

今から思えば、自分にとって大切なことを、自然の中に身を置くことで
思い出していたのだと思います。
争わず、調和を大切にして、心穏やかに生きること、
自然という大宇宙と、わたしという小宇宙が、同じ、
我を張らず、自分を生きること、です。

自分の中に自然がある、とも言えます。

ここで大事なのは、先入観なく、何の期待もなく、過ごすことだと思います。
それ相応の時間や環境が必要な場合もあります。
山のガイドのようなことをしている人は、
「人ってね、山に来ると癒される、という思いを持っていて、
その妄想に乗って『きもちいいー』っていっちゃったりするんだよ。
そこから離れて、本当に自分が感じるとおりに感じるように持っていくのは、
結構大変なの」と言っていました。

わたしにとってはそれが、太極拳をすることにつながっているのだと思います。
期待とか、良い悪いとかを持たず、いつも今にいて、無理せず丁寧に動くこと、
呼吸を合わせることをやっていると、雑念や我が入り込む隙間がないのだと思います。

それでも、日常の中では、つい忘れてしまうこともあります。
最近も、イライラしたばかりです。
実はそれに先んじて、腰痛にもなりました。
痛くなったのは、ちょうど肝臓の裏。
怒ると影響が出るのは、肝臓です。
時間としては順序が逆ですが、こういうことも、ある気がします。

日常では、びっくりすることも、えっ?と思うことも、
いらっとすることも、いろんなことが起きます。
それはそれで、良いのです。老子も「醜いがあるから、美しいがある」と言っています。
ただ、その挑発に乗って争いはじめると、道を外れることになります。
そもそも、誰も挑発していません。自分の妄想だと思うのです。

道を外れたら、戻るだけです。
わたし、まだまだよのう。。。と反省しつつ。。。
(なぜかこういうときの言葉は、おじいちゃん風。)



(武当太極剣)

恩送り:Pay forward

2015.07.13 Monday


(今日、日が沈む時間に。とても美しかったです)

外国人の友人が、日本でイベントを開催することになりました。
「意見を聞きたい」というので、スカイプでお話しをして、その流れで
案内文を和訳したり、イベントをお知らせしたりなど、ちょこちょこっとした
お手伝いをしました。

たいしたことはやっていないのですが、すごく感謝されて、
「何かお礼をしたい」と、言ってくれたのです。

「そう言ってくれて、ありがとう。でも気にしなくても大丈夫。」

日本語を話せない人が、日本でイベントを開催することは大変なことです。
ごくまれな場合を除いて、英語だけでは難しいと感じます。
日本語のサポートなしには、届けたい人にもなかなかメッセージが届きにくいと思うのです。

それがわかっているから、わたしは自分にできるサポートをしたかったのです。
その人が、強い思いを持って、イベントを開催したいと思っていることも、わかるからです。

そしてもうひとつ、大事なことがあります。
わたしは中国に行くと、周りの人にいつもとてもお世話になるのです。
カタコトしか話さないわたしが困らないように、学校の人をはじめ、いろんな人が気を配ってくれます。

そんなこともあるので、「わたしも、言葉が不自由な中国で、十分、見返りはもらっているの。
だから、本当に気にしなくても大丈夫」と答えたのです。

「Pay forward (ペイ フォワード =恩送り)だね。いいね、その考えは。」

振り返って考えてみると、お世話になった人、助けてもらった人、その人たちに直接、
恩返しをしきれない場合もたくさんあります。
仕事の上司を含む目上の方や、自分が言葉を話せない外国の場合は、特にそうです。

20代の頃、台湾に初めて出張したときに、思いがけない出来事に遭遇し、バタバタ、あたふたしながら、
弁護士にさんまで会いに行くような経験をしました。
そのときに、グループ会社だった台湾の同僚が、すごくわたしを助けてくれたのです。
一段落して自由な時間ができたとき、「一緒にアイスクリームを食べよう」と、外に連れ出してくれました。
「迷惑かけて、本当にごめんね。」というわたしに、
「いいんだよ。君にとってここは、見知らぬジャングルのようなものだから。
でも、僕は自分の国だからよくわかる。
だから心配しなくてもいいんだよ。」と言ってくれたのです。

この言葉と経験がわたしの記憶に深く刻まれているから、逆の立場になったときには、
できるだけのことをしようと思うのかもしれません。
もちろん、自分に無理がかからないように気をつけながら。

もうひとつ、すごく助けてもらった経験の中で、
「この人は、わたしに何かをしてもらうことを期待してやってくれているのではない」
と思ったことがあります。仕事の上司などが、そうです。
「直接恩返しをすることはできそうにないけど、受けた恩は、誰か他の人に渡していこう」
と、思うのです。

恩を渡していくこと、恩送りとも言います。

人はひとりで生きていないこと、そしてみんなつながって生きていることを
感じられるときでもあります。

そして優しさは、ぐるぐるとめぐっていくのです。

いろいろなつながりの中で生きていることに、ありがとうございます。


(今日の、その瞬間だけの空の色。毎日見ても、同じ色の空はありません)

子どもの頃、なりたかったものは何ですか?

2015.07.09 Thursday


(8歳のわたし。バレエの発表会の前。
この頃から右肩が上に上がりがちでした。あらあら(笑)。)

子どもの頃、何になりたかったですか?

わたしは。。。

「ない」のです。

その質問をされるたびに、はてと困りはてていました。
周りの子が答える保母さんや看護師さんには全く興味を覚えず、
しいて言えば、母が作るパウンドケーキやクッキーが好きだったため、
「こんなものをちょこっと焼いて、お店の隅っこにおいてほしいなあ」と
思うくらいです。ケーキ屋さん、お菓子屋さんのような本格的なものではありません。

なんでみんな、答えられるのかしら?

大人になって、わたしような人が結構いることを知りました。
そして、子供のわたしの周りには、わたしがなりたかったものがなかったんだろう、と
思うようになりました。
知らなければ、答えられません(笑)。

今の私がやりたいことは、自分を表現して生きることです。
太極道家として、表現しながら生きること、です。
その中の大きな部分として中国武術をすること、教えることも、入っています。

でも、すぐにここには行きつきませんでした。
自分でクラスを開く、教える、ということには、結構ハードルがありました。
こんなことやっちゃったらどうなっちゃうんだろう。。。と、勝手に妄想の世界で、
人の反応を気にしたり、評価を気にしたり。成功せねばならぬ、と力んでいたのかもしれません。
昔のクセで(笑)。何をもって、「成功」というのか、と考えると、今となっては笑い話ですが、
そのときは真剣です。

そんなときに聞いた二つの言葉があります。
「誰もやっていないオリジナルなことをしたいという思いがある人は、
最初の一歩をなかなか踏み出せないんですよ。」
武術のように伝統があるものをやっていて、それまでは組織に属してやっていたところから、
独立してオリジナルなものを作っていくことは、重かったですし、躊躇や遠慮もたくさんありました。

もうひとつは、遠慮と躊躇でホームページをなかなか公開できなかったときに、
「大した自分は大したことをやらないと、と思っているでしょ。それは傲慢なんだよ。
大したことないわたしが、こんなことをやっているんです、で、いいんだよ。」
と言われたことです。

そして、ホームページやブログで発信して、ビデオも公開して、クラスも開催して、
とやるようになって、今は、自分を自由に表現できることが、楽しいです。
その中で誰かが何かを感じてくれたり、きっかけをつかんでくれたりして、
その人の人生が動いていくこともあり、それはわたしにとっては一番うれしいことです。
人はみんな、自分に必要なものを受け取って、つかんで、生きていくと思っているからです。
わたしが好きに自分を表現することは、ほかの人が自分を自由に表現することにつながっていく、
と思っています。

これからも、太極道家として生きていきたいです。
こんな言葉や感覚は、10歳のわたしは知りませんでした。
あんまり先のことを考えるより、やっぱり目の前のことに取り組む、という
ことなのかもしれませんね。


(これも7〜8歳。ちょっと足がセクシー?)


(育ったら、こんな風になりました。でも、まだまだ成長中です。)
 

「やってみよう」を大切に

2015.07.08 Wednesday



先日、フェイスブックへの友人の投稿を見て、思い出したことがあります。

「やってみよう」を大切にすることです。
できそう、とか、条件が合っているから、ではなく、とにかくやってみようと思ったことを
やってみることです。

学生の頃、イギリスの大学院から帰国したとき、最初の就職にはだいぶ苦労しました。
不景気だったからでもありますし、わたしがすでに既卒だったこともあります。

それでも、やってみたい仕事はありました。
でも、募集はしていません。そこで人事部長あてに「わたしはこんな人で、
こんな仕事をしたくて、御社で働きたいです」というお手紙を書いてみました。
行きたい先は2つあったため、2通。
しばらくすると。。。部長さんたちから、すごく丁寧なお返事が送られてきました。
1通は手書きで。もう1通は、「字が上手ではないので、パソコンで申し訳ない」という言葉とともに
パソコンで打ったもの。そこに書かれているものは、「あいにく現在は募集しておりません」のような
通り一遍の文面ではなく、わたしのお手紙への、きちんとしたお返事でした。

結果的には、いろいろな理由でどちらもご縁はなく、そこで働くことはなかったのですが、
どこの馬の骨ともわからないわたしからの、突然のお手紙に対してとってくださった対応は、
今のわたしにすごく大きな影響を与えてくれています。
忙しいに違いないのに、ちゃんとわたしに向き合ってくださったこと、
わたしの思いに対して「そういう風に思う人には、ぜひ頑張ってほしい」と励ましてくださったこと、
とても大切な暖かい出来事です。
同時に、わたしはこの方たちと同じことができているのだろうか、と思うこともあります。
この問いは、一生続くのかもしれません。

さて、そんなわたしの最初の就職は、銀行での翻訳業務です。
「金融機関で働いたことのない君には無理だ」と笑う年上の友達の言葉にも耳を貸さず応募したのですが、
わたしの気持ちは、「行ける気がするから、やってみる」(笑)。当然、何の根拠もありません。
後でわかったのですが、本当は職務経験のない人は、書類選考で落とされていたそうです。
でも、ちょっとしたラッキーで書類選考をパスし、筆記試験と面接を経て、採用していただきました。
合格を知ると、冒頭の友人は、唖然として「君って、すごいんだね。。。」
(ちょっとしたラッキーについて知りたい人は、個別に聞いてください。ちょっと面白い話です。)

何かをやりたいと思ったときに、参加条件が設定されている場合があります。
明確な条件がなくても、暗黙の了解とやらで「今更わたしなんて無理。。。」
と思ってしまうこともあるかもしれません。
わたしも、それでしょげることもあります。
でも、そんなときにこの過去の経験を思いだすのです。
やりたいと思ったら、やってみればいいんだ、と。

今でもそうです。
わたしは子供の頃から運動神経が良かったわけでもありませんし、かけっこは遅いです。
カンフーを始めた年齢も遅いです。今からでもやっていけるんだろうか、と悩んだこともありました。
でもそんな悩みよりも、とにかくやってみようという思いを大切にしようとしています。
それがあるなら、行動し続けてみよう、と。

わたしが2010年に中国の世界武術大会の太極拳部門で金メダルを取ったとき、
子供のころから知っている友人が、「わたし、すごく励まされたの。わたしもまだまだ、これから
やれるんだって思った」と言ってくれました。
そんな風に言ってもらえて、すごく、すごくうれしかったのです。

体は、7年で細胞すべてが入れ替わる、と言います。
わたしがカンフーをはじめてから7年くらい、今の武当拳を始めてから6年くらいです。
もうちょっとで、全部入れ替わります。それは感覚として、なんとなくわかります。
すごく弱くで芯がなかった体が、そして自分が何をしたいかわからなかった心が、
ちゃんと自分軸でしっかり立てるようになってきていると思うのです。
体つきも、だいぶ変わりました。やわらかい筋肉がちゃんとついています。
側彎のある背骨については、あきらめていた部分が多いのですが、最近は、そんなことないな、と思います。
側彎からの影響で、左右の腰の筋肉の固さが違っていたのですが、その差もだいぶ小さくなりました。
何かの理由をつけてあきらめたりせずに、やろうとすること、そしてやり続けることで、
現実は、ドラマよりもドラマチックな展開が広がったりします。

だから、生きていくことは、楽しいのです。
年を取ればとるほど、ますます楽しいです。


(こんなことをしていますが、中国の武当山にいるカンフーの先生です。
3年くらい前、彼がまだ生徒だったときから知っていて、ひとりでも
きちんと練習してきたことも、知っています。最近「時間がたつにつれて、
できない、と思うことがなくなった」というような文章を書いてました。
やり続けてきた人ならではの、言葉だと感じます。)
 


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