触れることは、つながりを思い出すこと

2016.03.29 Tuesday



子供の頃の、大切な思い出があります。

「お腹が痛い」というわたしに、母が手をお腹の上に置いてくれたことです。
痛みはスッとひいて、いつの間にか寝てしまいました。

どんな感覚なのかは言葉にできません。
人の手の力を感じた経験だと思います。

太極拳では、”感覚”を大切にします。
自分の体や呼吸を丁寧に観察するのも、感覚です。
足の裏から根をしっかりはり、天に向かって伸びるイメージも、感覚です。
天地の間に人が立ち、調和を図るのも、感覚です。

わたしは今、特に、足の裏の感覚を大切にしています。
足は、狭い靴に押し込められて(守られて、とも言えます)、窮屈になっています。
お稽古でも、最初に足裏を丁寧に伸ばし、ほぐし、柔かいまま、べったりと大地に足をつける
ことを心がけてもらいます。最初から最後まで、です。

足裏が緊張すると、体のバランスを取って立つことが難しくなります。
ぶにゃぶにゃな水袋と、ゴツゴツした石のふたつを地面に置いたとき、
どちらの方が安定するか、考えてみると、わかりやすいかもしれません。

人間は、成人の場合6割が水でできています。
それをうまくイメージすると、ぶにゃぶにゃをうまく活用できるかもしれません。

安定すれば、安心できる、というのは、あると思います。
でも、痛いお腹の上に置いてもらった手のことを考えると、
それだけではないような気がします。

触れることで、つながりを思い出すのではないか、と思うのです。
もともとは一つであることを。
人と同じように、地球の6割も水であることも、人と地球は、もともとは同じものなのだ、
と感じます。

個体として分かれている人間は、触れることでつながりを思い出し、
人と自然として分かれて見えていても、足裏が大地に柔かく触れることで、
大地とのつながりを思い出すような気がします。
透明に見える空気は、何もないわけではなく、何かがみっちり詰まっている空間で、
腕が触れることでつながり、それは天にもつながっていくような気がします。

未知のものや、わけのわからないものを怖い、と思うのは普通だと思います。
個体として分かれていると感じているとき、天や地と別ものだと感じているときは、
恐いものも、それがもともとは一つであることを思い出すと、安心できるのかもしれないと
思うのです。
同じであることを思い出すと、争いも起きないでしょう。
自分の生きている世界、見ている世界は、自分の鏡であるというのも、同じことです。

太極拳の”太極”とは、すべての源のことを言います。
陰陽に分かれる前の状態とも言えますし、すでにそれを含んでいるとも言えます。
わたしなりのイメージですが、波の立たない静かな湖面があって、
でもその中では、情熱的な生命活動が、いきいきとなされているような感じです。

太極の心を持って生きるのも、つながりを思い出すところから始まるような気がします。

つながりを思い出すのは、柔らかく触れることから、です。
柔かい足で歩くと、歩くたびに安心することを、たくさんの人が感じられると
いいな、と思っています。


 

わたしのもうひとつの名前、静慧

2016.03.24 Thursday


(田理阳父が書いてくださった、わたしの道号)

わたしには「まゆみ」という両親がつけてくれた名前のほかに、
静慧(Jing hui)という道号があります。

道号とは、道教の修行者の名前です。
わたしがお稽古している武当功夫の背景には、道教の哲学があります。

名前をいただいたのは2011年、武当山で2か月間お稽古していたときです。
当時の先生だった武当玄武派第十五第伝承人、田理阳父からいただきました。

きっかけは、当時、東京で習っていた先生です。
1か月が経過したころ「道号をもらうようにお願いしなさい」と言われたのです。

わたしの心は「。。。。。」

恐れ多くてとんでもないですし、怖くてお願いなんてできません。
父は、とても心が広くて優しい方ですが、先生なので怖いのです)。

道号という名前をいただくことは、その道を生きると決めることだと
思ったのです。その道がどんな道なのかは全くわかってはいませんでしたが、
とにかく軽くお願いできることではありませんでした。

道号をいただくといっても、出家するわけではありません。
誰かに監視されることも、具体的な規則にしばられることもありません。
自分が決めるだけです。
だからこそ、簡単なことではありませんでした。

您能给我道号吗?」(先生、わたしに道号をつけていただけますか?)
という言葉だけ、中国人の友人に書いてもらい、
そのメモを持ったまま1か月が過ぎました。
そして帰国する1週間前、「お願いしよう」と思うタイミングがきました。

自分なりにつたない言葉で感謝を伝えながら、メモを見せてみたところ、
父はすぐに「考える」というしぐさをしてくださいました。

それから2日後、いただいたのが「静慧(Jing hui)」という名前です。
穏やかに落ちついていると智慧が出てくる、という意味で、
わたしの中にこの2つの要素を見たから、と言ってくださいました。
「普通は外国人にはつけないのだけど、これも縁だから。
 次に来るときは、この名前で来るんだよ」。

いろいろなことがあって、その後は田理阳父の弟子の明月
(武当玄武派第十六代伝承人)に習うことになり、今に至ります。
直接習うことがなくなっても、
田理阳父への感謝と尊敬の気持ちは、変わっていません。

「静」という文字を、わたしは特別、大切にしています。

2012年にお稽古に行った後、明月匠からいただいたメールの最後に
次のような文章がありました。
「武当功夫在练习的过程中第一心要静去悟。」
(武当功夫の練習の過程では、心を静めることが大切で、
 それから悟り(目覚め)に向かう)。

お稽古中も、生活の中でも、それはわたしの道の指針にもなっています。

お願いしなさいとアドバイスしてくださる先生がいなかったら、
つけてくださる先生がいなかったら、そしてこの道を先に進んでいる先生たちが
いなかったら、今のわたしはここにはいません。
先生という存在は、わたしにとって、とても大切な存在です。

それが、わたしが今、先生でいたいと思うきっかけにもなっています。

あと1か月で、武当山です。
また行けることを、心から嬉しく思います。

(2011年春、帰国前の最終日に。むかって私の右隣りが田理阳父。
同じ列、右から2番目が今の先生の明月父。)

丁寧に生きる犬と、そうではない犬

2016.03.12 Saturday


(中国、武当山でお散歩中に見かけた犬。前を行く犬が、後ろの
白い犬を気づかっているのか、何度も振り返って仲良く歩いていました)

丁寧に生きることはどういうことかを、
犬に例えて話してくださった方がいらっしゃいます。

ここに一匹、丁寧に生きている白い子犬がいます。
ご機嫌で、お散歩にお出かけします。
途中、横を車がとおって、泥が子犬にはねてしましました。
子犬はちょっとびっくりしますが、プルプルっと体を振って泥を落として、
またご機嫌でお散歩を続けています。

ここには、丁寧ではない白い子犬がいます。
注意深く無いので、溝にはまって落ちて泥だらけになります。
途中、横を車がとおって、泥が子犬にはねてしまいました。
子犬はイライラします。
そして水たまりにうつった泥だらけの自分の姿を見て、
さらにイライラします。

丁寧に生きていれば、溝にはまって落ちる確率は低くなります。
それでも、車の泥がはねるみたいに、悪いことや嫌なことが、
まったく起きないわけではないのです。
それでも、対応の仕方や回復の速さが違います。
丁寧に生きている子犬は、周りでいろんなことが起きても、
ご機嫌で自分の大好きなお散歩を楽しむことができます。

わたしは丁寧に生きることを心がけているつもりですが、
雑になってしまうときもあります。それに気づいたときは、大きく反省して、
また、丁寧に生きることを心がけるだけです。

太極拳の練習と同じです。同じことを、何度も何度も繰り返すだけです。

丁寧に生きるこをと思い出す方法は、いくつもあります。
ごはんを最低30回噛んで、丁寧に味わって食べることや、
丁寧に洋服を着てみること、
呼吸に意識を向けることもそうです。
きちんとお掃除すること、
門を閉めるときにバタン!としないことや、
物を置くときに投げたりしないことも、そうです。
五感の中では目からの情報が圧倒的に多く、8割以上を占めるそうですので、
外を歩くときに、音に耳を澄ませたり、香りを感じてみることも、
丁寧に生きるきっかけになります。

白い子犬のように、自分なりのイメージを使う方法もあります。

今日は、お稽古をするときに、丁寧に生きる白い子犬のつもりでやってみました。
今日は基本功、基本練習が中心で、同じ動作の繰り返しが多かったのですが、
一瞬一瞬の足を出すとき、動くとき、すべてが新しい経験です。
バランスが少し崩れそうになっても、それを楽しみながらまたバランスを取ります。
次は、次は、と、どんどん続いていきます。

そこで、ここしばらく、「あそこにたどり着くまで続けよう」とか、
「これだけやらないと」と、自分にしばりをかけてお稽古していたことに気づきました。

丁寧に生きる白い子犬のお稽古は、大きなワクワクではなく、
小さな小さなワクワクが静かにずっと続いていく感じです。
そのうちに「これで今のお散歩(お稽古)は、満足」と、終わりがきます。
2時間やったから、という終わり方ではありません。
そして、あくまでも「今は満足」です。子犬は1日に何回でもお散歩したいのですものね。

さて、中国の武当山にも犬はいますが、つながれていないため、
野良犬なのか、飼い犬なのか、わかりません。
みんな、うろうろと野放しです。
大きな犬もいてちょっとおびえますが、顔を見るとみんな優しくてかわいいのですよ。
平和だということなのかしらね。


 

才能:人は、自分ができることしかやりたいと思わない

2016.02.26 Friday



「人は、自分ができることしかやりたいと思わない」と聞いたことがあります。

良い言葉ですね。つまり、やりたいと願ったことは、必ずかなう、ということです。
夢は必ずかなう、とも言えます。

ただし、ここにはちょっと落とし穴があります。
「やりたい」ことが、純粋に自分の本能からやりたいことなのか、
それとも人との競争や見栄、「ねばならない」という強迫観念からきているのか、
それは大きな違いになります。

自分ができることしかやりたいと思わない、という場合の、「やりたい」ことは、
純粋な本能からの渇望だと思います。
何に対してそう思うかは、人それぞれ違います。
それが個性であり、才能とも呼ぶ、と思っています。

人がそれぞれ違うとあらためて思うと、すごくいいな、と思うのです。
同じだったら、競争して優劣で違いを出すしかないかもしれないところを、
得意なことが違っていれば、競争する必要はないからです。

太極拳の教室には、いろんな生徒さんがいらっしゃいます。
「何かを始めたいと思いました」という方、
「運動したいと思った」という方、
太極拳を習っていて、ちょっぴり行き詰っているか、新しいことを習いたい方、など。

頻度もそれぞれです。
ほぼ毎週の方、月1回くらいの方、数か月に1回くらいの方。

それぞれ、自分のペースを大切にしてほしいと思っています。

太極拳は、習得していく技であり、磨いていく匠のような業でもあります。
そのため、優劣があります。それは、体や心の成熟度、そしてやり方も
関わってくるため、必ずしも練習時間に比例して上達するものとは言えないと思っていますが、
それでも、時間をかけずに上達することはありません。
つまりざっくり言えば、お稽古時間が長い人は、うまくなります。

それでも、技や業の優劣は、人の優劣とは全く関係ないのです。
お稽古にかける時間や情熱が大きくても小さくても、それが自分の本能に沿ったものであれば、
それで十分だと思うのです。
誰にとっても太極拳が人生のすべてであることはないから、当たり前です。

ここで、情熱が小さいのに、大きい人と比較してしまうと、
大変なことになりかねません。

そこを間違わなければ、必ず自分がやりたいと思ったことはできる、と思っています。

本能でやりたいと思っているのか、そうでないのかを判別するのは、簡単ではないかもしれません。
わたしの経験でいうと、それは「理屈ではなく、やりたい」と思うことが、本能のような気がします。

やりたいときは、理由を考える間もなくやっていたりします。
逆に、やりたいくないときには、たくさん理由を並べたりします。

あとは、楽しいかどうか、です。
大変だったり、つらいと思うことがあったとしても、楽しいと思えるかどうか、です。

太極拳をはじめたとき、わたしには大きな目標も目的もなく、
「これは合っているような気がする」というカンがあるだけでした。
その頃は、今よりも競争の中に身を置く割合も大きく、自分の平和度も今よりも低く、
いわゆる「流れに乗って生きる」という観点から見れば、遠い人生だったような気がしますが、
それでも直感は働くのだと思います。

自覚があったわけではなく、潜在意識で「これがもっと楽で幸せな道につながっていく」と
察知したのだろうと思っています。

そこには、太極拳の套路(型)の果たす役割が、すごく大きいように思います。
套路は、長く引き継がれてきており、先人の智慧が詰まっています。
それをひたすらそのまま練習することで、自分が行きたいところ、本来行くべきところに
到達できるということを、最初からずっと信じていたと思います。(無自覚なうちから、です)。
そして、わたしより先にそれを信じて続けてきた方々の在り方にも、
”これ(何がこれかは、わかっていないとしても)”を見てきたと思いますし、
背景にある哲学など(わたしの場合は、老子の教えや道教のものの考え方)などにも、
”これ”を見ていたと思います。

わたしにとっては、太極拳が人生のすべてです。
そんな人もいて、違う人もいて、
みんな、自分の”これ”を、育てていけたらよいですよね。


(中国、武当山。三つ子のような、三つの峰)
 

国境を超える:みんな、おーんなじ

2016.02.10 Wednesday















2月8日は春節でした。旧暦の1月1日、中国の新年です。
そして今年は、新月でした。

特別に大切な日、わたしの”立つこと”の師匠が新月に合わせて開催されている
お祈りの舞を観に行きました。

新月、春節、さらには先月亡くなったデヴィット・ボウイへのオマージュをこめ、
先生が「心のままに」とおっしゃって選んだ曲も、日本、中国、デヴィット・ボウイと、
なかなか型破りでした。

国が違うものがどんどん出てくるのを、空っぽになってぼーーーっと見ていたら。。。
国という枠がするっと外れて、「みんなおんなじ」という思いが出てきました。

わたしはずっと、日本人であることを意識して生きてきたように思います。

大学を卒業して進学するとき、場所はイギリスを選びました。
専攻が英文学だったため、「英語で生活して自分の言葉にして、それで学びたい」という理由も
ありましたが、もうひとつは日本で生きていくことに息苦しさを感じていたこともあります。

イギリスでの生活は、思うままに正直に生きられた時間で、文学からも、
生きていくことについて、たくさんのことを学びました。
それでも最後に気付いたのは、「ここにはわたしのルーツがない」ことでした。

海外に出て、はじめて日本と向き合い始めることになります。
自分の国だと、愛着も感じるようになりました。

ただこのところ、もしかしたら「日本」の枠にとらわれすぎているのでは?と思うようになりました。

海外の人と交流していると、「日本(人)は。。。」という表現に出会うことも少なくありません。
否定的なものもあります。
普段は仲の良い友人の言葉だったりすると特に、心がチクッとするのを感じていました。

最近、中国の先生のひとりが、微信(中国でよく使われているSNS)に、秦の皇帝が日本人について
言った言葉を載せているのを読みました。ほめた言葉ではなく、なぜこれを載せたんだろうと思いながら、
?という顔のマークだけをコメントしてみました。

先生はすぐに「君のことじゃないよ!」と返信してきて、投稿はすぐに削除されました。
「ごめんね」と。

先生は、わたしが日本人であることは知っています。
でも、こういうとき、日本とわたしとは結びついていないのだろうな、と思ったのです。
逆に、わたしが自分を「日本」の枠に入れ込みすぎているのかしら、と、
疑問に感じるようになりました。

それから約1か月たって迎えた春節、新月の日に、そのモヤモヤが、すっと引いたような気がしました。
わたしの国籍は日本だし、日本語が一番得意ではありますが、それだけのことで、
本当は、みんな同じなんだと思ったのです。

終わった後の感想として、このことを先生に伝えたら、
「それはデヴィット・ボウイのメッセージでもあるんだよ。」と。


(武当山、太子洞。左の門の中は洞窟です。)

もうひとつ、思い出したことがあります。
武当山に行くと会いに行く、太子洞という洞窟に住む仙人と呼ばれるおじいちゃんがいます。
昨年5月に訪ねたとき、先客がわたしを見て「韓国人?」と聞いてきました。
おじいちゃんは「日本人だよ」と。
「似てるよね」という先客に、わたしが「似てるけど違うよ。」と言うと、
おじいちゃんがわたしの手を取って「指が1本、2本、3本、4本、5本、みーんな、おーんなじ」。
その場にいた人みんなが笑顔で、「その通り」。

(贾(Jia)おじいちゃん)

そうそう、みーんな、おーんなじ、なのです。

物理的にある国境や国籍を超えて、本当は、みんな、おんなじ。

英文学に「自分のルーツがない」と思ったときは、浅く見ていただけで、
本当は、みんな同じルーツ(源)なのだと思うのです。

浅く見ていたときも、枠に自分をはめ込んでいたときのわたしも、それでよし。
でも、重いお荷物をひとつ下ろして、新しい年が始まります。

(武当山の朝)


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