見えるものに騙されない

2016.02.03 Wednesday


(崖の上に立つ南岩宮。中国 湖北省 武当山)

わたしがいつもお稽古に通っている中国、武当山の南岩には、
南岩宮という道教のお寺があります。
(大きなお寺を”宮”、小さなお寺を”観”と呼んでいるようです)。

ここには、龙头香(龍頭香)があります。
金頂(武当山の頂上)に向かって伸びる龍の頭の先に香台があります。




この龍の頭の大きさは、2.9m x 0.3mです。
かつて道士たちは、ここを歩いてお香をあげていましたが、足を滑らせて落ちて
亡くなる方も多かったそうです。そのため現在ではこの上を歩くことは
禁止され、香台も手前に設けられています。

下は断崖絶壁、落ちたら助かる可能性はかなり低そうです。


(手前から見たところ。先に見えるのが、昔の香台です)

ここに来るといつも思うことがあるのです。
0.3mとは、30cmです。人間が歩く幅としては充分です。
平らではなくて、装飾の彫り物がしてあるところが難易度を上げていますが、
それでも、でこぼこではありません。

平地にこれが置かれていたら、ほとんどの人が普通に歩いて香台までたどり着けるのでは
ないでしょうか。

話は変わりますが、2年ほど前、高いところに上って歩く経験をしたことがあります。

アスレチックフィールドのように安全に準備された場所で、命綱もつけていました。
それでもやはり、高いところに登ると足がすくみます。
「いや、できるはず。筋肉あるはずだし、鍛えているはずだし。」
と思ったことで、さらにわたしの体は硬く、緊張したのだと思います。
1回目は、歩いて目的地に到達することができませんでした。

2回目は、別の場所で、でもやはり高いところに登ることになりました。
始める前、リーダーが、「見えているものは、だますためにある。
見えるものにとらわれるな。」とアドバイスしてくれたのです。
それまで思っても見なかった、衝撃的な言葉でした。

実際に登ったとき、目をつぶっていたわけではないのですが、
目で見るよりも、足裏から伝わってくる感覚を頼りに、一歩一歩登っていったことを
覚えています。
そして、1回目とは違って、「できるかどうかわからないけど、やってみよう」
と思って臨んだことも覚えています。
今度は最後まで到達できました。

人は経験することで成長する、と思っています。
でも、経験をもとに頭で考えて、現実に余計な妄想を足してしまうことも多い気がします。
最初の龙头香の場合、崖を見たときに、”落ちる”を想像してしまうのは無理ないのですが、
でも事実を見れば、歩く幅は30cmです。


もうひとつの落とし穴は、経験からくる”いらない”自信です。
「こんな練習もあんな練習もやったから、できるはず」と、
経験をもとに頭で考えた途端、失敗するのは、わたしのひとつのパターンです。

経験を積んでいくことは、大切です。
でもそれは、頭で思い出して妄想したり、自信のもとにしたりするものではないと思うのです。
体が経験したことは体が覚えているので、それで十分で、
体を信頼すればよいだけなのだと思います。

経験は積むけれども、一瞬一瞬をはじめてのように生きることを、
大切にしたいと思っています。
立つことも、歩くことも、食べることも、太極拳をすることも。

余談ですが、2回目に目的地に到達した後、最後は離れたところにある空中ブランコを
ジャンプしてつかむ、というステップが待っていました。
目的地に到達できて意気揚揚としたわたしは「絶対つかめる!」と思ってしまったのです。
結果は...みごとに目の前からブランコが消えていきました。
スーッと、スローモーションのように、今でも映像が浮かんできます。
その様子は、まるでコントです(笑)。
また自信を持っちゃったりしてばかだなぁ、と、笑いながら思い出すことができるので、
無残に失敗するのも、良い経験ですね。


 

よい年でした

2015.12.31 Thursday



今年は、よい年でした。

2015年をひとことで言うと?と聞かれたときに出てきたのが、この言葉です。
今年は、頑張りました。

頑張ることを良しとしないわたしですが、それは嫌なのに無理したり、
誰かとの競争に勝つためにやる場合のことです。
(重症の場合は、自分が嫌なのにやっていることすらも気づきません。
昔のわたしは、そうでした)。

素直な心で努力をすること、頑張ることは、やはり大事なことだと思います。

さて、何を頑張ったかというと、体と心のふたつです。
”体と心が目覚める太極拳”というタイトルをつけたのは、太極拳を通じて、
体と心が目覚めていく人を増やしたいからなのですが、
わたし自身も現在進行形なのです。

今年たてた目標は、
・ちゃんと立って、歩けるようになりたい。
・日々を穏やかに過ごしたい。
でした。

今年は本当に、丁寧に、ゆっくり、たくさん歩く練習をしました。
「歩く」ことはあまりに日常的で、習慣で無意識に歩いています。
それをこまかく、どこを動かしているか、無駄な緊張をなくして、というように、
一つひとつ意識しながら歩き続けました。

体のことで言うと、足は1〜1.5センチ大きくなり、立派に成長しましたし、
体の左右のバランスもずっと均等になりました。
筋トレはしていませんが、柔かい筋肉がしっかりついています。
体の軸も、ミリ単位に細くなり、動いてもぶれにくい体になりました。
(足の成長については、「足のサイズが1cm以上大きくなりました」)

左右バランスについては、実はすごくコンプレックスがあったのです。
子どもの頃からの側弯症関係で、左右の肩の高さは差がありましたし、
ウェストのくびれは、右はあるけど左はない、という状態でした。
太極拳を始めて、日々ストレッチをすることで、ひきつるような痛みは少なく
なりましたが、それでもまだかなり、差があったのです。
それが、驚くほど整ってきました。

「背中は他者との関係性なの。心がまっすぐになれば、背中もまっすぐになるから」。

わたしが言われたこの言葉を、信じる、信じない、は人それぞれだと思います。
ただわたしの場合は、体のバランスが整ってくることと、心のバランスが整ってくることは、
お互いに関係していて、片方が進むともう片方を助け、ちょっとずつ階段を上がっていった
ような気がします。

少し前、昨年あたりは、自分を表現していく、ということを目指していたのですが、
今年はちょっと違いました。よりエゴを消していくというか、自分が透明な存在になって、
入ってくるものを感じる、というような感じでした。

立って歩く練習は、その変化をすごく感じる機会になりました。
最初は自分だけの力で立っていたのですが、
だんだん、地と天からの力に助けてもらって立つようになりました。
今になってみると、ひとりでやろうとしていたこと、できると思っていたことが、
ちょっとばかばかしくて、笑えます。

力を借りても、透明なわたしでも、わたしがいなくなるわけではありません。
以前は、エゴが消えると自分がいなくなるような気がして、怖かったのだと思うのです。

恐かったことは、ほかにもあります。
自分でも自覚が薄かったのですが、他人を敵のように感じていたところもあります。
だから競争も起きますし、起きたことを他人のせいにしたこともありました。
でも敵という妄想を作っているのは自分だ、と腑に落ちたら、当然のごとく、
敵はいなくなりました。最初からいないのですものね(笑)。

2年前くらいに、そのときに思っていることを正直に言う場面で、
「わたしは愛しているとみんなに伝えるために、生まれてきた」と言ったことがあります。
母のおなかの中は満喫したから、早く生まれたかったのか、予定日よりも早く生まれました。
生まれてきたことがうれしくて、という記憶がどこかにあります。

思春期、そして大人になるにつれて、勝手に敵を妄想で作り上げて、みんなを愛しているという
思いにも蓋をしていたような気がします。

いろんな段階を経て、起きていることの原因は自分にあると、素直に思うようになりました。
そして、目の前に現れる気になることは、自分の心を映す鏡であることにも気づきました。

だからと言って、嫌だと思うことがないわけではありません。
あるのですよ。
以前は「嫌だと思っちゃいけない」と思っていたよぅな気がするのです。無理をかけていまいました。
今は、嫌なことは嫌だとちゃんと認めるようにしています。そうすると、すんなりそこを通り抜ける
ことができたりするのです。

穏やかで平和な人がいると、10万人が救われる、と聞いたことがあります。
120歳まで生きる予定なので、まだ人生、折り返していません。
まだまだなところばかりです。穏やかさを目指して、
これからも初心で、まっすぐ努力していこうと思います。

そして、生徒さんをはじめとして、穏やかな人をひとりでも多く育てる助けを
しようと思っています。体と心が目覚めていくことは、愛を広げていくことだと思います。

今年も大変お世話になりました。
年越しのとき、そして来年が、誰にとっても穏やかで平和なものでありますように。


 

武当山日記:生まれて初めて見るような新鮮さ

2015.10.18 Sunday


(武当山の朝)

今回、武当山に行ってわかった一番大きな感覚が、「新鮮」です。

站功をやって、終わって目を開けた瞬間、見えた景色がすごく新鮮にうつりました。
何度も見ているはずなのに、生まれて初めて見るような感じなのです。

きれいとか、美しいとか、そんな感想の前に、
ただひたすら「うわーっ」という驚きがやってきます。

景色が自分の体の中に入っている感覚です。

「生まれてはじめてみる時は、こんな感覚なのかな」と思いました。

生まれたての赤ちゃんは、人を選んで笑ったりしません。
でもいつの頃からか、「これは嫌」という感情が生まれて、誰にでも同じように
笑いかけなくなります。
「自分の純粋さを失ったときを考えてみるとよい」というアドバイスをもらったのは、
2年くらい前のことです。

ずっと考えてもわからなかったそのことが、武当山に行く2週間くらい前に
「あの頃からだ」とわかるようになりました。

9歳か10歳くらいの頃、小学校では優等生だったわたしは、いつも席を後ろにされていました。
隣は、お勉強ができないお友達。でも、わたしは一番前で授業を聞きたかったのです。
もっとたくさん知りたかったからです。
席替えがあっても変わらない状況に、「先生、わたし前の席に行きたい」と訴えたのですが、
「できる子は、できない子の面倒を見るんだよ」というもっともなお答えが返ってくるだけでした。
面倒を見るのは嫌ではなかったのですが、でも、それをやってもまだ余力があったのです。
それをわかってもらえなかったことが、嫌でした。

こんな状況は、大人になっても繰り返されました。
通っていた太極拳のクラスでは「君は目立つから一番後ろに下がれ」と言われたり。
ひたすら我慢です。でも、我慢するという無理を自分にかけているので、
時間がたつと、爆発しました。

1年くらい前、この頃のことを振り返って、「レベル別、能力別にして課題を与えれば、
みんな自分のことに忙しくて、不満とか言っている暇はなくなるのに」と書いた記憶があります。
インターナショナルスクールでは、先生によってはそういう教え方をする、と聞いたからです。
この頃は、まだ周りの環境に文句を言っていました。

自分では気づいていませんでしたが、その頃、わたしは自分の価値をまったく認めることが
できていませんでした。
「もっと自分を大切にしないと」とアドバイスしてくださった方もたくさんいるのですが、
どうやって大切にすればいいのか、どこが大切にしていないのか、まったく理解できなかったのです。

自分の価値を認めていないから、周りの評価が得られないと、自分が蔑ろにされた
ような気分になってしまうのです。そして周りのせいにします。
そんなことが、繰り返し起きていたような気がします。

自分の価値を自分で認めていれば、自分を尊重していれば、
周りがどんな状況だったとしても、周りのせいにする必要はなかったのにと、今は思うのです。

純粋さを失った頃を思い出したら、同時に、失った純粋さを取り戻し始めたような気がします。

赤ちゃんが初めて見るように、新鮮な気持ちで山を見られること。
その景色が、自分の体の中に入っていると感じること。
言葉で表現するのは難しいのですが、「この景色とわたしは同じ」と感じました。

そして、そんな感覚を持てた自分のことが、とても尊い存在で、
とても好きだと思えました。

自分の価値を認めなかったわたしは、たくさんの人に迷惑をかけてきたと思います。
傷つけてきたとも思います。
一番傷つけたのは、自分だとしても。

その分、これからはもっと、大切にしようと思います。
自分も、人も。

武当山に行くのは、お稽古のためでもありますが、
それは粛々としてやっていくことで、わたしにとっては日常の一部のようなものです。

それ以外にも、山のエネルギーのおかげで気づくことは、とてつもなく大きいのです。


 

「幸せに生きる」勇気

2015.10.14 Wednesday


(中国、武当山の朝)

昔、英文学を専攻する学生だった頃、文学を読んで、魂を震わせるような経験を何度かしました。
今は、立つこと、歩くこと、太極拳をすることを通して、魂が震えるのを感じます。

昔は文学で、今は体と心で、人生を学んでいます。

その中で、今回は「幸せ」について書いてみようと思います。

「幸せ」を表す英語の"happy"の最初の3文字"hap"は、
中世ではひとつの単語として存在していました。
"by chance" (=偶然)という意味です。"happen"(=偶然起きる)にも、
"hap"のもともとの意味が入っています。

「幸せとは、偶然のものなんだ」というのが、当時学生だったわたしの大きな気づきでした。

中世の詩人ジェフリー・チョーサーは、「カンタベリー物語」の中で「幸せ」について書いています。

幸せとは、家に帰ろうとしている酔っ払いのようなものだ。
酔っ払いは、家(=幸せ)があることは、わかっている。
でも、どうやってそこにたどり着いたらいいのかわからない。

というような文章だったと思います。

酔っぱらって溝に落ちたり、方向がわからなくなったりして、行こうとしても
たどり着けないのです。

でも「偶然」にも、実は原因と結果があります。
それが、自分ひとりで完結していないだけです。
日本の「はなさかじいさん」の場合、大判小判を埋める行動をした人(=原因)と、
掘り当てた人(=結果)は別というだけです。

このことがずっと、わたしの「幸せ」という認識に大きく影響を与えていたと思います。

では、今はどうでしょうか。

酔っ払いが目覚めたのか、
今は「幸せに生きる」と自分で決めるだけだと思っています。

人は、苦しいことや傷つくことで生きている実感を得たがる、というクセがあるようです。
楽ちんだと「やっている」感が得られず、つい無理をかけてしまう、というものです。

働き方でも、カンフーの練習でも、わたしにも思い当たることがたくさんあります。
お稽古でお腹を回して動いて。。。とやっていたら、先生に「もっと腰を楽にして」
と注意されたことがあります。ふっと楽にしたら、自分では”やっていない感”満載でしたが、
先生からは「そうそう!それ」と。
無駄に、無理をかけていたのです。

「幸せ」も、同じような気がします。
生きている充実感(?)を得ようとして、苦しいことや不幸を選んでいることがあります。
もちろん自分から不幸を選んでいるとは、その最中には気づいていません。
「チクチクゲーム(自分をチクチク攻撃するゲーム)」をやっているよ」と言われて、
わたしも愕然としたことがあります。

罪悪感も、後悔も、みんな「チクチクゲーム」です。
でも本当は、そんなことを感じる必要などないのです。
人間だから間違えることはあります。反省は必要ですが、それと自分を責めることは別のことです。

自分を責めることは、自分を愛していないことで、
それは他人から見ても痛々しいです。
その痛みに恐さと感じて、さらに攻撃してくる人も出かねません。
悪循環です。

至らぬわたしの乱暴な言動(=間違い)に、「ごめんなさい」を言うべき相手も
たくさんいますが、たぶん一番は、自分への「ごめんなさい」だと思います。
「傷つくことを選んで、ごめんなさい。」

そんな経験をした後に出てきた思いが、
「もういい。これからは幸せに生きることを選ぶ」でした。
偶然ではなく、自分からそれを選択することです。
今までと違う習慣をつけていくことにもなるため、勇気も必要です。
でもそれなら、誰にでもいつからでも可能です。自分が選ぶだけですから。

もうひとつ、今の「幸せ」は、学生の頃に理解していたものとは
ちょっと違うような気がしています。
体と心を通して学んだ今の「幸せ」については、また別の機会に書こうと
思いますが、それが他人との比較や人から見た「幸せ」ではないことだけは、
確かです。


 

「怖い」気持ちに理性で蓋をしないこと

2015.09.14 Monday


(今日の東京、丸ノ内)

二晩続けて、怖い夢を見ました。
あまりに怖くて、目覚めも憂鬱です。

どうしたらよいかわからず、わたしの人生の師匠に電話してみました。
「怖いのに昼間、大丈夫って思いすぎているのかも。
我慢しているとその分、夜にストレスがかかってくるから。」

そして、「今のこの状況では、怖いのは普通でしょ。」

台風とその被害、東京での早朝の地震、今日の阿蘇山の噴火、それに加えて
人身事故も多いような気がします。

それにつられて自分が不安になると、もっと加速させるような気もして、
「大丈夫、大丈夫だからね」と自分にも、地球にも言い聞かせていたと思います。

本当は怖いのに、です。

「大丈夫と思うことも大事だけど、でも怖いんだよね、と、それも認めないとね。」

つまり、我慢しすぎだったのかもしれません。

わたしはこんな風に、自分の気持ちに蓋をしてしまうことがあります。
理性で蓋をするのです。
たとえば、誰かに連絡してお返事がない場合、
近い人だと状況を知っているので、「今、忙しいからね」と、返事がない理由を
理性で言い訳して、本当の自分の気持ちに蓋をしてしまいます。
本当は、お返事がほしいのに、です。

その話を師匠に話したら、
「そういうときは、お返事がほしいの、ほしいのって、言ってみればいいのよ(笑)。」

ちいさな我慢も、たまると爆発します。
わたしがこれでご迷惑をおかけした人は、たくさんいるはずです(ごめんなさい)。

環境や状況が荒れ気味だったら、怖いのはふつうのことです。
でも、それに必要以上に持っていかれて、自分の軸まで崩れてしまわないように、
せめて自分の中では平和で穏やかな環境を保とう、と心がけます。それでも、怖いです。

怖い中にもうれしいことや幸せなことは起こります。それも事実です。
今朝は、聴覚障碍者の方への太極拳教室で、生徒さんがとても上手に、「呼吸で動きをリードする」
をやっていらして、「いいなあ、上手だなあ」と思って見ていました。とても幸せな時間でした。

わたしが太極拳をするとき、一番大事にしているのが、心を穏やかにすることです。
そして、自分のバランスをととのえて、自分と周りとの調和をとっていくことです。

それはきっと、ちょっとバランスを崩すとすぐに外の環境に自分の軸を持っていかれてしまうから
だと思うのです。自分の軸を、しなやかに強く保つための手段として、太極拳をする、ということを
選んでいるような気がします。

穏やかな人が一人いると、10万人が救われる、という話を聞いたことがあります。
音が振動で伝わっていくように、人の気も波動のように伝わっていくと感じます。
平和を願うなら、自然災害は止められないとしても、被害ができるだけ小さくすむように、と願うなら、
まずは自分が平和を保つようにしよう、と思っています。
だから、わたしにとって、太極拳をすることは、祈ることでもあると思っています。

外界で嵐が起きても、自分の心の中まで荒らすことはできません。
心が荒れるとしたら、それは自分が選んでいるだけです。
「怖くない、大丈夫」と我慢することも、実は心を荒らしている場合もあると、思います。

災害等で被害にあわれた方々に、お見舞いを申し上げます。
鎮まっていくことを、心から祈っています。
 


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