武当山で感じたこと:お腹を壊した体験

2017.09.25 Monday

(長年のお稽古友達と一緒に、形意拳の五行拳のお稽古)

 

武当山にお稽古に行ってから1週間目、お腹を壊して半日寝込みました。

 

実は2011年の春にも、同じような経験をしています。このときは、”人生最大の腹痛”で、3日間寝込みました。

 

そのときも、今回も、形意拳を習っていました。

 

形意拳は、動きも早く、力強い打撃もあるもので、武当山に伝わる武当拳(内家拳)では、太極拳、八卦掌と並び、伝えられています。

 

ゆっくり丸くやわらかく動く太極拳と、動きが早く直線に動く形意拳は、対照的に語られることもあります。ただし実際には、見た目が柔かい太極拳は内側がしっかりしており、見た目がカタく見える形意拳は内側が柔かい、と言われます。

 

打撃の連続だからこそ、力任せではなく、リラックスした状態でやることが大切なのです。

 

太極拳にいろいろな門派があるように、形意拳も、門派によって套路(型)は異なります。それでも、陰陽五行説の五行説(木火土金水)にちなんだ五行拳(5つ種類があります)と、それを組み合わせた12の動物の套路があることは、共通のようです。

 

五行説とは、古代中国で生まれ、宇宙に存在する万物は木火土金水という5つの要素からできており、それぞれお互いに影響を与え合うことによって天地万物が変化し、循環すると言われています。五行は次のように内臓にも対応しています。

 

木=肝

火=心

土=脾(脾臓ではなく、消化器系。わかりやすくとらえると、胃)

金=肺

水=腎

 

五行に対応していることから、内臓機能の促進作用もあると言われています。動きとしても、お腹をきゅっ、きゅっと、左右にひねり続けるため、内臓もそのたびにきゅっ、きゅっ、とひねられることになります。

 

今回の兆候は、「ずいぶんお通じが良いなあ」から始まりました。もともと、このあたりの悩みはない方なのですが、それにしてもずいぶん良い様子。そしてそのまま、止まらない状態に突入しました。

 

そして、前回と同じような兆候もありました。まず、ごはんが食べたくなくなります。食べ始めても、気持ち悪くて、受けつけないような状態になってきます。

 

そして、お稽古を続けることが辛くなります。ちょっとやっては休み、またちょっとやっては休み、そのたびに強い疲労を感じるのです。これ、わたしには珍しいことなのです。

 

お昼寝をしても疲労は取れず、お腹の具合も悪いままで、これではダメだと「お腹の調子が悪いから、午後はお休みします」と先生に伝えました。

 

これが形意拳と関係しているかどうかはわかりませんが、なんとなく、自分の中では関係ありそうな気がするのです。前回は3日間ダウンし、その間ほとんど何も食べませんでしたが、4日目にはものすごく元気になり、丸一日元気にお稽古できたのです。そのこともあって、今回も薬は飲みましたが、「休めばきっと元気になる」と思っていました。

 

その通り、今回は短い時間で回復し、翌日にはお稽古に復帰できました。

 

前回と今回では、症状の重さのほかに、大きく違ったことがありました。自分の受け止め方です。

 

前回は「とにかくお稽古をしっかりやるんだ」と思っていた時期で、お腹を壊してお稽古できなくなった自分を、とっても責めたのです。当時、日本で習っていた先生にも「報告したら、きっと怒られる」とビクビクしていました。当然そんなことはなく、「それは大変だね。刺激が強く、変化に体が耐えられなくなったんだろう。ゆっくり休むように」という言葉に、ほっとしたことを覚えています。

 

今になってみると、そんなに自分を責めたり、怒られると思うなんて、不思議です。その頃は、それだけ自分に厳しくて、”こうあらねばならない”が強く、できない自分を許せなかったのだと思います。

 

きつかっただろうな、と思います。自分がきついだけではなく、周りにも同じようなプレッシャーを与えていたのだろうと、思うのです。

 

それに比べると今回、「このお腹の調子では、練習するような状態ではない」と、躊躇なく休めたことは、わたしにとっては大きな変化でした。

 

人として、まっとうな選択ができるようになっただけのことですが、同じように、病気なのに「やらねばならない」と行動しているケースは、過去のわたしだけではないような気がします。

 

老子は、「道徳経」の第35章で、次のように書いています。

 

”(前略)音楽とおいしい食べ物には旅人も足を止めるものである。だが、もとより道が語りかける言葉は、淡々として味がない。目を凝らしても見ることができず、耳を澄ましても聞くことができないが、しかしその働きは尽き果てることがない”

(「老子」蜂谷邦夫訳注、岩波文庫)

 

人は、”過ぎる”ことをもって良しとする傾向があり、その欲望が普通であると思っているため、本来の在り方では物足りず、味気ないように感じる、ということです。

 

過去のわたしは、すごくこの傾向が強かったと思います。何か成果を出す自分でなければ価値がない、ぼーっとしていることに、役立たずのような罪悪感を感じていました。”やり過ぎる”ことを、充実感だと勘違いしていました。

 

本当は、存在していることだけで十分なのに、です。

 

武当拳を習う過程で、体を通して何度も繰りかえし学んできたことが、この”過ぎない”ことです。

 

その過程は、今の自分への信頼、生きる幸せ、人との関係性など、たくさんのものをもたらしてくれていると感じています。

 

そしてその”過ぎない”生き方が、わたしが太極拳を始めとする武当拳を通じて、伝えていきたいことでもあります。

もっと楽に生きてよいのですよ、存在するだけで十分なのだから。

 

冒頭で、形意拳と太極拳は対照的に言われる、と書きましたが、大切な部分は共通だと感じます。陰陽の理論を活かして動くこと、そして直線で力強く見える動きは、実は丸い動きから生まれていて、無駄な力みはないのだ、ということです。

 

表面的に強い動きに見えるからこそ、やりすぎていれば、体ではっきりわかります(つまり、どこか痛くなるのです)。くりかえし練習する過程で、そのやりすぎをなくしていくのです。

 

”一撃必殺”とも表現されたり、攻撃的に見える形意拳ですが、先生の動きはとても美しく、見ていると穏やかな気もちになります。

 

攻防という型を超えて調和に向かうという点は、太極拳、八卦掌、形意拳、どれも同じだと感じます。その過程も、わたしにとっては大事なところですが、この話はまた別に書きますね。

 

武当山での写真は、こちらから

武当山での日々を語った自由が丘FMTVの録画は、こちらから

 

(形意拳の套路を習っているところ。これは”馬”の部分)

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

........................

いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ


武当山で感じたこと:のんびりいこう

2017.09.24 Sunday

 

 

中国の武当山に、お稽古に行っていました。1年ぶりです。

 

2008年末に初めて行ってから9年、今の学校に行くようになってからは、5年になります。

 

その間、大きく変わったと感じることのひとつは、「のんびり学ぼう」と思えるようになったことです。

 

最初は、団体で行ったこともあるためか、なんだかとっても忙しかったのです。練習、ごはん、と、シンプルなスケジュールなのですが、学校の館内移動も、階段をせかせかと早足で移動した記憶があります。真冬で、お湯はタンクに貯めたものがなくなると終了なので、シャワ―や髪の毛を洗うのも、高速作業です(笑)。初めての武当山生活で非日常感も大きく、こんな経験も楽しかったですけれどもね。

 

2回目から、生活自体は、ゆったりになりました。他人を気にせず、自分がしたいことを大切にしよう、と思い始めたことも関係あるかもしれません。でもお稽古は、何よりも最優先で、「遊ぶより練習」という時期が、何年か続きました。強制されたわけではなく、自分がそうしたかったのです。

 

例えば、全部で2週間弱、行くとします。学校は、週に1.5日〜2日、お休みです。短い滞在のわたしは、お願いしてお休みの日にもお稽古してもらっていました。ほぼ個人稽古になるため、当時は、たくさん教えてもらえる、と感じていました。

 

2009年の7月、2回目に行ったときのことです。お休みの日にもお稽古を入れていたある日、向こうで知り合った友人たちが「午後、逍遥谷に遊びに行きましょ」と誘ってきました。お稽古が......と思ったものの、結局、一緒に行くことにしたのです。そしてその半日が、とっても、とっても楽しかったのです。

 

誘ってくれて、一緒に過ごしてくれて、本当に感謝しています。

 

さてさて、そんなことがあっても、それからも”お稽古最優先”の日々は、続きます。その間、学校は3つ変わりましたが、どこでもお稽古中心、周りがやらなくてもやる、先生が不在でもやる、というのは変わりませんでした。

 

変ってきたのは、今の先生に習うようになってからです。突然ではなく、いろんな体験を経て、だんだん変わってきたのです。

 

ひとつは「大切なのは、習う時間の長さではない」と感じるようになったことです。2014年の春に行ったとき、学校は経営問題でもめていて、先生はいつも不在、弟子も育っておらず、ほぼ自主練が続きました。そんな中、ほんの短い時間、10分とか15分くらいだと思うのですが、ようやく先生が現れて、「次の段階に進むときだから」と太極拳の大切なポイントを教えてくださいました。そのとき「これだけで、今回は充分だ」と思えたのです。

 

ポイントが分かっても、それを体で表現できるようになるには、時間がかかります。この頃から、「形を習う」よりも、「習ったものを自分で熟成させる」ようになったのかもしれません。

 

そしてこのとき、困難に向かう先生の姿勢や、自分の過ごし方や感情など、お稽古以外にもすごく貴重な経験ができた時間でもありました。カンフーとは、生きていくことなのだと、より深く実感し始めたときでもあります。

 

お稽古時間の過ごし方から、わかったこともあります。時々、鬼ごっこしたり、サッカーしたり、という時間があるのです。楽しいのですが、「お稽古しないんだ」と、最初は思っていたのです。でもある日、大笑いしながら、さんざん遊んだ後に、站椿功(立禅)を始めたとき、「あれっ?」。とっても気持ち良く、とっても楽なのです。いつまでも続けていたいほどです。そんなわたしを見て先生が、「とっても気もち良いでしょ」と、一言。

 

目標にむけて、一目散にやり続けることで、視野も狭くなり、体も硬くなることもあります。モーレツ社員も、ずっと走り続けることはできません。笑って楽しく過ごせば、体も心もほぐれます。先生はきっと、そういうこともわかっているんだなあと、改めてお思いました。

 

そして2016年、去年からは「休みの日は、休むのだ」という、当たり前の生活をしようと思うようになりました。そのためもあって、いつもより長めの1か月という期間にしました。「いつもより長いね」と言う先生のお弟子さん達に、「のんびり習いたいと思ったから」と答えると、「ああ、それは良いね。」

 

自分が何を大切にしていきたいのかも、はっきりしてきました。

 

お稽古の時間、きちんと練習することは大切です。でも、度が過ぎて執着になると、その周りにある豊かな経験を、自ら無視してしまうことになりかねません。

 

焦らず、のんびり学ぼう。わたしの目指すことは、幸せに生きることなのだから。

 

今回、新しい校舎へのお引越しもあり、平日でもお休みになることがありました。そんなとき先生は「良いお天気だね。椅子を外に出してみんなで座ろう。」そして「気持ちよいねー。」と、ニコニコ。

 

武当山での生活の中で、何かを強制されたことは、一度もありません。ひたすらお稽古を優先したときも、自分の選択です。やりたいことをやるという経験は、あの時は良かったと思いますが、今は、心も体も、ぽかぽかと暖かく、ゆるくなるような、陽だまりの時間を存分に味わえる自分になれたことが、とてもうれしいです。

 

修行とは、強制されるものでも、辛いものでもなく、自らやりたくてやるもので、その過程でたくさんの発見があり、豊かさを与えてくれるものだと思っています。

 

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

........................

いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ

 

武当山での日々をお話した自由が丘FMTV「みんみんの陽だまり太極道」は、こちらからどうぞ↓

 

 


武当山に行ってきます

2017.09.01 Friday

(旅のお供、お守り坊ちゃんキーホルダー)

 

明日から9月下旬まで、中国、湖北省にある武当山に、お稽古に行ってきます。

 

行くのは1年振りです。

 

毎年2回、春と秋に行っていたのですが、今年の春は日本でやることがあるような気がして、自然な流れで、行かない選択をしました。それがどういうことかは、わかりませんが、変っていくものもあるのだと感じます。

 

武当山は、わたしを育ててくれた場所です。心のふるさとのようなところです。

 

2009年、最初にひとりで行ったときの目標は、「わがままに過ごす」でした。他人に気を使うことなく、自分がしたいことを優先させるという目標は、お稽古中心の生活という環境の中では、やりやすかったのだと思います。

 

それからずっと、山の自然に身を置きながら、「考える」よりは「感じる」ことを大切にし、体を使いながら自分の在り方を見つめてきました。最初はつーんとしていた自分が、だんだんと心を開いてきて、信頼を積み重ねていくうちに、前よりずっと、自分と仲良くなれるようになりました。

 

「わがままに過ごす」ことは、一見、とても独りよがりに思えます。でも、自分の面倒をしっかり見ていくと、ひとりでできることなどないのだ、と気づきます。ひとりでは立つこともできないのです。地面があるから立てるのです。そう気づくと、地球と共に生きている大きな安心感を感じるようになりました。

 

そして同時に、自分は地球の一部で、運命共同体なのだとも気づきました。地球の痛みはわたしの痛みで、わたしの痛みは地球の痛みなのだと思うのです。地球に暮らす人も、自分と無関係ではないわけです。

 

この地球での使命というのか、何を表現して生きていくかは、人それぞれです。わたしの土台は「笑って幸せに生きること」です。環境破壊や争いの絶えない世界を見ていると、人間がいることで地球を痛めていることも多くあると感じます。でも、人間は邪魔な存在なのではなく、もともとは必要で、歓迎されて生まれてきたのだと思うのです。

 

だから、心身ともに緩んで、笑顔で過ごそうと思っています。そう思いながらのお稽古は、どんな感じになるのでしょうか。

 

今回、出発が近づくにつれて、「いってらっしゃい」「気をつけてね」「楽しんでくださいね」と声をかけていただくたびに、とても幸せな気持ちになりました。とってもありがたいです。

 

武当山には昨日、お稽古友達が到着して、「待っているよ」とメッセージをくれました。そういうことも、とってもうれしいのですよ。

 

ちょっとした気持ち、小さなひとことの力は、とっても大きいのです。だから、何か特別なことを成そうとしなくても、きっと、よいのです。その大きな力を自分からも出して、受け取っていけば、気づいたときには何かを成しているのかもしれません。

 

冒頭の写真は、友人が「お守りに」と作ってくれた”お守り坊ちゃんキーホルダー”です。以前このブローチを見たときに「かわいい!」と大騒ぎしたことを覚えていてくれて、旅のお供に作ってくれました。「作ったから連れて行って」というメッセージを受け取ったとき、台風情報に不安になっていたのですが、このメッセージのおかげで「大丈夫」と思えました。そもそもお天気のことで、わたしにできることなど、ありません。「無事に行かせてください」と祈り、あとは状況を受け入れよう、と思えました。すでに、守ってもらっています。

 

ひとりで行動していても、ひとりではないですよね。感謝を忘れずに、行ってきます。

 

(武当山)

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

........................

いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ

 


九頭竜神社へのお参り

2017.08.31 Thursday

 

中国に行く前に、箱根の九頭竜神社にお参りしてきました。

 

箱根神社をお参りしてから、てくてく、てくてく、と歩いて、九頭竜神社まで行きました。4年ぶりです。

 

4年前に来たときは、ある事を勇気を持って断ったときでした。ずっと言えなかったことを、勇気を出して伝えたところ、相手の方は激怒。絶交状態になりました。

 

泣きながらこの話を相談したところ、「泣いているけど、数か月前に『正直に言えるわたしになりたい』と言った自分に、今、なっているよ。気づいている?」と。

 

自分のことは、ホントに自分ではわかりません。客観的に見てくれる人がいるって、ありがたいです。

 

それでも、その出来事を受け入れるには、時間がかかりました。行動は後悔してはいませんが、その行動から引き起こされたことに関して、自分を責める気持ちが止まりませんでした。それも、後悔なのかもしれません。

 

それから半年がたち、武当山にお稽古に行ったときのことです。当時、学校にはビジネスパートナーがいました。経営問題について師匠との間で話し合いが続いており、師匠はほとんど留守でした。生徒たちは、野放し状態で、困っていたり、それを通りこしてイライラしていたり、という状態でした。

 

そういう事情なら仕方ないと納得しようとしたものの、我慢が溜まりすぎたのか、ついに怒ってしまいました。それも、机をたたいてです(自分でもびっくりしました)。でもその後、怒ってしまった自分を、責めはじめたのです。「どうしてこんなところまで来て、こんなに怒ってしまったのだろう」と。

 

泣きながら攻め続けましたが、ふと、「違う」という思いがやってきました。怒ってしまったことは反省するけれども、それをした自分を責めるのは違う、と思ったのです。

 

はじめて、自分が自分の味方でいられた気がしました。

 

正直な話をしようとするとき、それに慣れていないときは、言葉が爆発するように出てしまうことがあります。少なくとも、わたしの経験では、そうでした。

 

今から振り返ると、そんな言い方しなくてもよかったのに、と思うのです。ふつうに穏やかに話せばよいことなのです。そもそも、そこまで我慢せずにさっさと言えばよいのです。(それができないから、こういう事態が起きたわけですが。)

 

そもそも、何が自分の正直な思いなのかも、よくわかっていませんでした。だから何がいらぬ我慢なのかも、わかっていませんでした。

 

「正直に思ったことを話せる自分になりたい」と願いを立て、そのための行動を起こし、こんな失敗もしましたが、少しずつわかってきたこともあります。

 

今でも失敗はあります。でも、この時ほど激怒させたり激怒したりすることは、ありません(今のところ)。反省はしますが、後悔したり、自分を責めることは、なくなりました。

 

当時と今とで大きく違うことが、ふたつある気がします。ひとつは、起きたことを受け入れるようになってきたこと。もうひとつは、”正直であること”がわかるようになってきたことです。

 

4年前は、起きたこと(起こしたこと)を、受け入れられていませんでした。こんなに頑張っているのに、どうしてこんなことが起きるんだろう、どうしてこんな思いをしなければならないのだろう、と思っていました。人のせいにもしました。

 

でも今は、起きたことは、受け入れようとしています。それは意識的にせよ、無意識にせよ、自分の選択の結果だからです。表面的に起きたことの奥深くに、自分の本当の願いが隠れていることもあるのです。願いは、どんなカタチにせよ、叶うのです。

 

”正直であること”については、「嫌いなら、それでよいのだ」と思えるようになりました。以前は、「嫌いだと思う自分は、ダメだ。」と思って、なんとかしようとしていたのです。

 

好き・嫌いは、思考ではありません。

 

嫌いなのは、相手が悪いわけでもなかったりします。今なら、嫌ならそこからすーっと離れていこうとします。ウマが合わない人と、無理に一緒にいなくても、いつかは自然に話せるときが来るかもしれません。

 

嫌なのに、どうにかしようとその場にいると、自分をその場から引き離そうと、もっと大きな事件が起きたりします。人は、どうにかして自分の願いを叶えようとするのです。だから時々、願いはショッキングな出来事によって叶ったりします。

 

以前、こんな話を聞いたことがあります。

 

「起きたことには意味がある。でも自分の思考に意味はないし、過去の感情の記憶はない。」

 

感情は記憶できないので、後から思い起こすときには、美化することも、嫌な気持ちが増幅することもあるのです。わたしが自分を責めるときには、大幅に増幅させていたと思います。

 

自分を責めて傷つけることでしか、自分の存在を感じられなかったのかもしれません。自分を大切にしていないですよね。

 

「正直に生きるようになりたい」という願いをたてたら、いろいろなことが起きましたが、その方向に進めるようになっていています。自分に正直であると、自分に嫌なことがあるように、他人にも嫌なことがあることもよくわかります。自分の思いを認めることができれば、他人の思いも尊重しゃすくなります。思いっきり”自分”を尊重した結果、個を超えた理解にもつながります。

 

今回のお願いごとは、「家族や周りの人、みんなが幸せでありますように。」そのためには、日々、自分の心身を緩めて、笑顔で過ごすことを心がけますと、お約束してきました。

 

心身がほぐれているかどうかは、わたしにとっては正直でいるかどうかのバロメーターなのですよ。

 

そんなことも思い出しながら、気持ちよくお参りできました。感謝です。

 

(九頭竜の森への入り口)

 

(九頭竜の森にある、マユミの木)

 

(九頭竜神社の龍。美しい彫り物です)

 

(湖上の鳥居)

 

(お参りが終わって眺めた芦ノ湖畔)

 

(帰りは、白龍大明神にもお参り)

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

........................

いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ

 

 


天人合一

2017.08.16 Wednesday

 

(中国、武当山 雷神洞)

 

館山(千葉県)にある友人の久保晃子さんのおうちを訪ねたのは、8年前のことです。

 

右は海、左は山という、自然に開かれたおうちです。家が建ったときの出来事を、先日ブログに書いてくれました。

 

家が建ったばかりの頃は、ガラス戸によく鳥がぶつかって、小さなカワラヒワくらいだと気絶してもまた目を覚ますけれども、大きなキジバトは即死だったとか。しばらくそんなことが続いて、数か月すると、そんな事故も起きなくなったそうです。それを「鳥たちの方が、認識してくれたんだと思う。ここには、家が建ったんだ、って。」と書いていました。

 

素敵な文章ですので、ぜひこちらから読んでみてくださいね。おうちの写真も、載っています。

 

 

これを読んだとき、思い出したことがあります。

 

裏高尾に行ったときのことです。ここは登山客も少なく、静かなところです。

 

山のガイドをしている友人と一緒に行ったため、ちょっとしたワークをしながら歩きました。そのひとつに、「目にとまったものをじっくり見て、それになってみて、”それ”から自分を見てみる」ことがありました。

 

ゆらゆら揺れる小さな草が目に留まり、しゃがんで一緒に揺れてみてから、”それ”になってみると......いきなり「じゃま」と言われた気がしました。

 

えっ?と驚きつつも、それはそうだ、と思ったのです。わたしがそこにしゃがんだことで、草は日陰になってしまいました。さっきまで太陽の光が注いでいたのに。すみません......。呆然として動けずにいると、しばらくして草もその状態になじんできたような気がしました。そして「いいよ、そこにいても」と言われた気がしたのです。(このときの話は、こちらの過去のブログから)

 

裏高尾に行くときに、”両界橋”という橋を渡ります。文字通り、”人間の生きる場所”から、”動植物の生きる場所”に、足を踏み入れる感じがあります。わたしは車で通ったことがあるだけですが、自転車や徒歩で渡ると、空気が変わるのを感じる人もいるとか。ここを通るときは、「おじゃまします」という気持ちになります。

 

山や森などの自然の中に身を置いて、わたしが学んだことは、自然は人間を癒すために存在しているわけではない、ということです。

 

何もなかったところに家が建てば、鳥はぶつかります。人間が住んでいないところに足を踏み入れると、その場の環境は変わります。だんだんと慣れて、それが日常になります。お互いの自然な営みが共存できるようであれば、そのまま続くでしょうし、里山のように発展もあるかもしれません。どこかに負担がかかれば、共存は難しくなり、何かが崩れていくかもしれません。

 

中国の思想に、「天人合一」というものがあります。天、人を対立するものとせず、本来それは一体のものであるとする思想、あるいはその一体性の回復を目指す修養、または一体となった境地を天人合一と呼んでいます(出典:「世界大百科事典 第2版」)

 

天とは、宇宙とも読み替えられます。宇宙は天地、陰陽でいうと、天は陽、地は陰です。その天地をつなぐ存在が、人間のような気がします。

 

だから、立つときには、天地をつないでエネルギーをぐるぐる回しているような感覚になります。立つときも、動くときも、そうです。

 

太極拳を含めたカンフーで体を使うこと、動くことは、天と人の一体性(それを、太極とも言うと思います)につながる修練で、ちょんちょんと、その境地に触れているような気がします。

 

木々を見てきれいだと感じるならば、そのわたしもまた、きれいなのだと思うのです。もっと言うなら、きれいでもそうでなくても、それはどうでもよく、その価値は、等しくあるのだと思います。一方的に自然が人間を癒すというのはなくても、お互いの存在がお互いを支えていることは確かで、それは”癒す”と言い換えても良いかもしれません。

 

それにしても、友人とは不思議な存在で、同じようなことを、違う場所で違う経験で感じていたりします。共有してもらうことで、自分の中にある思いも、より深く豊かなものになります。ありがたいです。そんなことを、もっと遠く、広く、共有していけたらよいな、と思いながら、自分の日々の営みを続けていこうと思っています。

 

あっこちゃん(と、わたしは久保さんを呼んでいるのです)、ありがとうね。

 

(武当山の朝日)

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

........................

いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ



calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< October 2017 >>

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM