からだのつながりと、人のつながり

2016.09.09 Friday

(武当山の頂上、金頂にて)

 

「体はつながって動くんだよ」というのは、太極拳のお稽古中によく言う話ですが、最近、”つながって動く”感覚が変わりました。

 

きっかけはアレクサンダー・テクニークを受けたことです。友人が講師デビューを目指すにあたり、モニター受講生を募集していたことから、手を上げて、1週間に約1時間を2回、合計で10回受けてみました。

 

アレクサンダー・テクニークとは、F.M.アレクサンダーさん(1869-1955)が開発したもので、心身の不必要な緊張に気づき、これをやめていくことを学習するものだそうです。約1か月という短期間にわたしがどれだけ理解できたかわからず、全貌を説明できるわけではありませんが、それでも従来の認識を変えたり、気づきを与えてくれたりしたことは大きいので、理解している範囲内で書いてみようと思います。

 

アレクサンダーさんの大発見は、頭がい骨と頸椎の間の関節が自由に動くようになっていれば、全身の関節が自由に動く、ということでした。この頭蓋骨と頸椎の間の関節、動かしてみると、前後にはちょっとしか動かず、横にはさらにちょっとしか動きません。胸をはって顎が上がると詰まってしまいますし、顎を無理やりひいても詰まってしまいます。最初はわざと詰まらせて窮屈な感覚を覚えてみてから、「ここが自由に動く」と強く思うことから始めました。

 

なぜここが自由に動くことが全身に影響を与えるのかは、神経などのしくみからも説明できるようなのですが、アレクサンダーさんは解剖学などを勉強して発見していったわけではなく、自分の体を使って実践していくことで、ひとつずつ発見していったそうです。心身の不必要な緊張に気づいてやめていくことや、理屈や理論ではなくて自分の体の感覚で発見していくあたり、太極拳の目指していることや発展の過程と似ています。

 

立った姿勢でこの頭がい骨と頸椎の間の関節が”自由に動く”という状態を作ることは、太極拳で言う”放松”に似ています。実際、「その関節が自由に動く」と強く思うことで体に起きる変化は、”放松”の状態にしていくときに起きることと同じです。太極拳では「あごは引き気味に」と習うことも多かったのですが、引くのではなく、結果として引いた状態になるのだということも、このワークを通じて体で理解できました。引いてしまうと詰まってしまい、文字通りプレッシャーをかけてしまうのですよ。自分に。

 

さて、人間は立ったら動きます。動いている状態でも「頭と首の間の関節が自由に動く」ことが大切ですが、その前に、何かをしないと動き出すことはできません。それを「どこから動くのかを意識して、動かす」と教えてもらいました。たとえば歩くとき、普段はどうやったら歩けるかを考えることは、ありません。でもここでは、無意識に習慣になってしまったクセを外すために、どこから動かすかを決めて、やってみます。

 

最初、わたしは頭と首の間の関節が自由に動くことからスタートする、という意味を、その部分から体の各部がつながって動いていく、と理解しました。すると、うまくいかないのです。頭と首の間の関節→体のほかの部位→またそのほかの部位、と動きが伝達していくと考えると、うまくつながらず、体は固まっていきます。悩むことで、さらに自分にプレッシャーをかけています。

 

「これじゃない」という思いを持ちながら、講師の友人といろんな話をしているうちに、「つながって動く、という理解が違っていたのかもしれない」と思ったのです。

 

例えば腕が上がるとき、息を吸って胸が膨らんで肋骨が開いて→肩→肘→手首という順番で上がっていきます。でも、たとえば肩が上がっていくとき、末端の指が何もしていないわけではないのです。大きな流れではないけれども、微妙に動いているかもしれないのです。

 

もう少し言うと、実際に動く、動かない、というのは結果で、別にどちらでも良いのです。そうではなく、「必要に応じて自由に動ける」状態であることが大切な気がします。腕が上がるという大きな動きの流れが肩に来ているとき、指先が動くことが必要なら動くし、必要ないなら動かない、というようなことです。

 

太極拳の套路では、それぞれの動きをリードしていく体の部位が決まっています。手だったり、足だったり。これは、アレクサンダー・テクニークで言う「どこから動きだすか意識する」と似ています。そのとき、リードする部位だけが動いている、というわけではないのです。

 

これ、おもしろいのはリードする部位は、動きによって違うところです。そしてその”リーダー部位”に、体全体がいつでも応えられる状態にあることです。全身で動く感覚が、新しくなりました。

 

そして、動きをリードする部位に正解があるわけではないのです(太極拳では決まっている、と言いましたが、今のところ一番信じているのがこれ、というだけのことです。絶対の正解ではないと思っています)。だから決めて、やってみて感じることが大切です。これを通じて、頭(意思)と体が連動していくようになります。

 

これって、人との関係にもつながるような気がするのです。個の体と人の集合体を対応させてみると、個の体の各部位にあたるものが、個人になります。ある活動、たとえば、環境保全とか、教育とか、それぞれの分野にはそれをリードしていく人たちがいます。一人がすべての分野をリードするのではありません。別の人は関係ないわけではなく、リーダーが動くことで呼応して動いたり、動かなかったりします。でも、動く準備ができる状態にはいるわけです、きっと。自分でプレッシャーをかけて固まったりしなければ、です。そしてリーダーも、やってみて違うと感じ、変わることもあります。でも、最初にリーダーだった人が、それで役割を何も果たさなくなるわけではないのだと思うのです。

 

表面的に起きている現象がどんなことであっても、どんな人にも、自分の居場所はあります。その仕組みがわかると、ほっとしませんか?

 

アレクサンダー・テクニークを通じて経験したこと、理解したことはまだまだ他にもあります。これから少しずつ育てて、機会を見て言葉にもしていこうと思っています。でもそれより前に、わたしがとても興味深かったことは、F.M.アレクサンダーさんがこれを発見していった過程なのです。自分の悩みを解消すべく方法を探したり、こうじゃないかと思って何年か取り組んでみては「うおーできないんだ、それ!(注:このセリフは、わたしの勝手な想像です)」(たとえば、「これをやめる」と思うと、人間は必ずそれをやってしまう、ということ)と気づいたり、など。その取組姿勢や情熱、がっかり(したかどうかわかりませんが)加減など、とてもチャーミングに感じられるのです。生きるとは、そういうことと、教えられたような気がします。

 

教えてくださったボディ・チャンスの青柳彰一さんには、本当にお世話になりました。一緒に考えてくださったこと、わたしの変化を細かく観察してくださったこと、いろんな気づき、その過程を、時には悩みつつ楽しんで過ごすことができました。ありがとうございます。

 

生きるって、試行錯誤の連続で、楽しいです。

 


ストレッチのコツ:自分と争わない

2016.03.09 Wednesday


(中国、武当山)

お稽古前には必ずストレッチをします。
そのほかにも、朝起きたときや、寝る前の瞑想の前などにもします。

人の体は、固くなる方向に進んでいきます。
柔かい赤ちゃんとして生まれ、老人に向かう過程を考えると、
固くなっていくことは自然の流れだと思います。
だからこそ、20年後も同じ体で元気にすごせることを目指すためには、
丁寧にストレッチすることが大切だと思っています。

ストレッチのコツは、”自分と争わないこと”だと思っています。
自分の体が固いとしても、それに絶望したり卑下したりしないことです。
固いのには理由があって、自分の体を守ろうとしている結果だったりするからです。
(詳しくは、→体のコンプレックスと、争わない心
そして無理やり伸ばそうと負荷をかけすぎないことです。
ストレッチは、そのまま訳すと”伸ばす”ですが、
緩めながら伸ばすことを心がけていいます。

緩めるためにまず大切なのは、呼吸です。
ストレッチの間、呼吸は自分のリズムでゆったりと、静かに続けます。

そしてたとえば前屈の場合、上半身の重さを使い、体が前に下がれるところまでいけば十分です。
そこで20秒以上キープします。それ以下だと、やわらかくしていく効果はない、と言われて今います。
そして下がるだけではなく、腰、背中、肩の力が抜けるように意識します。
背中をまっすぐ、ちょっとななめ前に下がる感じです。
勢いをつけて反動をつけたりも、しません。それは別の運動になります。

このときに、じっくりと自分の体を観察して、対話するようにします。
どのくらいまで下がりたがっているかを感じながら、
痛いと思ったら無理をかけず、そのまま待ちます。
この”待つ”が大切だと思うのですが、多くの場合、苦手な人が多いと感じます。
そのまま待っていると、「もうちょっと下がれるよ」と、
体から言ってくれることがあるのです。

さらに、意識の持ち方によっても、緩みやすさは変わります。
たとえば股関節を柔かくするために、座って足の裏を合わせてヒザを上から押す、
というものがあります。
もともと柔かくて抵抗が出ない人はこれで良いと思うのですが、固い人の場合は
体が嫌だと抵抗して、緩めるどころではなく、さらに固くなってしまうこともあります。

ひとつの例ですが、座って足の裏を合わせたら、両ひざの頭に紐がついていて、
それが左右に引っ張られていくのをイメージします。少しずつ、です。
手は足の上にでも置いておきます。
ついでに、お腹は立てておきます(背中が丸くならないようにします)。
これも、体が緩む準備ができるまで、待つことが大切です。
準備ができたら、股関節がだんだん、開いていきます。

体を温かくしておくことも大切です。
寒いと緩みにくいので、お稽古前には先に走って体を温めてからすることもあります。

体が固いことのは、自分を守るためでもあるため、それが”悪”ではないのですが、
それでも柔かい方が良いという話を、前に書いたことがあります(からだは柔かい方が良い?)
それに加えて、今、感じてることも、いくつかあります。

今の自分をじっくり観察して、自然に準備が整うまで待つことは、
丁寧に生きることでもあります。
自分で無理にコントロールしようとせず、自然な流れに乗ることでもあります。

固い自分と争わないことは、今を生きることでもあります。
「固い」と卑下することは、柔かい自分を理想としていることでもあり、
それは今の自分を生きていません。

固さという鎧を着ないことは、
ありのままの自分でオープンでいることにもなります。
誰かにこれがいいと言われたから、ではなく、本当の自分の願いにも
気づきやすくなるような気がします。

鎧を着ている人は怖いから、逃げるか、攻撃するか、ですが、
赤ちゃんのように柔かい人は、みんなの笑顔を引き出す力があります。

「笑う門には福来る」ですものね。


 

自由に動くこと

2016.03.02 Wednesday


(64式武当太極拳)

以前、太極拳の套路(型)について、書いたことがあります。
型があるものは何でも、はじめたばかりの人にはわからない先人の智慧が詰まっていて、
型を尊重して繰り返し練習することで、最初はわからない智慧や技を習得していくことができる、
と思っています。

未経験だから何だかわからないけれど、何か惹かれるものを感じる、というのが
太極拳のように長く伝えられてきた”型”にはあると思います。

先日のお稽古中、生徒さんが「套路が難しすぎて覚えられる気がしない」とおっしゃるのですが、
最後には、「不思議なのは、こんなにできないのに、楽しいと思うこと」と、おっしゃっていました。
先輩の生徒さんが「それが太極拳の楽しいところなの。」

わたしもそうだったな、と思います。

それとは逆に、世の中には”型のない自由な動き”もあります。
太極拳をはじめとするカンフー(中国武術)には、わたしが知る限り、套路(型)があるため、
自由な動きを練習することは、わたしの専門外です。
それでも、自分のお稽古には取り入れることも多いので、
その意味について感じることを書きたいと思います。

ひとことでいうと、型があってもなくても、目指すところは同じだと思うのです。
入口とたどる道が違うだけです。

型がない自由な動きの場合、わたしは自分の体に意識を向けて、動きが出てくるまで待ちます。
腕や脚、体が動きたい方向に動くのに任せます。

わたしのように型を練習している人の場合、慣れた動きが出やすくなりますが、
知っている動きをすることは、極力避けます。そうすると、自分がヘンな動きをしていたり、
「こんな動きもありなんだ」という新鮮な驚きに出会ったりします。

自由に動くメリットは、いくつかあると思っています。
ひとつは、体のバランスを取ってくれることです。
型は、本来はバランスをとってくれるものなのですが、新しい型を覚えるときなどは特に
体が緊張して、バランスが崩れたりします。
すごく練習しているのに、体のバランスが崩れてくることがあるのは、このためでもあります。
それでも体は本来、バランスが取れた方向に向かうと思っているので、動きたい方向い任せるだけで、
崩れたバランスが整ってくることもあります。

無意識に持っている「制限」を外してくれることもあります。
「この動きは負担がかかる」とか、「やりすぎ」とか、知らない間に動きに制限をかけていることは、
よくあるのです。知らないで制限しているので、外すことも困難です。
でも、自由に動く練習をすることで、ウェストがびっくりするくらいひねられていたり、
足がヘンは方向を向いていたり、それでも全身がちゃんとつながってエネルギーが通って動いている
のを感じることで、「体はもっと、ここまで動きたい」と感じることができます。
これはその後、型の練習にも反映できます。感覚は、すごく変わります。

逆に言えば、気づかずに制限の中だけで動いてしまうこともありますが、
それはそれで、良しだと思います。毎回、大きな発見を目指すのではなく、どうなのかな、
と探求していくことの方が大事だと思います。

型はあっても、動きにとらわれずに自由なエネルギーを感じて動くことは、
最初に型が出きたときの成りたちに近いような気がします。

型の練習をするときは、真剣に、型を尊重してその通りに動きます。
ただし、何をやっているのかと、呼吸と、イメージを持って、
動きだけを追わないように気をつけます。

自由に動くときは、知っている動きから離れて、真剣にゆだねてみます。

どちらも真剣。両方真剣にできれば、うまく合わせていくこともできるような気がします。

そして太極拳には型があることで、自分の感覚の違いを感じやすいような気がします。
同じ動きでも、全然違ってきます。
型にとらわれず、でも型を大事に、これからもやっていきたいと思っています。


(中国、武当山の朝)

歯をくいしばって生きなくても、よい

2016.02.13 Saturday



最近、歯医者さんの治療に通っていました。
歯石取りも終わったころに、先生から
「歯ぎしりしますか?」と聞かれました。

言われたことないし...と思ってそう答えると、
「奥歯が、ちょっと削れているんですよ。歯ぎしりでなければ、相当強い力で
噛まないと、こんなふうには削れないんですよね。」

えっ???と思って、それから気にしてみたら...
寝ているときではありません。
昼間、ちょっとしたときに、奥歯をギュッとかみしめているのです。

涙が出るのをこらえるときに噛むのは、理解できなくはありません。
でも何も関係ないときに、ぐっと噛みしめるときがあるのです。驚きです。

「なぜこんなに歯をくいしばって生きているかしら。そんな状況ではないのに。
逆に、自分で自分の人生を苦しくしているのじゃないのかしら。」

そう思って、わたしの人生の師匠に会ったときに、話してみました。

そうしたら、
「そうそう。前は、歩くお稽古をするとき、すごく奥歯をかみしめてた。
今は、ほとんどなくなったけどね。」という答えが返ってきました。

自分では、まったく気づいていませんでした。

「あなたの場合は、口角は下がらないのよね。その代りに、我慢するときに
奥歯をかみしめたり、眉間にしわを寄せたりしてたの。」

奥歯が削れるほど、歯をくいしばっていたとは...わたしったらなんてことを。

「舌をうわあごにつけて口を閉じるとき、奥歯は隙間が開くくらい、ゆるゆるにしておくの。
そうでないと、体に変な力が入ってしまうから。」

プールに体を浮かせて奥歯をかみしめると、体が曲がっていくそうなのです。

そんな、本当に無駄な意味のないことをしていたとは。しかも自ら、です。

この重要な課題に気づいたときから、噛みしめたら緩める、を繰り返してみたら、
1−2日後には、ほぼ、噛みしめなくなりました。

師匠の話からすると、1年半前には、もっと歯をくいしばっていたことになります。
当時は全く気づいていませんでした。
しなくてもよい我慢をしていた、ということなのだと思いますが、
そのときはそのクセに気づきたくなかったのだと思います。
気づいてしまったら、その我慢を吸収する手段を失ってしまうからです。

しなくてもよい我慢をしなくなってきたら、噛みしめるクセも自然に治ってくる、
というのは、おもしろいです。
さらに、その我慢を吸収する手段が不要になったころに、”噛みしめている”事実に
気づくのも、おもしろいと思うのです。
これはわたしのパターンなので、逆に、形から直す、つまり、噛みしめていることから直して
根本の問題を解決していく、という方法も、もちろんあると思います。

さて、奥歯をゆるゆるにして生活してみたらの感想ですが、
これが、とても気持ち良いのです。頭の中がゆるゆるしています。
頭の中には蝶形骨とう蝶の形をした骨があるのですが、緊張して硬くなっていると、
これが窮屈に押しこめられてしまいます。
すると、蝶形骨は内臓を包む筋膜にもつながっているので、胃なども緊張してしまうのです。

奥歯をゆるゆるにしておくと、蝶形骨もふわふわ、頭の中にスペースができる感じです。
ふわーんとして気持ち良いのです。

もう、歯をくいしばって生きていかなくてもよいですものね。
(自分で勝手にくいしばっていただけですが。今となっては笑い話です)












(中国、武当山の南岩。2か月後には、またここでお稽古です)

 

二本の足で立つこと

2015.12.06 Sunday



最近、なぜ人は2本足で立つことを選んだのかな、と考えたりします。

2本足は、不安定だからです。

立つことも、歩くことも、難しく、転ぶこともあります。
呼吸が浅くなっている人もいます。

4本足なら俄然、安定します。
自然と腹式呼吸になり、深い呼吸ができます。
さらに聞いた話では、匍匐(腹ばい、四つ足)だと、頭が無になるそうです。
だから禅寺などでは拭き掃除をさせる、とか。

安定している状態から、なぜわざわざ不安定な状態を選んだのかはわかりませんが、
不安定だからこそ、人間の頭は発達したのだそうです。

それでも、人間らしさでもある脳の発達は、行きすぎると
”頭でっかち”になることもあります。
カンフーで足を鍛えるのは、上半身と下半身のバランスを取るためと教わりました。
年齢を重ねると足の筋力が衰えるのに対して、上半身は重くなります。
上が重くなることで、転びやすくなったり、歩けなくなることもあります。
身体的にもそうですが、”頭でっかち”も、上半身が重くなる要素のひとつだと思います。

上半身と下半身だけではなく、2本足で立つことすべて、バランスのような気がします。
下に向かう重力と、上に向かう力(骨という構造を、それを支える筋肉を使って上に向かわせます)を
1直線上に、同じ量になるように調整します。

面白いことに、このバランス、力が均等なら良いわけでもありません。
ふたりでお互いに向き合って、押し合いっこを続けていると、いつかは疲労してしまいます。
どちらかがやめると、もうひとりは自滅する、というリスクもあります。
自分ひとりでも、人からの力が加わったりなくなったりしても、自滅せずに
バランスを保ち続けるのは、探求のしがいがあります。
こんなことをやるのも、カンフーのおもしろさです。

人は生まれてから死ぬまで、バランスのとり方をずっと学んでいくのかな、と思いながら、
わたしの”立つこと、歩くこと”の先生に、そんな話をしてみました。

先生は一言、「楽しいからですよ。」

なるほど。
だから赤ちゃんは、立とうとしたり、歩こうとするのかもしれません。

言われてみれば、わたしも立つ練習、歩く練習がすごく好きだったりします。

そういえば先日、生徒さんも「前は歩くの嫌だなあって思っていたのに、
歩くことが楽しくなってきました。」とおっしゃっていました。

立つこと、歩くことはあまりに当たり前で、無意識、無感覚でもできます。
でももし、歩きたての赤ちゃんの頃を思い出すことができたら、
ものすごくたくさんの感覚や感情が出てくるのかもしれません。

初めて立ったとき、歩いたときの楽しさは、きっと体が覚えているはずです。
感覚を研ぎ澄ませて、立って歩くような練習をするとき、あの楽しさをまた体験したり、
もっと深めていったりしているのかもしれません。

...四つ足動物の楽しさにも興味はありますが、とりあえずそれは、人間の領域外ですね。

(中国、武当山の学校で飼われていた犬。このときは足もとに収まるくらい小さかったのに、
2年後に会ったら、5倍くらいに巨大化していました。)


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