老子のことば 「道法自然」:今を生きる

2015.03.14 Saturday


(武当山の夕焼け)

「道法自然」

老子「道徳経」第25章にあることばです。

人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、「道は自然に法る」。

武当拳(太極拳、形意拳、八卦掌)は、老子の思想を取り入れた
道教哲学をもとに成り立っています。
武当拳が生まれて伝えられてきた中国、湖北省の武当山は、道教の聖地のひとつ。
老子のことばも、あちこちに見られます。
↓こんなふうに。

(武当山の道教のお寺にて。この建物も、世界遺産です)

この言葉の意味を、食事中に学校の先生に聞いたことがあります。

「今はごはんを食べるときで、それを話すときではないよ」

というのが先生の答えでした。

つまり、今に集中せよということです。
道は自然に従う、とは、ごはんを食べるときは、食べ、
話をするときは、話し、お稽古するときは、お稽古して、
いつも、「今にいる」ことです。
食べながら次にやることを考えたりしないことです。

わたしの人生の師匠から、最近言われたことばがあります。
「太極拳をやっているときのように、日常を過ごすんだよ」

つまり、丁寧に過ごすことです。(結構、がさつなのです。。。)
一つひとつの動作をするときに、どこが動いているのか、自分の体を観察してみなさい、と言われました。

これは、曹洞宗のお坊さんから教えていただいたごはんの食べ方にも似ています。
ごはんを食べるために、お箸を持ちます。口に運んで、お箸をおいて、噛んで、飲み込みます。
またお箸を持ち、おかずを口に運び。お箸をおきます。そして噛み、飲み込みます。
その繰り返しです。
ごはん中におしゃべりは、ありません。
時間をかけて、ゆっくりといただきます。

今日、やってみました。
気づいたことを書いてみます。
普段は、噛みながら次の食べ物をお箸でつまんでいます。目は違うところを見ていたりします。
誰かと一緒なら、話ながらです。
意識せずにいろんなことを同時にやっています(すごいことでもありますが)。

自分が何をやっているかに意識を向けると。。。
30回噛んで食べると言いますが、回数を数える必要がありません。
10回では「まだこんな状態では飲み込めない」とわかるからです。
汁物だと、飲んだ後の軌道を追うと、面白いです。
あっという間に胃まで落ちて、ちょっとだけ滞留したあと(ほんのちょっとね)、腸に流れます。
こんなに早くて大丈夫なのか、と心配になったりもします。
噛んでいる間に別のものにお箸をつける、と、同時に別の行動をすると、軽いパニック状態になります(笑)。
ずっと今にいること、今の自分を瞬間瞬間で味わうことは、たとえばこんなことだと思うのです。

いかにそれができていないか、雑に過ごしているかがわかります。

ずっとこれだと大変なことになりかねませんが、
1日の中でちょっとでもこんな時間を持つと、ゆとりが生まれる気がします。
食べることでいえば、食べすぎることもなくなるような気がします。
十分咀嚼するから、消化・吸収も良い。味わいも、ひときわです。
食べることで、すごく豊かになれる気がしました。

ちなみにこれをやっているとき、外から見た姿は、とても優雅できれい」だったそうです。
(わたし自身は、上に書いたように軽いパニック状態になっていても、です)。
そうそう、曹洞宗のお坊さんの身のこなしは、とてもきれいで美しいです。

そしてこんな意識の向け方に慣れてくると、
食べながら別のことを考えても、”考えること”だけに意識が持っていかれなくなるとか。
きちんと食べる。でも、考えることもできるのです。
そうでないと、食べている間に火事が起きたとき、動けないですものね。

これぞ、修業です。
自分でやっていくしかありません。

太極拳をするように、日常を過ごすことを意識して、
わたしもまだまだ、これからです。
どんな感じになっていくのか、楽しみです。


(今年の春、庭に咲いたクロッカス)

 

老子と道教と武当山

2015.03.14 Saturday


(中国、武当山にある大常観という道教の寺にある、老子の壁画)

武当拳は、道教の聖地のひとつである武当山(中国、湖北省)で育まれてきました。
それは道教哲学をもとに成り立っています。
道教は、老子の思想を用いて、その思想の一面を取り込みながら生まれた民間宗教で、
老子を神格化しています。

では、老子とはどんな人物なのでしょうか?

司馬遷の「史記」老子伝からみると、
老子は周王朝の宮廷に仕えて、守蔵室の史(し)、つまり周の国立図書室の役人をしていました。
やがて周の国が衰えるにおよび、老子は周の都の落陽を立ち去ることにしました。
落陽を出て、函谷関(かんごくかん)散関(さんかん)どちらかの関所に至ります。
そこには関守の尹喜(いんき)という人物がいました。
老子を見た尹喜は、これはただ者ではないと感じ、「どうか国にとどまってほしい」と懇願しますが、
老子は首を縦にふりません。そこで尹喜は、「ならばせめて書を著して残していただけませんか?」と
依頼します。そこで老子が一晩で書いたものが、5,000語ほどの「道徳経」だと言われています。
日本語では「老子」というタイトルで出版されていることもあります。

「道徳経」を読んで感銘を受けた尹喜は、関守をやめて老子とともに旅に出たとも言われています。
そして老子と別れた後、尹喜が修業の地を求めてたどり着いたのが、武当山の南岩という話も。
南岩は、玄武大帝(道教の神様のひとり)が、ここから天へととんだという説もある、聖なる地です。
武当山にある36の岩のうち、最も美しいと言われ、わたしがいつもお稽古にいっている場所でもあります。





















(南岩。右の崖に張り付くように建っているのは、
道教のお寺、南岩宮)

南岩で修業に励んでいた尹喜が、いつも憧れをもって眺めていた場所がありました。
それが金頂。武当山の頂上です。「あそこならもっと良い修業ができるはずだ。」

今でこそ南岩から山頂までの道もありますが、もちろん、その頃にはありません。
大変な苦労をした末に、ついに尹喜は金頂にたどりついたそうです。

わたしがいつもお稽古している場所からも、金頂が見えます。


(左手、高いところが金頂)

尹喜も、こんなところから眺めていたのかな。

さて、尹喜はなぜ金頂を理想の修業の場と考えたのでしょうか?
それは、山頂は天と地が接する一番高いところ、つまり宇宙のおへそ、丹田にあたるからです。
中国武術では丹田を大切にし、その鍛錬をします。
人間を小宇宙、宇宙を大宇宙と考え、小宇宙の丹田の鍛錬には大宇宙の丹田という場が良い、
と考えたようです。

宇宙のおへそで太極拳。

南岩という場所のご紹介や、老子の「道徳経」の言葉は、
また次の機会に。


(南岩の夕焼け)
 


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