”立つ”こと

2018.10.17 Wednesday

 

太極拳のお稽古で、ベースになっているのは、立つことだと思っています。

 

”立つ”にはじまり、歩いて、動いて、また”立つ”にかえっていく感じです。だから、立つお稽古でもある站椿功は、大切なのです。

 

站椿功をする理由として、武当山にいる先生の兄弟弟子が、こんな話をしていました。「年を取ってくると上下のバランスが崩れる。重くなってくる上半身に、下半身が耐えられなくなり、膝を痛めたり、歩けなくなったりする。だからバランスをとるために、足を鍛えることが必要。」

 

人は、特に都会に住む現代の人は、足を使う機会が少ないです。電車や車、バスやタクシーという交通手段があり、歩くとしても野山ではなく舗装された道路の上です。お買いものも、足を運ばなくてもネットですみます。

 

足自体も、アスファルトの上を歩くために、クッションのきいたスニーカーや靴で防備されています。足自体も、鈍感になりますし、弱くなります。

 

逆に、頭は使う機会は増える一方です。パソコンや携帯電話でやり取りし、知りたいことがあればネットで調べ、ゲームで遊んだり。頭でっかちになる環境が、そろっていますよね。

 

足を鍛えるためなら、立つこと以外に、歩くこと、ランニングでもいいのでは?と思うかもしれません。もちろんそうだとも思いますが、歩いたりランニングするときに、膝に負担がかかって痛めることもあります。そうならないためにも、”立つ”という基本に戻ることは大切だと思っています。

 

站椿功は、10分とか30分とか、人によってはもっと長く、ひたすら立つ練習です。腕の形を変えていくものもありますし、同じ形を保つものもあります。

 

”立ち続ける”という制限がある中では、ある意味、逃げ場がありません。この窮地をなんとかしようと工夫する過程に、意味があると思っています。

 

例えば、慣れないうちに感じがちな痛みは、「ここが弱いよ」と、脳に伝えていることでもあります。人の体はものすごく柔軟に対応することができて、弱いところがあれば、そこをなんとかしようと工夫するのです。

 

さらに、要らない力を入れているために、痛みや苦しさを感じることもあります。長いことその姿勢を続けるために、そのままではいられません。不要な力みに気づいては緩め、気づいては緩め、を繰り返します。

 

この、自分で気づいて緩める、という過程が、大切なのではないでしょうか。「いらないんじゃないかしら」と気づいて緩めることは、意識と体がつながっていることでもあり、双方が納得して緩めていくからです。

 

コリや痛みの対策として、整体や針治療をすること、ありますよね。その時は効いても、また痛みがぶり返してくること、ありませんか?しかも、コリがもっとひどくなったり、整体に行くことがルーティーンになっていることも、あると思います。

 

体には防衛本能があって、痛みやコリは、何かの理由があって固めているのだと思っています。理由はどうであれ、そのときの体は、「守るためにはそれが必要」と認識しているのです。それを、外的な要因で急に緩ませた場合、体は焦るかもしれません。危機感を覚え、さらにカタくなるというのも、わからない話でもありません。

 

整体や針治療がダメという話ではありません。わたしも、必要だと思うときには、お世話になっています。整体や針治療の優秀さとは別に、本人の状態次第で起きるのではないかと、思っています。

 

不要な痛みは、「そのカタさ、要らないよ」というお知らせでもあります。それに体も意識も同意して緩めていけたら、元に戻りにくくなるのではないでしょうか。

 

站椿功をしているときは、意識と体と対話している時間でもあります。頭だけ動いているのではなく、からだ全体、意識も含めて、要らない緊張をそぎ落とし続ける感じです。もちろん、それ以外にやってくる感覚もあり、人によってはそれを「気を感じる」という言い方をするかもしれませんが、それは結果ですからね。自分でどうこうするものでは、ありません。

 

「站椿功の代わりに、スワイショウでもいいのでしょうか?」という質問を受けたことがあります。

 

個人的な感覚ですが、站椿功とスワイショウは、重なるところはあっても、代わりになるものではありません。

 

スワイショウは、中国で長く続けられてきた養生法で、とっても優秀だと思っています。腕を振り続けるという単純な動作で、誰でも簡単にできます。站椿功に比べたら、動きがある分、初心者にもなじみやすい気がします。立つときに、站椿功の立つ”コツ”を当てはめていけば、立つ練習にもなります。(スワイショウのやり方はこちら、感想や質問はこちらをご参照ください。)

 

わたしは1000回、16〜17分くらいをおすすめしています。これだけすると、もちろん個人差はありますが、体の中のめぐりも活発になり、腕の力は抜けやすくなります。その人なりに、やる前よりも、無駄な力が抜けてリラックスしている状態を感じやすくなります。

 

要らない緊張を抜くためには、リラックスした状態を知っていることが役に立ちます。スワイショウは、そのときの緊張を緩めることにも役立ちますが、その後にも目安となって、役立ってくれます。

 

こう書くと、スワイショウで代わりになるような感じもしてきますが、ひとつだけ足りないところがあると思っています。站椿功は、自分で気づいて緩めていくのに対して、スワイショウは、物理的に緩んでいく感じなのです。気づく、という過程がない(もしくは少ない)気がします。

 

そして、”めぐる”という点については、なぜだかわかりませんが、動かない站椿功の方が、めぐりやすい気がします。站椿功をすると、血流が3倍速くなるという話を聞いたこともありますが、それも納得できる気がします。(参考:「気功で新しい自分に変る本」星野真木著 BABジャパン)

 

冒頭でご紹介した、中国の先生の兄弟弟子は、「足を鍛えると、大地と繋がれる。大地と繋がれば、対になっている天ともつながれる」とも、言っていました。

 

人と、大地と、天がつながれば、意識は体の大きさを超えて、どんどん大きくなっていきます。日常のわずらわしいことが、小さなことに感じられるようになってきます。自分はひとりでは生きていないこと、もともとはひとつなのだということにも、気づいていきます。

 

ことばで言うと、どうしても薄っぺらくなってしまいますが、これを体で感じることは、とっても素敵なことなのですよ。

 

立つことは、人が人として生きるすべてを思い出させてくれると、思っています。

 

☀站椿功について、参考はこちらから:武当山日記:站椿功がもたらす「喜悦」

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

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お稽古は、決めたことをやり遂げる時間

2018.10.09 Tuesday

(2018年の夏、武当山にて)

 

自宅でひとりでお稽古しているとき、「ピンポン」と呼び出しがかかったり、電話がかかってきたりすることがあります。

 

そんなとき、どうするでしょうか?やっていることを途中でやめて、対応するでしょうか?

 

お稽古をしているときは、「いきなりやめてはいけない。まずは収功(そのお稽古を終えて、日常に戻るための動作)してから対応すること」と、教わりました。

 

中途半端にやめてしまうのは、よくないのです。

 

もうひとつ、例えば站椿功(立禅)で腕を上げて立っているとき、腕が痛くなったり、苦しくなったら、どうするのでしょうか?

 

「やめて、仕切り直ししてもいい。ただし、なぜ途中でやめたか聞かれたときに、ちゃんと答えられるようにすること」と、教わりました。

 

理由をはっきりさせずにやめてしまうと、失敗体験になります。理由があれば、それは経験という蓄積になります。

 

お稽古の時間というのは、周りに流されず、人の都合に合わせるのではなく、自分を尊重して、決めたことをやり遂げる時間でもあります。

 

社会の中で生きていると、なかなか自分に集中するのは、難しいですよね。声をかけられたら、ちゃんと顔を見て答えたいとは思いますが、呼ばれるたびにそうしていると、気づかずに、自分が後回しになってしまうこともあります。

 

他人の期待を優先させているうちに、自分が何をしたいのか、わからなくなってしまうこともあります。

 

過去のわたしにも、そんなときがありました。

 

2009年の夏、初めてひとりで中国の武当山に行くことになったとき、友人から「今回はどんな時間にしたいの?」と聞かれました。考える前に口から出てきた答えは、「わがままに過ごすこと」でした。周りに合わせるのではなく、社交性を優先させることなく、とにかくそのときに自分が一番したいこと(お稽古)に集中しようと、思いました。

 

その頃は、自分が何がしたいのか、迷子になっていた時期だったと思います。

 

周りからも、「あなたは、自分を大切にしてない」と言われていた頃でした。

 

「わがままに過ごす」と決めて過ごした2週間は、自分ともじっくり向き合い、お稽古にも集中できました。そして結果的には、周りの人たちとも仲良く、楽しく、過ごせました。「自分がしたいことを優先させても、こんな風に過ごせるんだ。友達は、作ろうとしなくてもできるんだ」と、わかる、いい経験になりました。

 

太極拳の教室でも、自分で練習するときも、決めたことをやり通すことは大切です。30分、1時間、1時間半、自分で決めた時間は、それに集中します。

 

電話がかかってきても、後でかけ直せばいいことです。すごく大事な電話だったら、何度もかけてくるでしょう。(ただし、本当に急を要する電話があるとわかっているときは、もちろん出てください。)

 

以前、会社員だったとき、海外での研修に参加したときのことです。同僚たちと、「未読メールが溜まっていくよね」という話になったとき、そのうちのひとりが「研修中は見ないし、この期間に来たものは、みんなまとめて削除しちゃう。」と言うのです。「だって、後からなんて、読みきれないもの。本当に大事だったら、また連絡してくるでしょ。」と。

 

そのときは、度胆を抜かれましたが、あっぱれですよね。

 

決めたことをやり遂げることは、周りに流されることなく、そのときの自分に大切なことを見極めて、それを実現していく力をつけることでもあります。

 

自分の人生に迷子にならないために、自分の願いを実現していくためにも、大切なことですよね。

 

お稽古は、何ができて、何ができないかよりも、その時間をどう過ごすかが大事だと思っています。よい過ごし方をすれば、結果はちゃんとやってきます。

 

 

 

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武当山日記:そぎ落とす

2018.10.04 Thursday

 

何かを習うことは、「得ていく」イメージかもしれません。これを覚える、これができるようになる、とかです。

 

でもカンフーのお稽古は、その逆で、そぎ落としていくプロセスだと感じています。余計なことに気づいて、やめていくのです。

 

新しいものを習うときは、力が入りがちです。力みも緊張もありますし、習うのだ!という意気込みも、あるかもしれません。

 

最初は、動き方、位置、そして何をしているのかという用法(剣であれば、突き刺すとか、上から切り下すとか)を教わり、真似します。

 

すると、いろんなことが起きます。

 

たとえば何度も同じところでダメ出しされる場合は、自分で何ができていないのか、わかっていません。余計なことをやっていたり、意図したことをやっていないのですが、どちらも無意識ですので、なかなか気づかないわけです。

 

頭でわかっていても、体がその通りに動かないときも、あります。頭(意志)と体がつながっていない状態です。

 

動きも、なぞっているうちは、不自然です。表面的な形だけ真似しても意味はない、とわかっていても、視覚からの情報に影響されるようです。五感のうち視覚は9割近くを占めるため、当然なのかもしれません。

 

今回、武当丹剣を習っているとき、こんなことがありました。剣を正面で突き刺す場面を練習していたら、隣で見ていたお稽古友達が「やりすぎ」と、ひとこと。先生は、つっと強く突き刺すので、それを真似していたのですが、「先生はパワーがあるから、ああなるだけ。きみは、自分にあったパワーでいいんだよ。」と言うのです。

 

なるほど、ですよね。やりすぎないように注意して、自分の内側から出る力のままにしてみたら、「そうそう!いい感じ」。分相応って、大事です。

 

やりすぎは、エネルギーを消耗します。太極拳にしても、八卦掌や形意拳にしても、「やってもくたびれない」のが良く、生きるためのエネルギーを満タンにしてくためのものなのですが、それを消耗していたら、本末転倒です。

 

お稽古の時間は、こんな風に無意識にやっている「いらない」ことに気づき、やめていく繰り返しです。何度も、何年も繰り返すのは、このためでもあります。

 

そぎ落としていくプロセスだと、思っています。やりすぎず、偏らず、陰と陽のバランスを保ち続けて進んでいくこと、です。

 

「無為自然」という言葉があります。老子の思想を表すもので、「無為」とは、何も為さないこと、「自然」とは、自ずと然り、他からの影響を受けることなく、あるがままの姿、という意味です。

 

「何も為さなかったら、行動しなかったら、何も結果がでないのでは?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんよね。

 

以前のわたしが、そうでした。そんなわたしに「あなたは待つことを知らない」とか、「行動しないと、何も手に入らないと思っているでしょ。そんなことないよ。」と言ってくださる方々が、何人も現れました。世の中とは、ありがたく、上手くできています。

 

老子の「道徳経」には、「道は常に無為にして、而(しか)も為さざるなし(原文:道常無為、而無不為)」(道はいつでも何事もなさないで、しかもすべてのことを為している)(第37章より)と、あります。

 

天や地は、意志で動いているわけではなく、無為と言えます。それでも朝になると日が昇り、夜は日が落ちて、季節は移り変わります。その中で植物は育ち、動物も、人間も、育っていきます。意志がなくても、天地はすべてを為していますよね。

 

無為自然とは、そいういう意味です。

 

人は生まれると、誰に教わらなくても、空気を吸い、おっぱいを吸いはじめます。赤ちゃんが立って歩くようになるためには、立ち方教室に行くからではありません。生きる力、育つ力は、もともと備わっています。

 

「でも、50歳を超えたら、そうはいかないよね」と思った方も、いらっしゃるかもしれません。

 

それが、そうでもないのですよ。2000年以上前に誕生した中国最古の医学書「黄帝内径」には、「昔の人は100歳をこえても衰えることはないと聞いたが、なぜ今どきの人は、50歳くらいで皆衰えてしまうのだろうか?」と書いてあります。

 

2000年前から、人は早死にだったのですね。季節にあった過ごし方、必要なだけ食べること、日が昇ったら起きて、沈んだら寝る、という自然に合ったリズムが崩れると、生きるエネルギーを損ないます。

 

話は飛びますが、ここしばらく、太極拳の最初で脚を横に開くとき、左足が右足よりも後ろにずれていました。こんなときに「ふつうに出すと1センチ下がるから、ちょっと前気味に出す」と、作為的に考えて行動しては、ダメです。

 

「何もしない。無駄なことしない」とだけ思ってやってみたら、揃いました。脚が揃わないのは、骨がずれているのかとも思ったのですが、そうではなさそうです。

 

無駄なことをしないためにも、鍛錬が必要です。何も為さなければ、本来の力が生きてきます。「生きているだけでいい」というのは、こんな意味じゃないのかしらね。

 

 

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「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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体に痛みが出たときは

2018.10.02 Tuesday

(武当山の山頂(金頂)から)

 

あるとき、「体の痛みが出たときに、どうするか?」という話になりました。

 

ご一緒していたのは、ボディワークをいろいろと探求されて、実践されている方たちです。おひとりが「原因として、痛みのある部位とは違うところを探って、ケアしていく」とおっしゃいました。

 

なるほど。東洋医学でも、ツボ押しは、そういうところ、ありますものね。その他にも、肩に力が入りすぎているとき、肩を緩めようとするのではなく、膝から緩める、なんてこともあります。

 

「みんみんも、そうなの?」と聞かれたとき、「はて?」と考えてしまいました。やっていないとも言えないけれども、今、聞いたようなことは、していません(整体師ではありませんし。)

 

その後、ゆっくり考えてみました。

 

痛みが出たとき、まず考えるのは、その前に「何をやったか」を、体と心の両面で振り返ります。何かの動作が関係しているか、とか、心がきゅっと硬くなっていたか、イライラしていたか、などです。

 

痛みのほかに、疲労も同じです。寝たり休んだりすれば回復するくらいの疲労は問題ありませんが、たとえば、いびきが出るような場合、やりすぎたに違いない、と思っています。自分では、命を削るタイプの疲労、と呼んでいます。

 

たいていは、何か思い当たります。絶対ではありませんが、続けていると、それなりに精度は上がっている気がします。「これからは気をつけよう」と、心に誓います。

 

動作の場合も、よかれと思ってやっていることが、微妙にやりすぎていることもあります。その蓄積が、3か月くらいすると、痛みとなって現れることもあります。

 

実際、どのくらいがちょうどよいのかは、微妙なのです。ですから実践しながら探るものだと、思っています。ただし、それなりに体との対話を続けていると、「おかしいな」と感じる感度は上がるためか、痛みとは言っても、大きな問題にはなりません。

 

そういうこともあるせいか、ここ5年くらい、大きな痛みは出ません。

 

人の体は、簡単に歪みます。体に意識をむけるほど、「体というものは、ずれるのだ」とわかってきます。重いスーツケースを持って飛行機で移動したりすると、コリは出ます。最初の頃は、それにがっかりしていましたが、だんだん諦めてきて、「ずれたら戻せばいいのだ」と思うようになりました。

 

痛みが出た場合も、あまりピンポイントでなんとかすることはなく、全身のめぐりをよくしようとします。つまり、することは普段と同じです。そもそも、太極拳は、縮こまった体にスペースを空け、全身のめぐりをよくするものです。コリで縮こまった体も、自ずと緩んでいきます。滞りが強いと思う場合、スワイショウ(腕ふり)のように、単純で小さい動作で、めぐる感覚が強く感じられるものを、多めにすることもあります。

 

めぐりやすい体にしておけば、不調は自然と取り除かれます。

 

流れる水は腐らない、と言いますよね。自然を大宇宙、人を小宇宙として対応させるとき、地球に川が流れるように、人の体にも血が流れる、と考えます。

 

太極拳や気功をすると、血が巡ります。体温も上がります。血が巡れば気が巡るのを応援します。気とは、ざっくりいうなら生命力です。人間を車に例えるなら、ガソリンと、車自体のメンテナンスをしてくれます。

 

無為自然という言葉があります。何も為さなければ、自ずと然り、あるがままの姿(川が滞りなく流れる)になります。本来、人間いは生命力が溢れているはずです。太極拳にしても、気功にしても、「する」という言葉を使いますが、実際は「無駄にしていることをやめる」ために「する」とも言えます。無駄に力んでいるところを緩めたり、緊張しているところを緩めたり、です。ただ脱力したり、リラックスするだけでは、流れをよくするまではいかず、そこにはコツがあります。

 

それでも「これはダメだ」と感じるものは、早めに専門家の手を借ります。どんなに鍛錬していても、自分だけでなんとかするのは無理です。人はひとりで生きていませんし、他人の助けは借りるもの、です。

 

そして太極拳は、対処療法ではなく、未病のためのものですしね。それでも、つね日頃から、めぐりのよい体であると、いろいろと変わってくるのですよ。やりはじめて11年、そんなことを、実感しています。

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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武当山日記:站椿功がもらたす「喜悦」

2018.09.26 Wednesday

(武当丹剣のはじまりの部分)

 

站椿功(日本語で言うなら、立禅)は基本で、ここから始まり、ここに行きつく、と感じています。

 

ひたすら、立ちます。

 

立ち方には、いくつかコツがあります。今回も滞在中、先生が説明してくださる時間がありました。

 

このとき、わたしは別の場所で別の練習をしていたのですが、ふと気になって他の人の様子をちらりと見ると、みんな集まって、何やら話を聞いています。初めての人たちに站椿功の説明をしている様子でした。

 

こういう話は、何度聞いてもいいものです。我ながら、いいタイミングでちらりと見たな、と思います。こういうの、「奇跡」と言いますよね。

 

站椿功は、まず体を整え、次に心、そしてこの2つが自然にできれば、最後の呼吸は、自然になります。「寝るときに、どうやって呼吸しようかなんて、思わないでしょう?それは自然にできるものだから。」段階は、3ですね。

 

体の整え方も、ポイントは3つです。

 

1.脚蹬(Jiǎo dèng):脚で大地をしっかり踏む・押す

 

2.收腹(Shōu fù):お腹を収める

 

3.头顶(Tóudǐng):頭を上に

 

3には、意味があります。老子のことばに、「1は2を生み、2は3を生み、3は万物を生む」(老子「道徳経」第41章)とあるとおり、3は、すべてとか、発展を意味します。

 

ひとつめの「脚蹬」は、体重を乗せるのではなく、押すのです。積極的に立ち、しっかり根を下に伸ばすイメージです。これで下に向かう力が大きくなり、逆に向かう力も大きくなります。

 

このときに注意したいのは、膝です。曲げず、のばさず、です。站椿功いは、腰を落とすやり方も多いのですが、この学校のやり方は、腰を落としません。なぜなら「膝に重さのかかるやり方ですると、膝を壊すから」です。

 

これは、膝に負担をかけない体の使い方を学ぶ方法でもあります。「この体の使い方が身についたら、いくら腰を落としても大丈夫」のですが、站椿功自体で腰を落とさなくてもいいのです。

 

膝の扱いは、難しいところです。過去、わたしも長い間、迷い続けました。

 

曲げず、は自分から曲げないこと。伸ばさず、は、わたしの場合はふくらはぎがピンっとはったら、やりすぎというイメージです。膝には衝撃を吸収するためのバネの役割をするため、曲がるようになっています。これをわざと曲げたり、伸ばしきったりすると、バネが効かなくなります。

 

ふたつめの「收腹」をすると、腰(ウェストラインの後ろ側)の反りがなくなります。背中側、おへその裏にある命門(めいもん)というツボが、開くイメージです。腰が反っていると、1で脚で大地を押しても、腰で引っかかって、上に伸びる力が止められてしまいます。

 

このとき、胸を張りすぎていると、腰が反りがちになりますので、要注意です。

 

3つめの「头顶(頭頂)」は、1と2ができていれば、頭は天に向かって伸びて行きます。下から突き上げられて、どんどん背が高くなるイメージです。背骨の関節の隙間も空いて、背中が伸び、体の中には「空(Kōng)」、スペースが生まれます。

 

このとき、あごが上がっていると、首の後ろが反って、下からの力がせき止められてしまいます。あごは、少し引きぎみ、でもきゅっと力まないように。あごを引き続けると、頭がどんどん天に向かって伸びるイメージです。

 

舌は、上あごにつけます。経絡の任脈(にんみゃく:体の前側の真ん中を通っている)と督脈(くみゃく:後ろ側の真ん中を通っている)はつながっていないのですが、舌を上あごにつけることで、このふたつを橋のようにつなぐ、とも言います。

 

余談ですが、歯医者さんが書かれていた本で、赤ちゃんがおっぱいを吸うとき、舌をこの位置において、しごくことで吸うのだ、とありました。この動作は、赤ちゃんの発育にはとっても大切なのだとか。(出典:「舌は下ではなく上に」宗廣素徳 文芸社)

 

成長のシンボルとされる赤ちゃんと同じ動作をするのも、さらなる発展、発育を意図しているようですよね。

 

 

体が整ったら、次は心です。心を整えるには、耳を使います。

 

耳は、外に向かって大きく開きます。聞きに行くのではなく、音が入ってきます。以前、先生は、「心の音も聞く」と話されていました。これがとても好きで、自分の内と外の境界線が、曖昧になっていくような感じがします。個の自分が、すべてのひとつの源、太極に、合わさっていくような感覚です。

 

 

体と心の次は、呼吸です。これは、もう何もしなくても自然にできます。

 

 

腕を前にあげる姿勢を続けていると、肩や腕が痛くなることがあります。「それは、どうすればいいの?」という質問に、先生は、「肩をどうにかするのではなく、3つのポイント、脚、お腹、頭のどこかが整っていない」と話していました。

 

さらに「動いてはいけないと思うから、辛くなる。別に動いてもいい。」とも。○○でなければならない、という考えは、自分を縛りつけて硬くするのですよね。

 

そして、「天と地は友達だ。そこと繋がっていくと、日常のいざこざ、気になっていることなど、どうでもよくなるよ」と言うのです。

 

その感覚を、「喜悦(Xǐyuè)」と、表現していました。外部の要因による嬉しさ(中国語だと、「高兴(Gāoxìng)」とは違い、内から沸き起こる喜びのような感じです。絶対的な喜び、とも言えるかしらね。

 

先生の方の大らかさ、心の広さは、もともとの気質もあるかもしれませんが、やはりずっと站椿功を続けてきたことも、大きいのだろうと、感じます。

 

「毎日10分、やり続けていると、変ってくるよ。」と。

 

腕を上げるのが大変だったら、腕は下げていてもいいのです。とにかく「立つ」こと。立つ力をつけることが、大切です。

 

そうすると、やる前には考えもしなかったことが、いろいろ現れてきます。それが、站椿功だと思っています。

 

言葉では、上手く説明できません。言葉での表現をはるかに超えることって、実際にはたくさんあるのです。

 

 

(站椿功には、いろいろなやり方、いろいろな説明方法があります。わたしはこのやり方が好きですが、これも、そのひとつとして読んでいただくと良いと思います。)

 

 

 

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