武当功夫の根底にある精神:続けていけば、いつかはできる

2017.08.26 Saturday

(武当山 南岩 南天門)

 

中国の武当山に伝わる武当功夫(カンフー)の根底にあるものとして、「続けていけば、いつかはできる」という精神を感じます。

 

最初から知っていたわけではなく、自分がお稽古を続けていくにつれて、感じるようになってきたものです。

 

その精神は、武当山に伝わる伝説の中にも見られます。

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北の守護神である真武(しんぶ)大帝(玄天上帝)。この真武が武当山で修行していた頃、一時、山から下りて俗世間に戻ろうとしたことがあります。

 

「磨針井」のあたりまで下ると、一人の老婦人が太い鉄の棒を研いでいるのを見かけます。不思議に思った真武は、何をしているのかと老婦人に質問します。


すると、「縫い針を作るためだよ」と。真武はこんなに太い棒で縫い針ができるものかと不思議がっていると、老婦人は「鉄の棒を止めずに研ぎ続ければ縫い針は必ずできる」と答えます。これを聞いて悟った真武は、すぐに山に戻って修行を続け、やがて仙人になったと言われています。

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「続けていけば、いつかはできる」という精神は、道士(道教の修行者)が老子の「道徳経(日本語では「老子」)を読むときの姿勢にも表れています。

 

約5,000文字の81章からなるこの文献は、難解です。それぞれの章を読むときに、どんなことを伝えようとしているのか、その時の自分の経験や環境などにより、解釈が変わってくることもあります。道士は、これをずっと読み続けると教えてもらいました。「読み続けていけば、いつかはわかると信じているから」と。

 

ここで大切なことは、結果ではなく、プロセスです。たどり着く過程、探究の中に、豊かな体験や感覚、つながりなど、たくさん詰まっています。

 

プロセスの中では、「こうだ!」と実感しても、常に通過点です。さらに先があります。一生、終わることはありません。

 

身の丈に合った智慧がやってくる、とも言えます。そしてそれは、人が関わっていることもあり、助けられることもありますが、それを含めてすべて自分がやった体験です。それを修行と言う、と思っています。

 

現代は、どれだけ効率的に目標を達成するかに、重きが置かれてきた気がします。それは確実に、社会の発展を促したと思います。でも、行きすぎると、結果を出さなければ価値がないように感じられ、無理をかけることにもなりますし、「できる人」「できない人」という格差も生み出しかねません。人は本来、誰もが平等なはずなのに、です。

 

現代に育ったわたしは、けっこう”せっかち”です。本を読めば、すぐに先を”ちら見”したくなります。人の話も、最後までじっくり聞くより、半分くらいで自分なりに解釈しようとして、失敗することもあります。過去には、”より速くやる”ことを、ゲームのように楽しんでいた時期もありました。

 

人間だもの、そんな時期があっても良いと思います。でも、何事も”ほどほど”を過ぎるとバランスが崩れるように、あまりに効率に傾倒しすぎると、自分の体をないがしろにしたり、心を閉ざして「いやだ、辛い」と言えなくなることもあります。自分の心身のスイッチを切って、感じないようになっていくこともあります。もちろん、気づかずに、です。そして知らずに自分を痛め続けることにもなりかねません。

 

「続けていけば、いつかはできる」という精神の中には、常に今の状態を感じることが含まれます。それに良い悪いはありませんが、腐ったものを食べればお腹を壊すように、やり方が違えば体に不調が出ます。最初はうっすらとですが、たび重なると大きな不調になります。うっすらと現れた時点で、「うん?」と感じられるかどうかは、大切です。そして、腐っていると学習したら、次は避けることも、大切です。

 

(武当山 逍遥谷)

 

実際、お稽古でも、同じことを続けていても、昨日はとても気持ちよかったのに、今日はなんとも感じないこともあります。でも、気にせずに続けます。体の不調につながらないものであれば、昨日が良くて、今日はダメ、というものではない気がするのです。今日はこんな感じだと、そのまま見るだけです。

 

今の自分を見続けること、それを感じ続けることは、同じところにいるようでいて、実は常にチャレンジし続けています。昨日までの経験にとらわれず、今日は新しい気持ちで取り組むからです。

 

目標を立て、その達成だけを目指した場合、あるのは成功か失敗です。成功も、立てた目標の達成に限定されます。

 

でもプロセスを大切にする場合、得られるものの可能性は、未知で無限大です。気づいたときには、いろいろと智慧がついてきます。気が遠くなるほど長いプロセスであればあるほど、可能性は広がります。

 

「続けていけば、いつかはできる」には、絶対的な”いつか”はないかもしれません。”いつか”は、今でもあり、先でもあるという、矛盾しているようで、現実にはあり得るのです。

 

そしてこれは、ひとつのことを続ける場合だけではなく、いろいろあれこれやる場合でも、当てはまると思うのです。長くなってきたので、その話はまた別の機会にしようと思います。

 

 

(武当山 逍遥谷)

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ


太極拳は、そのまま伝えられてきたのか、変化したのか?

2017.08.24 Thursday

(64式武当太極拳) Photo by Xie Okajima

 

先日のお稽古で、生徒さんから聞かれたことです。

 

「伝統的に伝えられてきた太極拳は、そのまま変わらずに伝わってきたのですか、それとも変化してきているのですか?」

 

まず、太極拳の大きな分類から見ると、伝統太極拳という、文字通り伝えられてきたものと、後から編纂された制定太極拳に分類されます。

 

制定太極拳とは、毛沢東が、人民の健康促進のため中国全土に太極拳を普及させようとして、古くからある太極拳をシンプルにまとめるように、伝統拳の五大流派に命じて作らせたもので、1956年に発表されました。一番普及している簡化24式は、この制定太極拳に入ります。制定拳は、その後に表演用の音楽も作られ、音楽に合わせることで、太極拳のリズムを感じ取るようになっているようです。

 

では、古くから伝わった伝統太極拳のすべての套路(型)は、変化せずに伝えられてきたのでしょうか?

 

変化してきていると思います。

 

なぜなら、套路が変化していることを、何度も経験しているからです。同じ先生からひとつの套路を習い、1年後にまた習うとき、小さな変化ばかりだけではなく、ある一部がごっそり抜け落ちることもあります。聞くと、「そこは必要ないから」と、ひとこと。

 

人が違っても、套路は違います。微妙な違いもありますが、かなり違うこともあります。このため、初心者が異なる先生について習うときは、混乱します。「どっちが正しいの?」と言いたくなるでしょうが、どちらも”あり”です。この先生たちが、兄弟弟子同志(同じ先生について修行した人たち)であっても、師匠と弟子という間柄であっても、同じことは起きます。

 

大枠は同じでも、細かいことまで含めると、人の数だけ套路がある、ようなイメージです。

 

どうしてこんなことが起きるのでしょうか?

 

その答えは、以前習っていた気功の先生の言葉の中にあると思っています。「習うときは、きっちり、その通りに習う。でも、たとえば一緒に習った人が3人いたとして、その3人から出てくるとき(その人たちが教えるとき)は、三人三様でよい。」と教えてくださったことがあります。

 

3人いれば、体格も、思考も、違います。筋肉質な人とそうでない人、大らかな人、神経質な人、闘争好きな人、などなどです。同じようにきちんとそのまま習ったとしても、それぞれの体格、理論の理解、何を大切に感じるのか、などによって、形は変わってくるのは自然の流れとも言えます。さらに、元の先生から習うばかりではなく、他の先生に習うなど、個々人の経験から得た内容を入れ込んでいくことで、3人の太極拳は、三人三様になってきます。

 

これらを同じ太極拳の名前で呼ぶこともありますし、自分の名前を付けて、新しい太極拳として創設する場合もあります。

 

これを話したら、「伝言ゲームみたいですね」と、生徒さんから言われました。

 

そうですよね。伝言ゲームと同じ、押さえるところは押さえておかないと、わけがわからないものになってしまいます。

 

だから、習うときは、とにかくきちんとその通りに習うことが大切です。

 

自由というのは、基本があるから、自由に動けるのだと思います。見た目は全然違う動きになっていたとしても、いくつかの型が亡くなってしまったとしても、基本から外れたわけではありません。その基本をしっかり会得するまでは、基本に忠実に習う方が、より自由に動けるようになると思います。

 

また、この変化は自然な変化で、「新しい套路にしよう」という意図が働いているものではないと思います。何度も何度も同じ套路を繰り返しているうちに、「ここはこうする方が自然にできる」と気づいて変化するような感じだと思います。

 

太極拳は、太極や陰陽理論などなどの理論や思想をベースとして、最後にカタチとして成り立ったものだと思えば、表面的なカタチが違うことは、それが単なるカタチではないことを証明しているとも言えます。

 

どれが正しく、どれが間違っているわけではないのです。

 

人が介在して伝わっていくことで、発展もあります。ひとつの太極拳が、豊かに広がっていくとも言えます。

 

そして、違う人の違うものを観たとき、自分の基本がしっかりしていれば、動揺することもありません。「ああ、そうなんですね」と、素直にそのまま認めることもできます。それは多様性の広がりにもつながります。

 

自由でいるためには、基本はしっかり、きちんと、ですね。

 

(中国、武当山の山頂にある、太和宮。道教寺院)

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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太極拳とはどういうものか?

2017.08.21 Monday

(64式武当太極拳)

 

「Calling (天職)」という講演会を主催する友人から、「天職とは?」と聞かれて出てきた言葉は、

 

「やらずにはいられず、深めるほどに豊かな喜びをもたらしてくれるもの」でした。

 

これは、わたしにとっての太極拳のことです。

 

続けてきた理由は、前にもブログに書いたとおり、「やりたかったから」です。やりたい、という気持ちだけで、そこに明確な理由づけがあったわけではありません。だからなのか、「太極拳をすることは、どういうことなのだろうか?」と、よく考えます。

 

太極拳のもたらしてくれるものは、健康や人間関係などたくさんありますが、ここではその中で、根底にあるものについて、書いてみようと思います。

 

套路は、”开太极(開太極)”から始まります。太極を開く、です。

 

この世は陰陽という異なる質で、お互いに助け合うものの組み合わせで成り立っています。天地、動静、男女、などです。一日では昼と夜で、朝になって日が高くなる時間は陽が強くなり、だんだん陰が出てきて夜は陰が強くなるなど、陰と陽はくるくると入れ替わります。季節でも、呼吸(陽:吐く、陰:吸う)でも、同じです。

 

太極は、18世紀に書かれた書物「太極拳経」の中で、陰陽の母と書かれています。つまり、太極とは、陰陽というふたつに分かれる前の、”おおいなるひとつ”(大いなる道)です。陰陽という要素と質は持っていますが、ひとつです。

 

”开太极”とは、おおいなるひとつから、陰陽が生まれることでもあります。それは宇宙の誕生とも言えますし、人の誕生にも例えられると思います。

 

生まれた世界は、陰と陽がある世界です。太極拳の套路は、陰と陽がくるくると転換しながら、進んで行きます。それは生きていくことに重なります。

 

そして太極拳は、すべて攻防で、戦い技の連続です。この世では、どの時代にも争いがあることを考えると、套路は現実を反映しているともいえます。

 

でもそれは、争いを上手く勝ち抜くための術を教えているわけではありません。

 

太極拳の最後は、”合太极(合太極)”です。これは、”おおいなるひとつ”に、合一することです。

 

つまり、太極拳の套路は、”大いなるひとつ”から生まれ、陰陽がある世界で、争いがある中での攻防を経験しながら、体も心も深い”静”の状態へと入っていき、”大いなるひとつ”へと調和していく過程を経験するものです。

 

人は、生まれたときは、心も体も柔かいですよね。赤ちゃんの無垢な様子は、”大いなるひとつ”にとても近い存在とされています。だんだん経験を積むにつれて、「これは嫌だ」とか、「あの人は意地悪だ」とか、心も考えも硬くなりがちになります。場合によっては、身を守るために鎧を着ることあります。そしていつの間にか、鎧も自分の一部のようになってしまい、着ていることすら忘れ、もともとの”大いなるひとつ”の状態がわからなくなってしまいます。

 

太極拳は、いらないものをやめていく道でもあります。着こんでしまった鎧に気づいて、それを脱いで、軽くなっていき、頑なになっている心の柔かさを取り戻していきます。

 

その道は、つらく険しいものではなく、とっても穏やかで心地よいのだということは、套路の心地よさが教えてくれます。

 

套路が進むにつれて、自分と空間を隔てている皮膚という境界線が、だんだんと曖昧になり、自分が周りの空間に溶けてしまうような感覚になります。それは、とても心地良いのです。

 

多かれ少なかれ、現実に争いがある世界で生きるときに、”もともとはひとつなのだ”という実感を持って生きることで、見えてくる世界は変わります。それは自分の行動も、自分の在り方にも、大きく影響を与えます。生きる上で、自分の立ち位置がはっきりすれば、選択もしやすくなります。自分の選択を後悔する、という考えが思い浮かぶことも、なくなっていくような気がします。

 

お稽古を続ける理由は、”もともとはひとつなのだ”と思い出す時間を、持ち続けていたいからです。

 

だから、やらずにはいられず、そしてそれは、深めるほどに、豊かな喜びをもたらしてくれるものなのです。

 

All photos by Xie Okajima

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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焦らず、じっくり育てていこう

2017.08.09 Wednesday

(64式武当太極拳)Photo by Xie Okajima

 

太極拳とひとことで言っても、いろいろな流派があります。

 

わたしがお稽古している武当太極拳は、やっている人が少ないためか、ときどき遠い地方からお稽古にいらしてくださる方がいらっしゃいます。中には、太極拳歴がわたしよりも長い方もいらっしゃいます。

 

先日は、太極拳歴30年、伝統太極拳をお稽古されている先生がいらしてくださいました。

 

年数の長さだけで語れるものではなく、その間にどういう心でどんな練習をどれだけしていきたかもあると思っていますが、一方で、年数にはそれだけの重みがあります。

 

功夫(カンフー)とは、長い時間をかけて熟達していくもの、深めていくもの、という意味があるとおり、10年は10年でしかなく、30年にはその年月の重さがあります。

 

太極拳歴30年の方の前では、わたしは”ひよっこ”です。教えるなど、恐れ多いです。

 

でもお稽古が始まると、わたしは、今の自分にできることを、精一杯お伝えするだけなのです。今の自分が理解している武当太極拳の基本や、体や意識の使い方のコツなど、体感して実感としてつかんでいただくために、いろいろと試みるだけです。

 

こういうとき、わたしは自分に、絶対の信頼があるのだと感じます。

 

自分が完ぺきなわけではありません。わかっていないこともあります。これで終わりというものではなく、これからも変わっていくものです。そして今までそうだったように、来年の今頃には、説明も変わってくるでしょう。

 

不完全であることを受け入れて、信頼とは、これが今の精一杯で、この先もまだ深めていくという、過去から現在、未来に続くプロセスを経験している自分への信頼です。

 

自分への信頼を感じられることは、うれしいです。太極拳をやってきて、心身ともに良かったことはたくさんありますが、これは格別かもしれません。

 

ただし大きな課題としては、気づかないうちに柔軟性が欠けることです。このお稽古のときも、陰陽のとらえ方がこの方の理解とはちょっと違ったのですが、そんなときに、ちょっとかたくなになる自分にも気づきました。こういうところ、ホントにまだまだです。小さいなあ、と思います。

 

この日は、太極拳の発展の過程や、いろいろな流派の話、発祥についての話、いろんなことを教えていただきました。「一緒にやっている中には80代の方もいらして、周りの同年代の方に比べると、本当にお元気ですよ」というお話もしてくだいました。

 

カンフーには、「20年後も同じ体で」という表現があるように、実年齢が70歳でも、見た目は50代の方は、本当にいらっしゃいます。

 

わたしも、80歳になったときに、誰よりも速くしなやかに動けるおばあちゃんになりたいのです。それはまだまだ、当分先のことですね。

 

わたしの教室は、まだまだ始めたばかりです。生徒さんのカンフー歴は、当然、短いですし、ほぼ初心者です。今回、長くやっていらした方のお話を聞いて、焦らず、ゆっくりじっくり育てていこう、と思いました。

 

これから育てていく時間は、たっぷりあるのですから。

 

たくさんの出会いにも感謝して、まだまだこれから、がんばります。みなさま、これからもどうぞよろしくお願いします。

 

(64式武当太極拳。カメハメ波と言われてしまうところ、笑)Photo by Xie Okajima

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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自然の中でお稽古するのは、なぜ?

2017.07.12 Wednesday

(中国、武当山、夕暮れ時)

 

太極拳というと、外の公園でやっているイメージを持つ方が多いようです(これまでに接した方から受けた、個人的な感触です)。

 

「なぜ外なのでしょう」というご質問も、ときどき受けます。

 

今のわたしなりの考えを、いくつかご紹介してみようと思います。

 

 

☀自然に習う

 

自然と大宇宙、人を小宇宙とみる見方があります。自然の中に身を置くのは、大宇宙の在り方を体感し、小宇宙である自分の在り方に気づく機会とすることもあります。

 

たとえば自然界では、水は上から下に流れます。逆は、モーターやポンプが必要です。より自然で楽に力が出るのは、上から下です。人は、いろいろ複雑な動きも出来ますが、反面、やりすぎてしまうこと、力みすぎてしまうこともあります。無駄な力を使わない自然の中に身を置くことで、そのあり方を自分に取り入れようとしています。

(参考:自然と人、大宇宙と小宇宙

 

 

☀丹田

 

太極拳や気功では、丹田を育てるとか、丹田に気を集める、というような表現をします。西洋でも、お腹はストレスが出るところです。ストレスのある人のお腹は硬く、マッサージするとストレスが和らぐという話もあります。西洋、東洋に関わらず、このあたりは大切なようですね。

 

ではなぜ、自然の中、特に山の上でやるのでしょうか?それは山が、地球のおへそ、つまり丹田だとされたからです。大地と天が接する一番高いところだから、地球のおへそです。丹田を育てるのであれば、大宇宙である自然の丹田にあたる場所で鍛錬するのが良い、と考えたようです。

 

伝わっている話によると、老子の弟子だった尹喜さんは、老子が亡くなった後に武当山の中腹、南岩にたどり着いて修行します。南岩からは山の頂、今では金頂と呼ばれているところが見え、尹喜さんは、憧れをもって、そこを眺めていたとか。当時は、今のように山道が整備されていなかったため、山頂に行くことは大変な困難でした。でもついに伊喜さんは、困難を乗り越えて山頂に到達した、と言われています。(参考:老子と道教と武当山

 

地面に足は触れているため、つながりを感じやすいですが、天とのつながる感覚は、だいぶ違います。できるだけ天に近いところ、と考えたのかもしれないな、と思います。

(南岩にある、南岩宮)

 

☀環境に適応する

 

もっと環境的な要因もあります。クーラーの効いた部屋の中は、人工的に作られた環境です。それは快適や便利さをもたらしますが、反面、忘れてしまうこともあります。たとえば、お天気です。雨が降っても雪が降っても、お部屋の中ではお稽古できます。効率的ですが、お天気なら外に出る、雨が降ったら休む、という、当たり前のリズムを思い出すことも、ときには必要ではないでしょうか。効率は良い面もありますが、人のリズムがそれに追いつかないこともあるような気がします。

 

さらに、地球は本当は平らではありません。丸いというのは、技術の進歩のおかげで誰でも知っています。地面は、平らに見えますが、それは幻想とも言えます(ちょっと大げさですが)。でも床は、平らに作られています。そして小石や枝のような、障害物もありません。

 

外でのお稽古で太極歩の練習をしていたとき、生徒さんが、そこそこの大きさの石があるのに、その上に足を置いて、重心をかけようとしていたことがあります。当然、よろけます。「なぜ、そんな難しいところに足を置くの?」と聞いてみました。生徒さんは「えっ......?」。「ほんのちょっと足を動かせば、もっと安定したところに足が置けるでしょう」生徒さん、「はあーっ。そうですね.......」。

 

地面は安全である、と思い込んでいるのか、足を出したそのまま重心をのせるのだ、と思いこんでいるのか、両方か、それに無意識になってしまっているのか、理由はどれかわかりませんし、そこはどうでも良いような気がします。ポイントは、もっと安定して歩ける方法があるのに、なぜそれを選ばないのか、です。足裏というのは、危険を察知して避けることにも使えるのですよ。

 

 

☀この瞬間は、今しかない

 

站椿功(立禅)などをしているとき、目をつぶっていることも多いのですが、終わって目を明けると、目の前に広がる光景に、驚くことがあります。さっきも見ていた場所なのに、初めて見るように、びっくりするのです。赤ちゃんの”はじめて”は、こんな感じなのかな、と感じます。きれい、とか、そんな言葉を覚えるまえに、「うわーっ」と驚く感じ、それを感じるとき、「同じ時は二度と訪れない」と思うのです。

 

行動として同じことを繰り返しているようでも、実は同じことは二度とないのだ、と思うと、毎日は、新鮮で驚きの連続であることが、わかってきます。日常の見方、感じ方、過ごし方が、大きく変わるきっかけになると、思っています。

 

 

いろいろ書きましたが、とにかく外でのお稽古は、気持ち良いのですよ。今は暑いので時間は選びますが、クーラーの効いたお部屋よりも、やっぱりわたしは外が好きです。

 

(武当山の朝)

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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