強くなりたい

2020.01.10 Friday

(2016年9月 武当山)

 

今年を迎えるとき、ふっと出てきたことばは、「強くなりたい」でした。

 

ちょっと自分でも不思議でした。

 

ここ数年、「今年の1文字」書初めをしていて、去年までは「静」→「福」→「空」→「呆」と、静かで柔かく、力が抜ける感じのものが続きました。

 

昨年なんて、阿呆の呆です。(ある意味、これは最強ですが。)

 

なぜ「強くなりたい」が出てきたのかな、それってどんな感じなのかな、と、しばらく思っていました。

 

ことばが先に出て、そのニュアンスがわかっていない感じです。

 

10日くらい経ち、おぼろげに「こういうことだ」と、わかってきた気がします。

 

わたしはカンフーを始めてから13年くらいで、その間に、いろいろな先生に教えていただきました。

 

どの先生からも、その時に必要なことを学べたと思っています。必要なことの中身は、さまざまですが。

 

でも、その中で、強烈なイメージとして、印象に残っている方たちがいます。

 

1人は、李先生です。四節八極拳というめずらしい拳法の伝承者です。娘さんが日本にいらっしゃるため、ときどき来日されて、わたしは2013年の冬にお会いしました。

 

当時は、いろいろ苦しく、弱っている状態でした。

例えるなら、骨が折れた鳥は飛べないのに、飛べないことを悩んでいるような状態でした。

 

その直前までの5年間、東京にあるカンフークラブに所属していたのですが、3年目くらいから、自分がしたいことと、そこでできることの間に溝を感じ始め、5年目には、先生の意に沿わないことをしたとして、破門されました。

 

冷静に思えば、わたしが出て行くのは当然のことです。

 

その先生の場所で、自分のやりたいことが異なる場合、それをやろうとしても無理です。

 

「やめたらどこで習えばいいんだろう」という不安もあり、執着もあり、自ら出る勇気がなく、長い間ぐずぐずしていたところ、「あなたの生きる場所は、そこじゃないよ」という、”神様からの最後のひと蹴り”みたいな感じだったと思います。

 

3年近くひっぱりましたから、そのクラブにも、本当に迷惑をかけました。

 

それでも、離れた後も、その中で上手く過ごせている人もいるのに、どうして自分はそうできないのかとか、やっぱり間違っているのではないか、と、うじうじ後悔したり、自己嫌悪に陥ったりしました。

 

当時、わたしの周りにいてくれた友人たちは、こんなうじうじ話を、あきれるほど聞かされていたわけですが、それでも何度でも耳を傾けてくれたことには、感謝してもしきれません。

 

当時は武当拳をする気功の先生にも習っていたため、、先生がなくなるということはなかったのですが、そこに一緒に通っていた友人から「一緒に行ってみる?」と誘われたのが、李先生のところです。

 

毎朝7時から8時、某公園でのお稽古でした。家から1時間くらいかかる場所で、冬ですから、星を見ながら家を出ていました。

 

それでも先生にお会いするのが楽して、先生の動きを見るのが楽しくて、苦よりは楽しさのほうがはるかに大きかったです。

 

李先生は、大きい体で、いつもニコニコされていました。呼吸をするだけで、お腹も背中も昇り龍のように、ものすごく動きます。それを感じたくて、何度もべたべた触らせてもらいました。体の関節がほぐれているので、動きは柔かく、でもとてつもなく威力があり、とっても強いのです。

 

カンフーは、理解が大切だからと、体を動かすことだけではなく、いろいろなお話もたくさんしてくださいました。

 

ときには、小さな頃は貧しくて靴が買えなかったとか、そんな頃にカンフーの先生に出会い、習うのが楽しくて、そして先生からもとても可愛がってもらって、というような話もしてくださいました。

 

わたしたちが練習している間、ご自分の練習をされることも、よくありました。あるとき、ふと見ると、先生がコロコロの棒を剣にみたてて、とっても嬉しそうに、剣の套路をされていました。

 

「なんて幸せそうに、するんだろう」と、すっかり見とれました。

 

そして自分も、こういう風にしたいのだと、強く感じました。

 

(2014年春 李先生と)

 

もう1人は、今の先生です。武当玄武派第十六代伝人の明月師父です。

 

師父と呼ぶとおり、家族みたいな感じで、いちばん上の先生がお父さん、目上の弟子や生徒はお兄ちゃん、お姉ちゃん、お父さんの兄弟弟子は、おじさん、みたいな構成です。

 

東京で所属していたクラブを離れた後、気功の先生もクラスを閉じることになり、武当拳(中国、湖北省武当山という道教の聖地のひとつに伝わる武術)を習う場所は、武当山だけになりました。

 

1年に2回、ときによっては1回と、ときどき訪れては習い、日本では自分で練習する、というペースに変わりました。

 

李先生が帰国された後の2014年の春、武当山に行きました。

 

明月師父は、2012年の春にご自分の武館を開校されています。それまでは、その上の先生(武当玄武派第十五代伝人 田理陽師父)の武館でコーチとして教えていて、わたしが最初にお会いしたのも、そこでした。

 

開校間もない間は、まだ模索状態だったと思います。

 

「教えることだけしたい」と話す先生は、2014年にはビジネスパートナーと契約していました。わたしが行ったときは、そのビジネスパートナーと折り合いが悪く、先生はしょっちゅう話し合いのために麓の町に下りていました。(武館は、バスで40分くらいの山の上にありました。)

 

今でこそ弟子も育ち、師父がいない間もコーチがいます。さらに、弟子ではない生徒でも、きちんと習っているため、そういう人から習うこともできます。

 

でもその頃は弟子も育っておらず、師父がいない間は、自分でできることをするしかありませんでした。

 

周りの外国人の生徒も失望気味で、今は先生の弟子になっている友人も、「師父のことは尊敬しているけれども、このままだと習えない。ここにはいられない」という状況でした。

 

状況を理解しようと思っても、こんな状態なら、なぜ今は来ない方がいいと言ってくれなかったのか、と思うこともあり、ついに我慢できずに机を叩いて怒ってしまったときもありました。

 

自分の暴挙に驚き、次には「なぜそんなことをしてしまったのか」と自分を責めて号泣しました。

 

破門されたクラブでもケンカし、ここでもケンカです(手は出ていませんが)。どうして、どこでも同じことになってしまうのかと、自分に失望しました。

 

ひとしきり泣いた後、なぜか「怒ってしまったことは悪い。でも、それしかできなかった自分を責めるのはやめよう。最後まで、自分だけは自分の味方でいよう」という思いが出てきました。

 

号泣するわたしの横で、友人が背中をさすりながら、「君は悪くないよ」と言い続けてくれたことも、ものすごく助けになりました。

 

さて、師父がそんな状況を好ましく思っていたわけはなく、誰よりも苦しかったのは、師父だったと思います。

 

ある日、武館にもどっていた師父が、ひとりで気功のお稽古をしている姿を見かけました。

 

その時、「この状況で、この人は、こうやって落ち着きを取り戻そうとしている」と感じました。

 

「師匠の背中を見て育つ」といいますが、そのとおりです。

 

それは、お稽古として套路を習うよりも、ずっと大切なことのように感じました。

 

さらに、そんな状況でも教えてもらえなかったわけではなく、教わった30分の価値は、1週間とか2週間のお稽古を軽く超えるくらいの意味がある、という体験しました。時間の長さとは違うものさしがあることも、知りました。

 

あのときがあって、よかったと、本当に思います。

 

(2012年春 武当山で、明月師父と)

 

さて、冒頭の「強くなりたい」に戻ります。

 

わたしのイメージする「強くなりたい」は、李先生や、明月師父みたいな人たちのことです。

 

自分を見失わないための強さ、と言えばいいのかしら。

 

どんな状況でも、大切にしたいことを大切にし抜く強さ、でしょうか。

 

それは、カンフーの鍛錬から育つものだと思っています。(他にもあると思いますので、わたしが経験している中では、ということです)。

 

1回30分の站椿功をするのも、自分を見失わない、自分が大切にしたいことを見失わない強さを持ちたいからでもあります。

 

途中で諦めるのは、簡単です。今の状況では、誰にも怒られませんし、自分を責めたり、挫折感を感じることも、ないような気がします。(実際、やりはじめて「今日はダメだ」と思ったときには、途中でやめます。まれですが。)

 

苦しくなってきても(このあたりは未熟だからだと思いますが)、「もうちょっと続けてみよう」と思うのです。

 

「諦めるのは簡単だから、それならもうちょっと続けてみよう」と。

 

今日は、そこそこ苦しめだったのですが、「もうちょっと」と思った後に、「絶対にあきらめたくない」という思いが、お腹から浮かんできました。

 

諦めるのは簡単だけど、自分は絶対にあきらめたくないのだ、と強く感じた後に、体はふわっと楽になりました。

 

何を諦めたくないかと言えば、直接的には腕を上げ続けることですが、その奥にあるのは、生きることを諦めたくはない、だと思います。

 

それは、命として生きる、死ぬ、という話ではなく、

 

自分の大切にしたいことを大切にして生きることを、諦めたくない、ということです。大切にしたいことを諦めることは、自分を見失うことでもあります。

 

それが「強くなりたい」ということかなと、今は、思っています。

 

 

中国武術家の松田隆智さん(1938年6月6日 - 2013年7月24日)は、著書の「中国武術の本(学習研究社 2004年)の中で、こんな話をしています。

 

「武術そのものに精神性はないし、武術に精神性を求めるのはまちがっている。大切なのは、修行の結果、精神世界に到達していることだ。」

 

いいことばだと思います。

 

体を緩めて静めれば、心が静まるし、心がワサワサしていたら、体の変化として現れて、気づきます。

 

気功のように、自分だけに集中すれば、養生の側面が強く出ます。

 

武術の場合、相手との攻防がはいってきます。太極拳、八卦掌、形意拳は、武術です。

 

実際、現実世界では、人との衝突や、まわりの環境との衝突など、自分の葛藤など、いろいろなことが起きます。周りとの溝や摩擦を感じながら生きることが、人だと思います。

 

そんなときに、どうするか。

 

外からの刺激に反応するとき、無意識に自分を見失うことがあります。売られたケンカを買うようなときです。目には目を、歯には歯を、とかも同じですね。

 

武当拳は(中国武術はとんでもないほどたくさん種類があるため、他のものはわかりません。太極拳でさえ、武当太極拳しか経験がなく、他の太極拳は、知りません)、自分を見失うことなく、外からの刺激を認識します。

 

基本は、自分の周りが平和で、ケンカが起きないのがいちばんです。

 

もし自分が鎧を着ていたら、相手は戦闘態勢に入るかもしれません。その鎧は、自分の弱さを守るためのものであっても、相手には恐怖心を与えます。ですから、自分は鎧を着ずに、生まれたての赤ちゃんの姿を目指します。緩んでいる体と心とは、そういう状態です。

 

それでも不幸にして起きてしまった場合、それを止めるためのものが武術です。武は、戈を止める、と書きますから。

 

調和を大切にする武当拳では、相手を倒して終わり、というのはありません。自分も守り、相手も守るのが基本です。そのために、こちらに向かってくるやる気を、本人が自分でやめるようにするための手段が、技です。

 

「強くなりたい」というのは、自分の弱さを守るために鎧を着る必要がないように、という意味です。

 

うれしいのは、ときどき生徒さんが「怒りが止まらなかったとき、会社のトイレで気功をしたら、落ち着いた」とか、「站椿功をしたら、ぎゃあぎゃあ責められている騒音が気にならなくなった」という話をしてくださいます。

 

やればわかる、なのですが、それを日常に活かせるのは、すごいと思います。そして、それが古くから伝わってきた伝統の技の価値でもある気がします。

 

社会環境はずいぶん変っていますが、人は、そんなに変わらないですものね、きっと。

 

 

強い人は、優しいです。

 

その存在に救われる人は、少なくないと思っています。わたしのように。

 

 

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「陽だまり」とは

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”放松(ファンソン)”とは?

2020.01.09 Thursday

(こんな風にぐーっと伸びているときも”放松”)

 

太極拳をしている方なら、”放松(ファンソン)”ということばを、聞いたことがあるでしょう。

 

上記は簡体字、繁体字なら"放鬆"と書きます。同じ意味を、単に”松”で表現することもあります。

 

一般的な意味は、

”放”は、放す、自由にするで、

”松”は、緩める、放つ、などです。

 

中国語の構造では、似たような意味を繰り返すこと、よくあるのです。

日本語だと「馬から落ちて落馬して」みたいに、ダメと言われますけどね。(でも、臨場感はありますよね。)

 

両方合わせると、緩める、ほどける、という意味になります。

 

これを体の状態に当てはめると、脱力とかリラックス、と言うこともあるかもしれませんが、太極拳で使う場合、意味するところは、ちょっと違います。

 

例えば、立つ場合、本当に脱力したら立っていられません。ぺしゃりと地面につぶれてしまいます。

 

立つときは、骨という構造を活かし、それを支えるための最低限の筋肉を使います。筋肉を使うため、緊張は生まれますが、立つために緊張させる筋肉は”緊張筋”とよばれ、緊張を感じないものになっています。そのため体感としては「どこも使っていない感じ」になります。

 

立つときに、たとえば腕の力こぶ筋のように、「使っています」感が満載では、立ち続けること自体が苦痛ですよね。そのあたりは、上手くできています。

 

じゃあ、「緊張を感じない」のが”放松”かというと、そうでもありません。

 

体勢によって異なります。

 

腕を上げて木を抱えるような站椿功の場合、立つこと(縦に伸びる)に加え、四方八方に広がる力が働きます。おへその裏にある命門(めいもん)が後ろにひっぱられ(陰)、それとバランスを取るために、腕は前にぐんぐん伸びます(陽)。

 

この状態のときは、体が空気をパンパンに含んだ風船のような感覚になります。

 

風船の表面は、ハリ感がありますよね。言い換えれば、これは緊張です。ただし、必要な緊張ですし、体感もあります。

 

膨らみきって終わりではなく、ずっと膨らみ続けている感覚です。

 

同じ”放松”という状態でも、体勢によって、体感は異なります。

 

まとめていうと、”放松”とは、無駄な緊張がなく、適度にリラックスしつつ、適度なハリ感があるもの、という感じです。

 

「老子と太極拳」を書かれた武術家の清水豊さんは、「鄭曼青*1 は、太極拳の掌の形を、「美人掌」と言っていた。これは、適度な脱力と、指がまっ直ぐに伸びるくらいのテンションが必要であることを、象徴的に示すものである」と書いています。

 

わかりやすい、いい表現だな、と思います。

 

楽に、リラックスして、というと、指先がくるんと丸まってしまうこともよくあります。

 

これは、もともと指が常に緊張していて、まっすぐになりにくいせいもあると思いますし、指先に必要なハリ感がないからでもあります。

 

腕を下ろしてまっすぐに立つときの指先は、水が入った袋のようだとイメージします。水は、下へ下へと流れますから、指先は下に向かいます。そのまま地面に落ちて「さくっ」と刺さるくらいのハリ感です。

 

丸まっていると、めぐりが滞ります。くるっとなっている指先に血がいきにくくなるだけではなく、その手前の腕の部分のめぐりも、悪くなるような気がします。

 

適度なハリ感の漢字は、他にも、体の前に空気の入った大きなボールを置いて、その上に両手のひらを載せる感じ、というイメージも役立ちます。指は伸びすぎず、丸まらず、風船の表面のハリ感と同じような感じです。

 

このように、緩みつつ、適度なハリ感がある、という異なる質感が同時に存在する状態は、わかりにくいかもしれません。

 

 

ことば は、奥深いものだと思っています。

 

先人は、自分が感じたことを伝える手段として、ことばを選び、後に続く者は、それを頼りに、自分の感覚を探ります。

 

最初は、頭の理解になるかもしれません。

 

それを、あれこれ体験して、「こうじゃないな」という間違った経験もして、だんだん自分の感覚として理解していくのだと思います。

 

その試行錯誤は、「これは放松」「これは放松ではない」というように、判定することは必要ですが、どちらの経験も、自分で腑に落ちるためには、等しく大切だと思っています。

 

そうやって、ただの文字だった ことば が、立体的なボールのようになっていくのだと思います。

 

ときどき、他の人と体をとりかえっこできたら、「あなたが言っている放松は、こんな感じなんだね」と交流できて面白いなあ、と思いますが、そうもいきません。

 

ただ、自分の経験が深くなっていくと、他の人がことばで表現したときに、「そうそう、そんな感じ」と共感できるときも増えます。

 

そんなときは、「気が合うなあ」と、とっても嬉しいのです。

 

 

日本人の場合、漢字という共通要素があるだけに、用語の意味を、聞いただけで理解した気分になることもあるかもしれません。

 

でも大切なのは、頭の理解より、体の理解です。いろんな人に聞いてみることも役立ちますが、聞くだけではなく、たくさん体験したらいいと思います。

 

その人が考える放松の状態をやってもらい、あちこちから押してみるのも、おすすめです。(これを、放松功と呼びます。相手の状態を理解するためにも有効で、面白いお稽古です。)

 

それを元に試し続けていけば、だんだんと「こんな感じ?」が形作られていきます。育ってくる感じです。

 

絶対的な正解は、誰にも判断できませんので、ずっと「こんな感じ?」なのかもしれませんが、

 

終わりがないものって、いいですよね。

 

そう言うと、「ゴールがないと、心が折れる」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、

 

無限の可能性が待っている、と思えば、楽しみになってきませんか?

 

 

 

*1:鄭氏太極拳を創始した武術家。

 

(参考:「老子と太極拳」清水豊 著 2013年 BNP出版)

 

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ふわりと宇宙に浮く站椿功

2020.01.07 Tuesday

 

昨年の秋、中国の武当山にお稽古に行ったときに、毎日2〜4回、30分ずつ站椿功をする時間がありました。

 

早朝、午前、午後、夜のうち、午前と午後は通常のお稽古時間内で、必須です。早朝は自主的に、夜は自由参加の練習時間の最初に、みんなでやりました。

 

これだけ集中的にやったのは初めてです。ひとりだと挫折してしまうかもしれませんが、みんなと一緒だと頑張れます。とてもよい機会でした。

 

日本に帰国してからも、1日に1、2回、そのまま続けています。

 

12月中旬に足首を怪我してから、しばらくはお休みしましたが、年末から再開しました。

 

そして、それまではよくテレビを観ながらでしたが、音楽だけに変えました。

 

テレビを観ながらだと気が紛れますし、頑張りやすくなります。少し外に意識は行きますが、そこそこ自分の内側に意識を向けることもできます。このときは、とにかく「続ける」ことを優先しようと思っていました。

 

でも新しい年を迎えるにあたり、「なんだか違う」と感じました。もっと自分の内側にじっくり入っていきたい、と。

 

それで、音楽だけに変えました。

 

好きな曲を選んでいますが、基本は”宇宙を感じるもの”です。まったくの個人的感覚です。

 

定番の中国の古典音楽もありますが、映画「インターステラ―」のサントラ版も、ぴったりです。屋久島の水の音(これは曲ではありませんね)や、クラシックもあります。

 

ゆったり静かな曲も多いですが、不思議なもので、華やかでドラマチックな曲でも、合うものもあります。表面的な静かさとか華やかさとは、どうやら違うようです。

 

”宇宙を感じるもの”というのは、わたしの今の感覚を、助けてくれるからです。

 

站椿功をするときに感じるのは、ふわっと宙に浮くような感覚です。

 

もちろん地に足はついています。

 

縦に伸びる力が働いて、体がバネのようになっていると、ふんわり浮く感じがします。

 

站椿功とは、杭を打つように立つという意味です。その言葉どおり、足はしっかり大地に根をはっていますが、同時に、いつでも動けるくらい軽い感覚もあります。”ずっしり”より”ふんわり”です。

 

なぜ浮く感じがするのでしょうか?

 

縦に伸びる力が働くとは、上に伸びる力も大きくなります。すると周りの空間が、浮力がある水みたいな状態になります。

 

水の中だと、体は浮きやすくなりますよね。ちょうど、あんな感じです。それと地面に足がしっかり根を下ろしているのとが、同居している感じです。

 

ふわっとするとき、気持ちいいのですよ。

 

站椿功にもいろいろあり、腕を下ろすタイプは「楽ちん」なのですが、腕を前にあげるタイプは、ちょっと違います。

 

例えるなら、風船が内側から膨らみ続けている感じなので、パンっとしたハリ感が出ます。そのおかげで関節の隙間が広がるのですが、そのハリ感は、痛いとも違うのですが、「何も感じない」わけではありません。

 

上手く表現できないのですが、コップの水が溢れる手前、表面張力が効いているような感じの感覚でしょうか。ちょっと緊張がありますよね。でも、不要な緊張とは違います。

 

この站椿功、絶妙なバランスの連続で成り立っています。

 

腕を前に上げ続けるためには(陽)、後ろに引くもの(陰)が必要です。そのため命門(めいもん、おへその裏側)を、ずっと後ろにひっぱり続けます。それとバランスを取るために、腕は前に膨らんで進みます。

 

この站椿功、クラスでも10分間は生徒さんもしていただくのですが、あるとき、「3秒だけ気持ちよかった」という生徒さんがいらっしゃいました。

 

貴重な3秒、いい経験で、いい傾向です。こうやって自分だけの経験を重ねていくことは、必ず次につながります。(それを、修行と呼ぶ人もいます。)

 

なぜそれが続かなかったのかは、簡単に言うなら、バランスを崩したと言えばいいのかもしれませんが、もうちょっと言うと、「あ、これ!」と思った瞬間に、その状態を保存したいと思ってしまったのかもしれません。

 

これ、まさに落とし穴だと思うのです。自然の摂理とは、1日が変わるように、季節が変わるように、変っていくことです。それを固めてしまおうとすると、無理が生じます。

 

バランスが取れたら、それを次の瞬間、また新たに取り直さないと、自然からは外れます。

 

静功とも言われ、見た目は動かない站椿功は、こんな風に、実は常に動き続けています。

 

そもそも、静かというのは、地球の動き、宇宙の動きに対して静かであること、と聞いたことがあります。

 

つまりは、地球と一緒に、宇宙と一緒に、同期して動いているわけです。

 

スケールがぐっと大きくなりますよね。

 

ドラマチックな曲でもぴったりくるのは、だからなのかもしれません。

 

30分の站椿功は、わたしの未熟さの現れもあると思いますが、それなりに努力も必要です。ずっとバランスを取り続けようとしても、上手くいかないこともありますし、「いちど腕を下ろして仕切り直そうか」とよぎることもあります。でも、よほどのことが無い限り「もうちょっとがんばろう」と思って続けることにしています。

 

結構、なんとかなるものです。

 

なぜこんなことをするのかというと、やはりこれが基本を教えてくれるからです。

 

たとえば1時間あったとして、ひとつの太極拳の套路を6−8回くらい練習できるとしても、そのうちの30分を站椿功に当てて、太極拳は3回くらいというパターンの方が、得るものは大きいです。

 

1年たてば、大きな差が出ます。半年くらいでも、別人のように動きが変わる人もいます。

 

太極拳は、動きを分解することで、かなりわかりやすくなるのですが、それに体をのせていくのは、自分の感覚です。その感覚は、站椿功をはじめとする基本練習でこそ、育てることができると思っています。

 

そして、今のわたしの場合は、ほかにも理由があるような気がします。

 

自分の源に、ちゃんとつながっていたいからです。

 

本能というのか、本質というのか、魂というのか、なんと言えばいいのかわかりませんが、何か大きなところです。

 

わたしは、けっこう論理的でもあると思っていますが、それは生きてきた中で身に着けた智慧みたいなものです。

 

考えることがダメなわけではなく、順番の問題かもしれません。人は考える生き物なので、感じたことをもとに考えることは、必要だと思っています。でも考えることから始めると、自然にあふれ出てくるものを、不自然に堰き止めてしまうような気がします。

 

考えることからではなく、感覚とかカンから、すべてを始めたいのです。

 

見方によっては非現実的かもしれませんし、それを否定的に見る人もいると思います。

実際、自分でも恐れが出ないわけでもありません。

 

それでも、上手く説明できないのですが、「ここに、きっとある」という予感があります。

 

それは、ちょうど10年前に武当山で感じた「絶望しても、ここに来れば、またやり直せる気がする」と感じたことと、似ているのかもしれません。

 

根拠のない確信、みたいなものです。

 

気功や太極拳をするとき、ときどき「これをやると何にいいの?」と聞かれることがあります。答えられるものも、答えるほうがいいこともありますが、あまり”効果”に期待しすぎると、よい結果にはならないと思っています。

 

その通りにならなかったときの、失望感もありますしね。本当は、他に何か得ているものがあるかもしれないのに、そこに気づかずに、失敗として記憶されてしまうかもしれません。

 

站椿功も、気功も太極拳も、基本のやり方はありますので、それは必ず習うべきです。でもその後、その経験を実のあるものにするのか、その価値に気づかないのかは、自分次第だと思っています。

 

さて、どうなっていくのでしょうね。

 

それはわかりませんが、昔から、次に行きたいと思っているとき、その次が何かわかっていないときは、とりわけ、站椿功に時間をかける傾向があるようです。

 

諦めかけるときもありますが、(そして、本当に体調が悪いときは、やめます)、自分で選んだことだから、辛いことではないのです。やるも、やめるも、わたしの自由です。

 

そう言えるようになったから、大人って、いいですね。

 

 

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夢はまだかなっていないのかもしれない

2020.01.03 Friday

(武当山)

 

「止まった刻(とき) 検証・大川小事故」(河北新報社報道部 著 岩波書店)という本を読んでいます。

 

3.11東日本大震災の津波により、児童70人が死亡、4人が行方不明、教職員10人が犠牲になった石巻市の大川小学校の、そのときと、その後を書いたものです。

 

取材したのは、地元紙の河北新報社です。この地方新聞社は、地味な印象もありますが、広報の仕事をしていたときに「いい記事だな」と思ったことも多い記憶があります。いい記事、というのは、事実が伝わってくる、という意味です。

 

その印象そのままに、連載をまとめたこの本も、丁寧に、根気よく取材して、憶測や感情をできる限り排除して書かれている印象です。

 

事実が訴えるものはすさまじく、読むのはきついです。号泣せずにはいられません。

 

わたしが泣いても、何かに役立つわけでもなく、その人たちの気持ちがわかるわけでもありません。それでも、あのとき何が起きたのかを知ることは、大切なことだと思うのです。

 

記者の仕事って、こういうものだったな、と思い出しました。

 

わたしがイギリスの大学から帰ってきて、大学に残らずに社会に出たいと思ったとき、最初にめざした職業は、新聞記者でした。

 

その仕事についていた友人の影響は、強くあったと思います。

 

今でも、印象深いことがあります。

 

その人とは、日ごろから世の中のいろいろな出来事について話していて、当然といえば当然ですが、その出来事に対して感じたことや思いなども、話していました。信念もあり、熱い思いもある人でした。

 

でもある日、その人が書いた記事を見たときに、そういう熱は、まったく感じられませんでした。普段だったらことばにしている思いなどもまったくなく、さらっとフラットに書かれていました。

 

不思議に思って本人に聞いてみると、「記事は、事実をそのまま書くだけだから。読んだ人が、自由に感じてくれたらいい。」と。

 

続けて「書いたものを読んでくれる人がいると、すごく嬉しくて、『いいヤツだなあ』と思うんだよね。書いたものに文句を言われても、それでもうれしい」と言うのです。

 

事実が語る、ということですね。

 

事実だけをありのままに書くこと自体が、実際には難しく、無意識に、思惑が入っていたり、感情が入ってしまったりします。事実だけを書けること自体が、とてつもなくプロフェッショナルです。

 

新聞社の採用試験に落ちた後は、ニュースを出す側になろうと、広報の仕事につきました。

 

いろいろなメディアの方に会うことになりますが、そこでも「こういうストーリーで記事や番組を作りたい」という”最初からありき”の姿勢で来る取材もあり、「それは事実ではありません」と理解してもらうことには、ときにはかなり苦労しました。

 

当時、限られた職業の人しか世の中にむけて発信できなかったものが、今の時代、誰でもできるようになりました。

 

その恩恵も多くあり、わたしもこうやってブログなどで発信できるようになっています。

 

何か知りたいときに、ネットですぐに検索できるのは便利です。でもその分、プロフェッショナルではない人が書くことも増えて、どうしても信頼性は落ちます。

 

もちろん、プロフェッショナルであっても、人が書くものに、絶対ということはないのかもしれませんが。

 

 

わたしが記者になりたかったとき、取り組みたかったのは、生きることと死ぬことでした。

 

当時、はじめてのホスピスが誕生して、終末医療や尊厳死の話が、いろいろと言われはじめたときでした。

 

こういうものに正解はないと思いながらも、そこにある事実をそのまま出したいと、思っていました。それが誰かに伝わったときに、わたしの手を離れた先で、人を動かすかもしれない、と思っていました。

 

以前書いたブログで、記者にはなれなくても、「夢はかなう」と書いたのですが、ブログで書くことは、感じたことをそのまま伝えることで、

 

あの頃のわたしが願っていた、「事実をそのまま出す」ことを思うと、本当は、まだ何もかなっていないのかもしれません。

 

 

わたしは、会社員だった頃、その会社の人として働いたり、クライアントさんのために働いていたときも、そこというよりは、もうちょっと大きなところを見て仕事をしていたように思います。

 

クライアント企業が世で名声を得る、とか、売上が上がる、とか、そういうことよりも(目先では、それが求められるし、それが大事なのですが)、それが世の中に与える影響とか、そこで働く人への影響とか、「これが世に出たら、当たり前になったら、世の中は変わる」みたいな思いが支えになっていました。

 

残業続きでも、やりきれたあの頃は、若くて体力と気力もあったこともありますが、思いに支えられていたことも大きかったと思います。

 

わたしが大切にしたいものと、企業のそれが合っているときはいいのですが、必ずしもそうでもなく、会社は使いにくいところもあったでしょうし、わたし自身が、その狭間で疲弊するようになりました。

 

信念も、だんだんと、わからなくなりました。

 

集団の利益よりも、自分の信念を貫きたい方なので、タイプ的にみれば、そもそも組織には向かないよね、という面もあります。

そして、環境が悪かったのではなく、ゴツゴツ不器用なわたしが、そこで上手く自分を活かす道を見つけられなかったのだと思います。

 

こうやって振り返っているとき、「あのときこうすれば」という思いがあるわけではありません。

 

迷惑をかけた(にちがいない)ことに対するお詫びの気持ちはありますが、後悔しているわけでもありません。

 

他人から見たら、怠けいるように見えたとしても、そのときの自分としては、精一杯なのではないか、と思います。わたしのことだけではなく、みんな、そうじゃないのかな、と思います。

 

いつも、今しかありません。

 

できたことを認めることも大切ですが、夢はかなっていないと知ることも、そこに絶望がなければ、前に進む力になるような気がします。

 

「まだ、できることはあるよ」と、年末年始、何かと揺さぶられることの多い、この頃です。

 

そう感じさせてくれる、出会いとか体験は、大切ですね。

 

 

1月の 特別クラス】

1月5日(日)13:00-15:00 「麗屋 弘鈴庵の 立って、歩いて、太極拳」 (千葉県香取市)詳細とお申込方法はこちら

 

1月12日(日)14:30-16:30「はじめての形意拳」(九品仏/自由が丘)詳細とお申込方法はこちら

 

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「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

太極道家

講座のご案内は、こちらからどうぞ。

 

 


ニューイヤーコンサートと、辻井伸行さんと、站椿功

2020.01.02 Thursday

(武当山)

 

明けましておめでとうございます。

 

新年を、賑やかに迎えた方、静かに迎えた方、忙しく迎える方、嬉しい方も、寂しい方も、いろいろあるでしょうが、どなたにとっても、新しい年が優しく豊かでありますように。

 

いろいろあっても、人生は捨てたものではないのだ、もうちょっと生きてみようと、思えたらいいな、と思っています。

 

さて、新年といえば、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートがありますね。

 

今年の指揮者は、まだお若いアンドリス・ネルソンスさんでした。

 

2部が始まってから見始めたのですが、ネルソンスさん、とてつもなくチャーミングで、どんどん魅せられてしまいました。恒例のバレエのシーンも、もちろん楽しかったですが、「わたしは、指揮者とオケが見たいのだ。そっちを映してくれ」と思ってしまうほどでした。

 

大きな体が軽やかに揺れて、表情豊かに、全身から楽しさや喜びが伝わってくるようです。あんな姿を見せられたら、ひとめで好きになってしまいます。

 

すごく楽しかったです。

 

ネルソンスさん、性格も謙虚な方のようです。ウィーンフィルを前に、「わたしは小さな存在ですから」とおっしゃったこともあるとか。

 

そんなところも、素敵です。これからも楽しみです。

 

アンコールの最後、お決まりのラデツキー行進曲は、今年から楽譜が新しくなったそうです。

 

これまではナチスに入党した作曲家が編曲したものを使っていたようですが(といっても、その後ウィーンフィルの中であれこれ変更されてきたらしいです)、それを見直し、ナチスの色をすべて取り除いて一新したのだとか。

 

聴いていてわかるほどの違いはなかったように思うのですが、今年はひときわ、意味のある演奏だったのですね。

 

”毎年おなじ”は、うれしいけれど、”おなじ”を続けていくには、変化もあるわけですね。

 

 

続いて、ピアニストの辻井伸行さんの特集番組があったので、そちらに。

 

こちらも途中からになってしまいましたが、ちょうどショパンの「ピアノ協奏曲1番」が始まるところで、3楽章までたっぷり聴くことができました。

 

この方ほんと、天使のようです。

 

強い音も、速い音も、軽やかで天に届くような音だと思うのです。ものすごく美しいです。

 

弾いていないときの体の揺さぶり方まで、なんだか、とてもいいのです。音楽とぴったり。

 

すでに有名なのに、「もっとピアノも、ピアノ以外も勉強して、歴史に名前が残るピアニストになりたいです」とおっしゃるのですよ。

 

ニコニコと笑いながら、です。すっかり魅了されました。

 

 

軽やかな人って、いますよね。体の大きさとか重さとかに関わらず、足取りが軽やかだったり、鳴らす音が軽やかな方は、いらっしゃいます。

 

わたしの先生(武当玄武派第十六代伝人 明月師父)は、体も大きく、体重は90キロくらいあります。

 

でも、大きな体が、本当に軽やかに動くのですよ。知っていても、いつも見とれてしまいます。

 

そして、とても楽しそうに笑います。ちょっと特徴のある笑い声で、「あの笑い声が好き」と言ったら、友人が「あの声は、みんなに愛されている」と。

 

一方、体は小さく、体重も少ないのに、重たい人もいます。

 

ずっと昔の、わたしです。

 

ぺったん、ぺったんと歩いていたようで、「足音で、来るのがわかる!」と言われていました。30歳頃、まだカンフーを始める前のことです。

 

当時はわからなかったのですが、体重がボンッと下に落ちていたのですね。一歩一歩、地面とケンカするように歩いていたとも言えます。

 

 

中国語では「天地人」という言い方があります。中国文化にある概念で、

 

お茶も、蓋碗 (がいわん)という茶器は、茶卓(受け皿?)が地、蓋が天を表し、その間の杯が人、と言われています。

 

天と地の間に人がいて、人が天地をつなぐ、という感覚です。

 

それをじっくり感じられるものが、站椿功です。站椿功は、杭を打つように立つ、という意味です。

 

天地をいっぺんに感じる、というよりは、わたしの感覚では、まず現実に接している大地とのつながりからでした。

 

天とのつながりは、後からやってきました。先生方や、いろいろな人の話を聞いても、それはわたしだけではないようです。

 

縦に伸びる力が効き、バネのように体が使えるようになってくると、頭が天に向かってぐんぐん伸び続ける感じが出てきます。

 

それが進むと、現実の重さに関わらず、軽やかに動けるようになってきます。

 

 

さて、天使のような辻井さんの音が体に残っているまま、站椿功をやってみました。「ふわっと、ふわっと、浮くような感じね」と思いながら。

 

腕を木を抱えるように前にあげるタイプの站椿功は、腕が痛くなってきたり、根性モノになるときもあるのですが、

 

その日は、なんだかとても、ふんわり、いい感じに続けることができました。

 

きっと、辻井さんのおかげです。

 

いい年明けになりました。

 

 

今年も、心を震わせながら、ご機嫌で、自分の命を生きたいと思っています。

どうぞよろしくお願いします。

 

 

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