自然と人、大宇宙と小宇宙

2015.08.06 Thursday
















(中国、武当山)

先日、森に行ってきた友人から言われたことです。
「なぜみんみん(わたしのこと)が、よく中国の山に行くのか、わかった気がする。」

3日間、森で過ごしたうち、初日は雑念だらけだったそうです。
雨も降っており「まだ歩くのかなあ」「ろくに説明も受けてないし」「嫌だなあ」などなど。

でも、2日目からは違ったそうです。
雑念がない。逆に探しにいっても、ない。
ひたすら今、ここにいて、平和で穏やかな心でいられたそうです。
「森って、そうなんだね。」

自然や宇宙を大宇宙、人と小宇宙とし、呼応している、という考え方があります。
自然の中に身を置くのは、大宇宙の在り方を体感し、小宇宙である自分の在り方に気づく機会でもあるようです。

老子の「道徳経」にも、自然と人の在り方についての記載があります。

天はひろびろとしているし、
地は果てしなくて、
ともに
長く久しくつづくものなのだ。
それというのも、天と地は
自分のために何かしようとしないで、
あるがままでいるからだ。
だから、長く、いつまでも、ああなんだ。
(「タオ 老子」第7章 加島祥造 筑摩書房)

老子は、これを知っている人は先を争ったりせず、
競争したりせず、無理をしない、と言っています。

「我をはったりしない生き方だから、
自分というものが生きるんだ」
(前掲 「タオ 老子」)

人は、「大宇宙と小宇宙」という概念を、
本で読んで知るのではなく、みんなどこかで知っているような気がします。
普段は意識にのぼってきていませんが、
自然の中に身を置くことで、思い出すのかもしれません。

わたしの場合は、たぶんそうです。
人は、何かを思い出すと泣く、と聞いたことがあります。
自分の本質に触れると、「あっ、そうだった」と思い出して、
ちょっとびっくりして泣くのです。
6年前に武当山に一人でお稽古に行っていたときが、そうでした。
早朝、一人で山を走っているとき、なぜかいつも涙が出るのです。
悲しくないのに。なんでだろう、とずっと思っていました。

今から思えば、自分にとって大切なことを、自然の中に身を置くことで
思い出していたのだと思います。
争わず、調和を大切にして、心穏やかに生きること、
自然という大宇宙と、わたしという小宇宙が、同じ、
我を張らず、自分を生きること、です。

自分の中に自然がある、とも言えます。

ここで大事なのは、先入観なく、何の期待もなく、過ごすことだと思います。
それ相応の時間や環境が必要な場合もあります。
山のガイドのようなことをしている人は、
「人ってね、山に来ると癒される、という思いを持っていて、
その妄想に乗って『きもちいいー』っていっちゃったりするんだよ。
そこから離れて、本当に自分が感じるとおりに感じるように持っていくのは、
結構大変なの」と言っていました。

わたしにとってはそれが、太極拳をすることにつながっているのだと思います。
期待とか、良い悪いとかを持たず、いつも今にいて、無理せず丁寧に動くこと、
呼吸を合わせることをやっていると、雑念や我が入り込む隙間がないのだと思います。

それでも、日常の中では、つい忘れてしまうこともあります。
最近も、イライラしたばかりです。
実はそれに先んじて、腰痛にもなりました。
痛くなったのは、ちょうど肝臓の裏。
怒ると影響が出るのは、肝臓です。
時間としては順序が逆ですが、こういうことも、ある気がします。

日常では、びっくりすることも、えっ?と思うことも、
いらっとすることも、いろんなことが起きます。
それはそれで、良いのです。老子も「醜いがあるから、美しいがある」と言っています。
ただ、その挑発に乗って争いはじめると、道を外れることになります。
そもそも、誰も挑発していません。自分の妄想だと思うのです。

道を外れたら、戻るだけです。
わたし、まだまだよのう。。。と反省しつつ。。。
(なぜかこういうときの言葉は、おじいちゃん風。)



(武当太極剣)

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