最初からわからなくても、いい
2020.07.28 Tuesday
(武当三十六式太極拳)Photo by Xie Okajima
太極拳に出会って、14年がたちます。
変なことを言うと思われるかもしれませんが、わりと最近まで、「なぜ、これをしているんだろう?」と、思っていました。
好きで、やりたくて、楽しいから続いてきたのですけれど。わからなかったことが腑に落ちたのは、今年に入ってからです。
そもそも、出会いも突然でした。身振り手振りがきれいな女性の「太極拳やっているの。見学できるよ」という一言で、体験に行くことを決め、そこで出会った先生を「すごい!」と思って、習うことにしました。
それまで、全く興味ありませんでした。
「すごい!」と言っても、何も知らないのに(笑)です。でも、”しろうと”の感じる力って、あると思うのです。
それから縁あって、中国の武当山に行く機会があり、2009年からは、今の武当太極拳を含む武当拳を学ぶようになりました。
あの頃は、習っていた太極拳がぴんと来なくて(もちろん、わたしのせいです)、もやもやしていたのですが、武当太極拳を習ったとき、「これは、シンプルでいい。やりたい」と感じました。またしても、何もわからないのに、です。
2009年の7月、ひとりで武当山に2週間お稽古に行ったときは、何も悲しいことはないのにボロボロ泣けてきました。理由はわからりませんでしたが、「もうだめだと思っても、ここに来たら、またやり直せるかもしれない」と感じました。またしても、何の根拠もありません。
それからの10年は、本来の自分として生きることを、取り戻そうとした時間だったと思います。
それまでも、好きなことをやってきたつもりですが、実際は周りの価値観に左右されて、人の評価を自分の価値だと思っていたり、何かしたいことがあれば、常に頭で考えて、「行動しなければ何も手に入らない」と思っていました。
「できない」というのは、やらない言い訳だと思っていたので、はたから見たら厳しい人ですよね。それを、自分に厳しいのだから、いいじゃないかと思っていました(自分にも、人にも、ごめんなさい。)
情熱だけで進むわたしを見て、「あなたは待つことを知らない」とか、「自分のことが好きじゃない」と言ってくれた人たちがいました。
そう言ってもらえたのは、今から振り返ればとてもありがたいのですが、当時はとてもつらかったです。なぜなら、わかればやっているからです。わからないから出来ていないわけで、それを指摘されても、できないのですよ。
ただ、言われたことに反発する気にはならず、「きっとそうなんだろう」とは思っていました。同時に、体に不調が出てきたり、やりたいことが分からなくなったり、も起きたため、「これではない」とは、感じていました。
それでも、行動に移せるほどには、わからないのですよ。
これも、別の意味での「わからない」ですね。
この「わからない」を、わからないまま持ち続けることは、大事な気がするのです。
なぜなら、ベストなタイミングで「わかる」が、やってくると感じるからです。ベストなタイミングというのは、自分の準備ができたとき、受け取れる準備ができたとき、です。
わたしはずっと、「太極拳は、現実的だから好き」と言っていました。心身を静めていくための、具体的な体の使い方や、動かし方を学んだり、自分の体の反応で自分の心を知っていくもので、そのことは、今でも変わっていません。
わたしの場合は、「さっ、気を感じましょう」とか、「丹田を感じましょう」とは、習ったことがありません。それ、具体的ではないから、わかりにくいですよね。
もちろん、気も丹田も大切ですが、直接的に何かをするというより、やり方にそって続けていけば、気は巡るし、丹田は守られるという感じにとらえています。
でも、「入静」という心身ともに深く静かなところに入っていくと、体は重くて軽くて(詳しくは「重いと軽いは、同時にある」(2020年7月18日)、意識は内にも外にも広がっていきます。この世では、一見成り立たない組み合わせが、同時に現れるのを体験します。
こういう状態になると、どうなるかというと、気になっていた日頃の問題が、取るに足らないささいなことに思えてきたり、迷っていたことの答えがやってきたり、「次はこうしよう」と、行動が、自然に決まったりします。
太極拳の太極とは、陰と陽が生まれる前の状態で、宇宙の根源とか、すべてのひとつの源だと、とらえています。陰と陽の要素はありますが、分かれる前の状態です。
陰と陽のある世界が「この世」で、太極は「あの世」にあたる、と思っています。
意識で言うなら、「入静」とは、顕在意識から、潜在意識に入っていく状態です。夢を見ているような状態でもありますが、現実の夢と違うところは、意識が覚醒したまま、夢を見ているような状態に入っていくところです。これが瞑想の状態だととらえています。
潜在意識の深いところは、みんなつながっていて、そこのひとつの呼び方が、太極だと思っています。ワンネスと言うのも、それかしらね。
この深く静かなところに入っていくことを、長いことわたしは、「太極に触れに行く」と表現していました。「太極は、あの世だから、この世には存在しないけれども、それにちょんっ、ちょんっと触れに行く」と言っていたのです。
今、振り返ると、表現が正直すぎて、笑ってしまいます。
なぜなら、太極という「あの世」にずぼっと入ったら、死ぬと思っていたからです。怖かったのです。
それが変わったのは、ある人の演奏を聴いたときでした。
昨年末に、中村天平さんのコンサートに行きました。
お友達の弟さんで、作曲家でピアニストで、なんとなく、その友人の感じから、応援しているのは身内だからというだけではないだろうな、と思っていました。
めったにないのですけれども、出てきた時に、その場の空気ががらっと変わることって、あるのです。太極拳をする人や踊る人の場合は、「はじまるよ」という瞬間に変わるのですが、この方の場合、ステージに出てきたときではなく、最初の音が出たとき、そんな感じがしました。音楽家は、やっぱり音なんだな、と思いました。
ほぼ自作の曲しか弾かないそうで、即興で弾くことも多く、その日もアンコールの最初に、登山家の栗城史多さんをテーマにした即興を弾いてくださいました。
弾く前から、他の曲を弾くときと、ちょっと違っていて、待っているような感じでした。
弾き始めると、どんどん、どんどん出てきます。それが、すごいのですよ。
向こうから流れてくる、みたいな感じです。もちろん、それをこの世で表現するのは、ご本人の力なのだと思うのですけれども。
そのとき、「この人は、大きなところと繋がっていて、それが怖くないんだ」と感じました。
そして、「じゃあ、わたしも大丈夫かも」と、勇気づけられました。
(ご本人がどう感じているかは知りませんので、わたしの勝手な感想と、勝手な思いです。)
ここで持てた勇気は大きくて、今年に入って、感覚は、すごく変わりました。
新型コロナウィルスに伴う自粛期間も、ちょうど自分の内側にぐっと潜る時期としては、良かった面もあります。しばらくして、「もう、怖くない」と感じました。
それまでも、わたしのこの部分に気づいている人はいて、「自分が望むなら、あの世とこの世を行ったり来たりできる」と言ってくれたり、そこを越えられるように助けてくれようとした人もいるのですが、
自分の準備が出来ていないときは、ダメですね。頑固なのか、正直なのか、いずれにしてもタイミングが来ていないのだと思います。
じゃあ、何の準備が出来ていなかったのかというと、たぶん、体だと思うのです。
この世にいながら、あの世にも行く、というのか、あの世を感じながら、この世を生きるためには、体が強くしっかりしていることが大切だと感じます。
そうでないと、持っていかれてしまうからです。「そんなことしたら死んでしまう」と思っていたのは、そんなに外れていたわけではない気がします。
以前、気功の先生から聞いた話で、昔、中国で気功ブームが起きたとき、精神病棟が満床になった、という話があります。気功で到達する脳波と、精神病のそれと、すごく似ているのだとか。「ちょっとしたことで、コロッといってしまう」と話されていました。
イメージですが、意識が広がっていくときに、自分の体にとどまっていられなくて、するっと抜けてしまうのではないか、と思うのです。
全部抜けていないとしても、意外と半分くらい抜けている人、多いのですよ。地に足がついていない、という表現のとおりです。
そして、全身をフルに使えている人も、ほとんどいません。前半分しか生きていない(=後ろ半分が死んでいる)とか、指先が死んでいる、とか、脚が死んでいる、とか、よくあります(死んでいる、は使われていない、という意味です。)
太極拳の場合、動きが多いので、どうやっても体から魂(もしくは心)が抜けてしまうことは、ありません。站椿功(立禅)の場合も、脚をすごく使うし、バランスを常に取り続けるので(つまり、キツイときはキツイ)、離れることは、ありません。
そして、必ず全身をフルで使います。(できないこともありますが、それをできるようにしていくのが、お稽古です)。
気功が危ないわけではなく、種類とか、やり方によるとも思います。わたしが習ってきた気功は、動きは少なくても、全身に意識があって、体はすごく使うので、離れてしまうことはありません。
それでも、体が弱い間は、バランスを取って、心(と魂?)も、それなりの小ささにとどまるような気がします。
続けているのは、きっとその先の予感があるからで、ちらっと大きな心(と魂?)の世界も感じるのだと思いますが、ここは大きな冒険に出るところではなく、準備ができるまで待つところだと思います。「待つ」とは、かつてのわたしが苦手だったところですね。
さて、体が強いというとき、どんなことを想像するでしょうか?
わたしを見たとき、「筋肉ついているね」という人は皆無ですし、筋肉だけではないと思います。
もちろん、生き抜くために必要な筋力はあって、野山を駆け回らない生活をしている現代人は、圧倒的に脚が弱いです。太極拳を始めとするカンフーで、脚を鍛えるのは、年々重くなってくる頭(考えすぎの、頭でっかちも含まれます)と、弱くなっていく下半身とのアンバランスさを解消するためだと、教わりました。
そのため、立ってするものがほとんどです。静坐という座禅のようなものもありますが、割合としては少なくて、わたしは、ほとんどしません。しても5%くらいです。
太極拳で取る姿勢は、上半身と下半身をつなぐ大腰筋を育てると感じますし、大腰筋とペアで使われるハムストリングス(ももの裏の筋肉)も育ちます。
ほかにも、整体師さんやボディワークをする人に、「〇〇がしっかりしている」と言われることはあるので、他にも育っているのだと思いますが、太極拳は「○○筋を育てましょう」みたいなものではないので、詳しいことは、わかりません。四方八方、上から押されても、倒れにいくい体だったら、それでよし、と思っています。
でも、それに加えて大事なのは、意識と体のつながりだと思っています。
見ていると、多くの人が、意識と体がつながっていません。体の様子を把握できないのは、それを感じる感覚が弱いからです。そういう体は、意図したとおりに動きません。
太極拳のお稽古は、つながっていない(つながりが弱い)意識と体のつながりを、取り戻していくことです。それが、感覚を育てることです。
もし筋力があっても、それをうまく使えなかったら、宝の持ち腐れですよね。筋力と、意識とのつながりとの感覚と、両方を育てることなのかな、と思っています。
そのための手段は、いろいろあると思いますが、わたしにとっては太極拳でした。
今年に入って、この体を持って生きることの意味を、強く感じるようになりました。
4〜5歳くらいの頃、この体が自分だということが、不思議だったときがあります。いつも必ずトイレに入ったときなので、トイレには神さまがいて、広い世界とつながっている、と勝手に思っているのですが、
自分の体をじっと見つめて、「これが、わたしなのか。ふーん」と、思っていました。生まれる前の、どこにでもすぐに行ける自由な頃の記憶が、まだあったのかもしれません。
人の意識は、体よりもずっと広く、「あの人、元気かな」と思うと、その思いは届く、と言いますよね。意識の世界にいる人、いわゆるスピリチュアルな力が強い人や、占いをする人の中には、「この体が窮屈」と言う人もいます。
それぞれの感覚なので否定することもなく、「そうなのか、そう感じるのか」と聞きながら、自分はどうなんだろう、としばらく観察してみました。これも、「わからない」ことを、そのままにしておいた例の、ひとつです。
窮屈だとは思っていません。むしろ、この体があるから生きていると、感じました。
わたしは、出会った人や、過ごした場所、経験から出来ていると思っていて、「わたし」なんてものはないと、感じることが多いのですが、
唯一「これがわたしだ」と感じるものは、自分の体です。すると、自分が自分であることが、嬉しくなりました。これって、自分のことが好きってことじゃないかしらね。
体を持って生きることは、「あの世」から見たら制限があるかもしれませんが、体がなかったら、この世では何もできません。
心が深く静かなところに入って、宇宙からのメッセージをキャッチしたとしても、
体がなかったら、それをこの世で表現することはできません。自分を表現して生きることもできなければ、誰かのために何かをすることも、出来ません。
それ、ダメでしょう(笑)。
「かみさまとのやくそく」という映画があるように、人は、生まれてくるときに、神さまと約束してきたのだと思います。ここで言う神さまとは、特定の宗教の神さまではありません。大いなる存在とか、愛と呼ぶ人も、います。呼び名がないので、とりあえず、自分に抵抗がない名前を付けているだけです。
生まれてきて、育っていくうちに、それを忘れてしまったりしますが、生きていくこと、特に大人になることは、それを思い出していくことだと感じています。
小さな子どもの頃の純粋さを取り戻す、とも言えます。保護が必要で不自由な子どもには、純粋さを貫きとおすことは難しいですが、大人なら、できます。「あの人、ヘン」と言われても、もう平気ですものね。
わたしの場合は、「あんなでも、生きていけるんだ」と思ってもらえたら、それは本望でもあります。「こうあるべき」なんて、自分をしあわせにしないなら、どうでもいいのですよ。
わたしが感じる宇宙からのメッセージ(神さまからのメッセージ)は、愛している、です。
宇宙や神さまは、この世のすべてを愛していますが、この世に形として存在しないので、何もできません。そこで、人間の出番です。
神さまのお使い(?)として、この世で体を持って、目に見えたり耳に聞こえたり、手で触れたりする形で、その思いを表現していくのではないでしょうか。
方法は、人それぞれですよね。絵や文学や音楽などの芸術は、その最たるものだと思っていて、今のような時代にも大事で、無くなったら、心が死んでしまうと思っています。
わたしの場合、自分の姿を見せることもひとつですが、誰でもやり方に沿ってコツコツ続けていけば、ここに行けるよ、という方法を伝えていくことも、表現方法だと思っています。
ここ、というのはゴールではなく、こっちの方向、です。わたしも、まだまだ発達途上です。
神さまの「愛している」を、違う言葉で言うと、「しあわせに生きようね」だと思います。
だから、わたしにとっての太極拳とは、自分が自分であることが、めっちゃ嬉しくて、この体を持って生きいることがしあわせだと感じることです。
個という意識は、孤独を生んだと言いますが、個だからこそ、人とのつながることに喜びを感じられます。「あの世」の意識だと、個はなく、ひとつしか存在しないので、つながりの喜びなど感じられません(たぶん)。
孤独は、今の社会の大きな問題でもありますが、それを経験することは、つながりを取り戻すためには、大事なことです。
わたしのこの世での命がいつまであるのか、わかりませんが、与えらえた時間を無駄に短くすることなく、大切にして、体があることをめいっぱい感じて、しあわせに生きようと思います。
ということで、タイトルに戻ると、何かを始めるとき、目的とか、何のためとか、知らなくてもいいのだと思います。それは、経験していくうちにわかってくるし、その経験を積むこと自体が、大事だと思うからです。
なぜ太極拳をやっているのか、わかるために14年⁉と思われるかもしれませんが、実際は、その間に心身はすこやかになり、周りは平和になり、悩みは少なくなり、たくさんのことを、もたらしてくれました。気が遠くなるようなことでは、ないのですよ。
わからなくても続けるコツは、お利口でないことかもしれません。頭で考えるのではなく、心を優先させることで、それはわたしが太極拳を習っている中で学んだ、大きなことでもあります。
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