太極拳とは、アホになる修行である

2020.04.10 Friday

(武当山にて)

 

横尾忠則さんの「アホになる修行」という本があります。

 

ここ20年の著作や対話、ツイッターなどから厳選された言葉集です。大好きで、ときどきぱらっとめくります。

 

内カバーには、

 

自由を獲得するためには、こだわりを捨てること、遊びの精神を忘れないこと、言葉に縛られないこと、頭ではなく身体の言うことを聞くこと、すなわち、アホになることである。アホになることは容易ではない。

 

と、あります。

 

アホになるには、修行が必要です。

 

振り返ってみると、太極拳のお稽古とは、アホになる修行なのだと思います。

 

 

以前のわたしは、とっても頭でっかちでした。

 

何度か書いたこともありますが、10年くらい前、痒湿(ようしん)という皮膚疾患が出て、最初は病名もわからず、あちこち病院に行き、ようやく病名がわかって回復してきたと思ったら悪化し、ひどく落ち込んでいたときに出会った先生が、

 

「頭と心と体のバランスがあって、があって、それが均等だと、にこちゃんマークがきれいに入るけれども、あなたの場合、頭がとがっているから、顔がつぶれてしまっている。そんな状態」とか、

 

「青信号は渡ってもいいけれど、赤信号は止まれ、でしょ。あなたは、赤信号なのに無理やり渡っている。」と言われました。

 

 

その通り、なんでも目標を立てて、計画して行動しなければ、望むものは手に入らないと思っていました。

 

いまでは「頑張るところ、行動するところと、放っておくところ、流れに任せるところを、区別する」(詳しくは、「太極拳が教えてくれる 人生の流れに乗るコツ」)とか言っていますが、

 

あの頃は、頑張ることがすべてだと思っていました。

 

「みんなが、あなたみたいにできるわけではない」と言われたりしたのですが、それは、やらない人の言い訳だと思っていました(ひどいですよね。ごめんなさい。)

 

そんな自分を振り返ると、別の意味でアホだと思うわけですが、当時は自分がアホだとは思っていませんでした。

 

アホは、英語で言うなら、foolです。イギリスの劇作家で詩人のウィリアム・シェイクスピアの作品には、よくFool(道化)が出てきます。

 

名言のひとつに、

 

A fool thinks himself to be wise, but a wise man konws himself to be a fool.

愚者は自分が賢いと考えるが、賢い人は自分が愚かなことを知っている。

 

と、あります。賢いと思っていたかどうかは別として、頑張れば、たいていのことは何でもできると思っていたので、あの頃の自分は、”自分が賢いと考える愚者”ですよね。(裸の王様のようで、恥ずかしい...)

 

痒湿は、かゆみで夜も眠れなかったり、コリっとした大きな湿疹が出たり、結構きついです。首から下に全部出たので、見た目も美しくないですし、かゆくて眠れなかったときは、辛かったです。

 

さんざん自分の疾患を嫌い、自分に悪態をつき、いいかげん底を打ったのか、「自分のことは、自分が守るしかない」と転換するときが訪れました。それからは、何よりもとにかく自分を優先させようと決めました。

 

頭でっかちのクセを直そうと、療養を兼ねて、武当山に2か月間、行くと決めました。カンフーの学校に入って、何も考えず、ひたすら体を動かしたら、何か変わるかもしれないと思ったからです。

 

もともと決めたことをやり続ける力はあるようで、師匠に教えられたとおり、うまくいっても、いかなくても、ひたすらやり続けました。それだけ、切羽詰まっていたとも言えます。

 

そのときは形意拳を習っていて、基本はひとりで練習するのですが、あるとき師匠が、「2人で歩幅を合わせて練習しなさい」と言ってきました。

 

相手は、わたしよりずっと背の高いドイツ人です。その彼は、「体の大きさが違うから、合わない」と不服を申し立てます。

 

ある意味、当然の言い分です。歩幅は、それぞれ自分の体にあった長さというのが、それまでの練習だったからです。

 

でも師匠は「やりなさい」の一点張りです。そう言うなら、そこには何か意味があるはずです。文句を言い続ける彼に、「わたしがあなたに合わせるから、自分のペースでやっていいよ」と言い、しぶしぶ納得させました(それでもブツブツ言っていましたけど。素直ではありませんが、正直ではあり、憎めません。)

 

練習のとき、師匠は、べったりそばについているわけではありません。生徒の中には、「あまり教えてもらえない」と文句を言う人もいたのですが、わたしは「来るときは来る。来ないときは自分で練習しろ、ということだ」と、とらえていました。

 

考えないのですから、文句もありません。

 

実際、ひとりで練習する時間は大切です。師匠は、ひとりで練習できそうになるまでは、そばで教えます。なんとなく方向性があってくると、ひとりで練習します。しばらくして、それが1日後とか2日後のこともあるのですが、やってきて、ずれていたら、また指摘する、みたいな感じです。

 

日本でのクラスは、1時間半とか2時間とか短い時間なこともあり、その間、先生が離れることは、ないでしょう。わたしも、ずっといます。

 

でも本当のことを言えば、それだけでは「自分で動きを組み立てていく」とか「自分で感じていく」部分が足りません。自分で育てるしかないところ、時間がかかるところ、いちばん大切なところが、欠けてしまいかねません。

 

そんなことも、考えずに、言われたとおりにしたからこそ、わかってきたのかもしれません。

 

この2か月、すごく順調だったかといえば、そうでもなく、ケンカしてお世話になっていた家を出ることになったりと、なかなか激しい日々でもありました。

 

それでも、自分の思いを隠さずに、正直に言って行動することを、稚拙ながらもやり始めたときでもありました。そのときのわたしの主張が、まっとうなものだったかは別として、ですが。(たくさん迷惑もかけました。)

 

そして、どんなことがあっても、お稽古だけは続けました。(ただし、1か月たったところで、ものすごい腹痛に襲われ、ほとんど食べずに3日寝たきりだったときを除いて。)

 

その結果、頭で考えてから行動するクセは、行動してから考える、に変わりました。「結局、頭は使うのね(笑)」とは思いましたが、頭だけでぐるぐるすることは、なくなりました。

 

 

今でも、頭がぐるぐるするとき、迷いが出たとき、「こんなことしたら、おかしいよね」みたいな見栄とか、へんな道徳観が出てきたときは、

 

いったんそれを置いて、站椿功という立禅をします。

 

すると、次の行動が決まったりします。

 

決まらないとしても、頭がぐるぐるする状態からは、抜けられます。

 

站椿功は、足を鍛えます。それは「下半身が弱くなってくるのに対して、上半身がどんどん重くなっていくからだ」と教えてもらいました。年を取ると転びやすくなるのも、そのひとつです。上半身が重くなる大きな理由に、頭でっかちもある気がします。

 

弱くなる足を強くして、もともとのバランスを取り戻します。

 

頭と心と体のうち、体だけは常に正直です。頭は、世間の常識などに惑わされやすいです。心は嘘をつきますが、心の状態は体にも現れるため、体から心を知ることもできます。

 

自分の体を観察して、鍛錬していくことは、自分のバランスを取り戻すことにもつながります。

 

そして、自分の内側の深いところに静かに入っていくことで、表面意識にはない、潜在意識の領域にある、自分の本当の願いに触れることもできます。

 

站椿功をすると、ざわざわした気持ちが落ち着いたり、「こうしよう」と決められるのは、そのおかげだと思います。

 

 

それでも、そんな站椿功を日々続けているとき、「アホじゃないか」と思うことがあります。

 

これをやってどうなるのか、どんないいことがあるのか、わかっているわけではありません。

誰に強制されたわけでもなく、誰に褒めてもらえるわけでもありません。

 

今だに30分続ける自信があるわけでもありません。毎回「やってみよう」と思い、多少辛くなっても、やり続けることを選びます。

 

でも、やる前からわかっていることなんて、本当はないですよね、きっと。

 

そして、知っていることよりも、知らないことの方がはるかに多いとわかると、わからないことに違和感を感じなくなります。

 

わからないままで、いいのではないかしらね。

 

なぜだかわからないけれども、「やろう」と、毎日、思うのです。アホって、そういうものじゃないのかしらね。

 

 

前に友人が、わたしに、「あんなに山に行って修行しているのに、すごく普通の人なんだよね。それがすごく不思議で。」と言ったことがあります。聖性みたいなものが感じられない、というのでしょうか。

 

聖人とは市井に紛れるものだと思っていて、聖人だとバレてしまうようでは、まだまだだと思っているのですが(わたしはそもそも、聖人ではありませんし)、

 

今は、「そうか、わたしはアホになるための修行をしているからだ」と思うのです。

 

子どもの頃は、お利口であることを褒められたりします。

 

子どもの時代には、それなりに世間を知る必要もあって、「これはいい、これはダメ」という中に、いいことをする=お利口となることもあり、それも大事な経験です。

 

でも、大人になったら、お利口になんて、ならなくてもいいです。

 

それよりは、子どもの頃に大事にしていたもの、純粋な思いを、誰にも理解されなくても、表現していくのだという力をつけるほうが大切で、

 

それはアホになる修行であり、わたしにとっては太極拳のお稽古が、それなのだと思っています。

 

 

オンライン視聴できる動画レッスンを開始しました。

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”おうちで過ごそう”応援企画として、自宅でカンタンにできるワークをご紹介しています。詳しくはこちらから。

 

 

(上の站椿功が終わった後、ぼーっと山を見ている顔)

 

 

「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。人が集って、一緒にお茶でも飲んでなにげない話をして、ほっとする場所でもあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

太極道家

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