山と海と、この世とあの世(その1:山)

2020.04.04 Saturday

(中国 湖北省 武当山)

 

2008年から毎年お稽古に行く中国 湖北省 武当山は、文字通り、山です。

 

標高1600mくらい、高い山ではありませんが、道教の聖地の中でも武術が発展した場所として知られています。

 

72の峰があり、33の道教寺院が建ちます。赤い壁に緑の屋根が山に映えて美しく、1994年に世界文化遺産に指定されました。

 

(紫霄宮)

 

山という場所は、修行に選ばれる場所です。

 

禅寺、少林寺のお坊さんがする少林拳も、嵩山という山で発達しました。

 

なぜ山かというと、「天と地が接するところ、丹田にあたるから」と聞いたことがあります。宇宙の丹田なら、よい修行ができると考えたようです。

 

武当山にまつわる、こんな話があります。老子の弟子の尹喜(いんき)は、老子が亡くなった後、武当山にたどり着き、最初は南岩という中腹で修行していました。そのころ山頂まで行く道はなく、そこは憧れの地でした。

 

南岩からは、山頂が望めます。尹喜は毎日、山頂を眺めて憧れを募らせ、ついにある日、山頂に到達したそうです。

 

山頂とは、天にいちばん近いところですからね。

 

現在、武当山の山頂(金頂)への道は、人間界から天界に行く境目にも、たとえられています。(詳しくは「武当山の頂上:金頂への道」)。

 

また北の神様である真武大帝は、悟りを開いた後、山から天に昇天したという伝説も残っています。(詳しくは「旧暦9月9日の重陽節」)

 

武当山には、仙人と呼ばれる人もいます。山の洞窟にある太子洞を20年以上守っている道士、は、とても尊敬されていて、人々が次から次へと訪れます。

 

日本のテレビ番組で紹介されたとき、「仙人と呼ばれることを、どう思いますか?」と聞かれ、「仙人は、山の人、と書く。まだまだ人だよ。」と答えていました。

 

わたしにとって山は、天に近いところでありながら、人の住む場所です。

 

地に足をつけて、命が終わったら還っていくであろう、天とのつながりを感じて、日々鍛錬する場所です。

 

 

太極拳は、重くて軽く、緩んでいて緊張していて、というように、一見、相反する感覚が共存します。大地にしっかり根をはりながら、ふわっと宙に浮くような感じもあります。

 

理屈で考えると、重いか、軽いか、どちらかになりますが、

 

押されても倒れない様子をみたら、重い、と言えますし、

足を踏みだして進むとき、ふわりを足が着地する様子を見たら、軽い、と言えます。

 

緩んでいて緊張しているのは、まさに”放松(ファンソン)”と呼ばれる状態です。

 

站椿功をしているときは、大地に根をはりながら、ふわっと宙に浮きあがる感覚で、これも重くて軽い感じです。

 

意識も、夢見心地です。覚醒はしていますが、意識は広がっています。

 

わたしの師匠は、「太極拳をしているときは、夢を見ているみたいなもの」と言います。

 

夢は、意識と無意識の接点だと言われます。

 

意識は、外に向かいがちで、現実に社会生活や活動を行います。

 

無意識は、深く自分の内側に広がる世界です。命の源とかルーツにつながるもので、心(真心)の向くままに、というときは、この無意識とつながっている気がします。「なぜかわからないけれど、どうしてもこうしたい」と感じるときです。

 

意識と無意識がバラバラなまま、生きることもありますが、

つながっている方が、自分が心から望むこと(無意識の領域)を、現実化(意識の領域)していきやすいでしょう。

 

すると、一般的に「よい」とされる生き方ではなく、期待された生き方でもなく、自分が本当に望む人生を送り始めます。

 

この意識と無意識の重なる領域があり、そのひとつが、眠っている間に見る夢だそうです。

 

ネイティブ・アメリカンの人たちは、夢を大切にしていて、朝になると家長が家族を集めて、見た夢を語る時間を持つと聞いたことがありますが、それもうなづけます。

 

太極拳をしているときの意識も、夢の状態に似ていますが、もっと覚醒しています。ぼんやりしていながら覚醒しているのは、これも、違う質のものが共存している状態ですね。

 

これを瞑想と呼ぶのだと思っています。

 

山田孝男さんという瞑想の専門家が、瞑想とは、α(アルファ)波やΘ(シータ)波の先にあるもので、覚醒している、と説明されていたことがあります。

 

α波は、リラックスしているときに出ますよね。

 

Θ波は、まどろんでいる状態で、セラピストさんが施術をするとき、お客さまがこの状態になるのが理想的だと聞いたことがあります。寝る手前というのが、潜在意識にアクセスしやすいからだそうです。

 

セラピストさんに施術してもらう場合は、受け身ですから、自分がそこまで覚醒していなくてもいいのかもしれません。

 

でも、太極拳や站椿功は、受け身ではありません。やるのは自分です。

 

太極拳は動き続けるので、眠ったりできません。

 

站椿功は、やり方にもよりますが、腕を前にあげて木を抱えるような場合、背中と腕でバランスを取り続けるので、眠る余地はありません。

 

意識は覚醒していますが、ぼんやりしていて、ときどきわたしは、この”ぼんやり”から抜けて、我に返ってしまうのが怖い気がします。

 

最近は、あまり怖さを感じなくなってきましたが、無意識と意識の世界にまたがっているところから、意識だけの世界に戻ってしまうのが、怖いのかしらね。

 

(武当山の武館にて)

 

師匠は、「站椿功をすると、日々の悩み事が、ささいなどうでもいいことに思えてくる。」と言います。

 

わたしは、悩んで頭がぐるぐるしてくると、站椿功をします。すると、その間(早いときは、結構すぐ)とか、終わった後に、自然と答えが出ます。

 

站椿功を見よう見まねで始めたのは10年前ですが、最初からそんなことを知っていたわけではありません。でも、なんとなく行き詰まり感があるときは、いつも站椿功を熱心にやっていました。

 

いいカンをしていたのかもしれませんし、そういうものだからなのかもしれません。

 

今は、昨年10月に武当山に行ったとき、毎日30分×2~4回、站椿功をしていたので、その流れで続けているのですが、

 

今のように先が見えにくく、次はいつ武当山に行けるかわからない中でも、「今年は站椿功をすればいい」と、不安はありません。

 

この状況を歓迎しているわけではありませんが、いい流れだなあ、うまくできているなあ、と思います。

今の状況が1年前だったら、もっと不安だったかもしれません。

 

1回30分の站椿功は、いまだに「絶対できる」自信はありません。

 

あっという間のときもあれば、きつく感じることもあり、そのときによって違います。

 

ハムストリングスや大腰筋は鍛えられるので、足は強くなりますが、「強くなってきたな」と思ったら、足が弱くなったかのように、しばらく辛かったこともあります。

 

太極拳や站椿功は、瞬間芸のようなもので、その瞬間に対応します。そう思うと、体の調子や心の状態が変われば、同じようにいかないのは、当然ですよね。

 

站椿功を続けることで、どこに行くのか、わかっているわけではありません。

 

ただ、意識の領域に上がってきていないだけで、無意識の世界では、わかっているのだと思います。

 

この世では、人は行動する生き物です。”流れに乗る”と言いますが、最初のひと漕ぎは必要だと思っています。回りはじめたら、余計に自分で漕いでしまうと、流れを止めてしまうこともあるため、行動すべきところはして、あとは待つのだと思います。

 

站椿功や太極拳をすることは、行動する部分です。

 

大人は、子どもみたいに夢を見ないと言います。意識の現実の世界で、あまりにも疲弊してしまい、ノンレム睡眠という夢を見ない時間が長くなるのだとか。そして現実にも、「こうなりたい」「これがしたい」と、夢を見ることも少なくなるかもしれません。

 

現実の意識の世界で、周囲から笑われたり、自分で「無理だ」とあきらめてしまうことも、ありますよね。

 

でも、夢を見る力は、大人にもあります。

 

自分の内側に深く入っていくことで、夢を見る力を活かせると思っています。

 

ここで書いた夢に関する話は、いま読んでいる「ひとの こころ と からだ:いのちを呼びさますもの」(稲葉敏郎著 アノニマ・スタジオ)からヒントを得ているのですが、

 

本の中で稲葉さんは、こう書かれています。

 

「個」という狭い穴を掘り、地下へと通じて「普遍」という広い場所に到達することができれば、それは自分以外の人たちの心をも動かし、勇気づけ、元気づけ、心が震える作品としてこの世界に顕現してくるはずだ。」

 

自分の内側は、外にくらべたら器は小さく見えますが、本当はすごく深く、個を超えて、すべてのひとつの源(太極)につながっていき、

 

内に深く入ったときには、それとバランスを取るように、外にも自然に広がっていく感じがして、それは内という陰の基盤があれば、外という陽が自然に発生するという、陰陽のバランスでもあります。

 

 

武当山という場所を表現するとき、わたしはよく、「何もないけれど、すべてがある場所」と言います。同じ場所、同じ景色を、毎日、何年にもわたって、あきることなく眺め続けられます。

 

同じ感覚が二度とないのは、日々の鍛錬と同じです。

 

山は、この世で生きながら、もっと広いあの世に思いをはせる場所で、すべてがある場所です。

 

同じように、人にもきっと、すべてがあります。誰の中にも。

 

望む人生を生きたいなら、今の居場所から出続ける勇気を持つことだと、言います。

 

いつもと違う道を歩く、みたいなことでもよく、そうやって行動から変える方法もありますが、内に深く入って無意識と意識が重なるところで過ごす時間は、わたしにとっては、どう行動するかより前に、大切なことです。

 

山は、そんなことを感じさせてくれた場所です。

 

(一緒に海も書くつもりでしたが、別の機会にします。)

 

 

※「その2:海」は、「涙」という記事になりました(2020年5月22日)

 

(南岩宮)

 

「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。人が集って、一緒にお茶でも飲んでなにげない話をして、ほっとする場所でもあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

太極道家

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