ほんとうはみんな、やさしい人

2020.04.01 Wednesday

 

人は、ほんとうはみんな、やさしい存在だと思っています。

 

思っているというよりは、信じている、と言った方が近いかもしれません。

 

でも、そういうやさしい人達が、やさしいままでいられないのは、環境や状況、人との関係や、ことの成り行きなどの影響からです。

 

そんなしがらみのないところでは、比較的、やさしいままでいられます。

 

わたしはクラスを開催するとき、参加してくださるみなさんが、それぞれ自分を大切にできるように、心がけています。人と自分を比較して落ち込んだり、優越感を覚えたり、そんなことが起きないようにと、思っています。

 

人によって対応は変えますが、それは差別ではなく、区別です。「Aさんに言うことは、参考にしてもいいけれど、他の人に必ずあてはまるわけではないからね」とも、説明します。

 

気づきや、進み方も、人それぞれです。人の感想や様子から学べることも多いので、お互いの話を聞いたり、それぞれにアドバイスもしますが、あくまでも「Aさんは今、こうね。Bさんは、こうなのね」です。

 

こういう環境だと、やさしいままでいられやすく、その顔が垣間見えるとき、「みんな、かわいいなあ」と思うのです。

 

そうは言っても、”垣間見える”だけで、ずっとではありません。

 

なぜなら、普段の生活で身に着けてしまった鎧という名の緊張を、着たままクラスにやってくるからです。

 

あまりにも長い間、身に着けているため、本人は鎧を着ていると気づいていません。

 

それをひとつずつ、「ここ、なにかついているけど、いらないよね、ね?」とささやき続けると、本人が「要らないな」と腑に落ちたタイミングで、自然と脱げていきます。

 

無理やり脱がせてしまうと、本人のアイデンティティが崩壊してしまうかもしれないため、そんなことはできません。

 

ささやき続けると、最初は聞こえないこともありますが、いつかは届くこともあります。

 

ひとりの人には、層がいくつかある気がします。いちばん奥にあるのが、本来のやさしいままの存在だとして、他に、表に見える顔がありますよね。

 

その間に、違う顔を持っている場合もあります。

 

例えば、人当たりもよく、オープンな感じで、やさしそうな人(これが表の顔)が、一皮むくと、力で推し進めようとするような性質だったりします(これが、真ん中の顔)。

 

太極拳のお稽古は、体の使い方のクセから、その人の生き方のクセが見えてくることもあり、わたしはこんな場面に、よく遭遇します。本当はきついだろうな、と思うのです。

 

太極拳を教えているのは、やさしい存在が、やさしいままでいられるために、という願いからでもあります。

 

 

さて、やさしい人が、そのままのやさしい存在でいられないのは、環境や状況、人との関係や、ことの成り行きなどの影響から、と書きました。

 

そのため、いろんな場面で人のせいにしたり、状況のせいにしたりするのも、無理ないことだと思います。

 

でも、それでは何も解決しませんよね。原因を外に求めている限り、自分には制御不可能です。

 

人生の主役は自分のはずなのに、これでは周りからの刺激に翻弄されていますよね。

 

イラっとする気持ち、怒りや不満を、ないことにしようとは言っていません。その感情を認めないと、なかったことにされた負の感情が、爆発しかねません。

 

嫌なものは、嫌だと認めた上で、どうするか、です。

 

嫌だという気持ちの奥には、自分が大切にしたいものが、大切にされていない、という思いが隠れています。

 

大切にしたいものは、人それぞれです。それは、ずっと子どもの頃から大切にしたかったものかもしれません。

 

子どもは自由と言いますが、庇護がないと生きていけないこともあり、意外と不自由です。でも、大人は、自分で自分の居場所を決めることができます。自分の大切にしたいものを大切にできるのは、大人だからこそです。

 

嫌な人から逃げる、嫌な場所から離れるのも、ひとつの方法です。将来、ともに過ごすことができる日も来るかもしれませんが、今は、そのときではないかもしれません。

 

「そうはいかない」という声が聞こえてきそうですし、わたしも、そう言っていたこともあります。でも、大げさかもしれませんが、自分の命よりも大切なものは、なかなかないのではないでしょうか。

 

自分の人生の主役が自分であるなら、選択権は、いつも自分にあります。

 

知らずに我慢していることもあるため、ヒントになるのは体の反応です。負の感情があるとき、体の緊張にも現れます。緊張してる状態に気づくことで、自分の心の動きも感じられるようになります。

 

その負の感情を、持っていたいなら持ち続けることもできます。要らないなら、手放すこともできます。持ち続けたとしても、知らずに持っている場合と、自覚して持っている場合では、だいぶ違ってくるのではないでしょうか。(ただし、持ち続けるのは自分を痛めてしまいかねないので、将来的には減らしていってほしいですが。)

 

 

他にも、自分の存在を感じたいために、人と衝突してばかりのことも、あると思います。ぶつかると、物理的に(ケンカの場合は、エアーでですが)、自分の存在が感じられますから。「わたしは、ここに存在している」とわかることは、生きていく上では大切なことです。

 

ただしこの場合、自分の外側を感じるだけかもしれません。鎧を着ているなら、鎧がぶつかるだけで、自分の内面の存在までわかるわけではありません。内面は常にありますが、外の刺激は消えてしまいます。ケンカし続けるしかありません。

 

こういう場合にも、自分の内に意識を向けることです。体の緊張に気づいたら、それを外していく繰り返しは、本当に役に立ちます。体の緊張は、心の問題からくることもあるため、自分の心に気づくきっかけにもなります。

 

 

表向き、やさしそうでオープンそうな人の場合、人や状況のせいにしないこともあるでしょう。でも、なんでも力で押し通そうとしているのを見ると、何かの理由で「そうしないと」という妄想に取りつかれているようです。理由までは、わかりませんが。

 

こういう場合も、無理ない体の使いかたを練習しているうちに、要らないことに気づいていくこともできます。本人が「要らないな」と思ったら、手放せます。本来、自分が望まない生きグセを、自分のタイミングで、手放していけます。

 

 

太極拳の、ひとつの効用は、無駄な緊張に気づいて手放していくことです。それで体も楽になりますが、本来の、やさしいままの自分が現れやすくもなります。自分の人生の主役でいやすくも、なります。

 

わたしはときどき、太極拳は引き算、という言い方をするのですが、それは何かを纏うのではなく、本来の自分に戻っていくだけだからです。

 

もちろん、他の方法もあると思います。ただわたしが知っている方法が、太極拳というだけですからね。

 

不安が多い日々ですが、そういうときでも、自分の内側に光を当てて、やさしいままでいられますように。

 

 

「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。人が集って、一緒にお茶でも飲んでなにげない話をして、ほっとする場所でもあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

太極道家

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