音の粒と、体と心の粒

2020.02.18 Tuesday

 

站椿功をするときは、音楽をかけることが多いです。

 

今朝のお供は、映画「マチネの終わりに」サントラ盤。クラシックギターの音が、やわらかく染みてきます。

 

大好きなバッハの無伴奏チェロ組曲が入っているのもうれしいところですが、いちばんのお気に入りは、オリジナル曲の「幸福の硬貨」です。映画に合わせて、作曲されました。

 

音楽をかけながらの站椿功をする理由は、単純に、きつくなってきたときに応援してもらえる気がする、というのもありますが、それだけではありません。

 

ひとつは、音の粒です。

 

いい音楽は、音の粒がきれいにそろっている気がします。

 

強弱だったり、速いテンポ、遅いテンポ、間の取り方とか、いろいろありますが、

強い音はしっかりと、ささやかな音はひっそりと、間もちゃんとそこに存在している、というように、それぞれの役割を果たしていると、「粒がそろっている」感じがしますし、それが調和を作る気がします。

 

聞こえる音自体は均等ではありませんが、それぞれが、それぞれであるという意味では、均等です。

 

そして、ひとつの曲というまとまりもありますが、曲と曲の間の、微妙な間というのも、全体の調和には大切な役割を果たしている気がします。終わりとはじまりが、まざっているところですね。この静かだけれども、動き出しそうな余白が、好きです。

 

音は、機能的には耳から聞くのですが、感覚としては、体で聞く感じです。わたしの場合は、中心部分の胴体で聞く感じが強いです。

 

粒がそろった音が体の内側に響いてくると、それに体の動きも同調していきます。

 

站椿功は、見た目は静止していますが、実際には動き続けています。自然の摂理とは、変化し続けることですし、人は呼吸が止まったら命が終わりますしね。呼吸だけではなく、体は縦に伸び続け、風船のように四方八方にも広がり続けます。

 

そろっている音の粒は、そういう体の広がりの動きの粒をそろえるのを、助けてくれる気がします。

 

続けているうちに、体が内側からふんわり温かくなったり、指先がピリピリしたり、足の裏とか腿の裏がじんじんきたり、いろんな感覚がやってきます。

 

頭の中も、ぐわーんと動く感じがします。頭の骨はけっこう動くので、それもあると思いますし、それだけではなく、巡りがよくなってエネルギーが回っていることもあるような気がします。

 

こういう動きは、実際に聞こえる音ではないかもしれませんが、これも”音”という感覚です。

 

ここにさらに、世の中の音や生活音も加わります。鳥が鳴いている声や、車の音、家のきしむ音、人の声、いろいろ入ってきます。

 

鳥の声も、ちゅんちゅんという可愛らしいものもあれば、ぎーぎゃーという声も、あります。

 

一般的に思われている心地よい音ばかりではなく、どちらかというと耳障りな自転車がキーっとブレーキをかける音もあります。

 

あれこれバラバラ、なんでもありです。

 

でも不思議と、「調和がとれている」と感じます。

 

世界は、もともと調和しているし、雑音と言われてしまうものさえも、受容できるくらい懐が深いような気がします。

 

そもそも、音楽という形の前に、世界には音があふれています。雨の降る音とか、木の葉がそよぐ音とか、いろいろと。

 

 

ルネサンス期の作家、ウィリアム・シェイクスピアの作品には、「天体の音楽(music of the sphere)という言葉が出てきます。以前、「シェイクスピアの音楽会」というコンサートに行ったとき、シェイクスピア研究者の河合祥一郎先生が、こんな話をしてくださいました。

 

当時は、地球が中心にあり、太陽や月がそのまわりを動く天動説が信じられていて、地球を取り囲む惑星がぐるぐる回ってハーモニー(和音、調和)を奏でていると、信じられていました。

 

それは、ふつうは人の耳には聞こえないのだけれども、心の清らかな人だけは聞くことができて、それをみんなが聞けるようにするために、楽器を使ったという話もあるのだとか。

 

だから、音楽を奏でるとき、歌うときは、私(我)を出すのではなく、天体をそのままおろすのだ、と。

 

いいな、と感じる音楽は、初めてでも、懐かしく感じること、ありますよね。天体をそのままおろした音なのであれば、それはもともと、誰もがつながっているからなのかもしれませんよね。

 

 

素直な粒がそろっている音に同調するように、体の不自然な部分(無駄な緊張や詰まり)を取り去って、体の粒をそろえて巡りがよくなってくると、心の粒もそろってきます。

 

それが、丁寧さにつながります。

 

丁寧な生活、というのは、比較的よいイメージだと思います。丁寧を心がけるのは、ひとつの方法かもしれませんが、それは頭で考えて指示している段階だと思うのです。それより、わたしは、当たり前のように、自然に丁寧になっている、という方が好きです。無理がないので、続きます。

 

「普段は、おっちょこちょいなのだけれども」という生徒さんが、「仕事の合間に站椿功をすると、不思議とそういうミスがなくなる」と話してくれたことがあります。

 

わたしの場合も、面倒でたまらなかったかけ布団のカバーかけや、シーツを敷く動作が、まったく苦にならなくなったことがあり、それは站椿功の成果だと思っています。

 

粒がそろうと、一見、つながらなさそうな、不思議なことにも、つながります。

 

自然というのは、無理のないことで、変化し続けることで、それは頭で考えてすることではないと思っています。

 

このあたりの感覚は、都会で暮らす現代人は、多くの人がまだまだ未発達で、「体験したことのない、知らないこと」のままだと感じます。

 

誰にでも備わっている感覚を育てるには、体から入るのが一番だと思います。心や頭は嘘をつきますが、体は嘘をつかないからです。

 

技術が発達した世の中ですが、人はまだ、ネットのない原始的な時代のままのような気がしていて、もっと体を使わないと、備わっている能力が目覚めないのではないか、と思っています。

 

体を使う方法はいろいろありますが、わたしが太極拳がいいと思うのは、やればやるほどうまくできていると感じるからです。体の使い方、体と心のバランスなど、いろいろと調和がとれた構成になっています。先人の智慧とは、そういうものなのでしょう。

 

音楽が、楽器委や声を媒体として天体をそのままおろすように、

站椿功も、太極拳も、自分の体で天体をそのままおろしています。

 

それは、魂が震えるような体験です。

 

 

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(Photo by Xie Okajima)

 

「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。人が集って、一緒にお茶でも飲んでなにげない話をして、ほっとする場所でもあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

太極道家

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