武当山日記:そぎ落とす

2018.10.04 Thursday

 

何かを習うことは、「得ていく」イメージかもしれません。これを覚える、これができるようになる、とかです。

 

でもカンフーのお稽古は、その逆で、そぎ落としていくプロセスだと感じています。余計なことに気づいて、やめていくのです。

 

新しいものを習うときは、力が入りがちです。力みも緊張もありますし、習うのだ!という意気込みも、あるかもしれません。

 

最初は、動き方、位置、そして何をしているのかという用法(剣であれば、突き刺すとか、上から切り下すとか)を教わり、真似します。

 

すると、いろんなことが起きます。

 

たとえば何度も同じところでダメ出しされる場合は、自分で何ができていないのか、わかっていません。余計なことをやっていたり、意図したことをやっていないのですが、どちらも無意識ですので、なかなか気づかないわけです。

 

頭でわかっていても、体がその通りに動かないときも、あります。頭(意志)と体がつながっていない状態です。

 

動きも、なぞっているうちは、不自然です。表面的な形だけ真似しても意味はない、とわかっていても、視覚からの情報に影響されるようです。五感のうち視覚は9割近くを占めるため、当然なのかもしれません。

 

今回、武当丹剣を習っているとき、こんなことがありました。剣を正面で突き刺す場面を練習していたら、隣で見ていたお稽古友達が「やりすぎ」と、ひとこと。先生は、つっと強く突き刺すので、それを真似していたのですが、「先生はパワーがあるから、ああなるだけ。きみは、自分にあったパワーでいいんだよ。」と言うのです。

 

なるほど、ですよね。やりすぎないように注意して、自分の内側から出る力のままにしてみたら、「そうそう!いい感じ」。分相応って、大事です。

 

やりすぎは、エネルギーを消耗します。太極拳にしても、八卦掌や形意拳にしても、「やってもくたびれない」のが良く、生きるためのエネルギーを満タンにしてくためのものなのですが、それを消耗していたら、本末転倒です。

 

お稽古の時間は、こんな風に無意識にやっている「いらない」ことに気づき、やめていく繰り返しです。何度も、何年も繰り返すのは、このためでもあります。

 

そぎ落としていくプロセスだと、思っています。やりすぎず、偏らず、陰と陽のバランスを保ち続けて進んでいくこと、です。

 

「無為自然」という言葉があります。老子の思想を表すもので、「無為」とは、何も為さないこと、「自然」とは、自ずと然り、他からの影響を受けることなく、あるがままの姿、という意味です。

 

「何も為さなかったら、行動しなかったら、何も結果がでないのでは?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんよね。

 

以前のわたしが、そうでした。そんなわたしに「あなたは待つことを知らない」とか、「行動しないと、何も手に入らないと思っているでしょ。そんなことないよ。」と言ってくださる方々が、何人も現れました。世の中とは、ありがたく、上手くできています。

 

老子の「道徳経」には、「道は常に無為にして、而(しか)も為さざるなし(原文:道常無為、而無不為)」(道はいつでも何事もなさないで、しかもすべてのことを為している)(第37章より)と、あります。

 

天や地は、意志で動いているわけではなく、無為と言えます。それでも朝になると日が昇り、夜は日が落ちて、季節は移り変わります。その中で植物は育ち、動物も、人間も、育っていきます。意志がなくても、天地はすべてを為していますよね。

 

無為自然とは、そいういう意味です。

 

人は生まれると、誰に教わらなくても、空気を吸い、おっぱいを吸いはじめます。赤ちゃんが立って歩くようになるためには、立ち方教室に行くからではありません。生きる力、育つ力は、もともと備わっています。

 

「でも、50歳を超えたら、そうはいかないよね」と思った方も、いらっしゃるかもしれません。

 

それが、そうでもないのですよ。2000年以上前に誕生した中国最古の医学書「黄帝内径」には、「昔の人は100歳をこえても衰えることはないと聞いたが、なぜ今どきの人は、50歳くらいで皆衰えてしまうのだろうか?」と書いてあります。

 

2000年前から、人は早死にだったのですね。季節にあった過ごし方、必要なだけ食べること、日が昇ったら起きて、沈んだら寝る、という自然に合ったリズムが崩れると、生きるエネルギーを損ないます。

 

話は飛びますが、ここしばらく、太極拳の最初で脚を横に開くとき、左足が右足よりも後ろにずれていました。こんなときに「ふつうに出すと1センチ下がるから、ちょっと前気味に出す」と、作為的に考えて行動しては、ダメです。

 

「何もしない。無駄なことしない」とだけ思ってやってみたら、揃いました。脚が揃わないのは、骨がずれているのかとも思ったのですが、そうではなさそうです。

 

無駄なことをしないためにも、鍛錬が必要です。何も為さなければ、本来の力が生きてきます。「生きているだけでいい」というのは、こんな意味じゃないのかしらね。

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ

 


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