いっぱい、いっぱい

2018.03.31 Saturday

(Photo by Xie Okajima)

 

「もういっぱい、いっぱい!」と言うこと、ありますか?

 

予定や仕事が詰まりすぎて、これ以上は入らないときなどに、使いそうですよね。居心地は、あまりよさそうではありません。

 

”いっぱい、いっぱいな人”を見たとき、「近づくのは、やめておこう」と思うこともあるでしょう。とばっちりは、受けたくありませんものね。

 

上記の例だと気づきやすいですが、わかりにくい”いっぱい、いっぱい”もある気がします。一生懸命に何かを追及して、ある意味では専門家になってきた場合や、その結果「これだ!」というものにたどり着いたとき、そうなる可能性があるような気がします。

 

今日の話は「みんみんの陽だまり時間:老子のことば」のクラスで、老子の「道徳経」第4章を読んでいたときに出てきた話です。です。ご参考まで、第4章をご紹介しておきますね。最初は飛ばして、現代語訳だけ読んでも大丈夫です。

 

【原文】 

, 而用之或不盈。, 似万物之宗解其紛, 和其光, 同其, 湛兮, 似或存。吾不知誰之子, 象帝之先。

 

【書下し分】

道は沖(ちゅう)にして之を用うるに或いは盈(み)たす。淵(えん)として万物の宗(そう)に似たり。其の紛(ふん)を解き、その光を和らげ、其の塵(ちり)に同ず。湛(たん)として或いは存するに似たり。吾れ、其の誰の子なるかを知らず、帝(てい)の先(せん)に象(に)たり。

 

【現代語訳】

道は空っぽの容器のようであり、その働きは無限で、いっぱいになってしまうことはない。淵のように深く、万物の大本のようだ。知恵によっておこる争いを解き(煩わしさを解き)、知恵の光を和らげ、俗世(世の中の人)に同化する。道は満々たる水のように深く静かだ。なにか存在しているようにも見える。わたしはそれが、誰の子であるのか知らない。天帝の祖先のようである。

 

 

「道」は、老子が大切にしたもの、理想として描いているものの象徴と捉えていただけば、いいかもしれません。

(過去の参考記事:「老子のことば:道(タオ)」は、こちらから)

 

終わりのほうに、「知恵によっておこる争いを解き、知恵の光を和らげ、俗世に同化する」とあります。これを読んだ生徒さんが、「自分の知恵でいっぱいになってしまったら、他の人が違う考えを言ったときに受け入れるゆとりがなく、『それは違う』となってしまう、とも読めますね」と言っていました。

 

これが、わかりにくい(かもしれない)”いっぱい、いっぱい”の例です。

 

学んで知恵をつけて、活用することは、望まれることだと思います。自分だけではなく、みんなの役にも立ちます。でも「自分が正しい!」となると、それは容器を一杯にすることと同じで、他を受け容れるゆとりはなくなります。

 

知恵が光りすぎると、まぶしすぎて、実際には何も見えません。鋭い光は、刃物のように人を傷つけることもあります。

 

一生懸命な人ほど、こうなりがちですよね。わたしは20代の頃、会社で仕事しているときに「なんであれでいいのか、わからない」と納得できなくて、こっそり大泣きしたことがあります(こっそり、のつもりでも、目が真っ赤に腫れるので、周りにバレていました。)

 

若気の至り、とか、猪突猛進、とかも、似たような感じです。(わたしはその頃、親しい友人に「猪突猛進、ときどきまゆみ」と、からかわれていました。)

 

器が小さく、すぐに一杯になってしまうのです。生きている世界が、狭かったな、と思います。ただし、自分が狭く見ていただけで、実際には、深く、決して一杯になることはないのに、です。

 

だいぶ年齢を重ねて「知っていることなど、ほとんどない。知っていると思っても、実はわかっていない」という体験を、ガーン、ガーン、と失敗を伴いながら重ねてくると、「あれも、それも、これも、ありだよね」と思えるようにも、なってきます。

 

年齢が熟してくると、円熟という言葉どおり、人間もまるくなります(なる場合もあります)。この角がない、鋭いものがない感じは、老子が言っている”光を和らげる”ことに重なります。

 

でも一方で、年齢が熟すと、体も硬く縮こまってきて、頑なになる場合もあります。コチコチに硬い容器は広げることができず、これもまた一杯になってしまいそうです。経験があるだけに、「なっとらん!」「そんなの変だ」とかなること、ありそうですよね。

 

老いも若きも、困ったものです。

 

一方、知恵の光は、ぼんやりとした灯りであれば、みんなに居心地良く見てもらえます。行燈のような、もしくは、縁側に座って窓越しに柔かい光が射しこんでくるときのような、イメージです。人が寄ってきそうでもありますね。鋭くないものは、人を傷つけることもありません。「能ある鷹は爪を隠す」も、似たような表現かもしれませんね。

 

太極拳も、「柔」の丸い運動を基本としているために、鋭さはありません。武術としての派手さのような、光もなく、どちらかと言えば、地味です。でもこれは、相手と対立することのない柔らかい方法で、相手主導の攻撃を、自分主導の防御へと転換するものです。さらに攻防の技術を超えて、生活や人生のすべげのおいても、自分が中心となれる方法でもあります。(参考:「老子と太極拳」清水豊著 BNP出版)

 

ここで言う”中心”とは、人に振り回されない生き方、と言い換えられます。人を振り回すことも、しません。太極拳のよさは、このことを体で実感できることです。それは、どうやっても、わたしには、ここで言葉で伝える能力はありません。

 

言葉で言い尽くせないものは、奥深いのですよ。

 

【特別クラスのお知らせ】

4月14日(土)18:30-20:30は「太極扇を体験しよう(第5回)」です。詳細とご応募方法はこちらから。

4月15日(日)14:00-16:30は、新講座「みんなが知らない太極拳のひみつ(1)天地とつながる立ち方」です。詳細とご応募方法はこちらから。

 

(武当山でのお稽古。真ん中、左よりにいる薄紫が、わたし。背景と馴染んで、主張しすぎない感じが、好きです。)

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、キリリとした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ

 

 



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