武当山で感じたこと:お腹を壊した体験

2017.09.25 Monday

(長年のお稽古友達と一緒に、形意拳の五行拳のお稽古)

 

武当山にお稽古に行ってから1週間目、お腹を壊して半日寝込みました。

 

実は2011年の春にも、同じような経験をしています。このときは、”人生最大の腹痛”で、3日間寝込みました。

 

そのときも、今回も、形意拳を習っていました。

 

形意拳は、動きも早く、力強い打撃もあるもので、武当山に伝わる武当拳(内家拳)では、太極拳、八卦掌と並び、伝えられています。

 

ゆっくり丸くやわらかく動く太極拳と、動きが早く直線に動く形意拳は、対照的に語られることもあります。ただし実際には、見た目が柔かい太極拳は内側がしっかりしており、見た目がカタく見える形意拳は内側が柔かい、と言われます。

 

打撃の連続だからこそ、力任せではなく、リラックスした状態でやることが大切なのです。

 

太極拳にいろいろな門派があるように、形意拳も、門派によって套路(型)は異なります。それでも、陰陽五行説の五行説(木火土金水)にちなんだ五行拳(5つ種類があります)と、それを組み合わせた12の動物の套路があることは、共通のようです。

 

五行説とは、古代中国で生まれ、宇宙に存在する万物は木火土金水という5つの要素からできており、それぞれお互いに影響を与え合うことによって天地万物が変化し、循環すると言われています。五行は次のように内臓にも対応しています。

 

木=肝

火=心

土=脾(脾臓ではなく、消化器系。わかりやすくとらえると、胃)

金=肺

水=腎

 

五行に対応していることから、内臓機能の促進作用もあると言われています。動きとしても、お腹をきゅっ、きゅっと、左右にひねり続けるため、内臓もそのたびにきゅっ、きゅっ、とひねられることになります。

 

今回の兆候は、「ずいぶんお通じが良いなあ」から始まりました。もともと、このあたりの悩みはない方なのですが、それにしてもずいぶん良い様子。そしてそのまま、止まらない状態に突入しました。

 

そして、前回と同じような兆候もありました。まず、ごはんが食べたくなくなります。食べ始めても、気持ち悪くて、受けつけないような状態になってきます。

 

そして、お稽古を続けることが辛くなります。ちょっとやっては休み、またちょっとやっては休み、そのたびに強い疲労を感じるのです。これ、わたしには珍しいことなのです。

 

お昼寝をしても疲労は取れず、お腹の具合も悪いままで、これではダメだと「お腹の調子が悪いから、午後はお休みします」と先生に伝えました。

 

これが形意拳と関係しているかどうかはわかりませんが、なんとなく、自分の中では関係ありそうな気がするのです。前回は3日間ダウンし、その間ほとんど何も食べませんでしたが、4日目にはものすごく元気になり、丸一日元気にお稽古できたのです。そのこともあって、今回も薬は飲みましたが、「休めばきっと元気になる」と思っていました。

 

その通り、今回は短い時間で回復し、翌日にはお稽古に復帰できました。

 

前回と今回では、症状の重さのほかに、大きく違ったことがありました。自分の受け止め方です。

 

前回は「とにかくお稽古をしっかりやるんだ」と思っていた時期で、お腹を壊してお稽古できなくなった自分を、とっても責めたのです。当時、日本で習っていた先生にも「報告したら、きっと怒られる」とビクビクしていました。当然そんなことはなく、「それは大変だね。刺激が強く、変化に体が耐えられなくなったんだろう。ゆっくり休むように」という言葉に、ほっとしたことを覚えています。

 

今になってみると、そんなに自分を責めたり、怒られると思うなんて、不思議です。その頃は、それだけ自分に厳しくて、”こうあらねばならない”が強く、できない自分を許せなかったのだと思います。

 

きつかっただろうな、と思います。自分がきついだけではなく、周りにも同じようなプレッシャーを与えていたのだろうと、思うのです。

 

それに比べると今回、「このお腹の調子では、練習するような状態ではない」と、躊躇なく休めたことは、わたしにとっては大きな変化でした。

 

人として、まっとうな選択ができるようになっただけのことですが、同じように、病気なのに「やらねばならない」と行動しているケースは、過去のわたしだけではないような気がします。

 

老子は、「道徳経」の第35章で、次のように書いています。

 

”(前略)音楽とおいしい食べ物には旅人も足を止めるものである。だが、もとより道が語りかける言葉は、淡々として味がない。目を凝らしても見ることができず、耳を澄ましても聞くことができないが、しかしその働きは尽き果てることがない”

(「老子」蜂谷邦夫訳注、岩波文庫)

 

人は、”過ぎる”ことをもって良しとする傾向があり、その欲望が普通であると思っているため、本来の在り方では物足りず、味気ないように感じる、ということです。

 

過去のわたしは、すごくこの傾向が強かったと思います。何か成果を出す自分でなければ価値がない、ぼーっとしていることに、役立たずのような罪悪感を感じていました。”やり過ぎる”ことを、充実感だと勘違いしていました。

 

本当は、存在していることだけで十分なのに、です。

 

武当拳を習う過程で、体を通して何度も繰りかえし学んできたことが、この”過ぎない”ことです。

 

その過程は、今の自分への信頼、生きる幸せ、人との関係性など、たくさんのものをもたらしてくれていると感じています。

 

そしてその”過ぎない”生き方が、わたしが太極拳を始めとする武当拳を通じて、伝えていきたいことでもあります。

もっと楽に生きてよいのですよ、存在するだけで十分なのだから。

 

冒頭で、形意拳と太極拳は対照的に言われる、と書きましたが、大切な部分は共通だと感じます。陰陽の理論を活かして動くこと、そして直線で力強く見える動きは、実は丸い動きから生まれていて、無駄な力みはないのだ、ということです。

 

表面的に強い動きに見えるからこそ、やりすぎていれば、体ではっきりわかります(つまり、どこか痛くなるのです)。くりかえし練習する過程で、そのやりすぎをなくしていくのです。

 

”一撃必殺”とも表現されたり、攻撃的に見える形意拳ですが、先生の動きはとても美しく、見ていると穏やかな気もちになります。

 

攻防という型を超えて調和に向かうという点は、太極拳、八卦掌、形意拳、どれも同じだと感じます。その過程も、わたしにとっては大事なところですが、この話はまた別に書きますね。

 

武当山での写真は、こちらから

武当山での日々を語った自由が丘FMTVの録画は、こちらから

 

(形意拳の套路を習っているところ。これは”馬”の部分)

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ


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