老子の「道徳経」

2016.07.22 Friday

(武当山の南岩宮に飾られていた、老子の掛け軸)

 

生徒さんから「おすすめの太極拳の本は?」と聞かれると、「老子の道徳経」とお答えしています。

 

質問の主旨からすると、この回答は、ちょっとずれています。道徳経には、太極拳とは?とか、歴史、意識の持ち方、型の説明などなどは、直接的には何一つ書いていないからです。

 

太極拳とは、体の緊張を取り除いて体を安定させ、血流を促して内臓を活性化させる、というように、健康促進の作用は大きいですが、それをさらに進めてい行くためには、心の面も大切です。たとえば、頑なな心は、体を緊張させます。感情の起伏が体に与える影響は大きいのです(詳しくは→「病は気から。心のあり方」)。

 

太極拳とは、形だけの運動ではなく、意識から導き出される動きだと思っています。結果としての形ではなく、その過程が大切です(ただし、その過程は、結果としての形に現れることも多いです)。そして、たとえば站椿功(立禅)のように見た目に動かないものでも、内部ではぐるぐると動いているように感じます。

 

わたしの先生の言葉でもありますが、武当功夫でまず大切なのは、心を静めることです。どういう心で自分の体に向きあうのか、そんな自分の在り方を求めていく過程も、大切だと思っています。わたしにとって、その基盤づくりに役立っているのが「道徳経」です。

 

武当功夫は、道教の聖地のひとつである湖北省の武当山で、道教の修行者たちによって育まれ、伝えられてきました。道教とは、中国三大宗教(儒教、仏教、道教)のひとつで、中国古代の神仙人思想を母体に陰陽五行説、道家思想を加え、さらに仏教の影響も受けて組織化されました(出典:ブリタニカ国際大百科事典)。

 

神仙思想とは、簡単に言えば仙人となって不老不死を目指すことで、わたしはこれを、「一生をかけて青春を追い求める」と習いました。これは、功夫をする人は、20年たっても同じ体という表現にも表れています。そして実際、鍛錬を積んできている人は、実年齢よりもはるかに若々しく見えますし、何よりも見えないところ、体の軸がしっかりしています。

 

老荘思想とは、老子や荘子の思想で、道家思想とも呼ばれます。

 

仏教の影響も受けている、という点については、わたしが武当山の太子洞に住む道士からお守りを3ついただいたときに(3というのは、道教では”発展”を示す数字で大切にされています)、一つがお釈迦様だったことからもうかがえます。

 

道士は、老子の道徳経を一生をかけて読みます。「読み続ければ、いつかはきっとわかるはず」と信じているから、と聞いたことがあります。この姿勢自体にも、道教の教えが見えるような気がします。

 

本というものは、その時の自分に必要なことを教えてくれます。道徳経は何度も読んでいますが、読むたびに感じることは変わります。どれが正解で、どれが間違っているというのではなく、そのときの精一杯の理解で十分なのだと思っています。だからこそ、「読み続ける」という道士の姿勢には共感できます。

 

その教えは、ご自分で読んで感じていただくのが一番ですが、わたしにとって一言でいえば、エゴにとらわれず、無理やりなんとかしようとせず、自然のままを受け入れる道で、これが流れに乗って生きるということでもあると思っています。

 

(老子がどんな人なのか、道徳経が書かれた経緯や、武当山との関連については、こちら→「老子と道教と武当山」。)

 

さて、最初の生徒さんの質問、「おすすめの太極拳の本は?」戻ると、どれでも気になったもの、目に留まったものを読んでみたらよいと思うのです。どの部分を知りたいのかは、人によって違います。中国武術とは?という全般を知りたいのか、太極拳の歴史を知りたいのか、套路(型)を詳しく知りたいのか、体への影響を知りたいのか、ポイントはいくつもあると思います。自分の興味がわかるのは自分だけですので、本屋さんなどで、ざっと見てみればよいと思うのです。

 

わたしもそんな感じで、そこそこ読んできましたが、どれも役に立っています。なるほど、と思うこと、首をかしげること、いろいろですが、先に書いた老子の「道徳経」の解釈に、どれが正しくてどれが間違っているというのはないように、どれも”あり”なのだと思うのです。それは、書いた方にとってのその時の精一杯の理解で書かれたものだと思うのです。そして、久々に読んでみると、前は気づかなかった点が理解できたりするのです。読み手側の意識や状態によって、伝わるものは変わります。

 

本の解釈と同じように、わたしにとってのお稽古は、探求の連続です。いつも手さぐりです。先生は、功夫のお稽古には方法がある、とおっしゃいます。意識を持たずにお稽古しない、という意味だと思っていますが、その方法に、絶対の”正しさ”はないような気がします。絶対にこれが正しいと決めたときに、発展の道は閉ざされますし、それは、長い時間をかけて熟達していくという功夫の道から外れるような気がするのです。

 

そんなことで、いつでも今の精一杯を。精一杯と言っても、眉間にしわを寄せて視野が狭くなるようなやり方や、”やっている感満載”のやり方では、また道から外れます。ちょうど良いことに、ちょっと行き過ぎると体がちょっとおかしくなって来たりします。そのたびに軌道修正です。続けることの良い点は、間違えたらいつでもごめんなさい、と軌道修正できることでもありますね。

(武当山 逍遥谷にある老子の像と、真似っこ)


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