国境を超える:みんな、おーんなじ

2016.02.10 Wednesday















2月8日は春節でした。旧暦の1月1日、中国の新年です。
そして今年は、新月でした。

特別に大切な日、わたしの”立つこと”の師匠が新月に合わせて開催されている
お祈りの舞を観に行きました。

新月、春節、さらには先月亡くなったデヴィット・ボウイへのオマージュをこめ、
先生が「心のままに」とおっしゃって選んだ曲も、日本、中国、デヴィット・ボウイと、
なかなか型破りでした。

国が違うものがどんどん出てくるのを、空っぽになってぼーーーっと見ていたら。。。
国という枠がするっと外れて、「みんなおんなじ」という思いが出てきました。

わたしはずっと、日本人であることを意識して生きてきたように思います。

大学を卒業して進学するとき、場所はイギリスを選びました。
専攻が英文学だったため、「英語で生活して自分の言葉にして、それで学びたい」という理由も
ありましたが、もうひとつは日本で生きていくことに息苦しさを感じていたこともあります。

イギリスでの生活は、思うままに正直に生きられた時間で、文学からも、
生きていくことについて、たくさんのことを学びました。
それでも最後に気付いたのは、「ここにはわたしのルーツがない」ことでした。

海外に出て、はじめて日本と向き合い始めることになります。
自分の国だと、愛着も感じるようになりました。

ただこのところ、もしかしたら「日本」の枠にとらわれすぎているのでは?と思うようになりました。

海外の人と交流していると、「日本(人)は。。。」という表現に出会うことも少なくありません。
否定的なものもあります。
普段は仲の良い友人の言葉だったりすると特に、心がチクッとするのを感じていました。

最近、中国の先生のひとりが、微信(中国でよく使われているSNS)に、秦の皇帝が日本人について
言った言葉を載せているのを読みました。ほめた言葉ではなく、なぜこれを載せたんだろうと思いながら、
?という顔のマークだけをコメントしてみました。

先生はすぐに「君のことじゃないよ!」と返信してきて、投稿はすぐに削除されました。
「ごめんね」と。

先生は、わたしが日本人であることは知っています。
でも、こういうとき、日本とわたしとは結びついていないのだろうな、と思ったのです。
逆に、わたしが自分を「日本」の枠に入れ込みすぎているのかしら、と、
疑問に感じるようになりました。

それから約1か月たって迎えた春節、新月の日に、そのモヤモヤが、すっと引いたような気がしました。
わたしの国籍は日本だし、日本語が一番得意ではありますが、それだけのことで、
本当は、みんな同じなんだと思ったのです。

終わった後の感想として、このことを先生に伝えたら、
「それはデヴィット・ボウイのメッセージでもあるんだよ。」と。


(武当山、太子洞。左の門の中は洞窟です。)

もうひとつ、思い出したことがあります。
武当山に行くと会いに行く、太子洞という洞窟に住む仙人と呼ばれるおじいちゃんがいます。
昨年5月に訪ねたとき、先客がわたしを見て「韓国人?」と聞いてきました。
おじいちゃんは「日本人だよ」と。
「似てるよね」という先客に、わたしが「似てるけど違うよ。」と言うと、
おじいちゃんがわたしの手を取って「指が1本、2本、3本、4本、5本、みーんな、おーんなじ」。
その場にいた人みんなが笑顔で、「その通り」。

(贾(Jia)おじいちゃん)

そうそう、みーんな、おーんなじ、なのです。

物理的にある国境や国籍を超えて、本当は、みんな、おんなじ。

英文学に「自分のルーツがない」と思ったときは、浅く見ていただけで、
本当は、みんな同じルーツ(源)なのだと思うのです。

浅く見ていたときも、枠に自分をはめ込んでいたときのわたしも、それでよし。
でも、重いお荷物をひとつ下ろして、新しい年が始まります。

(武当山の朝)


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