武当山で感じたこと:中国語

2017.10.14 Saturday

(形意拳のお稽古中。真ん中の黒い服が明月師父。左は長年のお稽古友達。)

 

「中国にお稽古に行く」というと、「言葉はどうしているの?」と、よく聞かれます。

 

基本は、中国語(標準語)です。

 

でも、わたしの中国語は、よちよち歩きレベルです。実際は、わたしのカタコト中国語、漢字(ノートに書く)、先生たちのカタコト英語、そして運がよければ英語と中国語がわかる人に助けてもらいながら、なんとか過ごしています。

 

武当山に行き始めた2008年末から2012年くらいまでは、中国語、全然話せなかったのです。最初の学校は、比較的規模が大きく、オフィスには英語を流暢に話すスタッフがおり、日常生活に困ることはありませんでした。

 

最初の学校のクラス中は、先生がカタコト英語(Goとか、Turnとか、OKとか、簡単な単語レベル)で教えてくれていました。身振り手振りを見て、真似して習うやり方でした。

 

それでも、それまで日本で違う流派の太極拳を習いながら、「これ」という感覚が持てなかったわたしにとって、初めて習う武当太極拳に、「これ!」と感じられたことは、すごく大きな出来事でした。体の中心から動くシンプルな感じがとても気持ちよく、もっとやってみたい、と思ったのです。

 

頭でっかちで、理屈が先だった当時のわたしには、言葉の通じない中で、感覚で感じることができたのは、逆に良い面もあったのかもしれません。

 

2011年、新しい学校に行くことになりました。今の先生の先生(武当玄武派第十五代伝人 田理阳師父)の学校です。当時、東京で習っていた先生に、田理阳師父とのご縁ができたためでした。

 

この時は、同級生にずいぶん助けてもらいました。日本語が話せる中国人、英語が話せる中国人がいて、細かいことを話したいとき、知りたいときは、翻訳してもらっていました。

 

先生は、言葉の通じない外国人に教えることも多いため、身ぶり手ぶりを交えて上手に教えてくださったと思います。そのためもあって、語学ができないことのデメリットを、それほど大きく感じてはいませんでした。(振り返ってみると、まだよくわかっていなかった、とも言えます。)

 

2012年、今の先生(武当玄武派第十六代伝人 明月師父)が独立して、現在の学校に移りました。当時、東京で習っていた先生が「明月師父についていく」と決めたためです。2回の転校?は、どちらも自分から積極的にしたものではないのですが、今から振り返ると、それが良かったような気がします。選択とは、ご縁とは、不思議なものです。

 

新しい学校に初めて行ったとき、途中で明月師父が地方に行くために不在となり、弟弟子の虚谷師父(武当玄武派第十六代伝人)に教えてもらうことになりました。それまでの数日、わたしのお稽古をじっと見ていた虚谷師父は、最初の日に「これまで誰に習った?何年習った?何を習った?」と質問ぜめにしてきました。中国語ですが、当時のガールフレンド(今の奥様)が英語で訳してくれました。いろいろ話した後、「あなたの動きは、見た目はきれいだけれども、体の中が悪すぎる。体の緊張が強すぎる。」と言われ、それを改善する練習として、五行六合功を教え始めてくれたのです。(このときのことは、こちらの「先生との出会い」にも書いています)

 

これだけはっきりと指摘してくれた先生は、初めてでした。

 

田理阳師父も、虚谷師父も、今の明月師父も、教えるときに、よくしゃべります。それは、「見た目に同じように見えても、やっていることは全然違う」からです。だんだんと、形ではなく、その根底にある考え方や哲学、理論などなどに意識が向くようになり、言葉がわからないことで、受け取れていないものが、ものすごくたくさんあるのでは、と思うようになりました。

 

学習は、のろのろ亀ペースですが、少しずつ前進しているようで、毎年行くたびに「わかるようになってきたね」と言われます(みんなが優しい、とも言えます)。今年は10代男子の生徒さんに、「ここで生活している間に習えばいいんだよ。ずっと聞いて話していれば、できるようになるよ」と、励まされました。確かに滞在日数が過ぎてくると、だんだん耳が慣れてきて、ちょっとずつ聞けるようになってきます。

 

ありがたいことに、あまりわからないわたしに向かって、ちゃんとみんな中国語で話しかけてくれます。

 

不思議だな、と思うのは、みんなわたしの中国語のできなさ加減を知りながら、普通のスピード(つまり、かなり速い)で話しかけてくることです。わたしだったら、日本語がわからない人や、英語がわからない人には、単語を選んでゆっくり話すのになぁ、と思うのですが、そういう配慮はあまりないようです。

 

それはもしかしたら、国の違いかもしれません。日本は小さな島国で、人口も少なく、世界では少数派です。少数派の気持ちを理解しやすいのかもしれません。それに対して中国は、国土も広く、人口も多く、大きな国です。少数派の気持ちを察するのは、難しいかもしれません。

 

いつもお世話になっているタクシーの運転手さんは、「わかるようになってきたね。次は自分で電話をかけておいで(注:いつもは学校の人に頼んでかけてもらっています)」というので、「それは.....もごもご」「みんな、話すのが早いから、聞きとれないの」と言ってみたら、「ゆっくり話せば聞き取れるの?」と聞き返されました。そうなのか、ゆっくり話してね、と、わたしがお願いすればよかったことなのですね。

 

今回、武当山に到着して、明月師父に一番最初に会ったとき、先生からの最初のひとことは、「中国語、どう?」でした(苦笑)。どう答えればよいのか、もごもごしながら「我不知道(それはわからない。。。)」と答えたら、周りにいた人たちがみんな笑って、「”不知道”は、便利な言葉だよね」と。

 

いまだに周りの人に助けてもらいながら、しどろもどろな日々が続いています。もっと言葉がわかるようになったら、もっと深い対話もできるし、いろんな文書もスラスラ読めるし、そうなりたいな、と思っています。

 

思うなら、やらないと、ですね。

 

中国に行き始めた頃、「中国語、わからなくても習えるよ」と言っていた自分を思い出すと、恥ずかしいです。その反面、タイミングもあるような気がしていて、学校が変わり、先生が変わり、自分の興味が変わり、という中で、言葉が必要になってきたのは、自然な流れのようにも感じます。

 

ちなみに、国土が広い分、方言もあります。武当山も結構方言が強く、南方なまりなのか、hの発音が抜けていることが多いです。「吃饭了(チーファンラ=ごはんだよ)」は、ツーファンラ、と聞こえます。わたしの発音は、この先、なまっていくのでしょうか......

 

 

武当山での写真は、こちらから

武当山での日々を語った自由が丘FMTVの録画は、こちらから

 

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

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武当山で感じたこと:生活すること

2017.10.12 Thursday

(お引越し)

 

学校には、13歳から19歳までの中国人の子供たちがいます。

 

お稽古は月〜土曜日の午前中です。午前と午後の練習は大人も一緒ですが、その他に子供たちは早朝と夜も授業があります。お習字などの座学もあるようですし、英語の勉強をしていたこともあります。

 

今回、先生のお弟子さんで学校の事務などもお手伝いしている人と、いろんなお話をしている中で、子供たちの話になりました。

 

「学校の事情で、1週間丸々練習しないときもある。そうすると、みんな『お休みだ―』と嬉しそうなのだけど、よくないと思うんだよね。」

 

今回もお引越しがあったので、お掃除や荷造り、お片付けなどモロモロのお仕事などがたくさんあり、通常のスケジュール通りには練習していませんでした。

 

もうすぐ30歳になるそのお弟子さんは、「子供の彼らがうらやましいと思うこともあって、今やらないのはもったいないと思ってしまう。でも、子供だから強制されないと、やらない。」

 

大人の場合、やる、やらないは個人の責任です。学校もそう思っているので、(わたしの行っている学校は、ですが)、やらないことで怒られることはありません。でも、子供の場合はしつけも含まれるため、遅刻には厳しいですし、洋服が汚れていたら怒られたり、声が小さければ何度でも言い直しさせられます。

 

確かに、多少は強制する必要があると同意する一方、そんなに基本のスケジュール通りでなくてもいいかな、とも感じます。

 

なぜなら、みんな元気にすくすくと育っているからです。

 

今回、1年ぶりに会う子供が3人いました。1年半から1年以上くらい、学校にいる子供たちです。学校に初めて来たときの様子や、1年前の様子と比べると、見違えるくらい、体はしっかりして、よい顔をしているからです。上手く言えないのですが、内側からちゃんと外に向かう健やかなエネルギーが出ている、という感じなのです。一緒にいても、居心地が良いです。もちろん、カンフーも上達しています。

 

お稽古の意欲も、ちゃんとあるのです。

 

先生の不在時、それぞれ自分の練習をしているとき、わたしが形意拳のお稽古をしていると、ときどき10メートルくらい離れたところで、真似して練習していることがありました。結構、よい感じなのです。”見て盗む”センスが育っていると、感じます。普段ちゃんとお稽古してきたからでしょう。

 

さらに、学校のお手伝いをするという経験も、とっても貴重だと思えるからです。

 

新しい校舎は、まだ足りないものもたくさんあります。最初のお引越し日は、まだ前の人が使っていたままの状態で、到着後はお掃除から。泊まるお部屋のシーツ、布団やまくらカバーなども、行ってからお取替えでした。

(わたしのお部屋をお掃除してくれているところ)

 

先生は時間があると、ネットを眺めて「このテーブル、いいなあ」「この鏡、きれいだな」「自然な感じが好きなんだ」と、夢を膨らませています。「この壁には書を飾るんだ」とか、「それぞれのお部屋、みんな違う趣にしたい」とか、「来年、来るときには、全然変わっているからね」と、とっても楽しそうです。

 

そんなに見てチェックしているのに、「でも買わなーい。自分で作る。簡単だもの。」

 

お稽古中、お弟子さんと生徒が舟で木材を探していたときがあります。いろいろ拾ってきたものを並べて、最後に先生が、「これいる、要らない」と選別していました。何をしているのかと思ったら、テーブルの材料にするのかしらね。

 

(逍遥谷で、舟を漕いで材木を探しているところ)

 

一度、庭に一辺が20僂らいのサイコロ状の石がごろんと転がっていたことがあります。なぜここに?と思いながら、足で押し、ゴロンとひっくり返ったところで、周りのみんなが「あぁっ!それは先生が見つけてきた大事な石っ!」と大慌て。よく見ると、緑を帯びた色合いで、上には白いきれいな模様があります。大慌てで、手で元通りにひっくり返しました。(みんなで大笑いです)

 

「日本には石を置いた庭、あるよね。きれいだよね。」と、自分で石を見つけて作るつもりのようです。

 

実際、前の校舎でも、行くたびに厨房が整備されていたり、1時間くらいで食器棚が出来たこともあって、ふつうに自分たちで工夫して必要なものをそろえている様子は、よく見かけていました。

 

必要なものを、買うでも、自分で作るでも、どちらでも良いと思っています。環境や優先させたいことで、変ってきますしね。でも、あるものを活用して机を作ったり、部屋を整えていく経験は、豊かだと思うのです。

 

楽しそうですしね。

 

学ぶことは、練習や、本を通してばかりではありません。普段の生活の中から学ぶことも、たくさんあります。こういう時間や経験を通して、心が育っていくこともあります。

 

子供たちだけではなく、わたしもそうですしね。

 

(武当山、南岩)

 

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困ったときの神頼み

2017.10.10 Tuesday

(武当山、紫霄宮)

 

「困ったときの神頼み」と言いますね。しますか?

 

わたしは、します。以前は、絶対にやりませんでした。

 

やりたいことがあるなら、まず必要なことを身につけて、それから応募したり申し込んだり......と自分で動かない限りは絶対に叶わないと、本気で思っていたのです。

 

その様子を見た何人かの方々に「自分で動かない限り叶わないと思っているでしょ。違うよ。待っていたらくるんだよ」と、「待つことを覚えよ」とアドバイスされました。そう言われても、「そんなこと......」と、とっても半信半疑でした。

 

「棚からぼたもち」なんて、期待することが間違っていると思っていました。

 

こう書くと、努力家のように見えますし、実際にそうだったと思いますが、その反面、「なんでも自分でできる」と、とっても思い上がっていたのです。

 

でも、そもそも自分でできることなんて、ほとんどありません。

 

お稽古中に、生徒さんよくする質問があります。「なぜ、立てると思う?」

 

「足があるから」「立つという意志があるから」などなど、それも確かにそうです。でも、足があって、立つ意志があっても、”これ”がなければ立てない、という大切な要素があるのです。

 

「重力があるから」は、結構よいセンいっています。そこからもうちょっといくと、「地面があるから」に行きつきます。

 

当たり前すぎて、思いつかなかったりしますよね。それを意識して、地球と一緒に立っているのだと思うと、絶対的な安心感が生まれてきませんか?わたしたちは運命共同体で、自分を大切にするのと同じように、地球も大切にするのだと、自然に思えてきたりします。

 

思い上がっていたころのわたしは、自分の意志で立っていると思っていましたし、上手くいかなかったときは、人のせいにしたり、自分を責めたりしていました。他人にぶつけるか、自分にぶつけるかの違いはあっても、誰かを責めていたわけです。

 

それは、見ている人をつらくさせたと思います。それで何人かの方々が、「待つことを覚えるんだよ」と言ってくれたのだと思うのです。世の中の人は、優しいし、ありがたいですよね。

 

そんなこんなで、どうしたらよいかわからないときに、「神様、助けてください」とお願いすることもできるようになりました。最初は、「何を助けてほしいかを具体的に言わないと......」と、昔のクセが抜けなかったのですが、本当に困ったときは、そんな状態ではないのです。何をどう頼めばよいのかわからないのですよ。

 

必死に「助けてください」とお願いするだけです。そうすると、どこかからヒントや答えがやってくるようになってきました。友人がぽろっと言ったことだったり、本やテレビだったり、歩いている間に見たり、感じたり、聞こえてきたり、さまざまな入口から入ってくることを経験をして、ようやく”待つ”ことの意味が、少しわかるようになってきました。

 

先日、「アニマル進化体操」を教えてもらった田中ちさこ先生が、マサイのジャンプをみんなに体験させてくれたときに、印象的なことをおっしゃっていました。(「アニマル進化体操」についての詳細は、こちらのブログからどうぞ)

 

受講生さんが、自分の内部に意識を集中させようと目を閉じたとき、「目は閉じちゃだめ!」とおっしゃったのです。

 

体には、いろいろ感じ取れる感覚やセンサーがあって、そのままにしておけば、情報は”入ってくる”のです。目を閉じてしまうことは、その感覚を閉じてしまうことでもあります。

 

集中するために目を閉じることは、よくありますよね。でも実際は、まぶたを閉じてしまうと、たいていの場合、黒目がくるくる動いてしまうのです(自覚するのは、ちょっと難しいですが。)集中しようとしても、逆に意識は散乱し、かつ、エネルギーは消費します。

 

意識しすぎると緊張して、動きが制限される、とも言えます。

 

脱線した話をもとに戻すと、「何でも自分でやろうとせず、神頼みする」というのも、無駄な緊張をつくらないないための、ひとつの智慧だと思います。自分を外に向けてやわらかく開いた状態にしておけば、自然と必要なことが入ってくるようにしておく、ということです。

 

何かをピンポイントで狙うと、それを手にするか、失敗するかとなり、その周囲にあるものを拾える確率はゼロに近くなります。でも、そのプロセスを大切にして周囲に対して開いた状態にしておけば、最初の目的を得ることのほかに、それ以外の周りの”何か”をたくさん手にできる可能性は広がります。

 

ちなみに聞いた話ですが、東京の神様は、”お暇”らしいのです。なぜかと言うと、東京(都会)の人は、なんでも自分でやろうとするので、神様の出番がないとか。「だから、どんどん頼んだらいいよ。」と。

 

そして、ここでは”神様”と書いていますが、本当は、神様ではなくても良いのです。大いなるもの、とか、”何か”とか、人によっては”愛”と表現する人もいると思います。自分にしっくりくる表現が、それぞれあると思います。

 

「困ったときの神頼み」とは、何もしないように見えて、実際には心身を開いて”入ってこられる”状態にしておくことでもあると思います。だからと言って、必死に「心身を開いて〜っ!」とすると、逆に緊張してしまうところが、難しいところかもしれませんけどね。

 

(武当山で出会う犬。飼い犬かどうかはわかりませんが、こちらの犬はみんなとっても穏やかで幸せそうな顔をしています)

 

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武当山で感じたこと:”お腹”が空く

2017.10.06 Friday

(今までの校舎での、食事風景)

 

9月2日から20日まで、中国の武当山にお稽古に行っていました。1年振りです。ブログでも引き続き、滞在中に感じたことを、書いていきます。

 

今日は、「お腹が空くこと」です。

 

武当山での毎日は、とってもシンプルです。食事、お稽古、休息(遊ぶ、休む)、寝る、の繰り返しです。

 

わたしのような大人の場合、午前中ご午後に2時間半ずつ、合計5時間のお稽古が、週5.5日あります。あちらにずっといる中国人の子供たち(13歳から19歳)の場合、上記に早朝と夜の練習が加わります。

 

土曜日の午後と日曜日は、お休みです。

 

こんな毎日だと、お稽古日はお腹が空くし、お休みの日は空かないという、自分のお腹を、しっかり感じます。

 

日本で生活しているときは、

お腹はいっぱいなのに、つい食べたくて食べてしまうことや、

あれ食べたい、これ食べたい、と欲望が次々に出てきたり、

お腹は空いていないけれど、お昼の時間だからと食べること、

などなど、よくあります。

 

”頭”で食べているなぁ、と思うのですよ。

 

それに対して、武当山にいるときは、”お腹”で食べています。空いていたら、たくさん食べる、空かなければ少しで良い、という具合です。

 

途中、お腹を壊して寝込んだときは、食欲もなく、夕食、朝食と、友人に買ってきてもらったバナナとリンゴを食べていました。食事時間にみんな食べているところに行って、果物だけを食べていたら兄弟子が、「これ、おいしいから食べろ」と。ピーマンや芋の天ぷら風です。油......と思いつつも、手に取って食べてみたら、あら、おいしい。ピーマンの中にはベーコン風味のお肉が入っていました。凝っていますよね。

 

「食べないとお腹が空く」というので、「果物食べたよ」と答えても、「お腹が空く」と。どうやら、果物はお腹を満たすものにはカウントされないようです。少しではありますが、おいしく食べられたことを思うと、頭では”要らない”と思っても、”お腹”は食べたかったのかもしれません。

 

”お腹”と”頭”がバラバラで、なんだか変な感覚でした。

 

武当山にいるときは、毎日、学校で食べます。1日3食で50元です。1000円しない値段ですが、街中の食堂での値段を見ると、高いわけではありませんが、安いわけでもありません。

 

小さな学校なので、専用のコックさんがいるわけでもなく、先生のお弟子さんが作ってくれたり、子供の生徒たちが作ってくれたり、つまり、そこにいる人が作ります。ごはん担当の人は、午前と午後のお稽古を早目に切りあげて、ごはんを作りに行きます。食べること、大切ですものね。

 

作る人によって、味は違います。作り慣れていない生徒さんは、「どう?おいしい?」と聞いてきたり、「あー今日はちょっと塩っぽいかも.....」と苦笑しながら運んでくる様子も、楽しかったですよ。

 

おひると夜は、ごはんと、おかず4種類が定番です。お肉はあまりなく野菜中心で、ちょっと塩っぽいとか油っぽいとかありながらも、ほぼ毎日、おいしくいただいていました。

 

(ある日のおかず)

 

今回は学校の校舎がお引越しする時期にあたり、今までのところと新しいところと2か所に滞在しました。今までのところはホテル内に宿舎があり、普通のガス調理台でしたが、新しいところは”かまど”です。調理担当の人のほかに、かまどに薪をくべる担当の人もいます。

 

(新しい校舎の厨房。お引越ししたばかりで、まだお片付けが行き届いていませんね。)

 

(薪をくべながら)

 

かまど、こちらではそんなに珍しくもなく、他の学校に行ったときも、ありました。マンションではなく、一軒家の場合、今でもこんなところが多いのかもしれません。

 

滞在中「帰ったらお寿司食べたいな」と思ったことはありますが、やっぱりこれも”頭”が考えているようです。あちらで生魚はあり得ないので、食べたい気分にはなりませんし、帰国してもすぐに「お寿司!」とは、なりませんでした。(数日後、偶然に食べるチャンスがやってきたときは、もちろんおいしくいただきましたよ。)

 

なんでも手に入りやすい生活は、”頭”で「あれ食べたい」「これ食べたい」になりがちです。帰国後、そうなりつつある自分を自覚しつつ、できるだけ”お腹の声”を素直に聞ける感覚を、保ち続けたいと、思っています。

 

慣れた日本での生活から離れて、違う習慣で過ごしてみることで、こんな体験もできるのですよ。普段、どれだけ無意識に習慣に従って過ごしているかも、わかりやすくなります。特に理由は思い当たらなくても、ときには環境を変えてみることも、大切ですね。

(新しい校舎では、ここでごはんを食べます。飼いはじめた子犬、瓜皮(グアピー)が、くつろいでいます)

 

 

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武当山で感じたこと:学ぶこと

2017.09.28 Thursday

(夕焼けの武当山)

 

武当山でお稽古していると、習うときにポイントを掴むのが早い人と、そうでない人がいます。

 

もちろん、武当拳をはじめて習う人、長くやっている人、という差もあります。ほかの流派を習っている人の場合、最初は戸惑うことも多いですが、それは時間が解決してくれます。実際「難しい」を連発していた人も、3日、5日と続けていくうちに、本人の感想とは別に、とっても良くなってきたなと感じることもあります。

 

一方、なかなかポイントを掴めない人もいます。

 

ここで言うポイントとは、「ここに注意して練習する」という意味です。すぐに体がそのように動けば素晴らしいですが、わたしの場合はそんなことはないので、そのポイントを確認しながら、何度も繰り返し練習します。

 

そういうポイントは、先生いわく、「外から見たときには、見えないことも多い」ところです。でも、そこを大切にするかどうかで、実際の自分の感覚は、全然違います。

 

習うのが早いな、と思う人に共通していることがあります。

 

まず行動としては、自分のお稽古に集中しつつ、人が習っているときにすっと近く来て、自分も一緒に習うのです。いつもというわけではなく、「ここ」というタイミングでやってきます。先生はちゃんと見ていて、そうやって近くに来た人に、必要であればアドバイスをします。

 

自分に集中しつつ、周りにも意識をむけている、というような状態です。これは、太極拳などの套路(型)をするときの意識の持ち方と、同じです。「木を見て、森も見る」というような感じです。

 

周りに気を取られすぎると、自分が今しなければならない練習がおろそかになります。それは本末転倒です。逆に、自分に集中し過ぎて、周りが見えていないと、あるはずのチャンスを失います。こちらは「ちゃんと教えてもらっていない」という愚痴につながることもあるような気がします。

 

「習う」ことは、目の前に先生がいて、「はい、これだよ」と、手取り足取り教えてもらうことではないと思っています。同じ状況で、何を吸収するかは、その人次第です。

 

逆に言えば、そのときのその人に合ったことだけを学べる、ということでもあるかもしれません。

 

なかなかポイントを掴めない人を見ているとき、「本当にやりたいことと違うのではないか」と思うときがあります。本人の希望と違えば、一生懸命やっても、身になることが少ないのは当然です。本人がそれに気づいていない場合もあるでしょうし、もしくは、本当にやりたいことの前に、何か越えないといけないことがある場合もあるのかもしれません。

 

それも含めて、その人に合ったことを学べるような気がします。

 

だから、覚えの良し悪しは、良ければ良い、悪ければダメというような単純な話でもなく、どっちでもいいのです。ただし、その自分の状況を把握できない場合は、苦しいかもしれません。なんで上手くいかないのだろうと悩んだり、不満や愚痴ばかりが出てくるとき、それも自分の希望とは違うことをしているサインかもしれませんよね。

 

わたしの印象ですが、習うのが早い人に、マイナス思考の人はいません。そもそも、できること、できないことを、気にしません。

 

そして習うのが早いとはいっても、「でーきた」で終わるのではなく、ひとりでしっかり練習します。同じことを、繰り返し繰り返し練習します。それをそれを苦に感じてそうな人は、いません。それでは続きませんよね。

 

こういうものに、もともとの才能や素養が関係しているのかないのか、わかりません。あるのかもしれませんし、上を目指す場合はやっぱり関係するのかもしれません。でも、わたしが知る限り、ひとりでしっかり練習しない人の中に、進歩していく人はいません。

 

何かを学ぶとき、できる、できないに目が行きがちです。でも、そんなことはどうでもよいと思うのです。すべての人がパーフェクトに何でもできることが良いわけではなく、人それぞれ、自分に合ったものがあるはずです。それを見つけてやっていけば、「あなたのそれは、いいね、素敵だね」とか、お互いを尊重する、ほんわかした社会になるような気がします。

 

何かを学ぶことは、自分がどうしたいのかを知る、良い機会です。何かおかしいな、とか、ちょっとマイナス思考になるときには、そこに無理や”ずれ”があるのかもしれないということを、覚えておきたいと思っています。

 

 

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(形意拳を練習するわたし(左奥)と、棍という武器を使った練習をしている人たち......ですが、何か別の話題で盛り上がっている???)

 

 

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