トイレのかみさま

2020.01.24 Friday

(2018年12月 和歌山 千畳敷)

 

トイレって、不思議な場所じゃありませんか?

 

人によっては、本やマンガを持ちこんで読むとか、トイレにいるときにアイディアが浮かぶ、と言いますしね。(わたしは、ありませんが。)

 

「トイレの神様」という歌もあります。歌詞に、トイレにはきれいな女神様がいて、きれいにするとべっぴんさんになれるんだよ、とおばあちゃんが言ったと、ありますよね。

 

そのとおり、なんとなくここは、どこかにつながっているような気がします。

 

小さなころ、たぶん3歳とか4歳のころ、トイレに入ると、不思議な感覚がやってくることがありました。

 

「これが、わたし?」

 

体=自分、という感覚が、なじまないのです。

 

それがやってくるのは、いつも同じトイレ、家の1階にあったところでした。ぼんやり宙を見上げながら、なんだか違うような、でもそうなんだよねきっと、でもね、という不思議な感覚でした。

 

出ると、忘れてしまうのですけれどもね。

 

そのうちに、そんなことは起きなくなりましたが、あの不思議な感覚だけは、ずっと記憶に残っています。

 

おとなになって、その話をしたときに、「魂の記憶があったからじゃないの?」と言われました。

 

時間も空間もなく、とっても自由だった魂が、生まれるときに体に入り、なんだかその狭さになじめていない、みたいな感覚でしょうか。

 

ちょっと話は変わりますが、なぜ人は体を動かすとすっきりするのか、聞いたことがあります。

 

魂という存在は、とても振動数が高いのですが、生まれるとき、つまり人の体に入るときには、その振動数を低く落として入るのだそうです。

 

だから、その体がさらに動かないと、文字通り「落ち込んでいく」のだそうです。それはその人の、気持ちの落ち込みになります。

 

そんなときは、器の体ごと動かしてしまえば、振動数が上がってきて、落ち込みから抜けられるのだとか。

 

証明できる話ではありませんが、それを聞いたときに、なぜ自分が動きたいのか、そしてときどきは速く動きたいのか、腑に落ちた気がしました。

 

本来の振動数を、取り戻したいのかもしれませんよね。

 

 

その一方で、わたしはこの世界で体をもって生きることを、愛しています。

 

体は素直なので、それが教えてくれることはたくさんあります。

 

本能というのか、魂というのか、そういうものにあっているものとあっていないものも、体が教えてくれます。ここが入口みたいな感じです。

 

でも、体の声を聞けない時期も、ありました。

 

人前で話すとき、だんだんと酸欠状態になってくるのを、「それくらい、いっしょうけんめいに話している」と思っていたり、

 

ときどきじんましんや湿疹が出るのを、「そういう体質だから」「嫌ね(きれいではないので)」と思っていたり、

 

肩こりも、「慢性だから」と思っていたり、です。

 

ばか、ですよね。

 

酸欠状態になる話をしたら、友人がひとこと、「でもさあ、それってだめじゃない?」...はっ...その通りです。

 

じんましんや湿疹については、皮膚科の先生が「あなたは赤信号でも渡ろうとしている。赤は、止まるでしょ」と指摘されたり。そのころは、進むことしか考えていなくて、休むなんてサボっていると思っていたのです。

 

肩こりは、中国の武当山に行っているとき、「あなたは、自分が背負える以上のものを背負おうとしている。」...え?そうなの?

 

うまくできていて、ちゃんと「それは違うよ」と言ってくれる人が、現れるわけです。

 

わたしは、自分が何をしたいのかわからなってきたころにカンフーに出会い、それを続けていくことで、だんだんと体の声を聞けるようになってきたのですが、

 

人それぞれ、体の声を聞けるようになる入口があるのではないかしらね。

 

さて、体を大切にするようになると、外にも広がるようになります。先日書いた「大きいものに、ゆだねてみる」というブログは、そんな話を書きました。

 

站椿功をすると、「世界がどんどん広がっていって、それまで悩んでいたことが、取るに足らないことに感じられるよ」というのは、わたしの先生(武当玄武派第十六代伝人 明月師父)のことばですが、

 

ほんとうに、そのとおりです。

 

無理せず、我慢もなく、なかったことにすることもなく、「ま、いいや」と思えるのです。

 

わたしがカンフーをするのは、体を感じて、すこやかな体を育てるためでもありますが、こんな感覚から離れたくないからでもある気がします。

 

そこは、いろいろと、居心地がいいのです。

 

小さなころ、トイレで感じた不思議な感覚を、

 

今は、実感と安心感をもって、感じているのかもしれないな、と思います。

 

そんなトイレですから、キレイにしておかないと、ですよね。

 

幸いなことに、わたしは女子高のときに、厳しくお掃除をしつけられました。通称「掃除不養成所」です。

 

忘れもしない中学1年生、はじめてのトイレ掃除当番の日、「トイレの便器は、素手で雑巾で、中まで洗います!」という先生の言葉に、ひょえーっと縮み上がり、

 

「トイレの床にパンを落としても食べられるくらい、きれいにします」という言葉にも、「ありえなーい」と思い、

 

「タイルのめじが、白くなるまで乾拭きします」という言葉にも、「それって、どだい無理な話じゃ...」と思い、

 

あの頃はどうやってサボるかばかり考えていましたが(ばれるので、サボれたことはありませんでした)、

 

今となっては、あの頃に教えてもらったことを、自然にやっています。

 

当時も女子高でトイレ掃除をさせるのは珍しい方でしたし、今はますますそうなのかもしれませんが、

 

させた方がいいと思います。

 

だって、トイレには神さまがいるかもしれませんしね。

 

 

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「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

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共感性の強い人のトリセツ

2020.01.17 Friday

(2018年12月 高野山)

 

うたが好きです。

 

家にいると、わけのわからないうた(自作)を、よくうたいます。

 

ときどき大きな声で、がーんっとうたいたい衝動にかられます。カラオケではなく、マイクなし、アカペラで。

 

思いついたら行動あるのみ。”たまうた”というワークショップをしている友人に「たまうた、やりたーい」と連絡して、日程を設定してもらいました。

 

”たまうた”とは、魂と繋がる歌の唄い方 です。うまくとか、きれいに、ではなく、魂でうたいます。

 

ちょうど1年前に参加したときは、「しこを踏みながら歌って」とか、「腰をねっとり回しながら歌って」というように、ファシリテートしてくれる人のセンスでアドバイスしてくれます。そのうち声が変わってきて、「これがわたしの声なんだ」という声がでてきます。

 

音程がはずれようが、下手だろうが、魂からの声は、いいです。

 

年末の紅白歌合戦で、ビートたけしさんが歌ったときみたいな感じです。あれ、しみじみ、ほんとうに良かったなあ。

 

曲を2〜3曲選ぶのですが、ひとつは、中島美嘉さんのORIONにしよう、と思い、久々に聞いてみました。

 

ぽろぽろ泣けます。

 

こういうのって、共感性というのでしょうか。

 

人によって、この人はこれが強い、というのがありますよね。全部の要素が均一だったら丸いボールになるところを、強いもの、どうでもいいもの、弱いもの、とかいろいろあって、ぼこぼこ と、いびつな形になります。

 

いびつさが大きい人、あんまり大きくない人というのもあるかもしれませんが、どの形がいい、というのではなく、それぞれよくて、それが個性でもあると思っています。

 

なんとなく、みんながその ぼこぼこ の いびつなままでいると、世界全体になったときに、ぴたっときれいな丸になるような気がします。だから、ぼこぼこを、きれいにならさなくてもいいのだと思っています。

 

小さいころとか若いころは、そのいびつさに耐えられなかったり、耐えられずに削ろうとすることもあるかもしれませんが、おとなになることは、ぼこぼこ のまま生きていけるようになることだ、なんて思います。

 

それは素直なこどもの心を失わないことと、同じような気もします。

 

さて、わたしの ぼこぼこ のうち、強いひとつが共感性です。

 

映画やドラマを観ては泣き、人の話を聞いては泣き、いわゆる「もらい泣き」も、かなりします。

 

ストーリーや他人の状況、気持ちに共感するだけではなく、その場の雰囲気にも共感しがちです。

 

「空気を読む」と言いますが、あれはちょっぴりタイムラグがある気がして、それよりもただ感じるだけで、まだ行動に移る前のことです。

 

ワークショップに参加しているとき、何度か、何人かから「自分が『!』と思ったとき、あなたの顔を見て確信する」と言われたことがあります。感じたことは、自分が頭で理解する前に、顔に現れます。

 

顔に出るのは、正直とも言えますが、やっかいでもあります。「それは違うかな」と思ったことが、全部ばれてしまうというのは、面倒です。否定したいわけでもなく、すべて口に出したいわけでもないのに、顔が先に言ってしまうのは、自分のことながら、ほんとうにやめてほしい、と思ったこともあります。

 

共感性も、やっかいです。

 

共感性が、そこそこ強いと感じている人がわかっておいたほうがいいことは、人の感情を自分のもののように感じてしまう、という点です。

 

つまり、どれが自分ので、どれが他人のか、区別できていません。それこそ共感性の強みでもありますが、困ったところでもあります。

 

ワークショップで「あなたの顔を見て確認する」といった人のひとりは、わたしと同じく共感性が強いタイプで、「それは、大事にしたらいい。でも、やりすぎるとくたびれるから、気をつけるんだよ」と言ってくれました。

 

人の感情を自分のものだと感じてしまうと、その瞬間、ふたり分を生きているみたいになってしまいます。自分ではない人に入り込みすぎることも、エネルギーを必要とします。

 

へとへとです。

 

そして、自分を見失いがちにもなります。

 

でも、もともと区別がついていないものを、どうやって気をつけるのか、と思いますよね。

 

映画を観ていて、ぐっと涙が出てきそうなとき、「これはわたしの話じゃないから」と言ってみたことがあります。すると、ぴたっと止まりました。まんがみたいですよね。

 

それと、ストーリーを楽しむこととは、別ものです。その涙が止まって、自分のことじゃないと区別できたほうが、ストーリーがちゃんと入ってくるような気もします。

 

泣くことは、必ず浄化になります。

 

でも、あまりに自由に泣くと、「先に泣かれると、自分はもう泣けない」とか、「泣かせたくないから、言いたいことが言えない」というように、他人に遠慮させてしまうことも起きます。

 

こんな風に、他の人に遠慮させてしまう泣き方は、自分が心から(魂から)泣いているのとは違うのかな、と思ったりします。

 

最近は、このあたりの区別に長けてきたので(なんでも練習してみるものです)、だいぶ楽になりました。泣くことで、他人を遠慮させてしまうことも、ないように感じます(と思っているだけかもしれませんが。)

 

もちろん、人の話に共感するとき、その人の要素と、自分の中にある要素とか重なって、自分も泣いてしまうこともあります。それは、いいのではないかしらね。

 

先日、「強くなりたい」というブログを書いたときに、站椿功をしながら、「ぜったいあきらめたくない」という思いがお腹から浮かんできた、と書きました。そのときは、腕を下すことをあきらめたくない、生きることをあきらめたくない、だと思ったのですが、

 

あのとき、バックに流れていたのは、中村天平さんの「オルレアンの軌跡」*という曲でした。(*「Visions」というアルバムに収録されています。)

 

...すると、あれは、もしかしたらジャンヌ・ダルクの声だったのかしら、とも思います。

 

同じ曲を聞いても、いつも同じ思いがわくわけではないですし、あれはあのときだけです。なんだかいろんなタイミングがぴったり合ったのかしらね。

 

そんなことも、あります。

 

人は、ひとりで生きているわけではないですし、この世界を超えて、何かとつながることだって、きっとありますしね。

 

そして、泣き顔は隠すのではなく、世界に見せるのですよ、堂々と。

 

”泣いたのは僕だった。

弱さを見せないことが そう

強い訳じゃないって君が

言っていたからだよ I believe ”

(ORIONから)

 

※わたしが参加する たまうた のワークショップのご案内は、こちら。(2月24日(月・振替休日)の午後 お台場です。

 

 

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強くなりたい

2020.01.10 Friday

(2016年9月 武当山)

 

今年を迎えるとき、ふっと出てきたことばは、「強くなりたい」でした。

 

ちょっと自分でも不思議でした。

 

ここ数年、「今年の1文字」書初めをしていて、去年までは「静」→「福」→「空」→「呆」と、静かで柔かく、力が抜ける感じのものが続きました。

 

昨年なんて、阿呆の呆です。(ある意味、これは最強ですが。)

 

なぜ「強くなりたい」が出てきたのかな、それってどんな感じなのかな、と、しばらく思っていました。

 

ことばが先に出て、そのニュアンスがわかっていない感じです。

 

10日くらい経ち、おぼろげに「こういうことだ」と、わかってきた気がします。

 

わたしはカンフーを始めてから13年くらいで、その間に、いろいろな先生に教えていただきました。

 

どの先生からも、その時に必要なことを学べたと思っています。必要なことの中身は、さまざまですが。

 

でも、その中で、強烈なイメージとして、印象に残っている方たちがいます。

 

1人は、李先生です。四節八極拳というめずらしい拳法の伝承者です。娘さんが日本にいらっしゃるため、ときどき来日されて、わたしは2013年の冬にお会いしました。

 

当時は、いろいろ苦しく、弱っている状態でした。

例えるなら、骨が折れた鳥は飛べないのに、飛べないことを悩んでいるような状態でした。

 

その直前までの5年間、東京にあるカンフークラブに所属していたのですが、3年目くらいから、自分がしたいことと、そこでできることの間に溝を感じ始め、5年目には、先生の意に沿わないことをしたとして、破門されました。

 

冷静に思えば、わたしが出て行くのは当然のことです。

 

その先生の場所で、自分のやりたいことが異なる場合、それをやろうとしても無理です。

 

「やめたらどこで習えばいいんだろう」という不安もあり、執着もあり、自ら出る勇気がなく、長い間ぐずぐずしていたところ、「あなたの生きる場所は、そこじゃないよ」という、”神様からの最後のひと蹴り”みたいな感じだったと思います。

 

3年近くひっぱりましたから、そのクラブにも、本当に迷惑をかけました。

 

それでも、離れた後も、その中で上手く過ごせている人もいるのに、どうして自分はそうできないのかとか、やっぱり間違っているのではないか、と、うじうじ後悔したり、自己嫌悪に陥ったりしました。

 

当時、わたしの周りにいてくれた友人たちは、こんなうじうじ話を、あきれるほど聞かされていたわけですが、それでも何度でも耳を傾けてくれたことには、感謝してもしきれません。

 

当時は武当拳をする気功の先生にも習っていたため、、先生がなくなるということはなかったのですが、そこに一緒に通っていた友人から「一緒に行ってみる?」と誘われたのが、李先生のところです。

 

毎朝7時から8時、某公園でのお稽古でした。家から1時間くらいかかる場所で、冬ですから、星を見ながら家を出ていました。

 

それでも先生にお会いするのが楽して、先生の動きを見るのが楽しくて、苦よりは楽しさのほうがはるかに大きかったです。

 

李先生は、大きい体で、いつもニコニコされていました。呼吸をするだけで、お腹も背中も昇り龍のように、ものすごく動きます。それを感じたくて、何度もべたべた触らせてもらいました。体の関節がほぐれているので、動きは柔かく、でもとてつもなく威力があり、とっても強いのです。

 

カンフーは、理解が大切だからと、体を動かすことだけではなく、いろいろなお話もたくさんしてくださいました。

 

ときには、小さな頃は貧しくて靴が買えなかったとか、そんな頃にカンフーの先生に出会い、習うのが楽しくて、そして先生からもとても可愛がってもらって、というような話もしてくださいました。

 

わたしたちが練習している間、ご自分の練習をされることも、よくありました。あるとき、ふと見ると、先生がコロコロの棒を剣にみたてて、とっても嬉しそうに、剣の套路をされていました。

 

「なんて幸せそうに、するんだろう」と、すっかり見とれました。

 

そして自分も、こういう風にしたいのだと、強く感じました。

 

(2014年春 李先生と)

 

もう1人は、今の先生です。武当玄武派第十六代伝人の明月師父です。

 

師父と呼ぶとおり、家族みたいな感じで、いちばん上の先生がお父さん、目上の弟子や生徒はお兄ちゃん、お姉ちゃん、お父さんの兄弟弟子は、おじさん、みたいな構成です。

 

東京で所属していたクラブを離れた後、気功の先生もクラスを閉じることになり、武当拳(中国、湖北省武当山という道教の聖地のひとつに伝わる武術)を習う場所は、武当山だけになりました。

 

1年に2回、ときによっては1回と、ときどき訪れては習い、日本では自分で練習する、というペースに変わりました。

 

李先生が帰国された後の2014年の春、武当山に行きました。

 

明月師父は、2012年の春にご自分の武館を開校されています。それまでは、その上の先生(武当玄武派第十五代伝人 田理陽師父)の武館でコーチとして教えていて、わたしが最初にお会いしたのも、そこでした。

 

開校間もない間は、まだ模索状態だったと思います。

 

「教えることだけしたい」と話す先生は、2014年にはビジネスパートナーと契約していました。わたしが行ったときは、そのビジネスパートナーと折り合いが悪く、先生はしょっちゅう話し合いのために麓の町に下りていました。(武館は、バスで40分くらいの山の上にありました。)

 

今でこそ弟子も育ち、師父がいない間もコーチがいます。さらに、弟子ではない生徒でも、きちんと習っているため、そういう人から習うこともできます。

 

でもその頃は弟子も育っておらず、師父がいない間は、自分でできることをするしかありませんでした。

 

周りの外国人の生徒も失望気味で、今は先生の弟子になっている友人も、「師父のことは尊敬しているけれども、このままだと習えない。ここにはいられない」という状況でした。

 

状況を理解しようと思っても、こんな状態なら、なぜ今は来ない方がいいと言ってくれなかったのか、と思うこともあり、ついに我慢できずに机を叩いて怒ってしまったときもありました。

 

自分の暴挙に驚き、次には「なぜそんなことをしてしまったのか」と自分を責めて号泣しました。

 

破門されたクラブでもケンカし、ここでもケンカです(手は出ていませんが)。どうして、どこでも同じことになってしまうのかと、自分に失望しました。

 

ひとしきり泣いた後、なぜか「怒ってしまったことは悪い。でも、それしかできなかった自分を責めるのはやめよう。最後まで、自分だけは自分の味方でいよう」という思いが出てきました。

 

号泣するわたしの横で、友人が背中をさすりながら、「君は悪くないよ」と言い続けてくれたことも、ものすごく助けになりました。

 

さて、師父がそんな状況を好ましく思っていたわけはなく、誰よりも苦しかったのは、師父だったと思います。

 

ある日、武館にもどっていた師父が、ひとりで気功のお稽古をしている姿を見かけました。

 

その時、「この状況で、この人は、こうやって落ち着きを取り戻そうとしている」と感じました。

 

「師匠の背中を見て育つ」といいますが、そのとおりです。

 

それは、お稽古として套路を習うよりも、ずっと大切なことのように感じました。

 

さらに、そんな状況でも教えてもらえなかったわけではなく、教わった30分の価値は、1週間とか2週間のお稽古を軽く超えるくらいの意味がある、という体験しました。時間の長さとは違うものさしがあることも、知りました。

 

あのときがあって、よかったと、本当に思います。

 

(2012年春 武当山で、明月師父と)

 

さて、冒頭の「強くなりたい」に戻ります。

 

わたしのイメージする「強くなりたい」は、李先生や、明月師父みたいな人たちのことです。

 

自分を見失わないための強さ、と言えばいいのかしら。

 

どんな状況でも、大切にしたいことを大切にし抜く強さ、でしょうか。

 

それは、カンフーの鍛錬から育つものだと思っています。(他にもあると思いますので、わたしが経験している中では、ということです)。

 

1回30分の站椿功をするのも、自分を見失わない、自分が大切にしたいことを見失わない強さを持ちたいからでもあります。

 

途中で諦めるのは、簡単です。今の状況では、誰にも怒られませんし、自分を責めたり、挫折感を感じることも、ないような気がします。(実際、やりはじめて「今日はダメだ」と思ったときには、途中でやめます。まれですが。)

 

苦しくなってきても(このあたりは未熟だからだと思いますが)、「もうちょっと続けてみよう」と思うのです。

 

「諦めるのは簡単だから、それならもうちょっと続けてみよう」と。

 

今日は、そこそこ苦しめだったのですが、「もうちょっと」と思った後に、「絶対にあきらめたくない」という思いが、お腹から浮かんできました。

 

諦めるのは簡単だけど、自分は絶対にあきらめたくないのだ、と強く感じた後に、体はふわっと楽になりました。

 

何を諦めたくないかと言えば、直接的には腕を上げ続けることですが、その奥にあるのは、生きることを諦めたくはない、だと思います。

 

それは、命として生きる、死ぬ、という話ではなく、

 

自分の大切にしたいことを大切にして生きることを、諦めたくない、ということです。大切にしたいことを諦めることは、自分を見失うことでもあります。

 

それが「強くなりたい」ということかなと、今は、思っています。

 

 

中国武術家の松田隆智さん(1938年6月6日 - 2013年7月24日)は、著書の「中国武術の本(学習研究社 2004年)の中で、こんな話をしています。

 

「武術そのものに精神性はないし、武術に精神性を求めるのはまちがっている。大切なのは、修行の結果、精神世界に到達していることだ。」

 

いいことばだと思います。

 

体を緩めて静めれば、心が静まるし、心がワサワサしていたら、体の変化として現れて、気づきます。

 

気功のように、自分だけに集中すれば、養生の側面が強く出ます。

 

武術の場合、相手との攻防がはいってきます。太極拳、八卦掌、形意拳は、武術です。

 

実際、現実世界では、人との衝突や、まわりの環境との衝突など、自分の葛藤など、いろいろなことが起きます。周りとの溝や摩擦を感じながら生きることが、人だと思います。

 

そんなときに、どうするか。

 

外からの刺激に反応するとき、無意識に自分を見失うことがあります。売られたケンカを買うようなときです。目には目を、歯には歯を、とかも同じですね。

 

武当拳は(中国武術はとんでもないほどたくさん種類があるため、他のものはわかりません。太極拳でさえ、武当太極拳しか経験がなく、他の太極拳は、知りません)、自分を見失うことなく、外からの刺激を認識します。

 

基本は、自分の周りが平和で、ケンカが起きないのがいちばんです。

 

もし自分が鎧を着ていたら、相手は戦闘態勢に入るかもしれません。その鎧は、自分の弱さを守るためのものであっても、相手には恐怖心を与えます。ですから、自分は鎧を着ずに、生まれたての赤ちゃんの姿を目指します。緩んでいる体と心とは、そういう状態です。

 

それでも不幸にして起きてしまった場合、それを止めるためのものが武術です。武は、戈を止める、と書きますから。

 

調和を大切にする武当拳では、相手を倒して終わり、というのはありません。自分も守り、相手も守るのが基本です。そのために、こちらに向かってくるやる気を、本人が自分でやめるようにするための手段が、技です。

 

「強くなりたい」というのは、自分の弱さを守るために鎧を着る必要がないように、という意味です。

 

うれしいのは、ときどき生徒さんが「怒りが止まらなかったとき、会社のトイレで気功をしたら、落ち着いた」とか、「站椿功をしたら、ぎゃあぎゃあ責められている騒音が気にならなくなった」という話をしてくださいます。

 

やればわかる、なのですが、それを日常に活かせるのは、すごいと思います。そして、それが古くから伝わってきた伝統の技の価値でもある気がします。

 

社会環境はずいぶん変っていますが、人は、そんなに変わらないですものね、きっと。

 

 

強い人は、優しいです。

 

その存在に救われる人は、少なくないと思っています。わたしのように。

 

 

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夢はまだかなっていないのかもしれない

2020.01.03 Friday

(武当山)

 

「止まった刻(とき) 検証・大川小事故」(河北新報社報道部 著 岩波書店)という本を読んでいます。

 

3.11東日本大震災の津波により、児童70人が死亡、4人が行方不明、教職員10人が犠牲になった石巻市の大川小学校の、そのときと、その後を書いたものです。

 

取材したのは、地元紙の河北新報社です。この地方新聞社は、地味な印象もありますが、広報の仕事をしていたときに「いい記事だな」と思ったことも多い記憶があります。いい記事、というのは、事実が伝わってくる、という意味です。

 

その印象そのままに、連載をまとめたこの本も、丁寧に、根気よく取材して、憶測や感情をできる限り排除して書かれている印象です。

 

事実が訴えるものはすさまじく、読むのはきついです。号泣せずにはいられません。

 

わたしが泣いても、何かに役立つわけでもなく、その人たちの気持ちがわかるわけでもありません。それでも、あのとき何が起きたのかを知ることは、大切なことだと思うのです。

 

記者の仕事って、こういうものだったな、と思い出しました。

 

わたしがイギリスの大学から帰ってきて、大学に残らずに社会に出たいと思ったとき、最初にめざした職業は、新聞記者でした。

 

その仕事についていた友人の影響は、強くあったと思います。

 

今でも、印象深いことがあります。

 

その人とは、日ごろから世の中のいろいろな出来事について話していて、当然といえば当然ですが、その出来事に対して感じたことや思いなども、話していました。信念もあり、熱い思いもある人でした。

 

でもある日、その人が書いた記事を見たときに、そういう熱は、まったく感じられませんでした。普段だったらことばにしている思いなどもまったくなく、さらっとフラットに書かれていました。

 

不思議に思って本人に聞いてみると、「記事は、事実をそのまま書くだけだから。読んだ人が、自由に感じてくれたらいい。」と。

 

続けて「書いたものを読んでくれる人がいると、すごく嬉しくて、『いいヤツだなあ』と思うんだよね。書いたものに文句を言われても、それでもうれしい」と言うのです。

 

事実が語る、ということですね。

 

事実だけをありのままに書くこと自体が、実際には難しく、無意識に、思惑が入っていたり、感情が入ってしまったりします。事実だけを書けること自体が、とてつもなくプロフェッショナルです。

 

新聞社の採用試験に落ちた後は、ニュースを出す側になろうと、広報の仕事につきました。

 

いろいろなメディアの方に会うことになりますが、そこでも「こういうストーリーで記事や番組を作りたい」という”最初からありき”の姿勢で来る取材もあり、「それは事実ではありません」と理解してもらうことには、ときにはかなり苦労しました。

 

当時、限られた職業の人しか世の中にむけて発信できなかったものが、今の時代、誰でもできるようになりました。

 

その恩恵も多くあり、わたしもこうやってブログなどで発信できるようになっています。

 

何か知りたいときに、ネットですぐに検索できるのは便利です。でもその分、プロフェッショナルではない人が書くことも増えて、どうしても信頼性は落ちます。

 

もちろん、プロフェッショナルであっても、人が書くものに、絶対ということはないのかもしれませんが。

 

 

わたしが記者になりたかったとき、取り組みたかったのは、生きることと死ぬことでした。

 

当時、はじめてのホスピスが誕生して、終末医療や尊厳死の話が、いろいろと言われはじめたときでした。

 

こういうものに正解はないと思いながらも、そこにある事実をそのまま出したいと、思っていました。それが誰かに伝わったときに、わたしの手を離れた先で、人を動かすかもしれない、と思っていました。

 

以前書いたブログで、記者にはなれなくても、「夢はかなう」と書いたのですが、ブログで書くことは、感じたことをそのまま伝えることで、

 

あの頃のわたしが願っていた、「事実をそのまま出す」ことを思うと、本当は、まだ何もかなっていないのかもしれません。

 

 

わたしは、会社員だった頃、その会社の人として働いたり、クライアントさんのために働いていたときも、そこというよりは、もうちょっと大きなところを見て仕事をしていたように思います。

 

クライアント企業が世で名声を得る、とか、売上が上がる、とか、そういうことよりも(目先では、それが求められるし、それが大事なのですが)、それが世の中に与える影響とか、そこで働く人への影響とか、「これが世に出たら、当たり前になったら、世の中は変わる」みたいな思いが支えになっていました。

 

残業続きでも、やりきれたあの頃は、若くて体力と気力もあったこともありますが、思いに支えられていたことも大きかったと思います。

 

わたしが大切にしたいものと、企業のそれが合っているときはいいのですが、必ずしもそうでもなく、会社は使いにくいところもあったでしょうし、わたし自身が、その狭間で疲弊するようになりました。

 

信念も、だんだんと、わからなくなりました。

 

集団の利益よりも、自分の信念を貫きたい方なので、タイプ的にみれば、そもそも組織には向かないよね、という面もあります。

そして、環境が悪かったのではなく、ゴツゴツ不器用なわたしが、そこで上手く自分を活かす道を見つけられなかったのだと思います。

 

こうやって振り返っているとき、「あのときこうすれば」という思いがあるわけではありません。

 

迷惑をかけた(にちがいない)ことに対するお詫びの気持ちはありますが、後悔しているわけでもありません。

 

他人から見たら、怠けいるように見えたとしても、そのときの自分としては、精一杯なのではないか、と思います。わたしのことだけではなく、みんな、そうじゃないのかな、と思います。

 

いつも、今しかありません。

 

できたことを認めることも大切ですが、夢はかなっていないと知ることも、そこに絶望がなければ、前に進む力になるような気がします。

 

「まだ、できることはあるよ」と、年末年始、何かと揺さぶられることの多い、この頃です。

 

そう感じさせてくれる、出会いとか体験は、大切ですね。

 

 

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「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

太極道家

講座のご案内は、こちらからどうぞ。

 

 


ニューイヤーコンサートと、辻井伸行さんと、站椿功

2020.01.02 Thursday

(武当山)

 

明けましておめでとうございます。

 

新年を、賑やかに迎えた方、静かに迎えた方、忙しく迎える方、嬉しい方も、寂しい方も、いろいろあるでしょうが、どなたにとっても、新しい年が優しく豊かでありますように。

 

いろいろあっても、人生は捨てたものではないのだ、もうちょっと生きてみようと、思えたらいいな、と思っています。

 

さて、新年といえば、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートがありますね。

 

今年の指揮者は、まだお若いアンドリス・ネルソンスさんでした。

 

2部が始まってから見始めたのですが、ネルソンスさん、とてつもなくチャーミングで、どんどん魅せられてしまいました。恒例のバレエのシーンも、もちろん楽しかったですが、「わたしは、指揮者とオケが見たいのだ。そっちを映してくれ」と思ってしまうほどでした。

 

大きな体が軽やかに揺れて、表情豊かに、全身から楽しさや喜びが伝わってくるようです。あんな姿を見せられたら、ひとめで好きになってしまいます。

 

すごく楽しかったです。

 

ネルソンスさん、性格も謙虚な方のようです。ウィーンフィルを前に、「わたしは小さな存在ですから」とおっしゃったこともあるとか。

 

そんなところも、素敵です。これからも楽しみです。

 

アンコールの最後、お決まりのラデツキー行進曲は、今年から楽譜が新しくなったそうです。

 

これまではナチスに入党した作曲家が編曲したものを使っていたようですが(といっても、その後ウィーンフィルの中であれこれ変更されてきたらしいです)、それを見直し、ナチスの色をすべて取り除いて一新したのだとか。

 

聴いていてわかるほどの違いはなかったように思うのですが、今年はひときわ、意味のある演奏だったのですね。

 

”毎年おなじ”は、うれしいけれど、”おなじ”を続けていくには、変化もあるわけですね。

 

 

続いて、ピアニストの辻井伸行さんの特集番組があったので、そちらに。

 

こちらも途中からになってしまいましたが、ちょうどショパンの「ピアノ協奏曲1番」が始まるところで、3楽章までたっぷり聴くことができました。

 

この方ほんと、天使のようです。

 

強い音も、速い音も、軽やかで天に届くような音だと思うのです。ものすごく美しいです。

 

弾いていないときの体の揺さぶり方まで、なんだか、とてもいいのです。音楽とぴったり。

 

すでに有名なのに、「もっとピアノも、ピアノ以外も勉強して、歴史に名前が残るピアニストになりたいです」とおっしゃるのですよ。

 

ニコニコと笑いながら、です。すっかり魅了されました。

 

 

軽やかな人って、いますよね。体の大きさとか重さとかに関わらず、足取りが軽やかだったり、鳴らす音が軽やかな方は、いらっしゃいます。

 

わたしの先生(武当玄武派第十六代伝人 明月師父)は、体も大きく、体重は90キロくらいあります。

 

でも、大きな体が、本当に軽やかに動くのですよ。知っていても、いつも見とれてしまいます。

 

そして、とても楽しそうに笑います。ちょっと特徴のある笑い声で、「あの笑い声が好き」と言ったら、友人が「あの声は、みんなに愛されている」と。

 

一方、体は小さく、体重も少ないのに、重たい人もいます。

 

ずっと昔の、わたしです。

 

ぺったん、ぺったんと歩いていたようで、「足音で、来るのがわかる!」と言われていました。30歳頃、まだカンフーを始める前のことです。

 

当時はわからなかったのですが、体重がボンッと下に落ちていたのですね。一歩一歩、地面とケンカするように歩いていたとも言えます。

 

 

中国語では「天地人」という言い方があります。中国文化にある概念で、

 

お茶も、蓋碗 (がいわん)という茶器は、茶卓(受け皿?)が地、蓋が天を表し、その間の杯が人、と言われています。

 

天と地の間に人がいて、人が天地をつなぐ、という感覚です。

 

それをじっくり感じられるものが、站椿功です。站椿功は、杭を打つように立つ、という意味です。

 

天地をいっぺんに感じる、というよりは、わたしの感覚では、まず現実に接している大地とのつながりからでした。

 

天とのつながりは、後からやってきました。先生方や、いろいろな人の話を聞いても、それはわたしだけではないようです。

 

縦に伸びる力が効き、バネのように体が使えるようになってくると、頭が天に向かってぐんぐん伸び続ける感じが出てきます。

 

それが進むと、現実の重さに関わらず、軽やかに動けるようになってきます。

 

 

さて、天使のような辻井さんの音が体に残っているまま、站椿功をやってみました。「ふわっと、ふわっと、浮くような感じね」と思いながら。

 

腕を木を抱えるように前にあげるタイプの站椿功は、腕が痛くなってきたり、根性モノになるときもあるのですが、

 

その日は、なんだかとても、ふんわり、いい感じに続けることができました。

 

きっと、辻井さんのおかげです。

 

いい年明けになりました。

 

 

今年も、心を震わせながら、ご機嫌で、自分の命を生きたいと思っています。

どうぞよろしくお願いします。

 

 

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