コップに半分はいった水

2019.12.05 Thursday

 

「コップに半分はいった水を見て、『半分しかない』と見るか、『半分も入っている』と見るか」

 

よく聞くたとえ話ですよね。

 

無い部分を見て嘆くのではなく、ある部分を大切にしようという考えは、ある状況、たとえば自分に厳しすぎる人には、効くと思います。

 

でも、この解釈を聞くと、「うん?ちょっと待て?」と思うのです。

 

なぜ空っぽの部分を嘆く必要があるのだろうか、と。

 

違う見方をすれば、それは余力で、可能性だからです。

 

器は、空洞があるから役に立ちます。全部埋められていたら、モノを入れるという素敵な展開は起こりません。

 

満たされていないところがあるからこそ、「まだまだできることがある」というのも、自分に力を与えてくれる解釈だと思います。

 

でもさらに、そもそも「なぜキミはコップという枠を指定するのだ?」と思ってしまいます。

 

それは完成を想定しているのではないでしょうか?

 

それも、人の能力や可能性を、頭打ちにしていることにならないかしら。

 

「大器晩成」という言葉があります。老子「道徳経」の第41章に出てくることばです。

 

ゆっくり成長する人や、大物は遅れてやってくる、みたいなときに使われますよね。

 

実は、「道徳経」には原本とされるものがいくつかあり、別の原本では「大器免成」と書かれているのです。

 

「大器晩成」は、7世紀、唐の時代に道教の布教の一環として、各地に建てられた石碑に彫られていたものです。長い間、これが原本とされてきました。

 

20世紀に入って、それとは別に、絹にかかれた原本らしきものが発見されました。大部分は同じですが、ところどころ、漢字が違っていたり、単語が抜けたり、あったりしたりと、違いがあります。こちらに「大器免成」と書かれていたそうです。

 

「大器免成」となると、大きな器は完成しない、となります。才能豊かな人は成長が止まることがない、決して完成してしまうことがない、という意味です。

 

わたしとしては、後者の方が老子らしい気がしますが、真相はわかりません。(そもそも、老子という人が実在しているのか、誰なのかも、そんなにはっきりしているわけではありませんし。)

 

そして、どちらも結局、同じような意味にも取れます。

 

「大器晩成」も、大物はゆっくり成長する、と、完成に重きを置かずに読むこともできます。

 

道士(道教の修行者たち)が、難解を言われる「道徳経」を、「読み続ければ、いつかはわかる」という心意気で読むのも、同じようなことだと思うのです。いつかはわかる、と言っても、完成を目指しているわけではないのだと思っています。

 

「道徳経」は、玉虫色みたいなもので、いろいろ解釈できます。これまで生きてきた経験などに照らし合わせたり、今の自分として読むことで、解釈は変わってきます。

 

答えはひとつではないところが難解とも言えますが、「どれも、またよし」と言われているような感じがして、懐が深いと感じます。

 

何ごとも、答えはひとつではなく、「わかった!」と思っても、それは次の瞬間、もしくは数年後には、また変ってしまう可能性もありますものね。

 

さて、「大器免成」に話を戻してみると、大きな器は完成しないのですから、コップという限界は想定していません。底なし沼でもあり、常に膨張している、とも言えます。

 

宇宙みたいですよね。存在しているし、すごく大きいけれども、どこまであるのかわからないし、膨張しているとも言われています。だからこそ夢やロマンを感じたりしませんか?「あそこには、何かがある。いろいろある。まだまだある」みたいな。

 

ちょっと劣性になってきた(かもしれない)コップの水だって、負けていません(勝ち負けではありませんが。)

 

半分しか入っていないところに、少しずつ満たしていくと、満杯になり、表面張力でぷくっと膨れた後に、ざーっと一気に外に流れ出しますよね。

 

自分を満たせば、自然と外に流れ出て行く、という感じかしらね。時期がくれば、ちゃんと外に出るのだから、自分を満たすべき時期に焦ることはないわけです。しかも、半分入っている水をすくい出すより、自然と流れ出るほうが、よほど勢いも、広がりもあります。

 

みんなの意識がちょっとずつ集まってきて、大きな流れを生み出す感じにもなりますよね。モノが流行るときは、こんな感じではないでしょうか。最初はポツポツだったのが、ある一定数を超えると一気に広がることもあります。

 

ひとつの事実も、解釈はいろいろです。

 

その解釈をしているのは、自分ですよね。事実は変りませんが、受け止め方は、自分次第で変わってきます。

 

どれが合っていて、どれが間違っていることも、ありませんよね。そのときの自分に力を与えてくれるもの、元気になるものがいいと思います。

 

それと同時に、その見方が唯一絶対のものではないことも、いつも感じていたいと思っています。

 

 

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自分本来の生き方に還るには?

2019.12.04 Wednesday

 

「水」は、太極拳でも、タオの教えでも、よくたとえとしてとりあげられます。

 

老子「道徳経」第43章には、「世の中でもっとも柔かいものが、世の中でもっとも堅いものを突き動かす」とあります。

 

これは、水(世の中でもっとも柔かいもの)が、堅い岩石を十分に攻めることができるという意味です。硬くて隙間のないように見える岩石でも、水は滲み込み、長いときをかければ、岩石の形を変えることもできますよね。

 

老子はそれを、「無為の有益を知る」と言います。水は、その本性に従うだけで、何の意図もないから無為であり、それでも堅いものを変えてしまう働きがあるから有益である、ということです。

 

老子の教え(=タオの教え)には、「無為自然」ということばがあります。

 

天地自然に沿った行動や心の持ち方を身につけ、実践することで自分本来の生き方をおくることです。

 

水のたとえを聞いていると、「なるほど」と思う方もいらっしゃるでしょうが、「いや、人間はそうもいかないでしょ」と思う方もいらっしゃるでしょう。

 

人とは、意図をもって動く生きものですしね。

 

「無為」というと、「何もしなくてもいいのか」と思ってしまいますよね。

 

大元は、そうなのだと思います。人は存在するだけで十分価値があり、だから生まれてきたのだと思うからです。

 

ここが腑に落ちていないと、「何か付加価値を生み出す自分でなければ、価値がない」とか、成果を出す自分、評価される自分ばかりで、自分の価値を測るようになりがちになるような気がします。

 

何かを得ても、常に不安で、ひとつ失敗すると「終わった」ように感じてしまうこと、わたしには覚えがあります。

 

その頃のわたしに、「あなたは待つことを知らない。行動しないと何も起こらない、得られないと思っている。それは違う」と言ってくださった人々がいるのです、

 

「行動しなければ、成果はないでしょ」と、その忠告が腑に落ちることは、ありませんでした。

 

水は行動しないわけではありません。高いところから低いところに流れる、形を自在に変えるなど、”本性に沿った”行動をしますよね。

 

「行動しなければ、成果はこない」と頑なに思っていた頃のわたしは、水に例えるならば、それをケースに入れたりして、無理やり自由な流れを止めてしまったようなものだったのかもしれません。

 

石頭、と言いますよね。カチコチ、頑固な感じです。自由に流れる水とは真逆です。

 

頭の思考で、自然な流れを堰き止めていたとも言えます。

 

ちょっと想像すると、すごいパワーですよね。でも、ものすごく、くたびれそうです。その負荷が、当時のわたしにとっては、生きている実感だったのかもしれません。

 

そんな様子を見て、「もっと楽に生きられるのに。早くそうなってほしい」と言ってくれた人たちもいました。でも自分では、そんなに大変だと思っていなかったのですよ。

 

なんといっても、大変だからこそ、生きている実感があるわけで、負荷がない状態では不安になってしまうのですものね。どんなにくたびれても、やめるわけにはいかなかったのかもしれません。

 

ホントに、自分のことがまったくわかっていませんでした。わかろうと、していませんでした。

 

でも、頑張るのにも限界はあります。心身に不調をかかえるようになって、「このままではだめだ」と気づくようになった頃、太極拳に出会いました。

 

タイミングだったのか、太極拳に出会ったから気づいたのか、そのあたりはよくわかりません。

 

人生とは、こんな風に、自分で計画しない方が上手くいくこともある、という一例ですよね。

 

太極拳がもたらすものは、いろいろありますが、この”頭でっかち”だったわたしに効いたのは、体の無駄な緊張に気づいて、なくしていくという面でした。

 

まず、体の無駄な緊張に気づき、「これ、いらないよね」と取り去ると、もっとずっと楽になります。頭で考える前にまず動く時間をたくさん持ったことで、頭で考えるより、感じることを、優先できるようになりました。

 

それまでは、頭で考えて計画して行動する、というパターンで、”感じる”ゆとりを与えていなかったのかもしれません。自然な流れを堰き止めていますよね。

 

それを、まず感じて、それをもとに考えて行動する、と、変わりました。

 

「結局、頭は使うのね」と思いましたが、人間ですから頭を使うのは自然な行為です。ただ、感じてから使うことで、自分にかけていた無理な負担は、大きく減った気がします。

 

そして、「待つ」意味も、わかるようになりました。動けるようになるまで待つことも、できるようになりました(逆に言うと、そうなるまで動けないのですが。)

 

それから、心の緊張が、体の緊張を引き起こすことに気づいていき、体に現れた緊張で、心の状態に気づけるようにも、なりました。

 

心が頑なになっていると、体もカタくなり、それでは自然な流れを自分で堰き止めていることになってしまいます。

 

頑なになりそうなとき、「水」のイメージも、助けになります。

 

人の体は、6−7割が水です。地球の海の割合と、ほぼ同じです。

 

それだけの割合が水だということは、その性質を、たくさん持っていることでもあります。柔軟で、意図せず本性に沿って行動できるはずですよね。

 

そして、「流れる水は腐らない」というように、体の中も、無駄な緊張がなければ、ぐるぐるめぐって、つねに清浄にできますよね。

 

太極拳とは、老子の教え、タオの教えを体現化したものでもあります。

 

わたしは太極拳を通して、「無為自然」の意味を感じて、そして考え続けています。それは本来の自分の生き方に還る道でもあり、その時点のわたしが知っている範囲を、遙かに超える可能性を、いつも含んでいます。

 

「道徳経」43章には、「不言の教え」ということばも出てきます。水は、言葉で何かの意図を伝えるわけではないので、水から学ぶ教えは不言の教えです。言葉を超越した教えでもあります。

 

太極拳も、わたしにとっては、そんな存在なのだと思っています。そこには言葉で尽くせる以上の先人の智慧が、詰まっているものですから。

 

 

(参考:「老子」蜂谷邦夫訳注 岩波文庫)

 

 

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穏やかな波動

2019.11.28 Thursday

 

「幸福の硬貨」という曲があります。

 

大好きな小説、平野啓一郎さんの「マチネの終わりに」に登場する架空の曲なのですが、映画化されたときに、菅野祐悟さんが作曲されて、披露されています。

 

これが、とても素敵な曲なのです。懐かしいような、素朴で、それでいてドラマチックで、聴いていると涙が出てしまうのです。

 

音楽は、いいですね。何かが心にじんわり、沁みてきます。何かとは、揺れと言えばいいのか、よくわかりませんし、心に沁みると書きながらも、本当はどこに沁みているのかも、よくわかりませんが。

 

とにかく、いい。

 

よく振動とか波動ということを、感じます。音や声、人の動きなど、その振れが他に伝わっていくような感覚は、わたしにとって大切なものなのです。

 

振動と波動、はてどう違うのかしら?と思ったので、ちょっと調べてみたら、

 

振動とは、振子のようなもので、基本の一点を中心に、特定の周期で揺れ動くこと、のようです。すべてのものは振動している、とも言われています。

 

波動とは、空間に広がりをもった振動のことで、ある点で生じた振動が、周囲に伝わって揺れが生じることのようです。池に石を投げいれると、波紋が出るような感じですね。

 

この説明からいくと、感じているものは、波動という表現の方がよさそうですが、それも振動のひとつですし、”なんだかこの振れとか揺れ”という感じで、いいのかしらね。

 

平和な人や、ニコニコ穏やかな人の側は、居心地がよかったりしますよね。きちんとお掃除されて整えられている場所、たとえば神社などは、行くことで自分も清められる(=気がよみがえる)ような気がします。

 

自然災害や大きな事故や事件が起きると、直接自分が巻きこまれていなくても、落ち着かなくなること、ありませんか?広く不安な気持ちが、伝わってくるのだと思います。

 

もう少し範囲を小さくすると、人のイライラや怒りなどから影響を受けることもありますよね。

 

それらをまともに受けないように、と思っていても、いつの間にか浸食されてしまうこともあります。

 

この場合の問題は、イライラや怒りを持った人ではなく、それを「ある」と認識して、浸食されてしまう自分の方です。

 

ちょっと前、なんだか妙にイライラしたことがありました。なんと、椅子を足でガンッと力いっぱい蹴飛ばしたい衝動にもかられました。

 

「でも、さすがに壁が壊れるでしょう。それは困るし...」と思ったとき、さすがにこの状態はおかしい、と気づきました。

 

[自分が自分でなくなっている。自分を取り戻さねば。」

 

その前に、ちょっと人から「あなたはわかっていない」というようなことを、ちょっときつめに(と、わたしが感じていただけで、実際はそういうことでもないのかもしれませんが)、言われたことがあり、それにわたしもイライラしていました。

 

目には目を、歯には歯を、というやり方は好まないので、気にしないようにしよう、と思っていたのですが、体はしっかり、感じていたようです。

 

わたしはよく、ヘラヘラしていますが、それでも傷つくときは、傷つきます。

 

そして目には目をというやり方は好まないと言いながら、自分の中に怒りはたまっていきました。

 

自分を取り戻そうとして、ちょうどそのときに開いた本に、「生きることは愛なのだ」ということばが出ていました。

 

怒りがたまったわたしは、相手ではなく、自分を攻撃していた気がします。こんなカスカスのわたしで、いいのだろうか、みたいに思っていたところに、このことばは沁みました。

 

「そうだ。生きるだけで、もう十分なのだ」と思ったとき、もう大丈夫、という気がしました。

 

そして、自分だけではなく、他の人も「生きることは愛なのだ」と、い出せますようにと、願いました。

 

こういう話は、ときどき聞くと思います。オノ・ヨーコさんの話にも、似たようなことが書かれていました。

 

ジョン・レノンが亡くなって、ヨーコさんはしばらく誹謗中傷に悩まされたそうです。でも息子さんもいらっしゃるし、「このままでは自分はダメになってしまう」と思ったとき、出てきた言葉は「Bless」(祝福)だったそうです。Blessと言った後に口をついて出てくるのは、自分を誹謗中傷した人たちだったとか。

 

すると、しばらくして、誹謗中傷していた人たちが別のことで忙しくなったりと、状況が変わり、向けられた非難は和らいできて、

 

問題は、外ではなく、自分の中にある恐怖や怒りなのだ、と気づいたそうです。

 

外でいろいろ起きても、大切なのは自分の内側で、そこを”ありのまま”にしておけるかどうかなのかもしれません。

 

それでも外の世界ではいろいろ起きるでしょうが、星の王子様が「大切なことは目に見えないんだよ」と言うように、見えないけれども、感じられる、穏やかな揺れ(波動)を、いつも感じたいと思っています。

 

そしてできれば、自分の発する言葉や動きが、穏やかな波動で広がって行ったらいいな、と思います。内側が”ありのまま”であれば、そういうこともできるのではないかしらね。

 

 

 

※「幸福の硬貨」は、映画「マチネの終わりに」のサウンドトラックに収録されています。わたしは特に、組曲になっている方が好きです。

 

 

 

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花が咲くには、タイミングがある

2019.11.15 Friday

 

(武当山)

 

陰と陽は、質の異なるものがお互いに補完にしあって、ひとつの現象を作ります。

 

たとえば、天地、男女、上下、動と静、昼と夜、などです。

 

どうでもいいことかもしれませんが、実例の順番が陽陰になっているのは、ちょっと興味深くありませんか?

 

わたしの理解では、陰がベースで、その上に陽が成り立っているのですが、静かな人より活発な人が目立ちやすいように、現実で目立つのは陽が多いかもしれませんよね。太極拳の動きでも、陰よりも陽の動きが目立ちます。そんなこともあって、陽を先に書くことが多いのかもしれません。

 

でも、太極拳でも大切なのは、見た目に目立たない陰です。

 

天地創造の1日目も、闇が広がっている中に、神さまが光を作ったと書かれています。

 

闇がないところに光は作れないように、静寂がないところに、喧噪はありません。陰のないところには、陽は育たないのですよね。

 

陰陽は、片方だけでは成り立たちません。太極拳でも常に陰と陽が同時に存在し、陰と陽が転換する中で、バランスをとりながら活動が進んでいきます。

 

でも現実世界は、そうでもありません。たとえば1日は昼と夜に分かれていたり、人間は男女と個体が分かれています。季節だって、夏は陽ばかりですし(老陽)、冬は陰ばかりです(老陰)。

 

今この瞬間をとらえたとき、片方しか見えないときもあります。これって、どういうことでしょうか。

 

ちょっと話は飛びますが、その昔、英文学で「運命」を研究テーマにしたことがあります。

 

神さまの世界には時間と空間がないから、すべてが見えています。つまり神さま側から見ると、運命は決まっています。

 

それでは運命の前に、人はどうすることもできないのか、と思ってしまうかもしれませんよね。

 

そうではなく、人間の世界には、時間と空間という広がりがあるため、その広がりの中(隙間)で、自由意思を行使できる、という話は、今でも深く心に刻まれています。

 

時空を超えるテーマを扱った映画の「インターステラ―」とか、「君の名は。」などを観るときに、心がすごく動くのは、すべてが同時に存在する、見えない世界に触れるからかもしれません。

 

上記では神さまの世界、と書きましたが、太極(すべてのひとつの源、陰陽の母)とも、あの世とも言えますし、老子はこれを道、と呼んでいます。呼び名がないと不便なので、ことばを当てているだけですから、自分に抵抗のない呼び名でいいと思います。

 

陰陽の話に戻ると、時間と空間の広がりのある、現実のある瞬間で見たときに、片方しか見えていないこともあるのだ、とも考えられます。

 

陰と陽については、陰をネガティブにとらえる場合もあるようです。辛い時期を闇になぞらえて、「闇が深いほど光も大きいはず」と言う方がいたり、夜の公園は陰気に満ちているから、あまり行かない方がいい、という方もいます。

 

人それぞれの感覚だと思いますが、わたしは陰とか陰気を、悪いものと捉えていません。

 

夜の公園にしても、そこで静かなパワーを充電するという人もいますし、わたしも中国にいるときは、夜の真っ暗な中で、站椿功をしていました。いいものです。

 

ただ、それが居心地悪いと感じる方は、止めておいたほうがいいと思います。

 

「闇が深ければ光も大きい」も、闇があるから、夜はぐっすり寝られることもあるでしょう。(白夜がある国に長く住む人たちは、また違うかもしれませんが)。休息は、活動するために必要です。

 

運勢に関しても、たとえば大殺界というと、運勢が悪いと思いがちかもしれませんよね。でもこれは、外に向けて活動するには向いていない時期というだけで、勉強したり自分を充実させるには、とてもいいときなのだそうです。

 

人間は、睡眠をとらなければ活動できません。

 

草花は、種としてじっと動かない時期もあり、それから根が出て茎や葉がでて、花が咲きます。種を無理やり開いても、花は出てきません。

 

花が咲くには、タイミングがあります。

 

信号だって、青は進めですが、黄色は注意で、赤は止まれ、です。

 

数年前、痒疹(ようしん)という皮膚疾患に悩んでいたときに、皮膚科の先生から「あなたは赤信号でも渡ろうとする。それは無理でしょう」と、言われたことがあります。(そのときのことは、「体と心が目覚める太極拳」2014年11月27日)

 

シンプルに言えばわかることですが、意外と気やりすぎてしまうこと、あるのではないでしょうか。

 

陰とは、ベースであり、癒す時間で、成熟のときだと思っています。

 

そして、瞬間を見たら種でしかなくても、見えない世界から見たときには、花も咲いています。

 

瞬間は、見えているものだけではなく、見えていないものを含めた全てでもあります。

 

今が、どんなにダメダメに見えたとしても、そうじゃないかもしれないのですよ。

 

 

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アホであること

2019.09.06 Friday

 

先日、「『バカになれ』と言われた」という話題が出ました。

 

わたしも、同じことを言われたことがあります。20代の頃、会社でとてもお世話になった方が退職されるときに、贈ってくださったことばのひとつでした。

 

そういえば、しばらく忘れていましたが、わたしの今年の一文字は「呆」、阿呆の呆です。「アホ」は、声に出してみると、力が抜けて、笑って踊りだしそうじゃありませんか?この抜けた感じがいいなあ、と思ったのです。

 

「アホ」とか「バカ」って、どういうことでしょうね。

 

自分のそれまでの価値観にとらわれないことじゃないかな、と思うのです。

 

アホは、楽です。

 

「わたしがこんなことをやるなんて、みんなどう思うだろう」とか、「上手くいかなかったら恥ずかしい」とか、思う必要もありません。人目を気にする必要も、ありません。

 

「あの人は今、こんな風に思っているはず」なんて、想像もできませんから、妄想にとらわれずに済みます。

 

あまり難しいことも考えられないので、自然と、今、この瞬間を生きていることになります。

 

違う価値観に触れたときも、「へえーっ」と驚くことはあっても、受け入れる余裕もあるでしょう。自分の価値観はあっても、それに縛られていないからです。場合によっては、それまでの価値観をポイッと捨ててしまうこともあります。

 

ほとんどのことを知らないとわかっているため、どうやっても謙虚にならざるをえません。

 

「なぜあの人は、あれは、こうなのだろうか」という、世の中の大半のストレスに関わりそうな考えも、自分の価値観が基準でなければ、浮かんできません。

 

アホは、自分の人生をどうでもいい、と思っているわけではありません。他人の価値観に振り回されているわけでもありません。

 

そのときどきで、自分なりに大切なことはあって、それに従って生きています。

 

でも同時に、自分の世界がいかに狭いかも、知っているのだと思います。

 

ところ変われば、当たり前も、変ります。

 

たとえば、夏休みに旅したモンゴルで、良く食べられているのは羊肉と乳製品です。魚はありませんし(内陸ですから)、野菜もあまり食べません。

 

それでも、モンゴルの人は骨太で、健康そうです。モンゴル相撲の力士だって、強く育つわけですしね。お肉、お魚、野菜とバランス良く食べるという考えは、ここでは成り立たないのだと知りました。

 

もちろん腸内環境の違いもありますから、ずっと日本に住んでいた人が、いきなりモンゴル人の食生活をすると、バランスを崩すことはあるかもしれませんけどね。

 

他にもあります。中国でバス停で待っているとき、バスがやってくると、みんな列を崩してわれ先に、入口に突進していきます。日本人の感覚からすると「自分の事しか考えていない、礼儀知らず」と思っても、無理ないですよね。

 

でも、実際にその場に身を置いてみると、ちょっと違うのです。突進するのは、「自分がこのバスに乗りたい」という意志が行動に現れているだけで、他人を押しのけて自分が乗ろうとしているわけではなさそうなのです。なぜなら、他人に押しのけられたことは、一度もないからです。

 

そう思うと、この場面に出くわしても、別に嫌な感じもしないのですよ。

 

他にも、田舎の場合だけだと思いますが、バスや電車は満席になるまで出発しません。サービスを提供する側からみれば、効率的ですけれど、日本人の感覚からすると、ありえないですよね。

 

でも、「ここはそうなのだ」とわかってしまえば、イライラすることもなくなります。

 

逆にいえば、こういうところを「そうなんだね」と思えないと、日々の生活は、とっても大変になるかもしれません。

 

そもそも、今、自分が好きなものとか、いいな、と思っているものを見てみたとき、最初からすごく興味があったものばかりではないのではないでしょうか。

 

わたしの場合、モンゴルへの旅行にしても、中国に行くことにしても、太極拳を始めることにしても、どれも最初のきっかけは、自分ではありません。他の人から誘われた、みたいなものばかりです。偶然です。

 

もちろん、そこで選択をしているのは自分ですけれどもね。

 

突然、偶然、人生に現れたものが、可能性や視野を、ぐーっと広げてくれることもあります。思い入れが深くない方が、素直にそこに入れることも、あるのかもしれませんよね。

 

そして、「そこ」の力を存分に発揮できるのかもしれません。

 

どこかで俳優さんが、「すごく難しいセリフは、棒読みにする」と話していたことがあります。神社の宮司さんは、「大祓詞の意味を考える必要はありません。ただ読めばいい。神様のことばは、人間の理屈でわかるようなものではありません」とおっしゃっていました。どちらも、自分の何かを手放すからこそ、そのことばの力が発揮されるような感じではないでしょうか。

 

「アホになる修行」という横尾忠則さんの言葉集があります。ぱらっとめくってみたら、「ぼくは外部の評価よりも、自分で自分を特定してしまうことを恐れるんです」とありました。

 

わたしはこういう人だ、こういう価値観で生きている、これが正しいとか、その時々で思うことはありますよね。でも、それが将来も含めた自分の全てだと特定してしまったとたん、窮屈になってしまうのではないかしら。

 

アホであることは、自由に生きられることなのではないかしらね。

 

そして、アホは、裸の王様にならずに済むのですよ。正直ですものね。

 

「呆」を今年の一文字に選ぶくらいですから、まだまだアホになりきれていません。意固地になったり、小さくなったり、人の目が気になったり、「なんであの人はああなんだろう」と思うこともあります。

 

でも、そんな自分も、それなりに受け入れられているところは、アホの恩恵かもしれません。

 

 

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【9月の特別クラス】

9月8日(日)14:00-16:30  「やさしい站椿功」 詳細とお申込み方法はこちら

 

9月14日(土)14:00-16:30 「はじめての武当気功詳細とお申込方法はこちら

 

9月15日(日)14:00-16:30「たのしい太極扇」 詳細とお申込み方法はこちら

 

9月22日(日)14:30-16:30「はじめての形意拳」 詳細とお申込方法はこちら

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

太極道家

講座のご案内は、こちらからどうぞ。

 



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