ていねいな暮しとは?

2018.11.30 Friday

(今年の夏、武当山でお稽古しているとき、とつぜん現れた仔猫)

 

「ていねいな暮らし」というと、よい響きでしょうか?

 

ネット検索すると、本もブログもいろいろ出てきます。関心のあるテーマではあるようです。

 

自分でも、心がけてきたところも、あります。その積み重ねで、ていねいな暮らしになっていくこともあるとは思うのですが、

 

最近、ちょっと違うことを感じました。

 

わたしはずっと、サイズの大きな布を扱うことが嫌いでした。シーツを敷くこと、布団カバーをかけること、大きな毛布をたたむこと、などです。

 

洗濯は好きな方なので(洗濯機がやってくれるだけですが)、いそいそとはがして洗ってもらい、干すまではよいのです。問題はそのあとです。

 

やらなければ日常に支障が出るため、やりますが、いつも「いやー」と思いながらしていたのですよ。

 

それが、です。とある日から、その嫌な気持ちが消えてしまったのです。

 

淡々と動く自分がいるのです。好きになったわけではありませんが、あの「いやー」という気持ちは起きません。

 

最大に嫌いだった布団カバーかけも、内側の紐も丁寧に結ぶ作業(布団が中でよじれないように、カバーと布団を6か所とめる紐です)も、淡々と進めるのです。

 

別人になってしまったみたいですよ。

 

なぜそうなったのか、わかりません。今が、特別な時期なのかもしれませんが、とりあえずは続いているため、そうでもなさそうです。どちらかというと、このままいけそうな気がします。

 

それで思いました。

 

ていねいな暮らしは、しようとしてなるものではなく、自然とそうなっていくものなのかもしれない、と。

 

タイミングがあるのかもしれません。

 

流れとしては、あると言えば、あります。

 

今年の春、体調がすぐれない日にファスティング(断食)しようと思い立ち、自分をデトックスしたら、部屋もきれいにしたくなり、断捨離をしているうちに、「家が好きだな」と感じて、そこから「好きなものをひとつずつ紹介してみよう」と、Instagramで「すきなもの」の投稿を始めました。

 

お片付けモードは、前よりも加速していると思います。

 

でも以前は、部屋を張りきってキレイにすることはあっても、布団カバーかけに張りきることはなかったのです。一度たりとも。

 

さらに言うと、今、布団カバーかけに張りきるわけではありません。あくまでも淡々と作業を進めているだけです。

 

でもですね、シーツにしても、毛布にしても、きれいにできるとうれしいです。

 

ですから、この驚くべき自分の変化は、ものすごくうれしいです。

 

ていねいに暮らすための方法論やコツは、いろいろあるようです。参考にしてやってみることも、いいと思います。心がけているうちに、変ってくることもあるでしょう。

 

わたし自身、「今のは雑ですよ」と指摘されて、気づいたことも、たくさんあります。それは、ありがたいことでした。

 

それでも、何かを苦手だと感じるときは、そのまま感じることも、大切なのかもしれません。

 

無理にていねいにしようと思っても、自分に苦痛を与えるだけかもしれません。そんな「ていねいな暮らし」って、ステキでしょうか?そうではなくても、日常生活に支障がないなら構わないと思います。

 

ひとつ思うのは、「人はもともと、ていねいなのだ」ということです。生きている間に、そのままではいられないことがあるのかもしれないと、思うのです。

 

赤ちゃんが、ほがらかで柔かく、生命力にあふれた存在として生まれてきて、成長するにつれて、体も心もコチコチになっていくみたいな感じでしょうか。

 

スノードームは、振ると雪が舞い上がりますが、そのままにしておけば、落ちつきます。もともとはクリアで静かなのに、騒がしく振ると何も見えなくなるのも、似ているでしょうか。(スノードームは、振る楽しさもありますけどね。)

 

そう思うと、騒がしく雪が舞い上がり続けていたわたしの毎日が、少し落ち着いてきたということなのかもしれません。

 

自分では、站椿功を続けている成果だと、ひそかに思っているのですけれどもね。

 

ただし站椿功をやる前(1回、30分くらいです。それを1日に1回か2回。)、ちょっとしたサボタージュはあるのです。「よしっ」と思わないと、立ちあがれない、というか。

 

もうちょっとしたら、站椿功も淡々と始められるようになるのかしら。

 

 

ゆったりサイクルに触れに行く「やさしい站椿功」は、12月22日(土)14:00-15:30、九品仏駅・自由が丘駅近くの和室で開催します。詳細とご応募方法はこちらから。

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

太極道家

講座のご案内は、こちらからどうぞ

 

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

ブログ: みんみんの陽だまり太極道日記(http://blog.minminkung-fu.com/)

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時間の感覚

2018.11.29 Thursday

 

糸井重里さんの「今日のダーリン」というエッセイが好きです。

 

なるほど、へえーっ、そうそう!などなど、楽しく、深く、軽く、読ませていただいています。

 

11月27日は、ある時代の「社会の時間感覚」について、でした。

 

吉本隆明さんによると、社会の時間感覚は、その時代の大きな産業の商品が、生産されて消費されるサイクルを基本にしているのだそうです。

 

ちょっと前なら自動車を生産し、買われて、運転されるまでのサイクル、もっと昔だったら田んぼに苗を植えて、刈り入れて、それが人の口に入るまでのサイクル、

 

今のようにデジタル時代だったら、そのスピードはぐんっと速くなって、アマゾンの「お急ぎ便」みたいにすぐ届くという、わかりやすい例が出ていました。

 

これだけ速いサイクルが基準になると、大変です。人間は、たいていのことが「のろい」と感じるようになって当然ですよね

 

「のろまだなあ」とか、「時間がかかる」と感じるのは、この視点で見ると、今の時代には当然なのかもしれません。

 

文明の発展による恩恵には、ありがたく預かっていますし、助かっているという思いもあり、その進化を否定する気持ちは、これっぽちもありません。

 

飛行機がなければ、中国にお稽古に行くこともできませんでしたし、

 

人間が宇宙に行くことがなければ、地球は青くて丸いのだ、ということも、いまだに知らなかったでしょう。

 

洗濯機もありがたいですし、料理も、薪で火を起こさなくてもできるのは、快適です。技術の進歩、それ自体は、人の生活を便利にするもので、何かを奪うものではありません。それ自体は、ですけれどね。

 

一方で、このスピードでは疲弊する面もあります。

 

山や、森や、海へ出かけて、癒されるのは、サイクルがゆっくりだからかもしれません。

 

海は、荒波の日もありますが、目にも止まらぬ速さで波が動くのとは違う気がしますし、

 

森で鳴く鳥の声は、7倍速(ドッグイヤーになぞらえて)に聞こえることは、ありません。

 

都会の生活よりは、ゆったりです。1日をかけて、太陽が昇り、明るく照らして、午後には傾いて、夜には沈む、というリズムを刻みます。1年には、四季というリズムがあります。

 

こう思うと、人間は、社会のスピードの加速について行けていないのかもしれません。

 

こんな時代に、太極拳などという、時間をかけていくもの、ただ今を感じていくもの、ゆっくり育てていくものが、なかなか大衆的にはウケない(と感じることがあります)のは、当然なのかもしれません。

 

今の社会で、よくあるサイクルは、目標設定→達成でしょう。達成を目指して、一心不乱に、わき目もふらずに突進するでしょう。効率的ではありますが、その道のりで、脇に生えている草花を見逃す可能性も高いでしょう。

 

「成功すればいい」と思うかもしれませんが、成功し続けるのは、大変です。オリンピック選手だって、生涯ずーっと金メダルを取り続けることは、できませんものね。

 

目標設定→達成の中では、成功するか、失敗するか、しかありません。でも、のんびり道を歩いて、たくさん寄り道をしたら、思いがけない発見があったり、そこから何かが発展していくかもしれません。ここでは、成功や失敗は、ありません。でも、いろんなことが起きます。

 

太極拳の修練は、この後者、のんびり道を歩く方に似ています。

 

中国の武当山にいる先生は、とっても穏やかで心が広く、おおらかな方なのですが、昔、「あれは武当山という環境があるからだ」と言った人がいました。「東京に住んだら、ああではいられないはずだ。」と。

 

そうかもしれません。実際、わたしが武当山に2か月間滞在して、東京に帰ってきたとき、リズムの早さについて行けず、苦しい思いをしました。

 

でも今は、そんな風にあきらめることはない、と思っています。

 

ゆったりしたサイクルを、自分の中に持てばいいのです。

 

天地とつながり、意識が広がってゆったりしてくると、自分という存在が小さく感じられ、あれこれの悩み事がどうでもよくなってきます。悩みごとの程度によっては、どうでもよくはならないかもしれませんが、少し捉え方が変わってきます。

 

ゆったりしたサイクルは、自然のリズムです。どんなに社会のリズムが早くなっても、わたしたちが自然の中で暮らしていることは、変りません。

 

自然のリズムの中では、今の社会のリズムで「遅い」と感じているものも、遅くないのではないかしらね。

 

そして、せかせか焦ってやると、忘れものをしたり、うっかりミスをしたり、逆に時間がかかることもあります。自分のエネルギー消費も大きいでしょうし、周りに与えるイライラ、ピリピリも大きく、人々のエネルギーも消費させるでしょう。

 

それをするのにちょうどよいスピードですれば、結果として、逆に速いかもしれません。エネルギー消費、ストレスは、自分も、周囲の人も、小さくて済みます。

 

テキパキやったけれども、「それ、必要ないですけれども?」という経験、ありませんか?わたしには、あるのですよ。そんな苦い経験が。自分は、「どうだっ」とドヤ顔だっただけに、間抜けすぎて、思い出すと笑ってしまいます。

 

自然の中で育ってきた太極拳は、自然のサイクルに呼応して、ゆったりしています。だからこそ、社会のサイクルが早くなってしまった今の都会には、必要とされている気がしているのですよ。

 

これを広めていくことについては、がんばります。ゆったりと。

 

 

ゆったりサイクルに触れに行く「やさしい站椿功」は、12月22日(土)14:00-15:30、九品仏駅・自由が丘駅近くの和室で開催します。詳細とご応募方法はこちらから。

 

 

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たいしたことのない、わたし

2018.11.22 Thursday

 

以前にも書いたことがありますが、ホームページを立ち上げるまで、すごく時間がかかりました。

 

作ると決めてデザイナーさんに相談してから、半年以上、10か月くらいかかったと思います。

 

あのときにあったのは、「わたしなどが、公開していいのだろうか。」という躊躇と恐れです。

 

ある日、近い人に、そんな相談をしたら、「わたしなどが、と言っているけれども、実際にはすごく傲慢なんだよ。『たいしたわたしだから、たいしたものを公開しなければならない』と、思っているでしょ。」と、笑いながら言われてしまいました。

 

えーっ.....衝撃のひとことです。

 

続けて、「『たいしたわたしではないけれど、これが好きで、こんなことをやっています』と思えたら、すぐに公開できるよ。」実際に、そのことばどおりになりました。

 

「たいしたことない」というのは、卑下ではなく、永遠の真実なのだと思います。広い世の中で、知っていること、わかっていることなど、ほんの一握りなのですから。

 

 

何かに取り組み続けていれば、それなりに専門家になってきます。その話題に詳しい人になり、人からも意見を求められるようになります。

 

そんなとき、自分がよいと思っていることを追求するあまり、他のものを否定してしまうことがあります。

 

以前のわたしには、ときどきそんな気持ちがわいてきました。悔しい思いをしたときなどに、「あんなのでいいんだ」とか、「あれは違う」という否定的な気持ちが芽生えます。

 

これは、自分でも苦しいです。近い人にそれを打ち明けると、「そんなので、いいのよ。」という答えが返ってきました。「そういう需要もあるのだから、いいの。」

 

人のことを気にしすぎですよね。あの頃は、自分がどう見られているか気になりましたし、人のことも気になりました。

 

そもそも、その「よい」は、自分が思っている「よい」で、人とは違うかもしれません。そのことにも気づいていませんでした。

 

そして今、振り返ってみれば、「あれは違う」と思っているわたしは、嫌なエネルギーを出していたなぁ、と思います。

 

 

昔、就職活動をしていたときのことです。かなり年上の方に、英文科出身だと話すと、「じゃあ、なんでもできるね」とおっしゃるのです。意外なことを言うものだなあ、と思っていると、続けて「だって何もできないものね。」と、ニコニコ笑いながら、おっしゃいました。

 

どなただったかは、忘れてしまいましたが、その雰囲気は覚えています。素敵な方でした。

 

 

今でも、いやいや、大学出たての頃よりは、今はもうちょっとやってきたし.....とか、つい思ってしまいますが、そんなこと、ありません。

 

やってきたことは、今の自分の中に、ぜんぶあります。

 

それをわざわざ、取りだして並べてみたり、人に見せてみたりしなくても、いいのだと思うのです。そんなことしたら、それに足がもつれて転んでしまいそうです。

 

 

余談になりますが、これと一見、対極するような言い方で、「わたしは欠けることなく完全な存在だ」と言うこともありますよね。

 

でも、「たいしたことない」も、「完全なわたし」も、同じだと思うのです。どちらも、何かができなくても、何もできないわたしでも、この世に存在してよくて、世界に歓迎されているのだと思うからです。

 

同じことでも、視点によって、選ぶ言葉が違います。どちらがいまの自分に、力をくれる(もしくは無駄な力が抜ける)もので、より自由になれるのかによって、好きな方を選べばいいのではないかしらね。

 

ことばは不完全で、難しくて、便利です(笑)。

 

≪特別クラスのご案内≫

☀「やさしい站椿功」は、11月24日(土)15:00〜16:30、九品仏・自由が丘で開催します。詳しくは、こちらから。

 

 

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手を合わせる

2018.11.09 Friday

 

神社で手を合わせる時間が好きです。

 

毎週のように行くわけではありませんが、ふと「行こうかな」と感じたときに、お参りに行きます。

 

手を合わせるというのは、宗教が違っても、わりと共通ですよね。神社でも、お寺でも、教会でも、そして道観(道教のお寺)でも、形式は違いますが、手は合わせます。

 

小さい頃、わたしはお寺の幼稚園に通っていました。かすかな記憶ですが、ときどきお寺の本堂で、白い小さなお数珠を手に持って、「なむなむ」とお祈りしていたことを覚えています。

 

何もわかっていなかったかもしれませんが、手を合わせること、その形をすること自体が、大切な気がします。

 

両手を合わせることに、何か意味があるのかは、よく知りません。

 

唯一ちょっと知っているのは、神社の参拝方法に関するものです。二礼、二拍手、一礼、と言いますよね。二拍手のとき、右手を左手よりも少し下にする、と言います。

 

「左手は神さま、右手は人。だから最初は人がちょっと下で、二拍手のあと、両手をぴったり合わせることで、神さまと人がひとつになる。」

 

大学生のとき、民俗学の講義の中で教えていただきました。単位稼ぎのために(ごめんなさい)取ったつもりの課目ですが、日本の習慣や風習など、面白いお話も多くて、とってもためになりました。この参拝方法のときも、「へええ」と感激したことを覚えています。

 

わたしのカンフーは武当功夫(カンフー)で、道教の修行者(道士)がするものです。そのため、ご挨拶の手は、道士のお祈りと同じ形です。

 

両手を組んで、親指側、小指側、両方から見たときに、陰陽太極図のような模様ができます。「武器を持っていませんよ」と伝える意図もある、と聞いたことがあります。

 

 

いちおう、女性は右手が上、男性は左手が上、と、男女で違うのですが、中国の先生いわく「そうだけれども、あまり気にすることはない。」そうです。

 

手を合わせることは、それがどんな意味を持つのか、もっと調べることは、できるかもしれません。でも、この動作には、そういう意味以上のものがあるような気がします。

 

たとえば、神道の大祓詞は、ちゃんとストーリーになっています。神主さんにその意味を解説していただいたこともあるのですが、最後におっしゃったことばが、とても印象に残っています。

 

「意味など考えながら、唱えなくてもよろしい」と。

 

人間はとかく、理屈をこねたがる。でも、神様の世界のことなど、人間にはとうていわかるわけがない。神様のことばには、力がある。ああだ、こうだと難しいことを考えるのではなく、とにかくそのまま唱えればよい、というようなお話でした。

 

これ、とってもいいなあ、と思うのです。

 

このくらいの感じでいくほうが、生きやすいのじゃないかしらね。

 

昔から続いている形には、きっと何かがあります。自分の想像をはるかに超えるものなのじゃないかしらね。

 

 

 

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自己責任と、おかげさま

2018.10.31 Wednesday

 

自己責任ということば、よく聞きますよね。

 

このことばが広辞苑に掲載されたのは、10年前に発行された第六版なのだそうです。日本人には、比較的あたらしいことばなのですね。

 

他人任せにせず、自分のことは自分でというのは、大筋では、その通りだと思います。

 

わたしの感覚では、自分のことを他人ごととしてとらえない、という方が、ぴったりくる気がします。

 

たとえば、過去に痒疹(ようしん)という皮膚疾患を患っていたとき、最初はブツブツができる皮膚が嫌でした。痒くて眠れないし、何よりも、見た目が美しくないからです。いろいろ、嫌なわけです。

 

今から振り返れば、あの頃は、自分のことを他人として見ていた気がします。”わたし”という他人に向かって、「あなた嫌い。醜いから」みたいな感じです。ひどいですよね。とほほほ。

 

他人だと思っているから、体が「辛い」と訴えても、無視できます。後回しにも、できるわけです。

 

そんな風に”他人ごと”にしてきたと気づいたとき、本気で自分に謝りました。「ごめんなさい。これからは絶対、あなた(わたし)は、わたしが守るから。何があっても優先させるから。」と約束しました。

 

気づきは大きな転機になりましたが、それだけで回復できたわけではありません。お医者さんのアドバイス、お薬、食事、生活環境、などなど、いろいろなものが力になりました。わかりやすいところで食事を例にすると、それを作った農家の方々、そしてその恵みを可能にしてくれた自然まで思うと、ものすごい助けを受けてきたわけです。

 

ありがたいとは、有難いと書きますよね。本当に、その通りだと思います。自分だけでできることなんて、ありません。

 

 

自己責任は、ボディワークを習っているときにも、出てくることがあります。やりすぎないように注意すること、無理しすぎないこと、でしょうか。

 

でも、わたしはこのような場合に、この言葉を使うことが、好きではありません。自分のことは自分で、という方向性を否定したいわけではなく、なんとなく乱暴に使われがちなところが、気になるだけです。

 

なぜなら、未経験の新しい領域に入っていく場合、どんなことが起きるかなんて、わからないからです。わからない人に、自分で責任を取るようにというのは、ちょっぴり乱暴に聞こえます。ちょっぴり、ですよ。でも、結構キツイです。

 

もちろん、指導する側にはわかるのかといえば、他人の体に起きることを全部わかるわけはありません。それでも、自分の体を大切にするのと同じように、他人が自身の体を大切に扱えるように、自分ができることはするという意識は、あります。自分がいる場所で起きたことに、「それは自己責任だから」というのは、ちょと寂しいような気がします。

 

 

自己責任は、英語で言うと、self responsibilityです。responsibilityという言葉は、response=反応する、という言葉からきていますよね。

 

つまり、自分自身で起きることに反応する、対応する、というような感じだと思います。

 

それは責任を持つ、ということになるのかもしれませんが、”責任”というと、ちょっと「あなたの責任でしょ」と他人を責めているような場面を思い浮かべてしまうのは、わたしだけでしょうか。

 

そもそも、誰にも迷惑をかけないで生きている人など、いないはずです。「迷惑かけてないもーん」という方がいらっしゃるとしても、誰のお世話にもなっていない人はいないでしょうし、「お世話になってないもーん」という方がいらっしゃるなら、誰とも関わりなく生きていくことは、人間社会では難しいと思います。

 

人との関わりを持つことは、人を成長させてくれます。自律神経システムの中の腹側迷走神経は、社会的つながりのシステムの神経と言われています。この腹側迷走神経が働くことで、誰かといても、戦ったり逃げたりすることなく、つながることができるのだそうです。そしてこれは、生まれた後、両親や周囲の人との関係の中で、育っていきます。

(参考:「『今ここ』神経系エクササイズ」浅井咲子著 梨の木舎 2017年)

 

 

日本語には、おかげさま、という言葉もありますよね。

 

「おかげさまで、助かりました。」という、わりあい直接的に関係している場合にも使いますが、「おかげさまで、元気にしております」など、聞いてくださってありがとう、ということ以外、それほど直接的な関係はないときにも使います。

 

それでも、おかげさま、なのですよ。

 

「おかげさまで」と、卑下することなく、偉ぶることなく、生きていきたいと、思います。

 

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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