武当山日記:価値

2018.09.18 Tuesday

(学校から見た日没)

 

武当山について、よく聞く話があります。

 

「あそこは、よく教えてもらえない。」です。

 

わたしは10年間ここに通って、3つの学校を経験してきました。実際に同じ学校の中で、「全然、先生に教えてもらえない」と話している人にも、何人も会ったことがあります。

 

自分のわずかな経験だけでは、全体を知っていることにはなりません。でも、自分なりに思うことは、あります。

 

価値の置き方が、違う、ということです。

 

少し話はそれますが、環境や状況によっても、状態はかわります。

 

まず、個人で行くか、団体でツアーのように行くか、です。団体で行く場合、ここは練習、ここは講話、ここは観光、というように、スケジュールやプログラムがしっかり決まっています。お稽古は、グループで同じものを習うでしょう。ほとんどの場合は先生が引率してくるため、その先生のサポートがあります。”教えてもらえない”事態には、なりません。

 

個人の場合、学校側で特別な”〇日プログラム”を提供していない限り、通年のお稽古に入ることになります。スケジュールは決まっていますが、プログラムは、フレキシブルというか、曖昧です。

 

学校の規模によっても違います。大きな学校の場合、いちばん上の先生が教えることは少なく、弟子たちがお稽古をつけます。小規模の場合、いちばん上の先生が教えます。ただし先生が用事で不在になることも、あります。

 

「あまり教えてもらえない」という話が出るのは、大きな学校でも、小さな学校でも、個人で参加する場合のようです。大きな学校では、教えてくれる弟子の数はいますが、いちばん上の先生に教わりたい人は、「教えてもらえない」という感想になるようです。

 

今の学校はのお稽古は、1週間に5.5日、1日5時間です。その間、先生はずっと一緒にいるわけではありません。

 

学校には、わたしのように短期で滞在する”臨時班”のほかに、”伝統班”とよばれる中国人のこどもの生徒たちがいます。通年で滞在し、学校のお手伝いもします。先生の弟子がつきっきりで教えますが、当然、先生も教えます。

 

先生が、出張、用事などで、学校にいないこともあります。もともと弟子がサポートしているため、教える人が誰もいないわけではないのですが、人によっては「先生に習えない」ことが、不満になります。

 

先生がいたとしても、みんなそれぞれの内容で練習しているため、1回のお稽古時間に、先生が自分のところにやってこないこともあります。

 

自分の近くに歩いてきて、「次かな?」と思っても、そのまま素通りされたり、携帯に電話がかかってきたり、他の人から呼ばれて行ってしまったり、というトホホなときも、あります。

 

待っているのではなく、自分から行けばいい、という考えもあるでしょう。でもその積極性も、ちょっと違う気がします。

 

ひとつは、自分で練習する時間は、すごく大切だからです。

もうひとつは、先生はきちんと見ていると、知っているからです。

 

先生は、ひとりで練習させておいた方がいいときは、教えません。逆に、ひとりで練習できるようなポイントを掴むまでは、ときには息苦しくなるほど、ずっと一緒にいます。

 

そうわかっていても、ひとりの練習が長くなると、「そろそろ次を」と、はやる気持ちもでてきます。そんなとき、先生が不在だったり、他の人のところにずっといると、イライラしてくることも、あります。未熟さ、ですね。

 

でも、この葛藤と向き合うこと、そして乗り越えていくことも、毎回、大事な時間です。

 

そして、教わることの価値は、時間の長さでも、量でも、ありません。

 

普段の生活では、対価という考え方に、慣れすぎているのかもしれません。「5時間分のお金を払っているのだから、その分、教えてもらうのは当然の権利」と思うことです。それは、間違っているわけではないのですが、狭い視野で対価を考えすぎると、自分が苦しくなります。(注:学校としては、5時間はお稽古時間であって、弟子が教える時間を含みます。念のため。)

 

昔のわたしは、「自分がこれをやったから、あなたもこれをやってほしい」とか、「自分ばかりがやって損をする」と考える人でした。でも、それでは大変です。いつも損得勘定をして、イライラ、くたびれます。

 

そんなわたしの価値観を変えたのは、武当山でのお稽古でした。(そのひとつの経験は、こちら「信頼」、2015年5月の記事。)

 

「先生が不在のこともあるという状況なら、そうだと最初から説明すればいいじゃないか」という人もいます。説明責任でしょうか。気持ちは、わかります。でも、なんだかそれは、しっくりきません。

 

もっと生徒を呼ぶためには、きっちりと、先生が教える体制を整えたり、事前説明をしたら、いいのかもしれません。

 

でもそれは、ここが大切にしているものと違う気がしてしまうのです。

 

上手く言えないのですが、状況にイライラする自分に気づくこと、そしてそれがどんな考えから来ているのか、その価値観とは違うものがあるのかもしれない、と思うこと、そんなプロセスを経験できるのも、ここならではのような気がします。

 

それが、道(タオ)につながると、思っています。

 

武当山にお稽古に行くようになって10年、今の先生について7年です。よく教えてもらえなかったら、行っていませんよ。

 

(最後のお稽古日に、臨時班で記念撮影。左端が、お稽古友達でもある先生の弟子。中央、黒い上着の方が先生です。)

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ

 

 


武当山日記:安静(an jing)

2018.09.12 Wednesday

(逍遥谷)

 

8月末から9月上旬まで、中国の武当山にお稽古に行ってきました。そのときに感じたことを、少しずつ書いていこうと思います。

 

今回、今までとは大きく変わったことがあります。学校が、お引越ししたのです。

 

「農家を改装して、学校を移す」という計画は、2年前から聞いていました。

 

今までは、南岩という場所でホテルの中にオフィスを構え、わたしたちのお部屋もホテルでした。

 

南岩は、バスの終点のひとつです。南岩宮という美しい道観(道教の寺院)をはじめ、世界遺産に指定されている古代建築物もあります。金頂と呼ばれる山頂まで歩いて登るコースの始点にもなっています。道には、お土産もの屋さんやレストラン、ホテルが並び、小さいながらもスーパーもあり、にぎわっている場所でした。

 

ちょっとしたお買いものもでき、お稽古が終われば近くのお茶屋さんに遊びに行ったり、プチ観光したりと、いろいろな楽しみも多い場所でした。でも、週末や祭日にはバスも人も溢れ、夜は宴会の大声が響き、朝は山に登る人が4時くらいから大声を出したりと、「まいったな」と思うこともありました。

 

お稽古中も、観光客に囲まれ、写真を撮られたりするような環境でした。

 

いまの場所は、南岩からバスで12キロ下がったところ、逍遥谷にあります。

 

ここも観光地ですが、南岩のように、お店やレストランはなく、ホテルもありません。

 

先生は、こういうやすらかな環境を求めていたようです。

 

(学校。オフィスのある1号棟)

 

お店もなく、不便に見えますが、食事は学校で出ますし、ミネラルウォーターも用意されているため、お買いものに行く必要も、ありません。

 

広い敷地内には、5棟が点在しています。おしゃれな言い方をすれば、コテージ風です。1号棟がオフィス、残りの2〜5号棟が、宿泊施設です。

 

それ以外の建物は、もともとのオーナーさんのお家くらいです。

 

知らない人が入ってくることもなく、部屋にも鍵をかけなかったくらいです。昔の田舎のおうち風ですね。

(2号棟。わたしの部屋の前)

 

(ピーナッツを干しているところ。でもここは、道。わたしの部屋からオフィスに向かう道です。)

 

朝も、昼も、夜も、いつでも静かです。ここでいちばん大声を出すのは、虫たちです。大きすぎて「夜、なかなか寝つけなかった」という人も。

 

スーパー行くためには、バスにのって南岩に行かなければなりません。20分くらいかかりますし、山道ですので、車酔いもします。さらに、近くのバス停から学校までは、結構な階段があるのです。出かける意欲をなくすくらいの階段なのですよ。

 

お稽古が終わった後の夜は、バスもなくなります。どこにも行けません。学校の中でおしゃべりしたり、練習することもありますが、基本はさっさと部屋に帰って寝ます。

 

敷地内は、緑がいっぱいです。景色も美しく、早朝の自主練も、気持ち良くできます。

 

(学校の敷地内からの景色)

 

こうなると、自然とひきこもりがちになります。でもそれが、とても居心地のよい、ひきこもりなのです。

 

どこかに行きたい、とか、

どこかに行かなければ、とか、

 

何かを外に求める必要はなく、いまいる場所にいるだけで、十分なのです。

 

自然の姿は、毎日変わります。時間によっても、光のさし方、風、聞こえてくる音も、どんどん変わります。同じ瞬間は、二度とありません。何もないように思えるかもしれませんが、実はとっても豊かです。

 

お稽古も、自然と集中できます。周りを見ていても、無理なく、進んでお稽古するような人が多かったように思えます。

 

その姿は、とても美しかったです。

 

(高台にある屋根付きスペース)

 

先生は、「ここは”安静”だから」とおっしゃっていました。中国語で”安静”とは、穏やかで落ち着いている、澄み渡っているようなイメージでしょうか。こんな風に、静かで平和な環境でやりたかった気持ちが、よく分かった気がします。

 

敷地内には、中型犬が2匹います。白と、黒。白い子は、脚が3本しかありません。でも、上手に歩きます。ぴょこぴょこと歩く姿は、いつも「うふっ」と嬉しがっているようで、とてもかわいかったです。

 

こちらの犬は、放し飼いです。中国では伝統的に番犬で、日本のように家族の一員という意識ではないため、関係性は、ちょっと違う気がします。

 

それでもこの山で出会う犬はみんな、優しく、かわいい顔をしています。しあわせそうに見えます。性格も、おだやかです。

 

早朝や夜中に吠える声で起こされることはありましたが、犬のいる生活は、なんとも暖かいものでした。

 

(おやつをねだりに、部屋に侵入してきたところ)

 

環境は、やっぱり大切です。

 

ここでなければダメということはないのですが、人生の中で、やはりときには、自然の中で、外からの刺激に煩わされずに過ごすことは、とても大事なことだと思います。

 

来ている人の様子が、それを語っているようでした。

 

無理せず、自然に生きることは、武当功夫(カンフー)が伝えようとしていることだと、思います。それには、無理をしない自然の環境に身を置いて、そこから自然に学ぶことが、いちばんです。

 

ここは、何もないかもしれないけれど、すべてがあります。

 

手作りのおいしいごはんをみんなで食べて、どうでもいいことで大声で笑って、助け合って、体をしっかり動かして、ぐっすり寝る。そんな毎日は、人の体と心をほぐしてくれます。

 

お部屋もね、素敵でしょ。先生は、センスが良いのです。お掃除も、きちんとされています。

 

 

 

(窓からの風景。この席は、先生もお気に入り。)

 

ただし、写真には写っていませんが、虫は出ます。大きなクモや蛾、バッタや毛虫くんなど、いろいろです。中国の家は土足ですから、外と内の境界線が曖昧なこともありますし、窓やドアの隙間も大きいこともあると思います。

 

見つけたら、速やかにでていっていただくよう促すか、スプレーで対処です。山の中ですから、そういう術は、身に着けないとね。

 

(学校から見える日没)

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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武当山の紹介

2017.08.11 Friday

 

今日、8月11日は、「山の日」です。

 

ちょうど自由が丘FMTVの「みんみんの陽だまり太極道」の放映日でしたので、「山の日」にちなんで、武当山のご紹介をすることにしました。

 

武当山はどこにあって、どうやって行くのか?から始まり、世界遺産に指定されている古代建築群(道教寺院)、わたしがお稽古に行く南岩の見どころ、山頂への道、そしてお茶や音楽、書などの文化のご紹介まで、たくさんの写真を入れながら、お話しています。現地の方に教えてもらった話や、あちらでのエピソードなども、入っていますよ。

 

何度も通っているところで、良く見ている風景ですが、それでも見るたびに違う顔を見せてくれるところは、「この瞬間は今しかないんだ」、ということを、強く感じさせてくれます。

 

自然の景色というのは不思議で、何度見ても、長く見ても、見飽きることはありません。温度、光、お天気、いろいろな要素によって、どんどん変わっていくのが、わかりやすいからかもしれません。

 

本当は、室内であっても同じで、今、この瞬間は今しかないのですけれどもね。

 

自然の中に身を置くことで、それを忘れずにいさせてくれます。

 

何はなくとも愛しい故郷。そんなことを思わせてくれる場所です。

 

お時間があるときにでも、よかったら見てみてくださいね。ちょっとした観光ガイドを楽しめるかもしれません。

 

 

また、この映像で使った写真は、Facebookに解説つきで掲載しています。こちらもよければのぞいてみてください(Facebookアカウントがなくてもご覧いただけます)。

 

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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旧暦9月9日の重陽節

2016.10.25 Tuesday

 

(紫霄宮)

 

中国では旧暦の9月9日は、重陽節です。奇数を陽の数とするため、9が重なる日だから重陽と呼ばれ、日本の敬老の日にあたるようです。「秋のピクニックに行く日だよ」と、友人が教えてくれました。

 

武当山では、この日は別の意味でも特別な日です。北の守護神、真武大帝(玄天上帝)が悟りを開いて天に昇ったとされる日なのです。紫霄宮(道教のお寺)で、大きな法要が行われるというので、友人と一緒に行ってみました。

 

南岩からバスだと1つ目の停留所、道路を歩くと30分くらい、山の裏道を通れば15〜20分くらいで到着します。土地の人は、みんな裏道を行きます。近いし、景色もきれい、山道は楽しいのです。

 

紫霄宮は、もともと尼寺だったと聞いたことがあるのですが、今回の法要でちょうど中央にいらした方は、女性でした(現在は、男性も女性もいるお寺です)。剣を捧げるような場面もあり、興味深かったです。聞きなれた道教音楽と歌が生で演奏されていて、お香の香りとも混ざって、人で混雑していましたが、ほっとする、良い時間でした。

 

 

この紫霄宮が、現在の形になるように大がかりな再建が進められたのは、明の時代のことです。度重なる戦乱で焼失したり傷んだりしていた寺を、1412年、明の永楽帝が再建しました。永楽帝は真武大帝を深く信仰しており、真武大帝は明朝の護国神であったそうです。

真武大帝には、興味深い逸話が伝えられています。


真武が武当山で修業していた頃、一時、山から下りて俗世間に戻ろうとしたことがあります。「磨針井」のあたりまで下ると、一人の老婦人が太い鉄の棒を研いでいるのを見かけました。不思議に思った真武は、何をしているのかと老婦人に質問します。
すると、「縫い針を作るためだよ」と。真武はこんなに太い棒で縫い針ができるものかと不思議がっていると、老婦人は「鉄の棒を止めずに研ぎ続ければ縫い針は必ずできる」と答えます。これを聞いて悟った真武は、すぐに山に戻って修業を続け、やがて仙人になったと言われています。

 

この「磨針井」、観光名所として武当山の中腹に存在します。さらに武当山の南岩には「飞身岩」という、真武大帝がここから昇天したと言われる場所があります。ここにも逸話が残されています。

 

(飞身岩)

 

武当山で42年の修業を積んだ真武は、この崖にやってきました。真武の師匠が美しい女性に成り代わりそばにやってきたところ、真武は彼女を悪魔だと勘違いして剣で殺そうとします。彼女は嘆いて、自ら石の上から身を投げました。それを見た真武は、申し訳なく思い、彼女のために祈ろうと、その石から躊躇することなく飛び降りたそうです。彼の体は浮き上がり、五頭の龍に支えられて天に昇って行きました。そしてこの石が、「试心石」です。

 

(试心石)

 

「铁棒磨针(鉄棒磨針、鉄の棒を磨いた針)」という言葉は、学校にも掲げられています。コツコツと続ければ、いつかは達成できるという教えは、わたしの道の指針にもなっています。


武当山の頂上:金頂への道

2016.10.21 Friday

(金頂。文字通り屋根が金色に輝いています)

 

武当山の頂上は、金頂と呼ばれ、標高1612メートルにあります。

 

行き方は、ふたとおりです。山の途中までバスで行き、そこからケーブルカーか、徒歩で登ります。(注:バスの行先も2つで、ケーブルカーで登る起点と、徒歩で登る起点は違います。)

 

今回は徒歩で登りました。宿泊している南岩から、約3-4時間の行程です。道は整備されており、ほぼ、階段を登り続けることになります。整備されているのが良いのか悪いのか、山道を歩くより大変です。

 

この日は朝から小雨も降っており、レインコートを着て出発です。山登り日和とは言えませんが、小雨の降る山は、空気がことさら新鮮で、香りもたっぷり楽しめました。

 

(ずっと、こんな景色が続きます)

 

ここは道教の聖山でもあるため、頂上に登る途中にも、見どころはたくさんです。そのひとつ、朝天宮がこちらです。

 

朝天宮というのは、天に続くお寺、というような意味で、英語ではPilgrimage Palace(巡礼寺)と表記されています。”朝”は、日本語の意味とは違い、”〜に向けて”という意味なのです。“宮”は、道教のお寺という意味で、大きなものは"宮”、小さいものは”観”と教えてもらったことがあります。ここは”宮”の名前がついていますが、小さいところでした。

 

ここで道はふたつに分かれます。一つは清の時代に作られた近い道、もうひとつは明の時代に作られた道で、少し遠くて急だけれども一、二、三門と朝聖門(Celestial gate)をくぐる風光明媚な道、と言われています。いつも近道を通っていたのですが、今回は門を通る道にしてみました。

 

(朝聖門の前で)

 

一、二、三という門は、老子の「道徳経」にも書かれているように「道生一、一生二、二生三、三生万物(道は一を生み、一は二を生み、二は三を生み、三は万物を生む)」という道士たちの概念にもつながっています。道教では三は無限大を意味し、発展を示す数字だとされています。一、二、三門をくぐるこの道は、人間界と天界との境目とされています。ジグザグに進む道は人生に例えられ、喜びや悲しみなど様々なことを経験します。現実に向き合い、自然の流れに沿って生きることがわかりさえすれば、人生は幸せに満ちてくる、という解釈がなされているようです。

 

一門からニ門の間は、”360歩古神道”と呼ばれ、文字通り360歩だそうです(今回は、数える余裕はありませんでした)。この数字は、陰暦(旧暦)の1年が360日になぞらえているようで、人生の期間を象徴しているようです。

 

長い長い階段を見上げると、気が遠くなっていきます。こんなときは、次の一歩だけを見て、常に今にいるようにします。到達は、その積み重ねの結果です。(そうは言っても、つい見てしまいますが。)今、思い返すと、確かに人生と同じですね。先(将来)を見ると、気が遠くなったり、心配にかられたりしますよね。

 

途中で、一緒に登った方が、「なんで人生とかは上向きだと良い調子なのに、山は登るのが大変なんでしょうね」とつぶやいていました。これも今、思い返すと、的を得た感想ですよね。他人から見たら、もしくは過去を振り返ってみたら上り調子でも、そのときの本人は、一歩一歩、大変な思いをして登っている、ということかもしれません。

 

 

建築群が世界遺産に指定されている武当山には、観光客がいっぱいです。この日も、雨にも関わらず、中国人観光客がたくさん登っていました。途中、お話したり、長い階段を登りながら励まし合ったり、わたしたちが日本人だとわかると「ふるさと」の歌のフレーズを口ずさみ、「歌ってくれ」と言われたり。そんなひと時の交流も楽しいです。中国人は軽装で登る人が多く、靴もふつうの運動靴(確かに、山用の靴で登るような山道ではありません)がほとんどで、スカートで登る人や、ハイヒールで登る人も!

 

そんなこんなで励まし合いながら、ようやく頂上に到達です。真っ白で何も見えないかと思っていたのですが、霧がさっと動いて、すごく美しい風景が現れました。

 

 

(小さく点々と見えるのは、ケーブルカーです)

 

「来てよかったね」と、ひとこと。

 

最初の写真は、亀の頭のように見えませんか?実は、武当山を航空写真で撮ると、亀の形をしているのです。「航空写真が撮れるようになるずっと前から、ここに住む人たちは、ここが亀の形をしていると知っていたんだよ」と、学校の人が教えてくれたことがあります。

 

頂上にあるのは、太和宮と呼ばれています。武当山の別名は、太和山です。太和、という言葉で思い出すのは、前に先生の兄弟弟子が、「わたしたちはみんな”太和”、大きな家族だよ」、と言ってくれたことです。直訳ではないと思いますが、みんなつながっている、というような意味を感じます。あたたかいですよね。

 

 

登り切ってみると、いつも「来てよかった」と思います。一緒に登ってくれる人がいたり、途中でいろんな出会いがあることも、大切な要素です。人生と一緒、一人では生きていませんね。

 

今日も、一歩、一歩を大切に。気分が落ち気味だったり、心配ごとがあるときに、この道のりを思い出そうと思います。どんな道でもきっと、「来てよかったね。」

 

(登頂?記念に)

 

(参考:「Tour Guide to Wudang Mountain」Chief Editor: Chen Ying  2011年版 中国旅游出版社)



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