大器晩成

2019.04.12 Friday

 

 

本屋さんが好きです。

 

「これ」と決めた本は、ほとんどネットで買ってしまいますが、ちょっと時間があるとき、よさげな本屋さんを見かけたとき、吸いこまれるように入ります。

 

ぐるっと回るうちに、面白そうな本が見つかることも。

 

昔、ときどき行くところに、小さな本屋さんがありました。ぐるっと回ると1〜2分くらいの、ささやかなお店でしたが、行くと必ず面白そうな本に出会えました。ご主人のセンスかしらね。今は行かないところなのですが、大好きな場所でした。

 

 

先日、新しい老子の本に出会いました。文庫なのですが、装丁が美しく、手に取ったら手放せなくなってしまいました。

 

老子の「道徳経」は、81章約5000語という短いものなのですが、短いだけに、そのことばをどう解釈するかは、いろいろです。

 

個人の生き方、リーダーのあり方、政治の行い方など、同じ章でも、視点が違うといろいろ読めます。太極拳との関連でも、読めます。老子の思想を体現化したものが、太極拳とも言えますしね。

 

さて、その老子の「道徳経」、実は原本はひとつではありません。

 

老子という人自体、あまりはっきりわかっているわけではありません。一般的には、司馬遷の「史記」に書かれている人とされており、周王朝の守蔵質の史、つまり国の国会図書室の役人でした。

 

老子は、周の国が衰えるにおよんで、首都の洛陽を立ち去ります。そのとき、函谷関(かんごくかん)もしくは散関(さんかん)どちらかの関所を通るときに、関守の尹喜(いんき)に留意されます。それを振り切って去ろうとする老子に、尹喜が、せめて何か残してくださいとお願いし、一晩で書いたものが「道徳経」と言われています。

 

長い間、原文とされてきた「道徳経」は、唐の時代、7世紀に建てられた石碑に掘られていたものです。唐の王室は道教を重要視しており、各地に道観(道教の寺院)を建立し、そこに石碑も作っていたようです。

 

でも20世紀に入り、遺跡から絹に書かれた2種類の「道徳経」が見つかります。唐の時代の石碑に掘られていたものと、大筋は同じなのですが、ところどころ、表現や文字が違っています。

 

「大器晩成」は、41章に出てきます。

 

石碑に書かれているものは、

大方無隅

大器晩成

大音希聲

大象無形

(大きな四角には隅がなく、大きな器は完成するのがおそく、大きな音はほとんど聞こえず、大きな現象には形がない)

 

大器晩成は、大物は、ゆっくり育つ、というような意味で、不器用だったり、なかなか成果が出ない人に、励みのことばだったりしますよね。

 

一方、絹に書かれた「帛書(はくしょ)」では、

 

大方無隅

大器免成

大音希聲

天象無形

(大きな四角には隅がなく、大きな器は完成せず、大きな音はほとんど聞こえず、天の現象には形がない)

 

と書かれています。

 

なるほど、よちよちと、ずっと老子を読んできた身としては、大きな器は完成せず、という帛書の解釈は、すごく老子らしいなあと感じます。

 

もしかしたら、大器晩成と言われる方が嬉しくて、「完成しない」と言われてしまうと、がっかりするかもしれませんよね。

 

でも、結局同じことだと思うのです。大物は、ゆっくり成長していき、その成長は止まることがないのですから。

 

その人が大物かどうかを決めるのは、自分ではなく、人ですよね。場合によっては、本人の没後ということも、あります。

 

人の評価をあてにするのではなく、自分が信じること、やろうと思うことを、諦めずに続けていくだけでいい、という方が、勇気づけられる気がします。

 

「TAO, THE BOOK OF THE WAY LAO TZU」の訳者、安富歩さんは、ここに素敵な訳をつけてくださっています。

 

大きな四角、つまり有徳者の広い心は、

どこまでも寛大であって、誠に届くことがなく、

大きな器、つまりすぐれた才能は、

どこまでも成長し続けて完成することがない。

大きな音は、もはや聞こえず、

天の姿には、形などない。

 

道士(道教の修行者)たちは、「道徳経」を、ずっと読み続けると言います。その理由は、「読み続ければいつかはわかるから」と聞いたことがあります。

 

ここに書かれている大器免成にも、つながりますよね。

 

読み続ければいつかはわかる、という人たちが、本当に「わかった」と言う日はないのかもしれませんが、それはちっとも不幸なことではないと思います。

 

今は、こう思うけれど、まだ違う解釈があるかもしれない、と、余白を残しておくことは、成長の余白でもありますし、他者や他の意見を聞く余裕にもなりますし、心のゆとりにもなります。そして、それ自体が楽しさをもたらしてくれると思っています。

 

 

参考:「TAO, THE BOOK OF THE WAY LAO TZU」安富歩 編訳 株式会社ディスカバー・トゥエンティワン

 

 

【特別クラスのご案内】

4月14日(日)14:00-16:30「内なる自然に還る旅:魚からの進化をたどって若返ろう!」第3回 ワニの上陸 です。詳細とご応募方法はこちら

 

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5月11日(土)14:00-16:30は「やさしい站椿功」です。詳細とご応募はこちら

 

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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    スノードームのように

    2018.11.15 Thursday

     

    月に2回、「タオを生きることば」のクラスで、老子の「道徳経」を、ゆっくり読んでいっています。

     

    読むだけではなく、みんなで感じたことを話したり、体で感じるワークの時間もあります。太極拳は、老子の思想を心身で表現するようなものなので、こんな読み方もできるのです。

     

    ことばだけだと「なんのことやら」と思ってしまうことも、あれこれやってみることで、何かしら腑に落ちてきます。「これ」とことばで表現できなかったりしますが、そもそも世の中のものは、ことばで表現できることを超えているのだから、「これでいいのだ」と思います。

     

    みなさんと読んでいくことで、わたし自身、ひとりで読むときより、ぐっと深いものを感じます。ありがたい時間です。

     

    ちょっと前に、16章を読みました。現代語訳は、こんな出だしです。

     

    心をできるかぎり空虚にし、しっかりと静かな気持ちを守っていく。

    すると、万物はあまねく生成しているが、わたしにはそれらが道に復帰するさまが見てとれる。

    そもそも、万物はさかんに生成の活動をしながら、それぞれの根元に復帰するのだ。

    根元に復帰することを静といい、それを命、つまり万物を活動させている根元の道に帰るという。

    命に帰ることを恒常的なあり方といい、恒常的なあり方を知ることを明知という。

    恒常的なあり方を知らなければ、みだりに行動して災禍をひきおこす(後略)。

    (参考:「老子」蜂屋邦夫訳注 岩波文庫)

     

    「道(タオ)」というのは、あるがまま、存在の本質です。道を体得している人、それに従って生きている人を、「徳のある人」と呼びます。

     

    あるがまま、存在の本質、と言われても、「どういうことなの?」となりますよね。老子の「道徳経」は、それをあれこれ比喩を交えて解説した文書です。

     

    そうは言っても、「これが道(タオ)だと説明できるような道は、恒常不変の/本物の道ではない。(第1章)」と言うように、ことばでは説明しきれないのですが、それでもことばを尽くして説明しています。文書ですからね。

     

    読む人は、そのことばを頼りに、自分の体験や感覚も足して、その奥に広がる世界を感じていきます。だから人によって、読むタイミングによって、感じることが変わってきます。

     

    ひとつ扉を開けると、今まで「知らない」ことも知らなかったことがみえてくること、ありますよね。そんな感じです。

     

    さて、16章に戻ります。今回、読んだときに思い浮かんだのは、「スノードーム」でした。

     

    スノードームは、手で振ると雪が降りますが、そのままにしておけば、雪はすべて下に落ちます。

     

    もともとの恒常的なあり方が、雪が舞っていない状態です。

     

    落ち着かせようと、何かをしようとすると、雪が舞ってしまいます。下手すると、何も見えなくなってしまいますよね。静かにしておくのが、いちばんです。

     

    老子の超訳本を書かれている黒澤一樹さんは、次のように書いています。

     

    静寂は作りだせない。静寂という基盤に、喧噪があるだけだ。

    平和は作りだせない。平和という基盤に、争いがあるだけだ。

    至福は作りだせない。至福という基盤に、不幸があるだけだ。

    静寂も、平和も、至福も、全部、「元からある存在の本質」なんだ。

    ただ、絶え間なく続く喧噪や争いや不幸に、覆い隠されているだけ。

    (出典:「ラブ、安堵、ピース 東洋哲学の原点 超訳『老子道徳経』」黒澤一樹 著アウルズ・エージェンシー)

     

    日常では、「あの人は、わたしのことが嫌いなんだ」とか、「意地悪された」とか、いろんなことが起きますよね。でもこれらは、自分の勝手な解釈だったりします。

     

    困ったことに、この解釈、そしてそれに伴う感情は、未来に進むと、膨れ上がったり、ゆがんだりします。

     

    たとえばトラブルがあって、誰かと仲たがいすると、傷つきますよね。その傷は、後々に10倍くらいに膨れ上がってしまうこともあります。自分に刃をむけているのは、自分の解釈の仕業です。

     

    もしくは「なぜ、あんなことをしてしまったのだろう」と後悔することもあります。実際には、いろんな事情があって「あのときは、できなかった」だけなのに、後々になると、解釈の中でいろんな事情は「なかった」ことにされ、「できなかった」ことだけを取り出してしまいます。

     

    こんなこと、わたしも、思いっきり経験しています。ちょっと昔を振り返ると、想像や解釈ばかりで、ちっとも「今」にいませんでした。

     

    感情は、将来には持って行けません。過去を思い出すと辛いというのは、今の時点から過去を見て、辛いと感じているだけです。

     

    こんなことも、「みだりに行動すれば、災禍をひきおこす」に入りますよね。

     

    「スノードーム」というイメージは、日常で勝手な解釈をしたくなったときに、「もともとは静寂で、そこに帰るのだ」と思い出すためには、役に立ちそうです。

     

    話は変りますが、後半の方に「恒常的なあり方を知ることを明知という」と出てきますよね。恒常的なあり方とは、「静」です。

     

    わたしの道号(道教の修行者の名前)は、「静慧」と言い、「静かであれば、智慧が出てくる」という意味があります。中国の武当山の田理陽師父(武当玄武派第十五代伝人)に、「あなたにはこの2つの要素があるから」と、つけていただいた名前です。

     

    本文に、智慧ということばは出てきませんが、何か通じるものを感じました(これも勝手な解釈かもしれませんが。)

     

    この田師父は、「老子の道徳経を、みんなに読んであげたらいいよ」とアドバイスしてくださった方です。それだけに、感慨深いものもありますが、くぅーっと解釈の海におぼれそうになる前に、さらっと留めておこうと思います。

     

    感激しすぎるときも、なにか”盛っている”かもしれませんよね。(それが悪い、と言いたいわけではありませんよ。)

     

    (下の写真は、思い切り、手で雪を舞い上がらせています。つい、やってしまいますね、苦笑。)

     

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    「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

     

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      無用の用

      2018.07.30 Monday

      (中国、武当山 南天門)

       

      先日の「タオを生きることば」のクラスは、老子「道徳経」第11章を取り上げました。

       

      器は、中が空洞だからものを入れて使うことができます。家も、空間があるから、人が住むことができます。そんなことが、書かれています。

       

      「『無用の用』と同じかしら」と生徒さん。確かに、似ていると思って調べてみたら、そのとおり、これは老子の考えを継いだ荘子の教えでした。

       

      老子と荘子の教えは、老荘思想とよばれ、ひとくくりにされています。道家思想とも言われています。

       

      荘子が説いた例に、くぬぎの大木の話があります。

       

      あるところで神木としてまつられていた巨大なくぬぎがありました。ひとめ見ようと、わざわざやってくる人が多い中、石という棟梁は、目もくれずに通り過ぎます。理由は、何の役にもたたないから、です。「舟をつくれば沈んでしまうし、棺桶をつくればたちまち腐ってしまう。あんなに成長できたのも、もとはと言えば、無用だからである。」

       

      くぬぎの霊は、棟梁の夢に現れて、こう言います。「人も物も、みな有用であろうとして命を縮めている。だが、わしは違う。今まで一貫して無用であろうとつとめてきて、遂にそうなりきることができた。おまえのように、有用であろうとして命を縮めている者とはわけが違うのだ。」

       

      有用だったらとっくに切り倒されていたところ、無用だからこんなに長生きができたわけです。(出典:「老子」守屋洋 SB Creative)

       

      家をみてみると、部屋にモノがあふれていたら、部屋としては上手く使えませんよね(耳の痛い話ではありますが)。

       

      ちょっと昔の日本の家は、この空間を上手く取り入れていた気がします。

       

      たとえば、縁側。そして、土間。一時的な作業場所になったり、作業の合間にちょっと座って休む場所になったり、空間だからこその活用は、無限大です。

       

      外なのか内なのか、あいまいで、だからこそ、外と中をつないで、いろいろ使えるとも言えます。

       

      ブログタイトルにしている「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。

       

      縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。

       

      生け花を見ても、空間を活かしていますよね。花束のようにお花がギュッとなっているものも好きですが、生け花が大切にしている(と、わたしが思っている、ですけれども)、空間が生み出す美しさも、素敵です。

       

      コップの中に半分水が入っている、というたとえは、「半分しかないと見るのか、半分もあると見るのか」という視点の違いで取り上げられます。ここに、もうひとつ、空間に目を向けることもできますよね。「まだあと半分、入る。」

       

      コップも、空間があるからこそ、扱いやすくなります。溢れんばかり満杯のコップは、持ち上げて飲むのも一苦労です。このあたりは、どれがいいかというより、視点の違いで、いろいろある、というだけのことですけれどもね。

       

      「タオを生きる言葉」クラスの後半は、体感する時間を設けています。この日、体験していただいた中に、こんなゲームもありました。

       

      ”ふたりが、一人分の空間を間にあけて、立つ。→ふたりとも前に歩く。→反対側から、ひとりが歩いてきて、ふたりの間を通る。”です。

       

      最初は、何も言わずにやってもらいました。すれ違うとき、窮屈そうに体を緊張させてた方もいらっしゃいました。

       

      二度目は、「ふたりの間にある空間に意識をむけて、通ってみて」と言いました。すると、全然違うのです。「ふたりの間の先にある空間にまで、視界が開けた」という感想もありました。ふたりが向かってくることが、プレッシャーになりにくいのです。

       

      これ、混雑している駅の構内で試してみると、面白いですよ。空間、空間、と意識をむけていると、ぶつからずにいいペースで進めます。

       

      空間は、ゆとり。

      空間は、あそび。

      空間は、のびしろ、ゆたかさ。

       

      ひとりより、みんなでワイワイ話しながら、あれこれ脱線しつつ、発見あり、発展あり、となっていくことも、空間があるからこそのゆたかさです。共に生きていることに、感謝です。

       

       

      ≪「タオを生きることば」≫

      月2回、水曜日の夜に、池尻大橋駅付近の会場で開催しています。 老子「道徳経」を1章ずつ読みながら、タオのあり方を体感していきます。後半は体を動かしますが、お着替えいただく必要はありません。

      8月の開催は、8日と22日、19:00−20:30です。詳しくは講座のご案内からご覧ください。

       

       

      【特別クラスのお知らせ】

      7月29日(日)13:00-15:0は「立って、歩いて、太極拳」(千葉県香取市)です。詳細とご応募方法は、こちらから。

      8月5日(日) /11日(土)14:30-16:30は「太極扇を体験しよう」です。詳細とご応募方法はこちらから。

      8月19日(日)14:00-16:30は「みんなが知らない太極拳のひみつ」(5)です。詳細とご応募方法は、こちらから。

       

       

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        タオの生き方:不老不死

        2018.06.20 Wednesday

        (中国、武当山の逍遥谷。老子の像)

         

        タオイスト(道士)とは、狭い意味では、道教の修行者(修行僧)のことで、広い意味では、それに準じた生き方を選ぶ人だと思っています。

         

        道教とは、中国古来の宗教的な諸観念をもとにして形成された中国土着の宗教で、不老不死を得て「道」と合一することを究極の理想としています。

         

        道教の「道」は、道家思想の「道」。道家思想とは、老子、荘子の思想です。

         

        道教は、道家思想、神仙思想、陰陽五行思想、民間信仰など、長い時間をかけて多くの要素を吸収して成立しています。老子を神格化し、その著書である「道徳経」は、聖典として扱われています。

         

        道教の特徴をあげるならば、以前、気功を教えていただいていた中医師の先生から、「一生をかけて、青春を追い求める」と教えてもらったことがあります。「世界中に、こんな宗教はない。」と。

         

        この言葉が、とっても好きです。

         

        太極拳をすることを、「20年たっても同じ体」と表現されることがあります。

         

        実際に、それは「関節の隙間を開けていくもの」と、中国の先生に教わりました。放っておけば、縮こまってカタくなり、曲がってくる体を、毎日、自分の意識と体の使い方で、関節に隙間を空けていくのです。

         

        ゆとりがあれば、血が流れ、血が流れれば、体温は上がります。体温があるということは、若々しさ、生命力があることの証拠でもあります。冷え症の赤ちゃんは、いませんものね。

         

        そして、体のゆとりは、心のゆとりともつながっています。

         

        さて、この青春を追い求めることですが、道教関連の文献にはよく、「不老不死をめざす」と書いてあります。人間としての肉体は死ぬため、わたしはこれまで、これを「不老長寿」と読み替えてきました。

         

        でも最近、そうではなくて、やはり「不老不死」なのだと思うようになりました。

         

        老子の「道徳経」は、世界中でいろいろな方が翻訳したり、解釈したり(中国国内も含む)している難解な書です。そのひとつ、黒澤一樹さんの「ラブ、安堵、ピース」に、こんな文章があります。

         

        人間の視点から世界を見れば、この世は「死生」という残酷なスクラップ・アンド・ビルドが延々と繰り返される世界のように見える。

        でもね、そう見える「解釈の世界」の向こうにある、「あるがままの世界」では、命は一度も絶えることなく、脈々と生き続けているんだ。

         

        「解釈の世界」に生きる人は、物事を分離してとらえているからこそ、「人の内に命がある」と言う。人に限らず、生物の個体それぞれに、個別の命が宿っていると思っている。

         

        「あるがままの世界」に生きる人は、存在すべてのつながりをとらえているからこそ、「命のうちに人がある」ことを知っている。

        個別の命があるのではなく、無限に広がるたったひとつの「命」という空間の中に、すべての存在の躍動があるんだ。だから、そこに見えるのは、「個々の死生の繰り返し」ではなく、「絶え間ない宇宙の呼吸(全体における躍動)」。そこには、奪われる命も、与えられる命もない。

         

        ね、常軌を逸した話だろう?

         

        だからもし、「あるがままの世界」に気づいたとしても、あまりしゃべらないほうがいいかもね。

         

        「解釈の世界」には、「解釈の世界」なりの真実や秩序がある。それはそれとして認めながら、「あるがまま」については、そっと胸の中に留めておくのがいいと思うよ。

         

        (「ラブ、安堵、ピース」第5章より。黒澤一樹、アウルズ・エージェンシー、2016年)

         

        これを読んだとき、「命の内に人がある」から、不老不死なのだと、ようやく腑に落ちました。ここで言う「あるがままの世界」は道の世界。「解釈の世界」は、現実に生きている世界で、人は、いろんなものに名前をつけて、解釈をつけて生きています。

         

        太極拳の套路のひとつ、十三式武当太極拳の第一式は「開太極」、最後の第十三式は「合太極」という名前がついています。「太極」と「道」は、ほぼ同じと理解してよいと思います。太極を開くと、陰と陽が出現し、動き始めます。陰陽の転換で動きが続き、その動作は攻防をなぞっています。最後は、太極に合一して終わります。

         

        太極拳の套路は、陰陽のあるこの世に生まれてから死ぬまでの、一生を表しています。人の一生でもあり、宇宙の一生でもあるかもしれません。

         

        生きている間には、いろいろな攻防があり、その中でバランスを取ること、和を作りだすことを学びます。最後は、生まれてくる前にいたところに還ります。この世から体は消えても、なくなるわけではありません。

         

        書いていると、確かに「常軌を逸した話」のように思えますが、これを胸の中に留めて生きるかどうかで、世の中の見え方が変わってくる気がするのです。

         

        それを知った人は、肉体ありきの「不老長寿」ではなく、「不老不死」を目指すのではないでしょうか。

         

        話は変りますが、糸井重里さんが、こんな文章を書いていました。

         

        じぶんが生まれてくる前にも、世界はあったし、

        じぶんが死んでしまった後にも、世界はある。

        そのことが、なんだかさみしくてしょうがない。

        (「思えば、孤独は美しい。」糸井重里 ほぼ日、2017年)

         

        このさみしさについて、糸井さんは、「そのさみしさというやつのことを、ぼくは嫌がっているのではなくて、おそらく、そこに浸ってじわぁっと快感を感じているのだ。」「この「さみしさ」というのが、すべての生きものの生きる動機であるような気さえする。それを「あはれ」と言ってもいいんだけど。」と書いています。

         

        これ、似たようなことを言っている気がするのです。全く同じではなくても、どこかで交差している、と言ったらいいでしょうか。

         

        タオイストの目指す「不老不死」というと、ちょっと精悍で、優等生的な感じがしますが、「あはれ」とか「さみしさをじわぁっと味わう」というと、ちょっと身近になってきませんか?「あはれ」は日本の言葉だからかしらね。

         

         

        【特別クラスのお知らせ】

        6月20日(水)19:00-20:30は「タオを生きることば」です。詳しくはこちらの講座案内からご覧ください。

        7月8日(日)14:30-16:30は「太極扇を体験しよう(第9回)」です。詳細とご応募方法はこちらから。

        7月15日(日)14:00-16:30は「みんなが知らない太極拳のひみつ」(4)です。詳細とご応募方法は、こちらから。

         

        (美しい装丁は、ヒグチユウコさん。「思えば、孤独は美しい。」)

         

         

        ☀「陽だまり」とは

        「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

         

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        いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

        太極道家

        体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

        講座のご案内は、こちらからどうぞ

         

         


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          いっぱい、いっぱい

          2018.03.31 Saturday

          (Photo by Xie Okajima)

           

          「もういっぱい、いっぱい!」と言うこと、ありますか?

           

          予定や仕事が詰まりすぎて、これ以上は入らないときなどに、使いそうですよね。居心地は、あまりよさそうではありません。

           

          ”いっぱい、いっぱいな人”を見たとき、「近づくのは、やめておこう」と思うこともあるでしょう。とばっちりは、受けたくありませんものね。

           

          上記の例だと気づきやすいですが、わかりにくい”いっぱい、いっぱい”もある気がします。一生懸命に何かを追及して、ある意味では専門家になってきた場合や、その結果「これだ!」というものにたどり着いたとき、そうなる可能性があるような気がします。

           

          今日の話は「みんみんの陽だまり時間:老子のことば」のクラスで、老子の「道徳経」第4章を読んでいたときに出てきた話です。です。ご参考まで、第4章をご紹介しておきますね。最初は飛ばして、現代語訳だけ読んでも大丈夫です。

           

          【原文】 

          , 而用之或不盈。, 似万物之宗解其紛, 和其光, 同其, 湛兮, 似或存。吾不知誰之子, 象帝之先。

           

          【書下し分】

          道は沖(ちゅう)にして之を用うるに或いは盈(み)たす。淵(えん)として万物の宗(そう)に似たり。其の紛(ふん)を解き、その光を和らげ、其の塵(ちり)に同ず。湛(たん)として或いは存するに似たり。吾れ、其の誰の子なるかを知らず、帝(てい)の先(せん)に象(に)たり。

           

          【現代語訳】

          道は空っぽの容器のようであり、その働きは無限で、いっぱいになってしまうことはない。淵のように深く、万物の大本のようだ。知恵によっておこる争いを解き(煩わしさを解き)、知恵の光を和らげ、俗世(世の中の人)に同化する。道は満々たる水のように深く静かだ。なにか存在しているようにも見える。わたしはそれが、誰の子であるのか知らない。天帝の祖先のようである。

           

           

          「道」は、老子が大切にしたもの、理想として描いているものの象徴と捉えていただけば、いいかもしれません。

          (過去の参考記事:「老子のことば:道(タオ)」は、こちらから)

           

          終わりのほうに、「知恵によっておこる争いを解き、知恵の光を和らげ、俗世に同化する」とあります。これを読んだ生徒さんが、「自分の知恵でいっぱいになってしまったら、他の人が違う考えを言ったときに受け入れるゆとりがなく、『それは違う』となってしまう、とも読めますね」と言っていました。

           

          これが、わかりにくい(かもしれない)”いっぱい、いっぱい”の例です。

           

          学んで知恵をつけて、活用することは、望まれることだと思います。自分だけではなく、みんなの役にも立ちます。でも「自分が正しい!」となると、それは容器を一杯にすることと同じで、他を受け容れるゆとりはなくなります。

           

          知恵が光りすぎると、まぶしすぎて、実際には何も見えません。鋭い光は、刃物のように人を傷つけることもあります。

           

          一生懸命な人ほど、こうなりがちですよね。わたしは20代の頃、会社で仕事しているときに「なんであれでいいのか、わからない」と納得できなくて、こっそり大泣きしたことがあります(こっそり、のつもりでも、目が真っ赤に腫れるので、周りにバレていました。)

           

          若気の至り、とか、猪突猛進、とかも、似たような感じです。(わたしはその頃、親しい友人に「猪突猛進、ときどきまゆみ」と、からかわれていました。)

           

          器が小さく、すぐに一杯になってしまうのです。生きている世界が、狭かったな、と思います。ただし、自分が狭く見ていただけで、実際には、深く、決して一杯になることはないのに、です。

           

          だいぶ年齢を重ねて「知っていることなど、ほとんどない。知っていると思っても、実はわかっていない」という体験を、ガーン、ガーン、と失敗を伴いながら重ねてくると、「あれも、それも、これも、ありだよね」と思えるようにも、なってきます。

           

          年齢が熟してくると、円熟という言葉どおり、人間もまるくなります(なる場合もあります)。この角がない、鋭いものがない感じは、老子が言っている”光を和らげる”ことに重なります。

           

          でも一方で、年齢が熟すと、体も硬く縮こまってきて、頑なになる場合もあります。コチコチに硬い容器は広げることができず、これもまた一杯になってしまいそうです。経験があるだけに、「なっとらん!」「そんなの変だ」とかなること、ありそうですよね。

           

          老いも若きも、困ったものです。

           

          一方、知恵の光は、ぼんやりとした灯りであれば、みんなに居心地良く見てもらえます。行燈のような、もしくは、縁側に座って窓越しに柔かい光が射しこんでくるときのような、イメージです。人が寄ってきそうでもありますね。鋭くないものは、人を傷つけることもありません。「能ある鷹は爪を隠す」も、似たような表現かもしれませんね。

           

          太極拳も、「柔」の丸い運動を基本としているために、鋭さはありません。武術としての派手さのような、光もなく、どちらかと言えば、地味です。でもこれは、相手と対立することのない柔らかい方法で、相手主導の攻撃を、自分主導の防御へと転換するものです。さらに攻防の技術を超えて、生活や人生のすべげのおいても、自分が中心となれる方法でもあります。(参考:「老子と太極拳」清水豊著 BNP出版)

           

          ここで言う”中心”とは、人に振り回されない生き方、と言い換えられます。人を振り回すことも、しません。太極拳のよさは、このことを体で実感できることです。それは、どうやっても、わたしには、ここで言葉で伝える能力はありません。

           

          言葉で言い尽くせないものは、奥深いのですよ。

           

          【特別クラスのお知らせ】

          4月14日(土)18:30-20:30は「太極扇を体験しよう(第5回)」です。詳細とご応募方法はこちらから。

          4月15日(日)14:00-16:30は、新講座「みんなが知らない太極拳のひみつ(1)天地とつながる立ち方」です。詳細とご応募方法はこちらから。

           

          (武当山でのお稽古。真ん中、左よりにいる薄紫が、わたし。背景と馴染んで、主張しすぎない感じが、好きです。)

           

           

          ☀「陽だまり」とは

          「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、キリリとした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

           

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