いっぱい、いっぱい

2018.03.31 Saturday

(Photo by Xie Okajima)

 

「もういっぱい、いっぱい!」と言うこと、ありますか?

 

予定や仕事が詰まりすぎて、これ以上は入らないときなどに、使いそうですよね。居心地は、あまりよさそうではありません。

 

”いっぱい、いっぱいな人”を見たとき、「近づくのは、やめておこう」と思うこともあるでしょう。とばっちりは、受けたくありませんものね。

 

上記の例だと気づきやすいですが、わかりにくい”いっぱい、いっぱい”もある気がします。一生懸命に何かを追及して、ある意味では専門家になってきた場合や、その結果「これだ!」というものにたどり着いたとき、そうなる可能性があるような気がします。

 

今日の話は「みんみんの陽だまり時間:老子のことば」のクラスで、老子の「道徳経」第4章を読んでいたときに出てきた話です。です。ご参考まで、第4章をご紹介しておきますね。最初は飛ばして、現代語訳だけ読んでも大丈夫です。

 

【原文】 

, 而用之或不盈。, 似万物之宗解其紛, 和其光, 同其, 湛兮, 似或存。吾不知誰之子, 象帝之先。

 

【書下し分】

道は沖(ちゅう)にして之を用うるに或いは盈(み)たす。淵(えん)として万物の宗(そう)に似たり。其の紛(ふん)を解き、その光を和らげ、其の塵(ちり)に同ず。湛(たん)として或いは存するに似たり。吾れ、其の誰の子なるかを知らず、帝(てい)の先(せん)に象(に)たり。

 

【現代語訳】

道は空っぽの容器のようであり、その働きは無限で、いっぱいになってしまうことはない。淵のように深く、万物の大本のようだ。知恵によっておこる争いを解き(煩わしさを解き)、知恵の光を和らげ、俗世(世の中の人)に同化する。道は満々たる水のように深く静かだ。なにか存在しているようにも見える。わたしはそれが、誰の子であるのか知らない。天帝の祖先のようである。

 

 

「道」は、老子が大切にしたもの、理想として描いているものの象徴と捉えていただけば、いいかもしれません。

(過去の参考記事:「老子のことば:道(タオ)」は、こちらから)

 

終わりのほうに、「知恵によっておこる争いを解き、知恵の光を和らげ、俗世に同化する」とあります。これを読んだ生徒さんが、「自分の知恵でいっぱいになってしまったら、他の人が違う考えを言ったときに受け入れるゆとりがなく、『それは違う』となってしまう、とも読めますね」と言っていました。

 

これが、わかりにくい(かもしれない)”いっぱい、いっぱい”の例です。

 

学んで知恵をつけて、活用することは、望まれることだと思います。自分だけではなく、みんなの役にも立ちます。でも「自分が正しい!」となると、それは容器を一杯にすることと同じで、他を受け容れるゆとりはなくなります。

 

知恵が光りすぎると、まぶしすぎて、実際には何も見えません。鋭い光は、刃物のように人を傷つけることもあります。

 

一生懸命な人ほど、こうなりがちですよね。わたしは20代の頃、会社で仕事しているときに「なんであれでいいのか、わからない」と納得できなくて、こっそり大泣きしたことがあります(こっそり、のつもりでも、目が真っ赤に腫れるので、周りにバレていました。)

 

若気の至り、とか、猪突猛進、とかも、似たような感じです。(わたしはその頃、親しい友人に「猪突猛進、ときどきまゆみ」と、からかわれていました。)

 

器が小さく、すぐに一杯になってしまうのです。生きている世界が、狭かったな、と思います。ただし、自分が狭く見ていただけで、実際には、深く、決して一杯になることはないのに、です。

 

だいぶ年齢を重ねて「知っていることなど、ほとんどない。知っていると思っても、実はわかっていない」という体験を、ガーン、ガーン、と失敗を伴いながら重ねてくると、「あれも、それも、これも、ありだよね」と思えるようにも、なってきます。

 

年齢が熟してくると、円熟という言葉どおり、人間もまるくなります(なる場合もあります)。この角がない、鋭いものがない感じは、老子が言っている”光を和らげる”ことに重なります。

 

でも一方で、年齢が熟すと、体も硬く縮こまってきて、頑なになる場合もあります。コチコチに硬い容器は広げることができず、これもまた一杯になってしまいそうです。経験があるだけに、「なっとらん!」「そんなの変だ」とかなること、ありそうですよね。

 

老いも若きも、困ったものです。

 

一方、知恵の光は、ぼんやりとした灯りであれば、みんなに居心地良く見てもらえます。行燈のような、もしくは、縁側に座って窓越しに柔かい光が射しこんでくるときのような、イメージです。人が寄ってきそうでもありますね。鋭くないものは、人を傷つけることもありません。「能ある鷹は爪を隠す」も、似たような表現かもしれませんね。

 

太極拳も、「柔」の丸い運動を基本としているために、鋭さはありません。武術としての派手さのような、光もなく、どちらかと言えば、地味です。でもこれは、相手と対立することのない柔らかい方法で、相手主導の攻撃を、自分主導の防御へと転換するものです。さらに攻防の技術を超えて、生活や人生のすべげのおいても、自分が中心となれる方法でもあります。(参考:「老子と太極拳」清水豊著 BNP出版)

 

ここで言う”中心”とは、人に振り回されない生き方、と言い換えられます。人を振り回すことも、しません。太極拳のよさは、このことを体で実感できることです。それは、どうやっても、わたしには、ここで言葉で伝える能力はありません。

 

言葉で言い尽くせないものは、奥深いのですよ。

 

【特別クラスのお知らせ】

4月14日(土)18:30-20:30は「太極扇を体験しよう(第5回)」です。詳細とご応募方法はこちらから。

4月15日(日)14:00-16:30は、新講座「みんなが知らない太極拳のひみつ(1)天地とつながる立ち方」です。詳細とご応募方法はこちらから。

 

(武当山でのお稽古。真ん中、左よりにいる薄紫が、わたし。背景と馴染んで、主張しすぎない感じが、好きです。)

 

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、キリリとした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ

 

 


老子のことば:道(タオ)

2018.01.18 Thursday

 

 

昨日、はじめての『みんみんの陽だまり時間:老子のことば』を開催しました。

 

2500年前に書かれた、81章、5,000語あまりから成る老子の「道徳経」。日本ではよく「老子」として出版されています。少ない語数だからこその、奥深さがあり、さまざまな解釈があります。昨日は第1章を取り上げました。

 

(原文)

道可道, 非常道。名可名, 非常名。无名天地之始。有名万物之母故常欲以觀其妙。常有欲以其徼。此兩者, 同出而名。同謂之玄。玄之又玄, 妙之門。

 

(現代語訳)

これが道だと説明できるような道は、恒常不変の道ではない。これが名前だという名も、恒常不変の名ではない。名前など、天地が生まれる最初にはなかった。万物が現れたときに、それらは名づけられたのだ。常に欲をなくせば「妙」が見える。常に欲望にとらわれていると、万物が活動する結果のさまざまな現象「(徼=きょう)」が見えるだけだ。このふたつ、「妙」と「」は、同じ根源、玄から出て、言い方が異なる。玄のうえにも玄であって、そこからあらゆるものがうまれる。

(参考:「老子」蜂屋 邦夫訳注 岩波文庫 2008年)

 

現代語訳を読んでも、「?????」ですよね。

 

部分的になりますが、今のわたしなりの解釈を、書いてみます。

 

わたしたちは便宜上、いろいろなものに名前をつけています。ペン、お茶、机、などなど、この世の万物には、名前がついています。わたしにも「まゆみ」という名前があります。

 

名前があると、とっても便利です。電話で「のぞみちゃんに、机の上にある「老子」の本を渡してね」と伝えたい場合、名前がなかったらどう伝えればよいのでしょうか。大変そうですよね。

 

便利な反面、名前にとらわれて、おかしなことになる場合もあります。

 

例として、太極拳のクラスでやる、ペアワークをあげてみます。ひとり(Aさん)が壁を背にして立ち、もうひとり(Bさん)がその前に立ちます。Aさんは、まっすぐ立っていればよいだけです。Bさんは、Aさんの片足をゆっくり持ち上げていきます。Bさんは、Aさんの足を自分の足のように感じながら、様子をみて、上げていきます。意外とわかるものです。でも過信は危険なので、「痛い?大丈夫?」と、聞いてあげます。

 

たいていの場合、Aさんは「うわー、こんなに上がった!」とびっくりします。自分が普段思っているよりも、あがるのです。

 

からくりとしては、Aさんが「このくらいしか上がらない」と限界を設定していると、自分ひとりでやっているときは、絶対にそれよりも上がりません。でもBさんに足を上げてもらうと、BさんはAさんの勝手な思い込み設定など知らないため、Aさんの可能性に従って、上げていけるわけです。

 

”限界を超えていくワーク”です。限界とは、自分の思い込みで設定したものです。

 

これには、おまけがあります。このワークをした後は、地に足が着いて、いわゆる”グラウンディング”した状態になりやすいのです。あるとき感想を聞いてみると、

 

「重くなった」

 

「軽くなった」

 

真逆の感想が出てきました。「???」ですよね。わたしは、どっしり重くなる感じなので、「軽くなった」には、最初ちょっと戸惑いました。

 

真逆の感想を言う人たちを、触ったり押したりしてみてから、気づいたことがあります。「言葉は違うことを言っているけれど、これはたぶん、同じ状態を言っている」と。

 

たとえば、緊張して軽くなっていた体(そういうときは、押すとすぐに倒れます)がほぐれると、「重くなった」という感想になります。上下のバランスが整うと、楽に立てるようになり、それを「軽くなった」と表現することもあり得ます。

 

言葉だけで見ると真逆でも、実は同じことを感じていることも、あるのだと思うのです。

 

老子のことばに戻ると、「(きょう)」とは、帰結、端のことを言います。万物が活動した結果のさまざまな現象、ものごとの表面的な解釈のことです。上の場合だと、「重い」と「軽い」という言葉です。

 

老子は、常に欲望にとらわれていると、この「(きょう)」しか見えない、と言っています。欲望を、自分の勝手な思い込みや解釈、と読み替えれば、わかりやすいかもしれません。

 

欲がなければ「妙(みょう)」が見えると言います。「妙(みょう)」とは、微の極みのことで、奥深くて見ようとしても良く見えないこと、「道(タオ)」のことをさします。表面ではなくて、奥にある真実、と言い換えるとわかりやすいでしょうか。

 

天地が生まれる前には、名前(言葉、解釈)などなかったのです。そのときであれば、このワークも、「重い」と「軽い」という言葉にとらわれず、「ああ、同じだね」とすんなりいけたかもしれません。(「どうやって?」という方法は、さておき、です。)

 

もう少し広げてみると、足を上げるワークでも、Aさんは「わたしの体は硬いから」と”名前”をつけて、その解釈に縛られていますよね。それも、ものごとの表面で、奥にある真実とは違います。Bさんが持ち上げたときに上がるところ、それが”奥にある真実”です。

 

こんな思い込み、解釈、わかったつもりのこと、意外とたくさんありそうです。そんなことだらけかもしれません。

 

よく知っていると思っている目の前にいる人のこと、「本当に知っているのか?」と自分を疑ってみてもいいかもしれません。今のありのままのその人を感じてみると、違うことが見えてくるかもしれませんよね。

 

『みんみんの陽だまり時間:老子のことば』、次回は1月31日(水)19時〜です。詳しくはこちらからご覧ださい。

 

 

【1月の特別クラス】

※1月21日(日)の午後は、Bouquet(逗子・葉山)「身体とこころのその先へ 〜本当の思いに触れに行く太極拳〜」(第5回:みんなが知らない太極拳ひみつ5 争いを止める太極拳)です。詳細とご応募はこちらから。

 

※1月27日(土)14:00-16:30は「体の中からキレイになろう!クリスタルボウルと六字訣」です。詳細とご応募はこちらから。

 

(武当山 泰常観にある老子の壁画)

 

☀「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、キリリとした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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老子のことば:水のように生きると、人びとは、いちばんいいタイミングで活動する

2017.11.23 Thursday

 

この前の日曜日、bouquet(ブーケ)主催の「身体と心のその先へ〜本当の思いに触れに行く太極拳」の、第3回「自然に学ぶ」を開催しました。

 

ブーケ主催の吉川美有紀さん(株式会社LIBERA seeds代表)との協力で生まれたこのプログラムは、前半が”おはなし”、後半が”体験”という構成です。

 

わたしは普段のクラスから、たくさんお話をします。そのために準備するわけではなく、普段の積み重ねから、その場で言葉がでてきます。

 

でもこのプログラムのように、1時間まとめて話すときには、構成を考えます。

 

大枠は決めていますし、早く準備すれば楽なのかもしれませんが、直前に、”これ!”と思った”旬”を活かす方が、好きです。

 

今回は、「老子の話にしよう」という流れになりました。

 

老子は、司馬遷の「史記」の記載によると、紀元前の周の時代の人です。国立図書館の役人をしていたのですが、あるとき、都を出ようと決めます。函谷関(関所)を通ったとき、関守の尹喜(いんき)は「ただものではない」と感じ、「どうか都にとどまってください」とお願いします。固辞する老子に、「ならば、何か書を残してください」と依頼します。こうして一晩で書き上げたものが、81章からなる5,000語の「道徳経」だそうです。日本語では、「老子」というタイトルで出版されていることが多いですね。

 

わたしがお稽古している武当カンフー発祥の地、中国の武当山は、道教の聖地のひとつです。そこで修行する人たちは、この「道徳経」を読み続けています。「読み続れば、いつかはわかると思うから」だと、教えてもらいました。

 

そして2年前、武当山で、今の先生の先生、田理陽師父(武当玄武派第十五代伝人)に5年振りにお会いして、「何か困っていることはないか」と聞いていただいたときにも、「生徒さんにも、老子を読んであげなさい」と言われました。

 

老子「道徳経」の内容は、深く、ちょっと難解です。訳注をいれたものを読んでいるのですが、訳者の思いが入る場合もあり、読み進めていくにつれて、「これは、何を言おうとしているのか」と、すごく考えさせられます。今の自分の状態によって、感じることが変わります。

 

結局は、身の丈にあったものしか、わからないのかもしれません。そこには、良いも悪いもなく、今、感じることでじゅうぶんなのだと思うのです。「読み続けていけば、いつかはわかる」は、そのプロセスが大切だと感じさせてくれます。

 

この日、いくつかお話した中から、”水”に関する章をご紹介します。

 

太極拳には、水のたとえもよく出てきます。水が上から下に流れるように自然に動くことは、大切です。水が岩など障害があっても、難なく避けて、下へ下へと流れていく様子は、争わずとも、自分が行きたいところに行けることを教えてくれます。

 

個人的には、自分の意識と体の使い方で、浮力が効いた水の中にいるような状態になり、膝などに負担がかからないようにできると感じています。老化・けが防止にもなりますし、とっても居心地良いのですよ。地に足がしっかりつきながら、体がふわーん、とするのです。

 

地球の海の割合と、人間の水分の割合が、どちらも7割くらいであることも、何か、感じるものがありますよね。呼応しているのでしょうか。人は、自分の中の水の性質を、もっと思い出してもよいかもしれません。

 

 

第八章 水のように

 

タオの在り方にいちばん近いのは

天と地であり、

タオの働きにいちばん近いのは

水の働きなんだ。

タオの人がすばらしいのは

水のようだというところにある。

水ってのは

すべてのものを生かし、養う。

それでいて争わず、威張りもしない。

人の厭(いや)がる低いところへ、先に立っていく。

水はよほどタオの働きに

近いんだ。

 

タオの人は、自分のいる所を、いつも

善いところと思っている。

心は、深い淵のように静かだ。

つきあう人をみんな善い人だとし、

自分の言うことは

みんなに信じてもらえると考え、

社会にいても

タオの働きの善さを見失わない。

タオの人は、手出しをしないで

あらゆる人たちの能力を十分に発揮させるから、

人びとは

自分のいちばんいいタイミングで活動する。

 

これをひと口でまとめると

争うな、ということだ。

水のように、争わなければ、

誰からも非難をうけないじゃないか。

(「タオ 老子」 加島祥造 筑摩書房)

 

ここで言う「タオ」は、道(中国語でDao)のことです。この本では「大いなるもの」と書かれているところもありますが、「タオの人」と言うときには、老子が「こんな風に生きたい」とした理想の生き方のように捉えると、わかりやすいと思います。

 

 

ブーケのプログラムをやっていて、すごくいいな、好きだな、と思うことがあります。

 

わたしが話している途中でも、参加者さんたちは、思いついたときに「今、思ったのですけれども」と、意見や疑問などを、自由に話してくれるところです。

 

わたしが話を振るわけではなく、事前に「何か質問があったら、途中でも聞いてね」という話もしていないのに、です。

 

これも、”水”のようではありませんか?参加者さんたちも、わたしも。上の言葉を借りるなら、「人びとは 自分のいちばんいいタイミングで活動する」のですよ。

 

わたしは3年くらい前に、「あなたに〇〇と言われてしまうと、『そう思わければ』みたいなプレッシャーがかかる」と言われたことがあります。そんなこともあって「違うんだったら、違うと言っていいよ」と、ひとこと、付け加えるようにしていたことがあります。

 

その頃のわたしは、怖かったですね、きっと。

 

まだ、何から守らねばならぬと思っていたのでしょう。本当は「つきあう人をみんな善い人だとし、自分の言うことはみんなに信じてもらえると考え」なのに、ですよね。

 

そんな変化が、とってもうれしいです。

 

 

 

【次回の「身体と心のその先へ〜本当の思いに触れにいく太極拳」のご案内】

 

12月17日(日)14:00-17:00

 第4回: みんなが知らない太極拳のひみつ4: 陰陽五行にみる 身体と心のつながり

「病は気から」といいます。病気の7〜8割は、ウィルス性のものではなく、心身によるものだそうです。

「怒ると肝臓に負担がかかる」など、心のあり方は体に大きく影響します。体と心の関係を陰陽五行の視点から理解し、

五臓をきれいにする中国古来の養生法、六字訣(ろくじけつ)を体験します。

※女性限定です。詳細とお申込みは、こちらから

 

(第5回目は、2018年1月21日(日)開催です。詳細とお申込みは、こちらから。)

 

 

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

講座のご案内は、こちらからどうぞ

 

 

11月26日(日)14:00-16:30

特別クラス「太極扇を体験してみよう」(自由が丘・九品仏)です。詳細はこちらから

 


問い続ければ、いつかはわかる

2017.08.17 Thursday

 

最近、読み始めた本があります。「老子と太極拳」(清水豊著 ビイング・ネット・プレス 2013年)。

 

太極拳を始めてしばらくしてから、「老子」(中国語の原題は「道徳経」)は、心のよりどころにもなりました。これまで何度も読み返しているこの本は、読む時によって、とらえ方が変わります。「これは、どういう意味なのだろうか」と、常に問いを持って、今の感覚で読みます。

 

道教(*1)の修業者である道士は、これを一生読み続ける、と聞いたことがあります。「読み続けていれば、いつかはわかると信じているから」です。

 

昨年、中国の武当山にお稽古に行ったとき、今の先生の上の先生(武当玄武派第十五代伝人 田理阳 師父)に、5年ぶりにお会いする機会がありました。そのとき「何か困っていることはあるか?」と聞いてくださったのです。あれこれと試行錯誤しながらやっている、と答えたわたしに、「老子を読むとよい。生徒さんにも読んであげなさい」と言ってくださいました。

 

日本でも、「老子」の本はたくさん出版されています。最初に手にしたのは詩人である加島祥造さんの「タオ(老子)」(筑摩書房)です。詩というやわらかな文体のため、はじめて老子に触れる方には、読みやすいと思います。

 

ただ、こういうものは、どうしても翻訳される過程で翻訳者の理解や思想が反映されます。「老子」自体が古典であり、難解であるため、そのまま訳してもわかりにくいからです。

 

それでだんだん、他の方が訳してる本も、そしてシンプルに訳している英語も、いろいろ合わせて読むようになりました。

 

そんな中、今から4年前に「老子と太極拳」を手にしました。ワクワクして中を開いてみたのですが、難しくて、最初の方だけ読んで挫折してしまいました。

 

なぜか最近、この本を開いてみたら.....面白いのですよ、とっても。ところどころ、わかりづらいところもありますし、十分理解しているとは言い難いですが、何より、とっても刺激的です。

 

太極拳に関して、わたしが普段思っていることを、別の表現で言っている部分には、うんうん、うなづきながら読みすすめます。違う解釈をしている部分もあって、それが良い刺激となり、自分なりに考えを深めるきっかけにもなります。著者なりの解釈や考えも入っていますが、ずっと突き詰めて、体験を通して探究してきた方の言葉は、とっても深く、刺激的です。

 

著者の清水さんは、10代から八卦掌、太極拳、合気道など様々な武術を修行され、さらに大学では神道や中国思想の研究を行ってきた方です。なぜ、この本を書いたのかについて、”まえがき”に次のように書かれていました。

 

「中国の武術や気功が、日本に本格的に紹介されて、三十年ほどになろうか。優れたエクササイズは、おおむね移入されたといってよいのであろう。そうした今日にあって、求められているのは、内的な深さであると、わたしは考えている。内的な深さを得るには、どうしても神仙道(*2)の古典の力を借りなくてはならない」(「老子と太極拳」P3)

 

4年前に読んだときは、当時のわたしの体験と知識が、あまりにも稚拙だったのだと思います。たとえば、太極拳の”太極”の意味も、その頃はよくわかっていなかったのです。

 

太極拳という名称があまりにも有名すぎたせいか、太極拳を始めてから5年くらいは、”太極”の意味を疑問に思う機会がありませんでした。

 

それから「太極って、どういう意味なんだろう?」と問いを持ち始めました。

 

話を聞いたり、文献を読んだりもしました。でも何よりも、お稽古を通して、先生から教わること、そして自分で感じることからも、だんだんと理解していったと思います。あくまでも、今の自分なりの理解ですが。

 

山登りから見える景色と同じですよね。五合目まで登った人に見える景色は、八合目にいる人が見ている景色とは違います。五合目なのに、八合目の景色を見たいと願うのは無謀ですよね。4年前は、そんな感じだったのだと思います。

 

だから今、「面白いっ!」と思って読み進められることが、とっても嬉しいのです。

 

そして「問い続ければ、いつかはわかる」ことも、実感する機会になりました。

 

もちろん、まだまだ道は半ばです。わかっていないことも、たくさんです。全部をわかりきることなど不可能だと知りつつ、「自分は知らないのだ」を基本に、でも、少しずつわかっていく過程がとても楽しいのです。

 

著者の清水さんは、”まえがき”に次のようにも書いています。

 

「古典が古典として残っていくためには、それが読みつがれていく必要がある。(中略)時代に左右されることなく、常に価値を見出すことができるもの、それが古典なのである(中略)しかし、なかなか手に取りにくいのも事実である(「老子と太極拳」P3)

 

その理由のひとつとして、「いまの時代には合わないような内容も書かれている」(「老子と太極拳」P4)と言っています。

 

太極拳という伝統も、同じです。時代に合わない部分もあり、時代に左右されることなく価値を見出すことができるものでもあります。教えることも、常に試行錯誤です。みんなが今の生活の中で、伝統が伝えるものを享受できるように、やるもの、やらないもの、足すもの、を、生徒さんの様子を見ながら、決めていきます。

 

太極拳で得られるものは、たくさんあると思っています。健康な体、心身のバランス、落ち着いた心、円満な人間関係などなど。

 

時間をかけて得ていく感覚は、今の時代の人には必要だと思っているため、効率的に学べるようにしたいわけではありません。でも、わけもわからず「とにかく続けて」だけでは、ちょっと乱暴すぎます。どこかに良いバランスがあるはずです。

 

まだまだこれからです。でも、その過程が楽しいのですよ。

 

 

(*1)道教:古代の神仙思想を母体に、陰陽五行説、老荘思想を加え、さらに仏教の影響も受けて組織化されたもの。中国の武当山は、道教の聖地のひとつで、武術(武当拳=内家拳:太極拳、形意拳、八卦掌)が発達した場所。

 

(*2)神仙道:仙人となり不老不死をめざすこと。現代のわたしなりの解釈では、「一生をかけて青春を追い求める」。

 

 

(Photo by Xie Okajima)

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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老子の「道徳経」

2016.07.22 Friday

(武当山の南岩宮に飾られていた、老子の掛け軸)

 

生徒さんから「おすすめの太極拳の本は?」と聞かれると、「老子の道徳経」とお答えしています。

 

質問の主旨からすると、この回答は、ちょっとずれています。道徳経には、太極拳とは?とか、歴史、意識の持ち方、型の説明などなどは、直接的には何一つ書いていないからです。

 

太極拳とは、体の緊張を取り除いて体を安定させ、血流を促して内臓を活性化させる、というように、健康促進の作用は大きいですが、それをさらに進めてい行くためには、心の面も大切です。たとえば、頑なな心は、体を緊張させます。感情の起伏が体に与える影響は大きいのです(詳しくは→「病は気から。心のあり方」)。

 

太極拳とは、形だけの運動ではなく、意識から導き出される動きだと思っています。結果としての形ではなく、その過程が大切です(ただし、その過程は、結果としての形に現れることも多いです)。そして、たとえば站椿功(立禅)のように見た目に動かないものでも、内部ではぐるぐると動いているように感じます。

 

わたしの先生の言葉でもありますが、武当功夫でまず大切なのは、心を静めることです。どういう心で自分の体に向きあうのか、そんな自分の在り方を求めていく過程も、大切だと思っています。わたしにとって、その基盤づくりに役立っているのが「道徳経」です。

 

武当功夫は、道教の聖地のひとつである湖北省の武当山で、道教の修行者たちによって育まれ、伝えられてきました。道教とは、中国三大宗教(儒教、仏教、道教)のひとつで、中国古代の神仙人思想を母体に陰陽五行説、道家思想を加え、さらに仏教の影響も受けて組織化されました(出典:ブリタニカ国際大百科事典)。

 

神仙思想とは、簡単に言えば仙人となって不老不死を目指すことで、わたしはこれを、「一生をかけて青春を追い求める」と習いました。これは、功夫をする人は、20年たっても同じ体という表現にも表れています。そして実際、鍛錬を積んできている人は、実年齢よりもはるかに若々しく見えますし、何よりも見えないところ、体の軸がしっかりしています。

 

老荘思想とは、老子や荘子の思想で、道家思想とも呼ばれます。

 

仏教の影響も受けている、という点については、わたしが武当山の太子洞に住む道士からお守りを3ついただいたときに(3というのは、道教では”発展”を示す数字で大切にされています)、一つがお釈迦様だったことからもうかがえます。

 

道士は、老子の道徳経を一生をかけて読みます。「読み続ければ、いつかはきっとわかるはず」と信じているから、と聞いたことがあります。この姿勢自体にも、道教の教えが見えるような気がします。

 

本というものは、その時の自分に必要なことを教えてくれます。道徳経は何度も読んでいますが、読むたびに感じることは変わります。どれが正解で、どれが間違っているというのではなく、そのときの精一杯の理解で十分なのだと思っています。だからこそ、「読み続ける」という道士の姿勢には共感できます。

 

その教えは、ご自分で読んで感じていただくのが一番ですが、わたしにとって一言でいえば、エゴにとらわれず、無理やりなんとかしようとせず、自然のままを受け入れる道で、これが流れに乗って生きるということでもあると思っています。

 

(老子がどんな人なのか、道徳経が書かれた経緯や、武当山との関連については、こちら→「老子と道教と武当山」。)

 

さて、最初の生徒さんの質問、「おすすめの太極拳の本は?」戻ると、どれでも気になったもの、目に留まったものを読んでみたらよいと思うのです。どの部分を知りたいのかは、人によって違います。中国武術とは?という全般を知りたいのか、太極拳の歴史を知りたいのか、套路(型)を詳しく知りたいのか、体への影響を知りたいのか、ポイントはいくつもあると思います。自分の興味がわかるのは自分だけですので、本屋さんなどで、ざっと見てみればよいと思うのです。

 

わたしもそんな感じで、そこそこ読んできましたが、どれも役に立っています。なるほど、と思うこと、首をかしげること、いろいろですが、先に書いた老子の「道徳経」の解釈に、どれが正しくてどれが間違っているというのはないように、どれも”あり”なのだと思うのです。それは、書いた方にとってのその時の精一杯の理解で書かれたものだと思うのです。そして、久々に読んでみると、前は気づかなかった点が理解できたりするのです。読み手側の意識や状態によって、伝わるものは変わります。

 

本の解釈と同じように、わたしにとってのお稽古は、探求の連続です。いつも手さぐりです。先生は、功夫のお稽古には方法がある、とおっしゃいます。意識を持たずにお稽古しない、という意味だと思っていますが、その方法に、絶対の”正しさ”はないような気がします。絶対にこれが正しいと決めたときに、発展の道は閉ざされますし、それは、長い時間をかけて熟達していくという功夫の道から外れるような気がするのです。

 

そんなことで、いつでも今の精一杯を。精一杯と言っても、眉間にしわを寄せて視野が狭くなるようなやり方や、”やっている感満載”のやり方では、また道から外れます。ちょうど良いことに、ちょっと行き過ぎると体がちょっとおかしくなって来たりします。そのたびに軌道修正です。続けることの良い点は、間違えたらいつでもごめんなさい、と軌道修正できることでもありますね。

(武当山 逍遥谷にある老子の像と、真似っこ)



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