大きいものに、ゆだねてみる

2020.01.22 Wednesday

(武当山)

 

この前、久々にお稽古に来てくださった方がいらっしゃいました。

 

「先生に会いたくなって」と言ってくださり、うれしかったです。

 

普段はお家のお近くで習っているものがあるそうで、そのお話をしてくだいました。トラの形というのをやっているそうで、その手は、手首、手の甲はまっすぐなまま、指の第2関節を曲げる形をするのだそうです。(注:すべての中国武術で、トラがそういう形をするわけではありません。)

 

「なかなか手の甲がまっすぐにならなくて、難しくって」とおっしゃるので、

 

「体の端を終わりだと思わず、外まで続くイメージでやってみたら?」と言ってみました。この場合は、指の第2関節の先につながっていく感じです。

 

たとえば、この手の形のまま腕を横に、肩の高さに水平に上げます。指の第2関節の先が、左右遠く、お部屋にいるなら壁に届くように、公園にいるなら遠くの木にさくっと届くようにイメージします。

 

関節の力が抜けて、手首も、手の甲も、腕もきれいに伸びます。

 

難しい、とおっしゃっていた方も、きれいにできていました。

 

たいていの場合、体を動かすときに、見えている自分の体だけで動こうとすると思います。

 

そんなの当たり前じゃないの、と思うかもしれませんが、

 

これは自分の外側に枠をつくり、その中で何とかしようとすることになります。窮屈そうですよね。

 

見えている体には限界がありますが、意識は、体よりもずっと遠くまで届きます。

 

「あの人、元気にしているかな」という思いは届くと言いますし、虫の知らせみたいなものを、体験したことがある方も少なくないでしょう。

 

その意識に体をのせていくと、体には限界が生まれず、のびのび、ひろがりはじめます。

 

イメージは、こんな感じです。

 

 

左がのびのび、広がっていくイメージ、

右が、見えている自分の体の範囲でなんとかしようと、悪戦苦闘しているイメージです。

 

左の人の外側は、ぷくっと膨らんでいます。これが表面張力のような、適度な張り感です。

右の人の外側は、ガタガタですよね、これは、滞りを作る緊張です。

 

左のイメージでいると、体の関節の隙間は空いていきます。体の中にゆとりが生まれ、緩みも生まれます。

 

ゆとりある体の中では、血も流れやすくなります。内臓もゆったりと収まりそうですよね。

 

血が流れれば、気が流れ、気が流れれば、血が流れるのを応援する、というように、めぐりが良くなると、さびない体になります。流れる水は腐らないのと、同じです。

 

指をまっすぐ、腕を伸ばす場合も、上でも、横でも、わたしは「指先に意識を向けて、それが遠くに届くように」とお話しています。

 

そのとき、腰やひざなど、緊張で固まっている場合は、右のようになってしまいますが、

 

体に緊張がない場合は、指先は限界なく、ぐんぐんと伸び続ける感じがします。

 

実際に外から見たら、見た目には限界があるでしょう。でも自分の感覚としては、どこまでも伸び続ける感じがします。小さなわたし(身長155僂らいなのです)も、どんどん巨人になっていく感じです。

 

さらに、こうして伸びている腕には、力があります。右のように緊張した体で、筋力で腕を上げていくよりも、はるかに楽に、強い力が生まれます。

 

いいことしかありません。

 

コツは、見えている体の小ささに、惑わされず、もっと大きなものにゆだねることです。

 

 

站椿功も、同じです。

 

阪神淡路大震災から25年がたつという日、そのことや、その後の数々の災害で被害にあった人や場所のことを思いながら、やってみようと思いました。

 

息を吸うときに、地中深くから吸って、自分を通って天まで届き、吐くときには天から降りてきたものが自分を通って、地に下りるようなイメージです。

 

巡らせるとき、自分だけではなく、自分の外側も一緒に巡らせていきます。

 

すると、息を吸うときに、いつもよりも自分がふわっと上がる感じがして、楽に続けられました。通常は30分なのですが、この日はできるところまでやろうと思って、結局1時間になりました。

 

そのときの感覚は、うまく言葉では表現できないのですが、痛みとか、悲しみとかも感じましたが、ひとりではない感覚とか、大きなものと共にいる感じとか、「大丈夫」という感覚も、ありました。

 

自分をきれいにするときに、周りも一緒にきれいにする、というのは、わたしにとって、太極拳をするときの、大切な基本です。

 

すると、実はいろいろ、うまくいきます。

 

人は、社会で生きていくうちに、自分を無視して外ばかりに気を取られてしまうことがあります。外のルールに合わせようとして我慢したり、外の評価を自分の価値だと思ったり、そのうち自分が誰なのか、わからなくなることもあります。

 

そういうとき、まずは自分の内側に意識を向けることは、大切です。体を感じることです。

 

最初はわからないことも多いでしょうが、感覚は、必ず育ちます。感覚は、多くの人の場合、まだまだ育っていないと思っています。

 

自分の内側の居心地悪さ、良さに気づけるようになってきたら、自分の外だと思っている世界と、まったく違う関係でつながることができると思ってます。

 

それが、大きなものに、ゆだねる感覚です。一緒に動く、と言うほうがいいかもしれませんが。

 

そうなったときに見えてくる世界は、それまでとは違っていると思いますよ。

 

 

 

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「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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太極拳は、性格が出る?

2020.01.20 Monday

 

最近お稽古に来てくださるようになった方が、「太極拳って、性格が出るのでしょうか?」と聞いてくださいました。

 

最初の数年は、わたしもそう思っていました。

 

せっかちとか、

焦り気味とか、

遠慮がちとか、

強気で張り切るタイプとか、

見た目を気にするタイプとか、

 

いろんな性格が、動きの中に現れます。

 

お稽古中に、動きを見たり、体を触ると、普段は見えていない姿が見えてくることもあります。

 

でも、この「太極拳は性格が出る」という見方は、ある日「違うのだ」と気づかされます。

 

武当山で武当玄武派第十五代伝人の田理陽師父に習っていたときのことです。

 

それまで1か月、毎日、個別に教えていただいていたこともあり、それなりに先生を知っているつもりでした。

 

明るく、優しく、おおらかな方でした。毎朝、学校に着くと、みんながお稽古しているそばを、ニコニコしながら小さな歩幅でランニングされていました。そんなときにも、みんなの様子をよく見ていらしたと思います。

 

お稽古は厳しい方でしたが、折に触れて「きみはよくやっている」と、励ましてくださいました。

 

お客様がいらっしゃるときは、生徒たちに演武をさせ、ご自分は一緒に座ってお話をされていました。

 

でもある日、ご自分で太極拳をされたときがありました。

 

短い部分だけだったのですが、「これは誰?」と思ってしまうほど、知らない人がそこにいるような気がしました。

 

つかみどころのない人のようで、それは、これまで先生に抱いていた印象とは、まったく違うものでした。

 

「これが太極拳なんだ」と、そのとき、感じました。

 

 

冒頭の、太極拳には性格が出る、というのは、その人の生きクセのようなものだと思います。

 

自分の本質が、まあるい風船だとしたら、生きクセとは、一部をひっぱって、ねじねじして、飛び出る部分を作っている、みたいな感じでしょうか。

 

 

太極拳は、無駄な力を抜いて、その人本来の力を取り戻すものです。つまり、そのねじねじして飛び出た部分を、するっと解けば、ぷんっと張り感のある、満ち満ちた自分がそのまま表れます。

 

飛び出た部分に気づくことができるのは、型がある良さだと思っています。

 

型は、その人を押し込めようとするものではなく、緊張を解くためのものです。

 

カタチではなく、こういう動き方をすれば、緊張しないですむよ、という方法です。その結果がカタチとして現れるだけです。

 

動きの中で、無理があったり、緊張がある部分に気づいては、解いていく、の繰り返しですが、どこに緊張が出るか、そしてどういう行動や動き方がその緊張を作っているのかに、その人のクセが出るように感じます。

 

滞りのない、巡りの良い体は、緊張のない体です。体と心はつながっているため、体がほぐれると心もほぐれ、生きクセも取れていきます。すると、田理陽師父のような太極拳になっていくように、思います。

 

では、そのクセがなくなったとき、個性がなくなってしまうのかというと、そうではないと思っています。

 

人というのは、外見上、頭ひとつ、腕2本、足2本と、同じに出来ています。

 

そのために、みんな同じだと誤解しやすいのかもしれませんが、

 

その中身というか、本質の部分は、見知らぬ宇宙人同士のように、いろんな形があって、ちょうどスターウォーズに出てくる登場人物みたいな感じじゃないか、と思うのです。いろいろ、なかなかユニークですよね。

 

簡単にたとえるなら、外見は同じでも、中身はイカだったり、タコだったりするわけです。

 

それが、「タコが良いのだ」と、どこかで教わったり、思い込むような出来事があると、イカは、はみ出してしまう自分の部分を、押し込めて隠したり、タコの着ぐるみを着て過ごそうとしはじめるかもしれません。

 

それは、無理がかかるでしょう。

 

タコはタコとして、イカはイカとして生きれば、それでいいですよね。

 

イカが、タコのふりをやめて、イカとして生きはじめたとき、あまりに自然で無理がないため、当たり前すぎて、目立ちませんよね。

 

わたしが、田理陽師父の演武を見て、つかみどころがないと感じたのは、そういうことではないのかなと思っています。

 

個性がないというというより、クセがない、という方がぴったりきます。

 

無理のない、その人の本質が表に出てきます。

 

それはとても静かで、清らかで、パワフルで、美しいものでした。

 

「する人も、見る人も気持ちよいのが、よい太極拳」というとおり、着ぐるみを脱いだその人が現れると、見ている方も心地よくなります。

 

性格とか個性といっても、実はそのレベルはいろいろあるようです。

 

クセもあれば、本質的な部分もあるでしょう。

 

クセは、社会に適用しようとして身に着けた鎧のようなものもあり、そのときは、身を守るために必要だったかもしれません。

 

でも、いつもそれを着続けていると、着ていないと不安になりますし、着ていることも忘れてしまいます。

 

「〇〇しないと」とか、「〇〇であるべき」という中にも、そういうものがあるのではないでしょうか。

 

太極拳のお稽古を続ける中で、「これは鎧で、素の自分じゃないよね」と気づいていきます。そこから先、脱ぐか、着続けるかは、自由です。

 

わたしは、気づかないうちに「〇〇であるべき」という考えにとらわれすぎていたときもありましたが、そのころは、自分が何をしたいのか、わからなくなっていました。

 

ひとつずつ、いらないものに気づいて、脱いでいくことを繰り返していくうちに、素の自分でいられるようになってきたと思います。

 

その方が、楽です。

 

イカはイカとして、堂々と生きるほうが、いいですものね。

 

 

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わたしにとっての太極拳

2020.01.15 Wednesday

 

「わたしにとって太極拳とは、わたしの人生を生きることです」

 

と書いたのは、ホームページを開設したときです。その思いは、今でも変わっていません。

 

お稽古に行く中国の武当山で一緒にになる兄弟子が、「毎日のすべてが太極だ」と言っていたことがあります。

 

そのときに例に出ていたのは、チャーハンを作るとき、手で洗濯するとき、です。「でもやりすぎて、ほら、穴が開いちゃった」というオチがついていましたが。

 

笑い話になるくらい軽く話していますが、冗談ではなく、本当にそう思っています。だからこそ、軽く話すのだと思うのですけどね。

 

こういうものを、「これに出会うために生まれてきた」と言ったりしますよね。「これがない人生は考えられない」とも言います。

 

わたしの場合も、今となっては、これがない人生はない、と感じます。

 

太極拳とは、中国に伝わる”太極”という思想が背景になっています。太極とは、簡単に言うなら、ひとつの大きな源、すべての根源です。

 

太極から陰陽が生まれ、そこから万物が生まれる、というのは、紀元前「易(易とは、太陽(日)と月が合わさった漢字で、変化を表しています)」にも表れています。(『易経』は周時代(紀元前 1050〜722 ごろ)の初期に作られたため、周易とも呼ばれます。)

 

易の考え方は、太極が両義(陰陽)を生み、陰陽は四象(老陽、少陽、老陰、少陰:四季と同じです)を生み、四象は八卦を生じ、八卦は吉凶を定めるというもので、戦術占いとして使われてきました。

 

八卦は、次のようになります。上段の要素に、下の文字があてはめられています。

☰(乾) ☱(兌) ☲(離) ☳(震) ☴(巽) ☵(坎) ☶(艮) ☷(坤)

 

易の占いは、上下の象で見ます。たとえば、下が天、上が火、と出たら、天に太陽がさんさんと輝いていて、幸先が良い感じです。

 

面白いのは、下が地、上が天と出た場合です。一見よさそうですが、これは停滞のサインで、あまりいい結果ではありません。「安定しすぎていて、動かないから」だそうです。

 

易とは、変化することです。変化が自然なので、動かないのは不自然です。この場合、下が天、上が地と出ると、ぐるっと動く変化があるため、吉となります。

 

古来からあった太極という思想を、18世紀の武術家、王宗岳が「太極拳経」という文書にあらわし、それがすでにあった拳法にぴたっときたことから、太極拳という名前がついたそうです。

 

それぞれあったものが、ある時点で一緒になった、という感じです。

 

ご存じない方も多いと思いますが、太極拳には流派がたくさんあります。今、いちばん信じられている説では、陳式が始まりで、そこから分かれていったとされています。そこに武当太極拳は入っていません。

 

太極拳は、武当山で修行していた道士(道教の修行者)張三豊が、あるとき庭先で鶴(かささぎ、となっているものも)と蛇が、くるくる回りながら攻防しているのを見たときに、柔が剛を制す、という概念に気づいて太極拳を編み出した、という伝説があります。

 

そのため、武当山を太極拳発祥の地とする説もあります。

 

ただし、張三豊が実在したのか、どの時代の人なのか、定かではありません。有力な説でも2つあり、両方が同一人物だとすると、ものすごい長生きになってしまいます。

 

そもそも、張三豊は、もともとは少林拳の人でした。のちに武当山にやってきて、道士になったと言われています。今でも、少林拳から入って武当山に来る人も、結構います。

 

いろいろある太極拳は、太極という思想を体現している、という点だけが、共通点のような気がします。

 

他の流派のことは、ほとんど知りませんが、体の動きも解釈も、かなり異なるような気がします。違いのために、ときどき「これは正しい、あれは違う」みたいな論争が起きることもありますが、それぞれでいいのではないでしょうか。それくらいのおおらかさが、太極という思想にはある、と思っています。

 

太極拳で大切にされているのは、まず心です。ですからお稽古している間だけではなく、日常すべてが太極、という言い方もあるわけです。

 

続けるとか、やめるという類のものではありません。わたしにとっては、ですけれど。

 

さて、この太極拳、わたしが「これをするために生まれてきた」と思っているかというと、そうでもありません。

 

どちらかというと、そこに山があるから登っている、という感覚に近いです。

 

続けてきたことで、体は10年前よりもずっと健康です。「そろそろいい年だから」という声も、周りでささやかれることもありますが、今のところは、まったくそれを感じません。

 

心も穏やかになり、自分も、まわりも平和になっていると思います。

 

わたしがすこやかに生きるために、太極拳がもたらしてくれたものは、計り知れません。

 

それは、誰にとっても有効なはずだから、多くの人に体感してほしいと願っていますし、そこに熱があることは確かです。

 

そして、背景にある哲学が大切とは言っても、具体的な体の使い方も大切です。技というか、技術というか、時間をかけて磨いていかないといけないものがあることも、確かです。その習得に努めてきたし、それを多くの人に知ってほしいと思っています。

 

そこに山があるから登れたのは、周りにいた人が良かったのだと思います。

 

太極拳に初めて出会ったときの先生は、「わたしにできないことができて、わからないことがわかる」と思った先生でした。体がバラバラに、細かく繊細に動き、意識は遠くまで、それこそ地球の裏側まで飛んでいける感じだったのです。

 

あの出会いがなければ、始めなかったかもしれません。

 

武当山に行く機会に恵まれ、武当山で感じたこと、

 

そして今の先生(武当玄武派第十六代伝人 明月師父)や、その上の先生(武当玄武派第十五代伝人 田理陽師父)の動きをみたときに感じたこと、

 

どれもその時の自分にはなかったものを、そこに見ていました。

 

最初のころは、理由もわからず、武当山にいるだけで涙がぽろぽろこぼれてきました。あれは、大切なことを思い出しかけていたからなのかな、と思っています。それが何なのか、ことばでは言えませんが、「絶望しても、ここに来たらやり直せる」という予感がしたことは、よく覚えています。

 

田理陽師父は、それまで性格が出ると思っていた太極拳に対する思い込みを、一気に取り去っってくれた方でした。この方の太極拳は、とらえどころがないというか、個性がないというか、知らない人が存在しているような感じだったのです。

 

今からみると、個を超えることを、そのまま見せてくれたような気がします。個をこえて、すべてのひとつの源(太極)とひとつになる、ということです。個という肉体をもって生きるこの世では、現実としては、そういうことはないのですけれども、ほんとうは、みんなつながっているのだと、その存在で感じさせてくれたと思っています。

 

明月師父は、大きな体をされていますが、とても軽く動きます。ふわりふわりと浮くように、とっても簡単そうに套路をされます。

 

そして、高いところから飛び降りても、あまり足音がしないのです。

 

これはどういうことなのだろう、わたしと何が違うんだろうか、という興味が、「やりたい」につながったと思っています。

 

その答えは、すぐに来るわけではありません。「こうやって、こうやるんだよ」と教えられたことをひたすら続けていたら、ある日、自分の動きが先生のそれに似てきたことに気づきました。

 

目の前にある山を登って終わりではなく、常に続きがあって、登りたかったから、登り続けてきたような気がします。

 

そういう、”その先”を見せてくれた存在が、このほかにもたくさんいます。

 

それは、運のよさと言うのかもしれませんし、しあわせなことだったと感じます。

 

これをするために生まれてきた、ということがあるならば、わたしは「愛している」と言うために生まれてきたような気がします。実際には、受け取ってもらえなかったり、悲しい思いをしたり、なんだかおかしなことになったり、素直に表現できなくなることもありましたし、

 

現実に誰にでもそれを言うわけでもないのですが、

 

これができたら、しあわせに生きたといえるような気がしています。

 

今はないのですが、何年か前、朝、目覚めるときに「愛している」ということばがよく出てきたことがあります。実際に、ことばが口から出てきたように思います。近くに誰もいないときなので、「はて、誰に言っているのだろうか?」と思ったのですが、あれは、自分に言っていたのかもしれません。

 

あの頃は、「あなたは自分のことが好きじゃない」と言われていたしね。

 

太極拳がどういう存在かといえば、愛していると言える自分でいるためのもの、かしらね。

 

 

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”放松(ファンソン)”とは?

2020.01.09 Thursday

(こんな風にぐーっと伸びているときも”放松”)

 

太極拳をしている方なら、”放松(ファンソン)”ということばを、聞いたことがあるでしょう。

 

上記は簡体字、繁体字なら"放鬆"と書きます。同じ意味を、単に”松”で表現することもあります。

 

一般的な意味は、

”放”は、放す、自由にするで、

”松”は、緩める、放つ、などです。

 

中国語の構造では、似たような意味を繰り返すこと、よくあるのです。

日本語だと「馬から落ちて落馬して」みたいに、ダメと言われますけどね。(でも、臨場感はありますよね。)

 

両方合わせると、緩める、ほどける、という意味になります。

 

これを体の状態に当てはめると、脱力とかリラックス、と言うこともあるかもしれませんが、太極拳で使う場合、意味するところは、ちょっと違います。

 

例えば、立つ場合、本当に脱力したら立っていられません。ぺしゃりと地面につぶれてしまいます。

 

立つときは、骨という構造を活かし、それを支えるための最低限の筋肉を使います。筋肉を使うため、緊張は生まれますが、立つために緊張させる筋肉は”緊張筋”とよばれ、緊張を感じないものになっています。そのため体感としては「どこも使っていない感じ」になります。

 

立つときに、たとえば腕の力こぶ筋のように、「使っています」感が満載では、立ち続けること自体が苦痛ですよね。そのあたりは、上手くできています。

 

じゃあ、「緊張を感じない」のが”放松”かというと、そうでもありません。

 

体勢によって異なります。

 

腕を上げて木を抱えるような站椿功の場合、立つこと(縦に伸びる)に加え、四方八方に広がる力が働きます。おへその裏にある命門(めいもん)が後ろにひっぱられ(陰)、それとバランスを取るために、腕は前にぐんぐん伸びます(陽)。

 

この状態のときは、体が空気をパンパンに含んだ風船のような感覚になります。

 

風船の表面は、ハリ感がありますよね。言い換えれば、これは緊張です。ただし、必要な緊張ですし、体感もあります。

 

膨らみきって終わりではなく、ずっと膨らみ続けている感覚です。

 

同じ”放松”という状態でも、体勢によって、体感は異なります。

 

まとめていうと、”放松”とは、無駄な緊張がなく、適度にリラックスしつつ、適度なハリ感があるもの、という感じです。

 

「老子と太極拳」を書かれた武術家の清水豊さんは、「鄭曼青*1 は、太極拳の掌の形を、「美人掌」と言っていた。これは、適度な脱力と、指がまっ直ぐに伸びるくらいのテンションが必要であることを、象徴的に示すものである」と書いています。

 

わかりやすい、いい表現だな、と思います。

 

楽に、リラックスして、というと、指先がくるんと丸まってしまうこともよくあります。

 

これは、もともと指が常に緊張していて、まっすぐになりにくいせいもあると思いますし、指先に必要なハリ感がないからでもあります。

 

腕を下ろしてまっすぐに立つときの指先は、水が入った袋のようだとイメージします。水は、下へ下へと流れますから、指先は下に向かいます。そのまま地面に落ちて「さくっ」と刺さるくらいのハリ感です。

 

丸まっていると、めぐりが滞ります。くるっとなっている指先に血がいきにくくなるだけではなく、その手前の腕の部分のめぐりも、悪くなるような気がします。

 

適度なハリ感の漢字は、他にも、体の前に空気の入った大きなボールを置いて、その上に両手のひらを載せる感じ、というイメージも役立ちます。指は伸びすぎず、丸まらず、風船の表面のハリ感と同じような感じです。

 

このように、緩みつつ、適度なハリ感がある、という異なる質感が同時に存在する状態は、わかりにくいかもしれません。

 

 

ことば は、奥深いものだと思っています。

 

先人は、自分が感じたことを伝える手段として、ことばを選び、後に続く者は、それを頼りに、自分の感覚を探ります。

 

最初は、頭の理解になるかもしれません。

 

それを、あれこれ体験して、「こうじゃないな」という間違った経験もして、だんだん自分の感覚として理解していくのだと思います。

 

その試行錯誤は、「これは放松」「これは放松ではない」というように、判定することは必要ですが、どちらの経験も、自分で腑に落ちるためには、等しく大切だと思っています。

 

そうやって、ただの文字だった ことば が、立体的なボールのようになっていくのだと思います。

 

ときどき、他の人と体をとりかえっこできたら、「あなたが言っている放松は、こんな感じなんだね」と交流できて面白いなあ、と思いますが、そうもいきません。

 

ただ、自分の経験が深くなっていくと、他の人がことばで表現したときに、「そうそう、そんな感じ」と共感できるときも増えます。

 

そんなときは、「気が合うなあ」と、とっても嬉しいのです。

 

 

日本人の場合、漢字という共通要素があるだけに、用語の意味を、聞いただけで理解した気分になることもあるかもしれません。

 

でも大切なのは、頭の理解より、体の理解です。いろんな人に聞いてみることも役立ちますが、聞くだけではなく、たくさん体験したらいいと思います。

 

その人が考える放松の状態をやってもらい、あちこちから押してみるのも、おすすめです。(これを、放松功と呼びます。相手の状態を理解するためにも有効で、面白いお稽古です。)

 

それを元に試し続けていけば、だんだんと「こんな感じ?」が形作られていきます。育ってくる感じです。

 

絶対的な正解は、誰にも判断できませんので、ずっと「こんな感じ?」なのかもしれませんが、

 

終わりがないものって、いいですよね。

 

そう言うと、「ゴールがないと、心が折れる」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、

 

無限の可能性が待っている、と思えば、楽しみになってきませんか?

 

 

 

*1:鄭氏太極拳を創始した武術家。

 

(参考:「老子と太極拳」清水豊 著 2013年 BNP出版)

 

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ふわりと宇宙に浮く站椿功

2020.01.07 Tuesday

 

昨年の秋、中国の武当山にお稽古に行ったときに、毎日2〜4回、30分ずつ站椿功をする時間がありました。

 

早朝、午前、午後、夜のうち、午前と午後は通常のお稽古時間内で、必須です。早朝は自主的に、夜は自由参加の練習時間の最初に、みんなでやりました。

 

これだけ集中的にやったのは初めてです。ひとりだと挫折してしまうかもしれませんが、みんなと一緒だと頑張れます。とてもよい機会でした。

 

日本に帰国してからも、1日に1、2回、そのまま続けています。

 

12月中旬に足首を怪我してから、しばらくはお休みしましたが、年末から再開しました。

 

そして、それまではよくテレビを観ながらでしたが、音楽だけに変えました。

 

テレビを観ながらだと気が紛れますし、頑張りやすくなります。少し外に意識は行きますが、そこそこ自分の内側に意識を向けることもできます。このときは、とにかく「続ける」ことを優先しようと思っていました。

 

でも新しい年を迎えるにあたり、「なんだか違う」と感じました。もっと自分の内側にじっくり入っていきたい、と。

 

それで、音楽だけに変えました。

 

好きな曲を選んでいますが、基本は”宇宙を感じるもの”です。まったくの個人的感覚です。

 

定番の中国の古典音楽もありますが、映画「インターステラ―」のサントラ版も、ぴったりです。屋久島の水の音(これは曲ではありませんね)や、クラシックもあります。

 

ゆったり静かな曲も多いですが、不思議なもので、華やかでドラマチックな曲でも、合うものもあります。表面的な静かさとか華やかさとは、どうやら違うようです。

 

”宇宙を感じるもの”というのは、わたしの今の感覚を、助けてくれるからです。

 

站椿功をするときに感じるのは、ふわっと宙に浮くような感覚です。

 

もちろん地に足はついています。

 

縦に伸びる力が働いて、体がバネのようになっていると、ふんわり浮く感じがします。

 

站椿功とは、杭を打つように立つという意味です。その言葉どおり、足はしっかり大地に根をはっていますが、同時に、いつでも動けるくらい軽い感覚もあります。”ずっしり”より”ふんわり”です。

 

なぜ浮く感じがするのでしょうか?

 

縦に伸びる力が働くとは、上に伸びる力も大きくなります。すると周りの空間が、浮力がある水みたいな状態になります。

 

水の中だと、体は浮きやすくなりますよね。ちょうど、あんな感じです。それと地面に足がしっかり根を下ろしているのとが、同居している感じです。

 

ふわっとするとき、気持ちいいのですよ。

 

站椿功にもいろいろあり、腕を下ろすタイプは「楽ちん」なのですが、腕を前にあげるタイプは、ちょっと違います。

 

例えるなら、風船が内側から膨らみ続けている感じなので、パンっとしたハリ感が出ます。そのおかげで関節の隙間が広がるのですが、そのハリ感は、痛いとも違うのですが、「何も感じない」わけではありません。

 

上手く表現できないのですが、コップの水が溢れる手前、表面張力が効いているような感じの感覚でしょうか。ちょっと緊張がありますよね。でも、不要な緊張とは違います。

 

この站椿功、絶妙なバランスの連続で成り立っています。

 

腕を前に上げ続けるためには(陽)、後ろに引くもの(陰)が必要です。そのため命門(めいもん、おへその裏側)を、ずっと後ろにひっぱり続けます。それとバランスを取るために、腕は前に膨らんで進みます。

 

この站椿功、クラスでも10分間は生徒さんもしていただくのですが、あるとき、「3秒だけ気持ちよかった」という生徒さんがいらっしゃいました。

 

貴重な3秒、いい経験で、いい傾向です。こうやって自分だけの経験を重ねていくことは、必ず次につながります。(それを、修行と呼ぶ人もいます。)

 

なぜそれが続かなかったのかは、簡単に言うなら、バランスを崩したと言えばいいのかもしれませんが、もうちょっと言うと、「あ、これ!」と思った瞬間に、その状態を保存したいと思ってしまったのかもしれません。

 

これ、まさに落とし穴だと思うのです。自然の摂理とは、1日が変わるように、季節が変わるように、変っていくことです。それを固めてしまおうとすると、無理が生じます。

 

バランスが取れたら、それを次の瞬間、また新たに取り直さないと、自然からは外れます。

 

静功とも言われ、見た目は動かない站椿功は、こんな風に、実は常に動き続けています。

 

そもそも、静かというのは、地球の動き、宇宙の動きに対して静かであること、と聞いたことがあります。

 

つまりは、地球と一緒に、宇宙と一緒に、同期して動いているわけです。

 

スケールがぐっと大きくなりますよね。

 

ドラマチックな曲でもぴったりくるのは、だからなのかもしれません。

 

30分の站椿功は、わたしの未熟さの現れもあると思いますが、それなりに努力も必要です。ずっとバランスを取り続けようとしても、上手くいかないこともありますし、「いちど腕を下ろして仕切り直そうか」とよぎることもあります。でも、よほどのことが無い限り「もうちょっとがんばろう」と思って続けることにしています。

 

結構、なんとかなるものです。

 

なぜこんなことをするのかというと、やはりこれが基本を教えてくれるからです。

 

たとえば1時間あったとして、ひとつの太極拳の套路を6−8回くらい練習できるとしても、そのうちの30分を站椿功に当てて、太極拳は3回くらいというパターンの方が、得るものは大きいです。

 

1年たてば、大きな差が出ます。半年くらいでも、別人のように動きが変わる人もいます。

 

太極拳は、動きを分解することで、かなりわかりやすくなるのですが、それに体をのせていくのは、自分の感覚です。その感覚は、站椿功をはじめとする基本練習でこそ、育てることができると思っています。

 

そして、今のわたしの場合は、ほかにも理由があるような気がします。

 

自分の源に、ちゃんとつながっていたいからです。

 

本能というのか、本質というのか、魂というのか、なんと言えばいいのかわかりませんが、何か大きなところです。

 

わたしは、けっこう論理的でもあると思っていますが、それは生きてきた中で身に着けた智慧みたいなものです。

 

考えることがダメなわけではなく、順番の問題かもしれません。人は考える生き物なので、感じたことをもとに考えることは、必要だと思っています。でも考えることから始めると、自然にあふれ出てくるものを、不自然に堰き止めてしまうような気がします。

 

考えることからではなく、感覚とかカンから、すべてを始めたいのです。

 

見方によっては非現実的かもしれませんし、それを否定的に見る人もいると思います。

実際、自分でも恐れが出ないわけでもありません。

 

それでも、上手く説明できないのですが、「ここに、きっとある」という予感があります。

 

それは、ちょうど10年前に武当山で感じた「絶望しても、ここに来れば、またやり直せる気がする」と感じたことと、似ているのかもしれません。

 

根拠のない確信、みたいなものです。

 

気功や太極拳をするとき、ときどき「これをやると何にいいの?」と聞かれることがあります。答えられるものも、答えるほうがいいこともありますが、あまり”効果”に期待しすぎると、よい結果にはならないと思っています。

 

その通りにならなかったときの、失望感もありますしね。本当は、他に何か得ているものがあるかもしれないのに、そこに気づかずに、失敗として記憶されてしまうかもしれません。

 

站椿功も、気功も太極拳も、基本のやり方はありますので、それは必ず習うべきです。でもその後、その経験を実のあるものにするのか、その価値に気づかないのかは、自分次第だと思っています。

 

さて、どうなっていくのでしょうね。

 

それはわかりませんが、昔から、次に行きたいと思っているとき、その次が何かわかっていないときは、とりわけ、站椿功に時間をかける傾向があるようです。

 

諦めかけるときもありますが、(そして、本当に体調が悪いときは、やめます)、自分で選んだことだから、辛いことではないのです。やるも、やめるも、わたしの自由です。

 

そう言えるようになったから、大人って、いいですね。

 

 

1月の 特別クラス】

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「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

太極道家

講座のご案内は、こちらからどうぞ。

 



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