自分を守る、人を守る太極拳

2020.03.31 Tuesday

(三十六式武当太極拳の 第三十五式 金蛇盘柳:蛇が柳に絡みつく)Photo by Xie Okajima

 

「太極拳の目的は3つ。1は健康のため、2は自分を守るため、3は人を守るため。」というのは、武当玄武派第十五代伝人 田理陽師父のことばです。

 

2011年に中国の武当山にお稽古に行ったとき、激しい雨が降っていた日、「こんな日はお稽古には向かないから、話をしよう」と、

 

みんなを集めて「日々の生活はどうだ、食事はどうだ、困っていることはないか」と、ニコニコしながら、いろいろ聞いてくださいました。

 

この方の、こういうところが好きで、敬愛しています。

 

太極拳をすることは特別ではなく、日常で活きるものだと思っています。

 

武当山にいると、「生活すべてが、太極。」と、笑いながら言うこともあります。中華まんの皮をこねるときも「太極」、手で洗濯をするときも「太極」。道を歩いているとき、突然横から押されて、ふらつくと「違うでしょ。太極だよ。」

 

太極拳は、狭い意味では套路という型をすることになりますが、広い意味では、そしてわたしにとっては、自分の人生を生きることです。

 

冒頭にあげた3つの目的は、言葉としては単純ですが、その意味を、ずっと考え続けています。

 

頭で考えるのではなく、言葉を心に置いて、自分の経験を通して、感じていくことを繰り返しています。言葉は、そうやって育てながら、自分のものにしていくのだと思います。

 

さて、その3つのうち、いま、わたしがアツいのは、2の”自分を守るため”です。これがあれば、1の健康は促進されますし、3の人を守ることもできるからです。

 

教えるときに、いちばん願っていることも、自分で自分を守れる人になってほしい、ということです。

 

人は、ひとりでは生きていけません。たくさんの人の助けがあって、今の自分が成り立っているに違いなく、そのことを覚えている限り書きだしてみたら、とてつもない分量になりそうです。(家にいる時間が長い今だからこそ、やってみてもいいですよね。)

 

そもそも、地球がなければ立っていることもできないですし、他の生物がなければ、食べることもできません。

 

そのありがたさを思うと、守られているばかりで、自分はなんと、ちっぽけな存在なのだろうと感じますが、

 

その一方で、自分を守ることができるのは、自分しかいないと思っています。

 

体に不調があるとき、病院に行ったり、整体や東洋医学の専門家にかかったりしますよね。すべてをひとりで抱えないのは、大事なことです。

 

でも本当に大切なのは、自分で問題を把握して、外から手が加わったときの変化を肯定的に受け入れられるかだと思うのです。

 

たとえば、先日の「からだの痛みは、自分を守るためかもしれない」にも書いたのですが、痛みは自分の体を守ろうとする防衛本能からきていると思っています。

 

体は今にしか反応できません。今の自分を守るために、かため続けるとどうなるのか、予測することはできません。かため続けた結果、痛みとして現れたときに、「ここ、痛いの」と訴えてきます。

 

専門家の助けを借りて痛みを取り除こうとするとき、誰でも頭では「痛いのがなくなればいいな」と思うでしょう。

 

でも「ここをかためていないと、守れない。」と反応している体にとっては、急に緩められてしまうと、「まずい!もっと守りをかためなくては!」と、さらにかためてくることも、ありえます。その結果、専門家のところに定期的に通うことになりかねません。

 

人の助けを借りるのはいいですが、人任せは、ダメです。

 

負のスパイラルに入らないようにするためには、外からの助けで緩められたときに、「この硬さは、いらないよね」と、体が理解して安心することが必要だと思っています。

 

それが「わかる」のは、自分の感覚です。

 

感覚は、育てていかないと、働きません。

 

太極拳は、その感覚を育てていくものです。

 

繰り返すことで、馴れて、出来るようになるのではなく、瞬間に対応できる力をつけていくものです。つまり、瞬間芸です。

 

太極とは、陰陽の調和です。もともとはひとつ(太極)のものが、この世に現れるときには、陰と陽という質が異なりお互いに補完し合う要素に分解されます。

 

天と地、男と女、昼と夜、動と静、のように、です。

 

分かれた途端、バラバラに動かしてしまうことも、アンバランスになることもありますが、本来は調和がとれていることを信じて、そこに還っていく道を、体で学ぶのが、太極拳です。

 

陰と陽の調和がとれた体は、たとえるなら、風船がぷっくり膨れた状態です。内も充実しているし、外に広がる力もあります。緩んでいますが、表面はぱつっと緊張しています。これが”放松(ファンソン)”と呼ぶ状態です。

 

バラバラに動いたり、アンバランスのイメージは、大道芸人が風船でプードルを作るみたいなものです。ねじりがないときは、すべてがつながっていますが、ねじっていくと、頭としっぽは、もう、つながっていません。

 

プードル状態は、全身で生きていません。全身の巡りは悪くなりますし、健康にもよくありません。

 

このねじりがあるところが無駄な緊張なのですが、ほとんどの人が、それに気づきません。こんなに小さな体なのに、全身ではなく、部分だけで生きようとしています。勇気ある挑戦とも言えますが、無謀なチャレンジです。

 

プードルは、風船から見たら、弱点だらけです。ねじれの箇所を追い詰めていけば、簡単に倒れるでしょう。

 

太極拳に型(套路)があるのは、ねじりに気づくためでもあります。

 

まずは、ねじりに違和感を感じられるようになることですが、誰もがそのときのベストを生きているので、自分の枠にとどまっている限りは、感じられるようになりません。

 

その手助けをしてくれるのが型であり、他人(先生や先を行く人)です。

 

違和感を感じられるようにするために、ねじりがない状態を、あの手、この手でいろいろ体感してもらって、比べられるようにしていきます。

 

ねじりを生み出すのは、そこに至るまでにプロセスです。「こうやって、こうやるとねじれて、こうやって、こうやるとねじれない」みたいなことを、丁寧に体験していきます。

 

この型のプロセスをこまかく分解できるかどうかは、先生のスキルだと思っています。こまかく分解できて、それを伝えれば、誰でもできるようになります。

 

人にとって、いちばん自然で無理のない動きですから、正しい方法でやっていけば、できない人は、いないはずです。

 

最初は指示という助けが必要ですが、繰り返すことで、自分で組み立てられるようになります。

 

これは、必ず自分の力になります。感覚も、育ちます。

 

無駄な緊張があるときは、全身で生きておらず、本来の、まるごとの、その人ではありません。”自分がない”状態だと、人に流されやすくなりますし、情報にも翻弄されてしまうかもしれません。何かを決断しても、あとで後悔するかもしれません。

 

今のように不安もあり、ストレスもたまりやすい状況で、自分を守るのは、自分です。

 

不安になるのが悪いのではなく、「怖いのだ」と気づいたり、状況に振り回されているときに、そんな自分に気づいたり、まずは気づくことです。

 

ちょうど、ねじれの違和感を感じるように、です。

 

そのまま不安の中にいる選択もできます。振り回され続けることも、できます。でも、ゼロベースの自分に戻す選択も、できるはずです。

 

これはわたしの経験ですが、そうやって選んだことは、どういう結果になっても、「あのとき、ああすれば」という後悔には、なりにくいのです。

 

そんな力が育っていくのを見るとき、そこから起きたことを話してもらうときは、うれしくて泣けます。

 

そして、「その話は、周りの人にも話してあげるといいよ」と伝えることもあります。

 

太極拳っていいんだよ、という話ではなく、無理だと思っていたことができたとか、いつもと違った行動がとれたとか、イライラが落ち着いた、とか、自分は疲れやすいと思っていたけれど無駄なことをしすぎていると気づいたとか、

 

そういう話は、ほかの人の希望になるからです。

 

体験という、自分の内から出る言葉には、力があります。自分を救うだけではなく、他人を救うきっかけにもなります。

 

それが、自分を守ること、人を守ることでもあります。

 

もちろん、もっと物理的に、倒れかかってくる人の巻き添えにならず、自分はしっかり立って、その人も支えられるという面での、自分を守る、人を守るも、ありますし、

 

売られたケンカを買わず、相手のやる気をそらすことで、自分も人も守ることもあります。

 

そういう、いろんな体験をしていくことで、自分を守って、自分の人生を生きられるようになる、と信じています。

 

お稽古してくださるみなさんには、いつも、本当にありがとう。

 

わたしにできることは伝えるだけで、直接何かをしたり、変わってあげることはできません。みんなが取り組んでくれるから、育つものがあります。

 

それは、わたしの希望でもあります。それに救われているのは、わたしだけではないはずです。

 

そしてブログを読んでくださる方にも、わたしの内から出てくる言葉で、何か触発されたり、何か動きはじめることがあったら、ものすごくうれしいです。読んでくださって、ありがとうございます。

 

がんばろうね。

 

 

「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。人が集って、一緒にお茶でも飲んでなにげない話をして、ほっとする場所でもあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

太極道家

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感じる体と心を育てる

2020.03.18 Wednesday

 

(36式武当太極拳)Photo by Xie Okajima

 

太極拳といえば、健康促進、すこやかな体、という印象が強いと思います。

 

そのとおりだと思いますが、そのために欠かせないことがあります。

 

感覚を、育てていくことです。

 

今、自分がどういう状態なのか、そのまま感じることです。最初は、違和感を感じることからはじまる気がします。

 

「いい感じ」は、そのままにしておけばいいですしね。違和感を感じたら、なくしていけば「いい感じ」が増えます。すると、もしかしたらいままで「いい感じ」だと思ってきたなかにも、違和感を感じることがあるかもしれません。

 

意外と「こうしたら、いい感じになるよね」と、頭で考えていることを、”感じている”と誤解してしまうこと、あるのです。

 

たとえば、海や山や森に行ったら、「マイナスイオンを浴びて、すっきり解放される」という思考に、そのまま乗って「はーっ、きもちいいっ」となってしまうことも、ありえます。

 

区別がつかないときは、それはそれでいいのですけどね。

 

太極拳には、套路と呼ばれる一連の動きの型があります。

 

この型があることで、よくも悪くも、好きなようにはできません。

 

套路は、「こうやって、こうやって、それからこうやる」というように、それぞれ工程というのか、プロセスがちゃんとあって、その結果が表に見えるカタチになります。

 

あれこれ複雑な動きがあるように見えても、大切なことは、シンプルです。

 

・足で地面を押して、頭が天に向かって伸びる バネのように縦に伸びる力が働き続けること

・陰と陽の調和(バランス)を取り続けて、風船のように全方向に膨らみ続けること

・陰が極まって陽になり、陽が極まって陰になるように、動きが止まらないこと

・体の中に、無駄な緊張や滞りがないこと

・心が静かに落ち着いていること

 

それを実現させるためには、やり方があり、それを学んでいくのがお稽古です。

 

気功のように、単純なフォームでの練習も有効ですが、套路のように、複雑な動きになったときにも、同じように大切なことを守れるようにするのも、大事です。

 

動きが増えると、見た目に騙されやすくなります。大切なことを大切にするより、カタチを追いがちになります。

 

人生も、いろいろですよね。大切なことことを、大切にするために、複雑な中で練習することに意味があると思っています。応用力をつける感じかしらね。

 

カタチができることは、上に書いた大切なことを守った結果であってこそだと、思っています。

 

そうでなければ、足が高く上がっても、低い姿勢が取れても、それをしたい人は自由にどうぞとは思いますが、わたしが大切にしていて、みんなに知ってほしいと思っている太極拳ではありません。

 

太極拳は、人によってとらえ方が違って、それをすべて許容するくらい、懐が深いものだと思っていますが、わたしは「運動」ではないと、とらえています。太極拳をする人は、アスリートではありません。

 

アスリートを否定しているわけではなく、その姿勢や生き方や動きからは、大きな感動をもらうことも多いです。見ているのも、すごく好きだったりします。ただ、すこやかさという面から見た場合、アスリートは、命を削るように練習していたりします。そのために、トレーナーさんがついていて、毎日の疲労をマッサージやあれこれで、回復させる必要もありますよね。

 

アスリートではない人たちは、一晩眠ったら回復する、というペースがよいと思っています。だいたいの日常は自分で様子を管理して、たまに「これはちょっと」となったら、整体に行ったり、病院に行ったり、他の人の助けを借りる、というくらいだと思います。

 

ちゃんと不調を感じることで、自分を振り返り、「昨日やったあれは、負担がかかりすぎるんだな」とわかってきます。もちろん、やりすぎがだめなわけではなく、楽しくてそれがしたいときは、それでいいと思うのです。ときどき負荷がかかるくらいなら、なんとかできますものね。

 

アスリートではない太極拳は、やればやるほど、上達します。年齢が上がったらできないというものではなく、どんどん進歩します。太極拳は、年齢が高い人の方がいいというのは、そういうことです。

 

自分でやっていても、3か月とか、半年とかで、けっこう変化していきます。生徒さんがわたしのビデオを見て、「2年前と今と、動きの印象が全然違う」と驚いていたことがありました。その方はダンスをずっとされているので、たくさんの人を見てきているのですが、2年くらいで印象が変わる人は見たことがないそうなのです。

 

でも、わたしの先生たちも、兄弟子たちも、ちょっと会わない間に、どんどん変わります。

 

”変わる”ことが自然の理なので、そういうものだと思うのですけれどもね。

 

足が高く上がるとか、低い姿勢が取れるとかは、大会などでは評価の基準になるかもしれませんが、本質的には、本人に合った足の高さとか、姿勢の高さの方が大切です。

 

足が高く上がること、低い姿勢を取れることを、否定するわけではないのです。足が高くあがることは、体に滞りがなく、関節もよく動いて、体が柔軟であることの現れだったりしますし、低い姿勢が取れることも、バネが効いて、上にぷんっと戻る強い力を内包していることの現れだったりします。それは、大切なことが守られていて、発達した結果でもあると思っています。

 

クラスでお稽古していると、ときどき生徒さんが「これはやりにくい」とか、「これはひざが痛い」とか、「ここがキツイ」とか、言ってくることがあります。

 

すごくいいなあ、と思います。

 

そういう違和感は、どんどん言ってくれたいいと思っています。

 

なぜなら違和感があるときは、套路というカタチを作るための工程の、どこかが抜けていたり、違うことをしている可能性があるからです。

 

工程が違うと、違う結果になり、それはカタチにも現れます。最後のカタチは一緒でも、ほんのちょっと、動くタイミングが違っているとか、細かいところにも現れます。わたしはそれを見て、指摘していくのですが、

 

複数の人の、すべてを全部みることはできません。

 

カタチを優先させてしまうと、違和感を無視して、やり続けてしまうかもしれませんよね。それを頑張るのがいいのだ、と誤解してしまうこともあるかもしれません。

 

きつくても、乗り越えていくことに達成感を感じること、日常でもそんなこと、あるかもしれません。

 

でも、すこやかに生きたいのであれば、違和感を感じたら、「止まる」です。軌道修正が必要です。

 

違和感を伝えてくれれば、もうちょっと細かく、その人に足りていないところを説明できます。それは、他の人の役にも立ちます。

 

これは、自分の練習でも、同じことです。動きながら、違和感を感じるところがあったら、どうやったら流れがよくなるか、いろいろ試してみます。

 

試すとは言っても、基本を応用していくだけなのですが。

 

進んでいくと、今まで「これでいい」と思っていたところにも、違和感を覚えはじめることも、よくあります。

 

「これ、なんだかなあ」と思っていた動きが、ある日突然、「これだ!」と気づくこともあります。数年越し、とかも、いくつもあります。

 

違和感は、解決できればそれでいいですし、そうでなければ、そのまま持っていればいいと思います。いいタイミングがきたら、何かやってくることがありますから。

 

そして違和感は、最初は体の違和感ですが、心がきゅっとなっていることで、体に違和感が出ることも多くあります。

 

心の緊張は、体の緊張として現れます。心はわかりにくいですが、体はいつも、正直です。

 

そんなとき、「今、自分に無理がかかっているな」とわかったりします。いい状態じゃない、ということも、わかります。

 

そんな状態で何か大事な決断をするのは、よくないですよね。「落ち着いて、自分を取り戻してから、どうするか決めよう」と、できることもあります。

 

違和感に気づいていくことは、体と心が目覚めていくことだと思っています。

 

無理がかかっているところに気づいて、それを取り去っていくことで、素のままの自分が そのまま現れます。

 

その自分は、他の誰とも違います。そここそ、型のように、何かにはまるわけでもありません。

 

そうやってありのままの自分で生きていくことが、すこやかさじゃないのかな、と思っています。

 

すこやかさは、今のように緊張があるときに生き抜くためにも、力になってくれます。すこやかな人がいることで、周りの人が救われることもあります。

 

わたしが「体と心が目覚める太極拳」というタイトルをホームページにつけたとき、尊敬している方から「目覚めたい人は、そんなに多いわけではない」と言われたことがあります。

 

目覚めを「悟り」のようにとらえたら、そういうこともあるのかもしれませんが、わたしは大げさなことを求めているわけではないですし、多くの人が目覚めて生きる可能性を、あきらめていません。

 

あきらめが肝心なこともありますし、そう感じたときには、すっぱりあきらめることもありますが、

ここは、まだまだあきらめたくないところです。

 

人の可能性を信じているから、です。

 

 

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いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

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太極拳が教えてくれる 人生の流れに乗るコツ

2020.03.11 Wednesday

 

(熊野 那智の滝)

 

太極拳は、体を動かしてすこやかにしたり、心を静めて穏やかにするだけではなく、

生きることを教えてくれます。  

 

「人生の流れに乗る」という言い方がありますよね。

 

自分でせっせとボートを漕がなくても、流れにのってスイスイと、良い方向に進んで行く感じです。

 

流れに乗るのと、流されるのとは、違います。「自分の軸を持って、流れにのる」(2019年9月13日)では、太極拳の立ち方から、流れに乗る方法を書きましたが、最近は、これに加えて大事だと思っていることがあります。

 

頑張るところ、行動するところと、

放っておくところ、流れに任せるところを、区別することです。

 

生徒さんを見ていて思うのですが、実はみんな、頑張ることは得意です。

「頑張っていない」と言う方も、十分、頑張っています。

逆に不得意なのは、放っておくことです。

 

太極拳では、足は”実”と”虚”に分かれます。

ざっくり言うと、体重が乗っている足が”実”、体重がかかっていない足が”虚”です。

 

気をつけたいのは、「体重が乗っている」というと、下に沈みこむように乗せてしまう人も多く、

これではひざに体重がかかってしまい、痛める原因にもなりかねません。

 

地面を押している足が”実”、押していない足が”虚”、と言う方がいいかもしれません。

 

体重が乗っている、もしくは地面を押している”実”の足には、力があります。

 

たとえば下の図の場合、”虚”の足を前に出して、”実”の足のかかとを、ぐっと斜めに地面を押すことで、前に移動します。

大切なのは、”虚”の足が緩んでいることです。

 

”虚”の前足のひざの形が変わっていくのが、わかるでしょうか。

 

 

 

 

(All photos by Xie Okajima)

 

前足を出したら、ひざは緩めておきます。

このときのひざは、水の性質を強く持っていると思っています。抵抗せず、状況に応じて自由に形を変えていきます。

後ろ足のかかとを押すと、それに応じて前足のひざの形は、受け身的に変わっていきます。

 

頑張るのは後ろ足で、放っておくのは前足です。

これで、足から体を通って力が伝わり、左腕が前に膨らむ力が出ます。

 

でも、このとき、多くの人がひざを固めてしまいます。

 

お稽古では、わたしが「前足を出して、ひざを緩めて」と言うためか、ひざは、ちょっと緩みます。問題は、その後です。

 

ひとつのパターンは、前ひざを積極的に動かしてしまうことです。自分で動かすと、フレキシブルな水の性質は失われます。

 

もうひとつのパターンは、その緩みのまま、ひざを固めてしまうことです。すると前足が突っ張って、後ろ足を押した力がうまく伝わらず、股関節のあたりで折れてしまいます(骨盤が横にずれる、と言えばわかるでしょうか。わずかですが、体がくの字に曲がります。)

 

それでは、腕に力は生まれません。

 

つまり頑張った成果が出ないのです。体に無駄な緊張も出るため、全身の巡りも疎外されます。

 

関節は曲がるようにできていますが、自分で曲げると、緊張を呼んでしまいます。

緩めておいて、いつでも必要なときに曲がるように、水のような性質を持ち続けることが、ひざの特性を活かすコツで、成果を出す(力が出る)コツでもあると思っています。

 

やってみると、いろんな発見があるかもしれません。

 

「つい、すべてやろうとしてしまう」とか

「放っておくことが、できない。自然と動くと、信じていない」とか

「前足に体重が乗ってくるのに、しっかりしないと支えられない不安がある」とか

 

感想から、自分の生きクセも、見えてくるかもしれません。

 

もしそれをやめたいなら、まず気づくことです。太極拳で人生の疑似体験をしておくと、役に立つこともあるかもしれません。

 

お稽古中こんな話をしていたら、生徒さんが「太極拳だと、頑張るところ、放っておくところは区別できるかもしれないけれど、人生ではどうやって区別したらいいのかわからない」と、言いました。

 

今、わたしが区別するヒントになるかな、と思っているのは、辛さや苦しさです。

 

自分のことを振り返ってみると、流れに逆らっているときは、とにかく辛く、苦しかったからです。無理なものを、なんとかしようとして動けば動くほど、苦しさが増します。執着ですよね。

 

もちろん、なんでもやればうまくいくわけでもないですし、大変なこともありますが、

 

「大変なことはあっても、やりたいからやるし、楽しい」という状態と、

「一生懸命やっているけれど、辛くて苦しい」とでは、だいぶ違います。やりたくて始めたことでも、後者の場合、やる気を失ってしまうこともあります。

 

人は、行動する生き物です。

 

自分軸をしっかり立てて、周りに振り回されないことも大切ですし、その自分で「こうしよう」と選択して、行動していくことも大切です。

 

そのとき、全部を自分が動かさなくても、最初の押し出す力を受けて、うまく動き始めることもあるのだとわかっていると、いいかもしれません。

 

何か停滞しているとき、「とにかく動いてみる」という考え方もあります。その行動が、直接成果を生まなくてもいい、と言います。

 

それもきっと、その行動がきっかけで、何かが触発されて、うまく自然に動き始めることもあるからかもしれませんよね。行動したことが直接、成果につながらなくてもいい、と思うと、ホッとしませんか?

 

人間関係でも、あります。

 

自分が動くと、それに影響されて「わたしもやってみる」と、他の人が動き始めること、ありますよね。

 

誰かを動かそうと尽力することも、必要なときもあるかもしれませんが、

自分がすべきことをするだけで、周りが勝手に動き始めるのは、いいと思いませんか?

 

放っておくほうが、うまく動きだすこともあります。

 

頑張っているのに、辛かったり、もやもやが続いたりしている人は、無理にやりすぎてしまっているのかもしれません。

そうしたいときも、あるのですけどね。

 

 

【3月の特別クラス】

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「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。人が集って、一緒にお茶でも飲んでなにげない話をして、ほっとする場所でもあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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太極拳は、ほんとうに体にいいのか?

2020.02.19 Wednesday

(右足だけで縦に伸びる力を働かせ、左足は猫足のようにふわっと着地する直前。Photo

by Xie Okajima

 

太極拳というと、一般的には体にいい印象があるのではないでしょうか。

 

以前いらしてくださった方が、「何よりも、いちばん体にいいのが太極拳と聞いた」と言っていたことがあります。

 

わたしの体は10年前にくらべたら、ずっと健康ですし、体はしっかりしていて、筋力もあります。太極拳は、確かに体にいいと実証できます。

 

でもそれは、やり方によります。

 

体にいいと言われる食べ物でも、人によっては合わないこともありますよね。お薬や漢方でも、最初に処方されたものが合わず、変えることもあります。

 

それと、同じです。

 

太極拳が体にいいと言えるのは、正しい方法で、自分に合った方法であれば、という条件がつきます。

 

それでも、「何よりもいちばん」かどうかはわかりません。一般論よりも、本人に合うかどうか、じゃないかしらね。

 

ひとつだけ、気功の先生に、「太極拳は体の75%の筋肉を働かせる。それだけ使うものは、他にはない」と教えていただいたことがあります。何よりもいちばんというのは、ここに関係しているのかもしれませんが、これも、やり方次第ですよね。

 

太極拳は中国武術、つまりカンフー(功夫)のひとつです。功夫は、今では中国武術と同じ意味で使われることが多いですが、もともとは、時間をかけて技を磨いていくというだけの意味です。

 

功夫茶とよぶ中国茶を聞いたことがある方も、いらっしゃるかもしれません。武術の功夫とは全く関係なく、また、特にその名称をつける基準があるわけではなく、生産者が「長年のわたしの経験と技を注ぎ込んで作った、珠玉の品」みたいな意味を込めたいときにつけるそうです。

 

武術としての功夫をするときも、時間をかけて技を磨いていくのですが、そのときには、自分に合った方法で、という点も大切です。

 

よく「太極拳と言えば、ずっと中腰ですよね」と言われることもあります。腰を落とした低い姿勢を保ち続け、それが健康によい、という見方もあります。

 

これは、100%間違っているわけではありませんが、一部だけ取り出している感じで、誤解を生みやすいと思っています。

 

太極拳に、「中腰でする」という定義はありません。「最初から最後まで、頭の高さが同じ」と聞いたこともありますが、それも正解ではありません。

 

いちばん大切なのは、バネのように縦に伸びる力が働き続けていること です。立ち姿勢でも、腰を落とした低い姿勢でも、です。そうでなければ、ひざは守れません。

 

中国でも日本でも、太極拳でひざを悪くしてしまう人が、かなりいると聞きます。実際、「健康になりたくて太極拳をやったら、ひざを壊してしまった」という方も、いらっしゃいます。

 

やり方を間違えると、いっしょうけんめいする人ほど、ケガのリスクが高まります。それは辛いですよね。

 

いっしょうけんめいにやる人が、ちゃんとそれなりの成果を出せるように、正しくその人に合った方法を教えることは、すごく大切なことです。

 

わたしは習い始めて5年目くらいで、大会に出る前のお稽古をしているとき、ひざ、足首、腰を痛めないように、と心配しながらお稽古していたことがあります。でもあるとき、ふと、「これって、ケガの心配をしながらするものかしら?おかしくない?」と、疑問に思ったことがあります。

 

心配しながらやっていた、ということは、当時の練習方法では、なんとなく、ここに負担がかかりそう、と感じていたのだと思います。

 

さらに、続けているうちに、もともと少しあったゆがみが、ひどくなったこともありました。それも、おかしいですよね。

 

そのときやっていたすべてが悪いわけではないのだと思いますが、何か、大事なことが抜けていたのだと思います。

 

わたしの師匠(武当玄武派第十六代伝人 明月師父)は、ひざを守ることにかけては、とても熱心です。そのおかげで、わたしの前半の太極拳人生(今のところの前半ですが)で、疑問に感じていたところ、わからなかったことが、ずいぶんわかるようになりました。

 

さて、上に書いた、「いちばん大切なのは、バネのように縦に伸びる力が働き続けていること」を、もう少し説明してみます。

 

一般的に、ひざには体重がかかると言われています。歩くときには体重の2〜3倍、階段の昇降には5倍以上の負荷がかかる、という話もあります。そのまま中腰にしたら、ますます大変そうですよね。

 

そして、一般的には、体がバネのように縦に伸びる力が働いていません。重力のおかげで、体重が下に落ちて、地面に足がついた状態になりますが、重力に流されすぎて、頭が下向きに落ちていることが、ほとんどです。

 

関節の間はぎゅっと詰まり、年ととるにつれて身長が低く、体が硬くなっていくのは、この流れだと思っています。

 

そういう人たちに、ちょっと腰を落としてもらい、頭の上から押してみると、ずぶずぶと下に落ちていきます。

 

バネのように縦に伸びる力が働き続けている人は、関節の隙間が開いていて、年をとっても身長が縮むことなく、体も硬くなりません。腰を落として頭の上から押してみても、上に向かう力があり、落ちていきません。

 

この場合の中腰は、バネを縦にきゅっと縮めた状態で、ぴゅんっと伸び戻る力を蓄えています。中腰がよい、と推奨されるひとつの理由は、こんな風に強い力を秘めているからだと思います。

 

縦に伸びるバネを効かせるコツは、関節をカクンと曲げないことです。ひざも、股関節も、です。関節は、曲がるようにできていて、曲がることでバネのようなクッションになります。それを、たとえばひざを前に折って曲げてしまうと、その形で固まってしまい、クッションにはなりません。

 

ちょっと想像してみてください。ひざや股関節にバネが入っていて、それがびよーんと伸び縮みしたら、体がふんわり浮くような気がしてきませんか?

 

さらに、背骨すべての関節にバネが入っていて、それがびよーんと伸び縮みしたら、さらに体がふわりと浮いてきませんか?

 

それが、縦に伸びる力です。冒頭の写真のように片足で立っている場合、もう片方の足がどすんと落ちずに、猫が歩くようにふんわり着地するのは、こんな風にふわりと上に浮く力が働いているからです。

 

空間が、浮力のあるお水のような状態に変えている、とも言えます。

 

水の中を歩くと、ひざに負担がかからない、と言いますよね。日常のすべての空間が、そうなったら、ひざをケガするリスクは減りますよね。

 

「太極拳は、最初から最後まで、頭の高さが変わらない」という点も、縦に伸びる力を働かせるという点から見ると、違います。ある動きに関しては、「ここは頭の高さが変わらない」というのはありますが、最初から最後まで通してみると、頭の高さは変わります。むしろ、縦にぐっと伸びる形になるときは、自然と頭が上がります。

 

站椿功で、木を抱えるように腕を上げるタイプの場合、ぐっと腰を落とすやり方もありますが、この縦に伸びる力を働かせないまま腰を落とすと、ひざを痛めるリスクが高くなり、危険です。

 

縦に伸びる力を働かせることができる人であれば、低い姿勢をとっても問題ありませんが、站椿功でそれをする意味は、あまりないと思っています。

 

むしろ、命門(背中側にある、おへその裏のツボ)を後ろに引くことで、腕が前に伸びていくという、横に膨らむ力を得ることが大切です。このとき、高い椅子に座っているような姿勢になり、もも裏のハムストリングスが使われます。ハムストリングスが使われるときは、大腰筋も働きます。ここを鍛えることは、とても大切です。

 

そんなに低い姿勢を取らなくても、長い時間、この姿勢のまま立っていることで、足の力はつきますし、必要なときにはバネを効かせたまま低い姿勢が取れるようになります。

 

ただし、年齢や個体差もありますので、低い姿勢は、無理なくできるなら取ればいいし、そうでなければチャレンジする意味はありません。

 

若くて元気な10代のAさんは、やり方が合っていれば低い姿勢でいいですし、最近お稽古を始めた80代のBさんは、やり方が合っていれば、腰の位置は高いままでいいのです。養生の観点から見たとき、この両者に優劣はありません。

 

本人に合ったやり方を教えるのは、先生の役目ですが、本人の「感覚」も大切です。

 

ある動きをしたときに、ひざに負担がかかるか、楽にできるか、それを感じる力は、本人が育てるしかありません。太極拳のお稽古を通じて育てる大きなものは、この「感覚」です。

 

体のどこかに詰まりがあるか、無駄な緊張があるかを感じられたら、ある動きをしたときに負荷がかかったら「これじゃない」と気づくことができます。

 

先生という役割の人は、外に現れた形から見て直すこともできますが、それだけに頼っていてたら、毎回、直されるのを待たなくてはなりません。

 

低い姿勢で、かっこいいポーズを決めるよりも、この感覚を育てる方が、はるかに大切で役に立ちます。自分の状態を、常に等身大で把握しやすくなるからです。それは日常でも、非常事態でも、いろいろな場面で本人を守り、助けになると、思っています。

 

そういう人は、周りの人を助けることもできるのではないでしょうか。

 

明月師父の師匠である田理陽師父は、「太極拳とは、健康によく、自分を守り、他人を守るもの」とおっしゃっていたことがあります。

 

太極拳は、体にも心にも、いいものです。ただし、正しく、自分に合ったやり方でされたものであれば、です。

 

はじめて5年目くらいのわたしに足りなかったのは、正しく自分に合ったやり方と、それがわかる感覚だったと思います。その体験があるからこそ、今があるのですけれどもね。

 

 

※そんな体の使い方への第一歩は、2月23日(日)14:00-16:30 「ホントにはじめての武当太極拳・気功(池尻大橋)で。詳細とお申込方法はこちら

 

 

「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。人が集って、一緒にお茶でも飲んでなにげない話をして、ほっとする場所でもあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

太極道家

講座のご案内は、こちらから

 


音の粒と、体と心の粒

2020.02.18 Tuesday

 

站椿功をするときは、音楽をかけることが多いです。

 

今朝のお供は、映画「マチネの終わりに」サントラ盤。クラシックギターの音が、やわらかく染みてきます。

 

大好きなバッハの無伴奏チェロ組曲が入っているのもうれしいところですが、いちばんのお気に入りは、オリジナル曲の「幸福の硬貨」です。映画に合わせて、作曲されました。

 

音楽をかけながらの站椿功をする理由は、単純に、きつくなってきたときに応援してもらえる気がする、というのもありますが、それだけではありません。

 

ひとつは、音の粒です。

 

いい音楽は、音の粒がきれいにそろっている気がします。

 

強弱だったり、速いテンポ、遅いテンポ、間の取り方とか、いろいろありますが、

強い音はしっかりと、ささやかな音はひっそりと、間もちゃんとそこに存在している、というように、それぞれの役割を果たしていると、「粒がそろっている」感じがしますし、それが調和を作る気がします。

 

聞こえる音自体は均等ではありませんが、それぞれが、それぞれであるという意味では、均等です。

 

そして、ひとつの曲というまとまりもありますが、曲と曲の間の、微妙な間というのも、全体の調和には大切な役割を果たしている気がします。終わりとはじまりが、まざっているところですね。この静かだけれども、動き出しそうな余白が、好きです。

 

音は、機能的には耳から聞くのですが、感覚としては、体で聞く感じです。わたしの場合は、中心部分の胴体で聞く感じが強いです。

 

粒がそろった音が体の内側に響いてくると、それに体の動きも同調していきます。

 

站椿功は、見た目は静止していますが、実際には動き続けています。自然の摂理とは、変化し続けることですし、人は呼吸が止まったら命が終わりますしね。呼吸だけではなく、体は縦に伸び続け、風船のように四方八方にも広がり続けます。

 

そろっている音の粒は、そういう体の広がりの動きの粒をそろえるのを、助けてくれる気がします。

 

続けているうちに、体が内側からふんわり温かくなったり、指先がピリピリしたり、足の裏とか腿の裏がじんじんきたり、いろんな感覚がやってきます。

 

頭の中も、ぐわーんと動く感じがします。頭の骨はけっこう動くので、それもあると思いますし、それだけではなく、巡りがよくなってエネルギーが回っていることもあるような気がします。

 

こういう動きは、実際に聞こえる音ではないかもしれませんが、これも”音”という感覚です。

 

ここにさらに、世の中の音や生活音も加わります。鳥が鳴いている声や、車の音、家のきしむ音、人の声、いろいろ入ってきます。

 

鳥の声も、ちゅんちゅんという可愛らしいものもあれば、ぎーぎゃーという声も、あります。

 

一般的に思われている心地よい音ばかりではなく、どちらかというと耳障りな自転車がキーっとブレーキをかける音もあります。

 

あれこれバラバラ、なんでもありです。

 

でも不思議と、「調和がとれている」と感じます。

 

世界は、もともと調和しているし、雑音と言われてしまうものさえも、受容できるくらい懐が深いような気がします。

 

そもそも、音楽という形の前に、世界には音があふれています。雨の降る音とか、木の葉がそよぐ音とか、いろいろと。

 

 

ルネサンス期の作家、ウィリアム・シェイクスピアの作品には、「天体の音楽(music of the sphere)という言葉が出てきます。以前、「シェイクスピアの音楽会」というコンサートに行ったとき、シェイクスピア研究者の河合祥一郎先生が、こんな話をしてくださいました。

 

当時は、地球が中心にあり、太陽や月がそのまわりを動く天動説が信じられていて、地球を取り囲む惑星がぐるぐる回ってハーモニー(和音、調和)を奏でていると、信じられていました。

 

それは、ふつうは人の耳には聞こえないのだけれども、心の清らかな人だけは聞くことができて、それをみんなが聞けるようにするために、楽器を使ったという話もあるのだとか。

 

だから、音楽を奏でるとき、歌うときは、私(我)を出すのではなく、天体をそのままおろすのだ、と。

 

いいな、と感じる音楽は、初めてでも、懐かしく感じること、ありますよね。天体をそのままおろした音なのであれば、それはもともと、誰もがつながっているからなのかもしれませんよね。

 

 

素直な粒がそろっている音に同調するように、体の不自然な部分(無駄な緊張や詰まり)を取り去って、体の粒をそろえて巡りがよくなってくると、心の粒もそろってきます。

 

それが、丁寧さにつながります。

 

丁寧な生活、というのは、比較的よいイメージだと思います。丁寧を心がけるのは、ひとつの方法かもしれませんが、それは頭で考えて指示している段階だと思うのです。それより、わたしは、当たり前のように、自然に丁寧になっている、という方が好きです。無理がないので、続きます。

 

「普段は、おっちょこちょいなのだけれども」という生徒さんが、「仕事の合間に站椿功をすると、不思議とそういうミスがなくなる」と話してくれたことがあります。

 

わたしの場合も、面倒でたまらなかったかけ布団のカバーかけや、シーツを敷く動作が、まったく苦にならなくなったことがあり、それは站椿功の成果だと思っています。

 

粒がそろうと、一見、つながらなさそうな、不思議なことにも、つながります。

 

自然というのは、無理のないことで、変化し続けることで、それは頭で考えてすることではないと思っています。

 

このあたりの感覚は、都会で暮らす現代人は、多くの人がまだまだ未発達で、「体験したことのない、知らないこと」のままだと感じます。

 

誰にでも備わっている感覚を育てるには、体から入るのが一番だと思います。心や頭は嘘をつきますが、体は嘘をつかないからです。

 

技術が発達した世の中ですが、人はまだ、ネットのない原始的な時代のままのような気がしていて、もっと体を使わないと、備わっている能力が目覚めないのではないか、と思っています。

 

体を使う方法はいろいろありますが、わたしが太極拳がいいと思うのは、やればやるほどうまくできていると感じるからです。体の使い方、体と心のバランスなど、いろいろと調和がとれた構成になっています。先人の智慧とは、そういうものなのでしょう。

 

音楽が、楽器委や声を媒体として天体をそのままおろすように、

站椿功も、太極拳も、自分の体で天体をそのままおろしています。

 

それは、魂が震えるような体験です。

 

 

【2月の特別クラス】

2月23日(日)14:00-16:30 「ホントにはじめての武当太極拳・気功(池尻大橋)詳細とお申込方法はこちら

 

(Photo by Xie Okajima)

 

「陽だまり」とは

「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、りん、とした印象もあります。人が集って、一緒にお茶でも飲んでなにげない話をして、ほっとする場所でもあります。太極拳を通して、陽だまりのような場を創っていきたいと思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧)/ みんみん)

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