らくちん静功:体は内から膨らみ、心は深く静かに

2017.10.15 Sunday

(武当山の雨の日に。太子洞にて)

 

雨の日に、雨音を聞くことが好きです。

 

雨は苦手で、体が重く、眠気も強くなりがちです。外出、億劫になります。

 

それでも、雨の音を聞いていると、とっても落ち着くのです。好きだな、と感じるようになったのは、ここ1〜2年だと思います。

 

水に関する言葉をみても、「みずみずしい」「うるおっている」「しっとりした」という表現は、肌の状態にも使いますが、人の在り方や、心の様子にも使われることもあります。どちらも、良い感じがしますよね。

 

人間の体の6-7割は、水です。雨音を聞くと、自分の体の中に、水分が満ちていくような、そんな気分にもなります。

 

今朝、雨音を聞きながら、武当山で教えていただいた静功をしてみました。とっても気持ち良かったです。やり方をご紹介しますね。

 

これは、とっても楽な”静功”です。苦しいことは、何一つありません。

 

まず、座ります。あぐらでも、足を前に投げ出しても、椅子に座っても、どれでも大丈夫です。自分が楽だと感じるものが、一番です。

 

今朝は、あぐらにしました。腕は力を抜いてダラリとたらします。手のひらをひざ頭に置いたり、膝の内側に置いてもよいです。このときに脇を締めてしまうと肺がつぶされて、空気が入りにくくなりますので、脇は体側から少し離れているようにします。

 

ポイントは、お腹と頭です。

 

お腹は、収めます。これは太極拳で立つときと同じで、腰の反りを消すためにお腹を後ろ側に収めていきます。お腹に力を入れてはいけません。力を入れて表面だけ引っ込めると、腰(ウェストの裏側)は動かず、それでは違います。お腹を収めるとは、お腹が後ろにいくと、おへその裏のツボの命門(めいもん)が後ろに膨らんでいくような感じになります。

 

おへその下あたりに手の指を突き刺すようにして、お腹をゆっくり押していったときに、じゅぶじゅぶと、いくらでも入っていく(沈んでいく)ような感じといえば、わかるでしょうか?

 

もうひとつのポイント、頭です。あごを少しずつ引いていくと、頭のてっぺんが天に向かって伸びていきます。あごと頭のてっぺんが連動する感じです。これで腰から頭のてっぺんに向かう中心軸を作ります。

 

あごをいきなりキュッと引くと、緊張してしまいます。逆にあごが出ていると、中心軸が、首のあたりで途切れてしまいます。

 

あごを引く意識は、終わりがあるわけではなく、ずっと続けます。表に現れる動きとして止まっているように見えても、自分の意識ではずっと、少しずつ引き続けます。

 

あごを引き続けて頭のてっぺんが天に向かうことで、体(上半身)がつぶれず、ゆとりを保つことができます。頭が下に落ちると、上半身が押しつぶされるようになり、内部のゆとりも押しつぶされます。

 

間違いやすいところは、背中の形状です。静功(ここでは坐禅や瞑想も含めています)をするとき、背中を板のようにまっすぐ立てる方がいらっしゃいますが、先生いわく「それではくたびれて続けられない」のです。背中の上の方、胸の裏側あたりは、少し丸みをおびているほうが、楽です。背骨の後ろ側を伸ばしていくような感じです。

 

目は、閉じても開けたままでも、楽な方を選びます。開ける場合、視線は鼻先が見えるくらい、凝視するのではなく、ぼんやり、広い視野をキープします。

 

口は閉じて、鼻呼吸です。舌は、上あごの下につけます。自分なりに楽なリズムで呼吸を続けます。

 

お手本になるような写真を探してみたところ、兄弟子の写真によさそうなものがありました。下記です。

 

(2016年の春、夕方、雷神洞でお茶を飲んだとき。このときの兄弟子の姿のようなイメージです。)

 

これが、”放松”と呼ばれる状態です。”松”は、中国語で緊張と逆の意味で、緩める、抜くという意味です。体のこわばりをなくして、ゆっくり伸びて内側から膨らんでいくような感じです。

 

元気な人を見ると、内側から柔かく膨らんでハリがあるように見えませんか?そんなイメージです。

 

呼吸をつづけながら、耳を外に大きく開くと、まず雨の音が入ってきます。そしてだんだんと、耳は外に広く開きながら、自分の心の音を聞くようにします。

 

心が落ち着いてリラックスしている状態は、中国語で”静”とも表現されます。だんだん深い落ち着きに入っていくことを、”入静”とも言います。

 

これ、とっても気持ち良いのですよ。

 

自分が平和で、それを見る人にも平和な気持ちが広がるようなものが良いな、と思います。

 

今朝は、目を開けたままやっていたのですが、途中でサッと何かが変わったというか、クリーンになったような感覚がありました。ちょっと小波がざわついていたのが、落ち着いて明鏡止水のようになった、といえばわかるでしょうか。

 

言葉の説明だけだと、わかりにくいかもしれません。頭、お腹の使い方は間違えやすいですし、背中については、普段から胸をはりがちな方は、「こんな猫背で良いの?」と、心配になるかもしれません。こういう場合でも、横から写真を撮ると、猫背ではないのですよ。

 

これ、雨の日限定ではありません。晴れでも曇りでも、いつでもやり方は同じです。

 

静功は、陰気を育てると言います。太極拳や気功などの動功は、陽気を育てます。陰のないところに陽は育たないため、静功は基盤を充実させたり、熟成させることでもあります。これがしっかりしていれば、陽気を育みやすくなりなす。陽気は、生きていくためのエネルギーです。

 

やってみてわからなかったら、お会いしたときに聞いていただくか、メッセージをくださいね。

 

(武当山、逍遥谷)

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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いしい まゆみ(道号:静慧 / みんみん)

太極道家

体と心が目覚める太極拳(http://minminkung-fu.com/)

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「太極十年不出門、形意一年打死人」

2017.10.04 Wednesday

(形意拳)

 

中国には、「太極十年不出門、形意一年打死人」ということわざがあります。

 

太極拳は使えるようになるまで10年はかかるが、形意拳は1年で人を打ち倒せるようになる、という意味です。

 

太極拳と形意拳は、よく対照的に語られます。

 

太極拳は、原則、ゆっくり動きます(例外的に早く動くこともあります)。直線ではなく、丸く円を描くような動きが特徴的です。直線でカタイものは実は弱く、やわらかく丸いものが強いことを体現しており、「柔を持って剛を制す」と表現されます。

 

硬い棒は、力をかければ折れますが、柳の枝は、しなるだけで折れにくいですよね。同じように人の腕も、まっすぐにぴんと伸ばすと弱く、少し湾曲させる方が折れにくくなります(コツは、必要です)。

 

コマがくるくると回るとき、とんでくるものをはじき返すことをイメージしても、わかりやすいかもしれません。

 

表向きにはやわらかく、優雅にも見える太極拳は、内面では何よりも強い力を蓄えています。

 

形意拳は、動きが早く、打撃も続くため、直線的で、力強い印象を受けます。見た目の印象としては、ゆっくり丸く動く柔かい太極拳と、早く直線的で硬い形意拳と、対照的に映ります。でも実際に形意拳をするときには、内面がとてもリラックスしていること、やわらかいことが大切です。動作は小さく、シンプルで、体力を使わずに強い打撃力を得ることができます。

 

習い始めは、ついつい見た目のハードさに目を奪われて、力強くやろうと(力を使ってやろうと)することも多いと思います。でも、そんなことをしたら、体が持ちません。体に負担をかけてしまい、ヘンな筋肉痛や痛み、凝りが出てきます。

 

そういう経験は、わたしにもあります。これは悪いことばかりではなく、「そのやり方は違っているよ」というお知らせでもあります。自分で内面を硬くしてしまっているところに気づいて、それをなくしていくと、だんだん楽に動けるようになります。

 

”柔”と”剛”は、陰陽で見ると、柔が陰、剛が陽です。陰と陽はお互いに助け合いながらバランスが成り立っています。そして陰の中には陽の要素があり、陽の中には陰の要素があるように、ばっさり二つに分けられるものでもありません。これはわたしの理解ですが、同時に存在すると考えると、外側が柔かく見える太極拳の内側は剛で、外側が剛に見える形意拳の内側が柔かいことには、納得できます。

 

形意拳の見た目のハードさに目を奪われて、力づくでやろうとする場合、その”剛”は、”柔”を含んだ”剛”ではありません。だから弱いし、自分もくたびれます。

 

太極拳の見た目のソフトさに目を奪われている場合、その”柔”は、”剛”を含んだ”柔”ではありません。だから押されるとすぐに倒れます。(ただし、たとえ倒れやすかったとしても、ゆっくり動くことで副交感神経の働きが上がり、自律神経のバランスが整っていくことはある、と思います。せかせかした毎日を送りがちな場合、心のゆとりにもつながると思います。)

 

冒頭の「太極十年不出門、形意一年打死人」という言葉から見ると、柳のような強さを持って太極拳ができるようになるよりも、力づくで形意拳をやらないようにする方が、わかりやすいような気がします。

 

さらに、形意拳は直線に動くように見えますが、その力を出しているのは、やはり丸い動きです。太極拳が陰陽バランスで力を出していくのと、同じ原理です。そう見ていくと、表面的、平面的には真逆に見えるものでも、立体的に見て、その構成を見ていくと、同じものが見えてきます。

 

”一撃必殺”と表現されるような形意拳ですが、先生の形意拳を見ていると、とても平和で穏やかな気持ちになります。いろいろあっても丸く円満におさまり、平和で穏やかに生きていける道に続いていくこと、教えてくれるような気がします。それは、太極拳が見せてくれるものと、同じです。

 

ここからも、すべてのものは、もともとひとつなのだと、感じます。

 

攻撃性が高い形意拳をお稽古することは、しなやかで強い柳のような体を作ることにも役立つと思っています。さらに、争いがある中で攻防を経験し、そこを超えて”ひとつ”に行くという道を、わかりやすく体験することでもあるような気がします。それは、太極拳の体感覚と理解をも、深めてくれると感じます。

 

さて、最初の「太極十年不出門」にかえると、わたしはちょうど今、10年くらいです。まだまだな部分はありますが、ちょうど10年になるくらいの去年あたりから、迷うことが少なくなりました。できているわけではありませんが、自分なりに「ここはこうだろう」という理解ができるようになり、体でも表現しやすくなったと感じます。

 

十年という表現は、焦らず気長にね、という意味でしかないと思いますが、石の上にも十年という表現もあるように、人の体感としては、一区切りなのかもしれません。

 

そしてその10年という期間は、一足飛びに10年目に到達するのとは違い、そのプロセスを歩むこと自体が豊かさをもたらしてくれたと感じます。だからこそ「10年かぁ」と気が遠くなるのではなく、そのときそのとき、今の自分にできることを淡々としていくことで十分なのだと思います。

 

武当山での写真は、こちらから

武当山での日々を語った自由が丘FMTVの録画は、こちらから

 

(薄く雲海が出た武当山の朝)

 

☀「陽だまり」とは

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武当功夫の根底にある精神:続けていけば、いつかはできる

2017.08.26 Saturday

(武当山 南岩 南天門)

 

中国の武当山に伝わる武当功夫(カンフー)の根底にあるものとして、「続けていけば、いつかはできる」という精神を感じます。

 

最初から知っていたわけではなく、自分がお稽古を続けていくにつれて、感じるようになってきたものです。

 

その精神は、武当山に伝わる伝説の中にも見られます。

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北の守護神である真武(しんぶ)大帝(玄天上帝)。この真武が武当山で修行していた頃、一時、山から下りて俗世間に戻ろうとしたことがあります。

 

「磨針井」のあたりまで下ると、一人の老婦人が太い鉄の棒を研いでいるのを見かけます。不思議に思った真武は、何をしているのかと老婦人に質問します。


すると、「縫い針を作るためだよ」と。真武はこんなに太い棒で縫い針ができるものかと不思議がっていると、老婦人は「鉄の棒を止めずに研ぎ続ければ縫い針は必ずできる」と答えます。これを聞いて悟った真武は、すぐに山に戻って修行を続け、やがて仙人になったと言われています。

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「続けていけば、いつかはできる」という精神は、道士(道教の修行者)が老子の「道徳経(日本語では「老子」)を読むときの姿勢にも表れています。

 

約5,000文字の81章からなるこの文献は、難解です。それぞれの章を読むときに、どんなことを伝えようとしているのか、その時の自分の経験や環境などにより、解釈が変わってくることもあります。道士は、これをずっと読み続けると教えてもらいました。「読み続けていけば、いつかはわかると信じているから」と。

 

ここで大切なことは、結果ではなく、プロセスです。たどり着く過程、探究の中に、豊かな体験や感覚、つながりなど、たくさん詰まっています。

 

プロセスの中では、「こうだ!」と実感しても、常に通過点です。さらに先があります。一生、終わることはありません。

 

身の丈に合った智慧がやってくる、とも言えます。そしてそれは、人が関わっていることもあり、助けられることもありますが、それを含めてすべて自分がやった体験です。それを修行と言う、と思っています。

 

現代は、どれだけ効率的に目標を達成するかに、重きが置かれてきた気がします。それは確実に、社会の発展を促したと思います。でも、行きすぎると、結果を出さなければ価値がないように感じられ、無理をかけることにもなりますし、「できる人」「できない人」という格差も生み出しかねません。人は本来、誰もが平等なはずなのに、です。

 

現代に育ったわたしは、けっこう”せっかち”です。本を読めば、すぐに先を”ちら見”したくなります。人の話も、最後までじっくり聞くより、半分くらいで自分なりに解釈しようとして、失敗することもあります。過去には、”より速くやる”ことを、ゲームのように楽しんでいた時期もありました。

 

人間だもの、そんな時期があっても良いと思います。でも、何事も”ほどほど”を過ぎるとバランスが崩れるように、あまりに効率に傾倒しすぎると、自分の体をないがしろにしたり、心を閉ざして「いやだ、辛い」と言えなくなることもあります。自分の心身のスイッチを切って、感じないようになっていくこともあります。もちろん、気づかずに、です。そして知らずに自分を痛め続けることにもなりかねません。

 

「続けていけば、いつかはできる」という精神の中には、常に今の状態を感じることが含まれます。それに良い悪いはありませんが、腐ったものを食べればお腹を壊すように、やり方が違えば体に不調が出ます。最初はうっすらとですが、たび重なると大きな不調になります。うっすらと現れた時点で、「うん?」と感じられるかどうかは、大切です。そして、腐っていると学習したら、次は避けることも、大切です。

 

(武当山 逍遥谷)

 

実際、お稽古でも、同じことを続けていても、昨日はとても気持ちよかったのに、今日はなんとも感じないこともあります。でも、気にせずに続けます。体の不調につながらないものであれば、昨日が良くて、今日はダメ、というものではない気がするのです。今日はこんな感じだと、そのまま見るだけです。

 

今の自分を見続けること、それを感じ続けることは、同じところにいるようでいて、実は常にチャレンジし続けています。昨日までの経験にとらわれず、今日は新しい気持ちで取り組むからです。

 

目標を立て、その達成だけを目指した場合、あるのは成功か失敗です。成功も、立てた目標の達成に限定されます。

 

でもプロセスを大切にする場合、得られるものの可能性は、未知で無限大です。気づいたときには、いろいろと智慧がついてきます。気が遠くなるほど長いプロセスであればあるほど、可能性は広がります。

 

「続けていけば、いつかはできる」には、絶対的な”いつか”はないかもしれません。”いつか”は、今でもあり、先でもあるという、矛盾しているようで、現実にはあり得るのです。

 

そしてこれは、ひとつのことを続ける場合だけではなく、いろいろあれこれやる場合でも、当てはまると思うのです。長くなってきたので、その話はまた別の機会にしようと思います。

 

 

(武当山 逍遥谷)

 

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太極拳は、そのまま伝えられてきたのか、変化したのか?

2017.08.24 Thursday

(64式武当太極拳) Photo by Xie Okajima

 

先日のお稽古で、生徒さんから聞かれたことです。

 

「伝統的に伝えられてきた太極拳は、そのまま変わらずに伝わってきたのですか、それとも変化してきているのですか?」

 

まず、太極拳の大きな分類から見ると、伝統太極拳という、文字通り伝えられてきたものと、後から編纂された制定太極拳に分類されます。

 

制定太極拳とは、毛沢東が、人民の健康促進のため中国全土に太極拳を普及させようとして、古くからある太極拳をシンプルにまとめるように、伝統拳の五大流派に命じて作らせたもので、1956年に発表されました。一番普及している簡化24式は、この制定太極拳に入ります。制定拳は、その後に表演用の音楽も作られ、音楽に合わせることで、太極拳のリズムを感じ取るようになっているようです。

 

では、古くから伝わった伝統太極拳のすべての套路(型)は、変化せずに伝えられてきたのでしょうか?

 

変化してきていると思います。

 

なぜなら、套路が変化していることを、何度も経験しているからです。同じ先生からひとつの套路を習い、1年後にまた習うとき、小さな変化ばかりだけではなく、ある一部がごっそり抜け落ちることもあります。聞くと、「そこは必要ないから」と、ひとこと。

 

人が違っても、套路は違います。微妙な違いもありますが、かなり違うこともあります。このため、初心者が異なる先生について習うときは、混乱します。「どっちが正しいの?」と言いたくなるでしょうが、どちらも”あり”です。この先生たちが、兄弟弟子同志(同じ先生について修行した人たち)であっても、師匠と弟子という間柄であっても、同じことは起きます。

 

大枠は同じでも、細かいことまで含めると、人の数だけ套路がある、ようなイメージです。

 

どうしてこんなことが起きるのでしょうか?

 

その答えは、以前習っていた気功の先生の言葉の中にあると思っています。「習うときは、きっちり、その通りに習う。でも、たとえば一緒に習った人が3人いたとして、その3人から出てくるとき(その人たちが教えるとき)は、三人三様でよい。」と教えてくださったことがあります。

 

3人いれば、体格も、思考も、違います。筋肉質な人とそうでない人、大らかな人、神経質な人、闘争好きな人、などなどです。同じようにきちんとそのまま習ったとしても、それぞれの体格、理論の理解、何を大切に感じるのか、などによって、形は変わってくるのは自然の流れとも言えます。さらに、元の先生から習うばかりではなく、他の先生に習うなど、個々人の経験から得た内容を入れ込んでいくことで、3人の太極拳は、三人三様になってきます。

 

これらを同じ太極拳の名前で呼ぶこともありますし、自分の名前を付けて、新しい太極拳として創設する場合もあります。

 

これを話したら、「伝言ゲームみたいですね」と、生徒さんから言われました。

 

そうですよね。伝言ゲームと同じ、押さえるところは押さえておかないと、わけがわからないものになってしまいます。

 

だから、習うときは、とにかくきちんとその通りに習うことが大切です。

 

自由というのは、基本があるから、自由に動けるのだと思います。見た目は全然違う動きになっていたとしても、いくつかの型が亡くなってしまったとしても、基本から外れたわけではありません。その基本をしっかり会得するまでは、基本に忠実に習う方が、より自由に動けるようになると思います。

 

また、この変化は自然な変化で、「新しい套路にしよう」という意図が働いているものではないと思います。何度も何度も同じ套路を繰り返しているうちに、「ここはこうする方が自然にできる」と気づいて変化するような感じだと思います。

 

太極拳は、太極や陰陽理論などなどの理論や思想をベースとして、最後にカタチとして成り立ったものだと思えば、表面的なカタチが違うことは、それが単なるカタチではないことを証明しているとも言えます。

 

どれが正しく、どれが間違っているわけではないのです。

 

人が介在して伝わっていくことで、発展もあります。ひとつの太極拳が、豊かに広がっていくとも言えます。

 

そして、違う人の違うものを観たとき、自分の基本がしっかりしていれば、動揺することもありません。「ああ、そうなんですね」と、素直にそのまま認めることもできます。それは多様性の広がりにもつながります。

 

自由でいるためには、基本はしっかり、きちんと、ですね。

 

(中国、武当山の山頂にある、太和宮。道教寺院)

 

☀「陽だまり」とは

ブログタイトル「みんみんの陽だまり太極道日記」の「陽だまり」のイメージは、縁側にのんびり座り、暖かいお日様の光が射しこみ、ぬくぬく、まどろむような時間と空間です。縁側は、なくても生活できますが、あると素晴らしく居心地が良く、今、とても失われている”あそび”や”ゆとり”だと思うのです。モノも置かれておらず、いつもキレイで、どことなくキリリとした印象もあります。太極拳を通して、こんな時間と空間を創っていきたい、陽だまりにつつまれて暮らす人、心身ともにゆとりある人を増やしたい、と思っています。

 

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太極拳とはどういうものか?

2017.08.21 Monday

(64式武当太極拳)

 

「Calling (天職)」という講演会を主催する友人から、「天職とは?」と聞かれて出てきた言葉は、

 

「やらずにはいられず、深めるほどに豊かな喜びをもたらしてくれるもの」でした。

 

これは、わたしにとっての太極拳のことです。

 

続けてきた理由は、前にもブログに書いたとおり、「やりたかったから」です。やりたい、という気持ちだけで、そこに明確な理由づけがあったわけではありません。だからなのか、「太極拳をすることは、どういうことなのだろうか?」と、よく考えます。

 

太極拳のもたらしてくれるものは、健康や人間関係などたくさんありますが、ここではその中で、根底にあるものについて、書いてみようと思います。

 

套路は、”开太极(開太極)”から始まります。太極を開く、です。

 

この世は陰陽という異なる質で、お互いに助け合うものの組み合わせで成り立っています。天地、動静、男女、などです。一日では昼と夜で、朝になって日が高くなる時間は陽が強くなり、だんだん陰が出てきて夜は陰が強くなるなど、陰と陽はくるくると入れ替わります。季節でも、呼吸(陽:吐く、陰:吸う)でも、同じです。

 

太極は、18世紀に書かれた書物「太極拳経」の中で、陰陽の母と書かれています。つまり、太極とは、陰陽というふたつに分かれる前の、”おおいなるひとつ”(大いなる道)です。陰陽という要素と質は持っていますが、ひとつです。

 

”开太极”とは、おおいなるひとつから、陰陽が生まれることでもあります。それは宇宙の誕生とも言えますし、人の誕生にも例えられると思います。

 

生まれた世界は、陰と陽がある世界です。太極拳の套路は、陰と陽がくるくると転換しながら、進んで行きます。それは生きていくことに重なります。

 

そして太極拳は、すべて攻防で、戦い技の連続です。この世では、どの時代にも争いがあることを考えると、套路は現実を反映しているともいえます。

 

でもそれは、争いを上手く勝ち抜くための術を教えているわけではありません。

 

太極拳の最後は、”合太极(合太極)”です。これは、”おおいなるひとつ”に、合一することです。

 

つまり、太極拳の套路は、”大いなるひとつ”から生まれ、陰陽がある世界で、争いがある中での攻防を経験しながら、体も心も深い”静”の状態へと入っていき、”大いなるひとつ”へと調和していく過程を経験するものです。

 

人は、生まれたときは、心も体も柔かいですよね。赤ちゃんの無垢な様子は、”大いなるひとつ”にとても近い存在とされています。だんだん経験を積むにつれて、「これは嫌だ」とか、「あの人は意地悪だ」とか、心も考えも硬くなりがちになります。場合によっては、身を守るために鎧を着ることあります。そしていつの間にか、鎧も自分の一部のようになってしまい、着ていることすら忘れ、もともとの”大いなるひとつ”の状態がわからなくなってしまいます。

 

太極拳は、いらないものをやめていく道でもあります。着こんでしまった鎧に気づいて、それを脱いで、軽くなっていき、頑なになっている心の柔かさを取り戻していきます。

 

その道は、つらく険しいものではなく、とっても穏やかで心地よいのだということは、套路の心地よさが教えてくれます。

 

套路が進むにつれて、自分と空間を隔てている皮膚という境界線が、だんだんと曖昧になり、自分が周りの空間に溶けてしまうような感覚になります。それは、とても心地良いのです。

 

多かれ少なかれ、現実に争いがある世界で生きるときに、”もともとはひとつなのだ”という実感を持って生きることで、見えてくる世界は変わります。それは自分の行動も、自分の在り方にも、大きく影響を与えます。生きる上で、自分の立ち位置がはっきりすれば、選択もしやすくなります。自分の選択を後悔する、という考えが思い浮かぶことも、なくなっていくような気がします。

 

お稽古を続ける理由は、”もともとはひとつなのだ”と思い出す時間を、持ち続けていたいからです。

 

だから、やらずにはいられず、そしてそれは、深めるほどに、豊かな喜びをもたらしてくれるものなのです。

 

All photos by Xie Okajima

 

☀「陽だまり」とは

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